第22話 誓いの抱擁と、お説教
隣国レオニア公国から流れてきた負傷兵たち二十五名――その最後の一人の傷口が完全に塞がったのを見届け、イリスは大きく息を吐いた。額には大粒の汗が浮かび、聖女の法衣は泥と返り血で無残に汚れている。
ふと、背後に気配を感じて勢いよく振り返った。
そこには、戦いを終えてなお、緊張感の欠片もなくヘラヘラと笑う一人の男――ヴァレントが立っていた。
「ヴァン……っ!」
その顔を見た瞬間、張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れた。
イリスはぬかるんだ地面を厭わず、泥を跳ね飛ばしながら走り出した。重い足取りを無理やり進め、立ち去ろうとしていたヴァンの広い背中に、全力でしがみつく。
「ヴァン! なぜ……なぜ一人で先に行ってしまったの!? わ、わたくしが、どれほど心配したと思っているの……っ!」
硬い革鎧に顔を押し当て、叫ぶように問いかける。
ヴァンの背中からは、激戦を物語る汗の匂いと、鉄の熱気が伝わってきた。生きていてくれた。その安堵が涙となって溢れ出し、ヴァンの防具をじわりと濡らしていく。
不意打ちを食らったヴァンは、肩をびくりと震わせた。
ゆっくりと振り返ったその顔には、先ほどまで数千の魔物をなぎ倒していた冷徹な戦士の面影など微塵もない。そこにあるのは、ただただ慌て、困り果てた――年相応の少年のように純粋な戸惑いだけだった。
「す、すまん……! 俺が悪かった、イリス。だから、そんなに泣かないでくれ……」
ヴァンは慌てて大剣を鞘に収めると、大きな手でイリスの華奢な肩をそっと包み込んだ。
その手つきは、まるで壊れ物を扱うかのように慎重で、ひどく優しい。彼は自分の失策を悟り、幼子に言い聞かせるような柔らかい声で話し始めた。
「俺は、親父の……辺境伯の息子だからな。この領土と、俺たちを信じてくれる領民を一歩も引かずに守る義務がある。それに……できるだけ、畑から離れた場所で戦いたかったんだ」
「……離れた場所?」
涙を拭い、首を傾げるイリス。ヴァンは彼女の瞳を見つめ返し、力強く頷いた。
「ああ。あそこには、君が一生懸命作ってくれた『育つ種』が植えられている。あいつらは、俺たちの希望だ。……魔物の汚ねえ足で、あそこを踏み荒らされたくなかった。理由は、それだけだよ」
照れ隠しのように鼻を擦るヴァン。
その不器用すぎる「騎士の矜持」を聞いた瞬間、イリスの胸の内に溜まっていた感情が、怒りとなって爆発した。彼女はヴァンの胸元に小さな拳を叩きつけ、声を震わせる。
「馬鹿っ! ヴァンの大馬鹿者! そんなもの……そんな種なんて、何度でも作り直せるわ! わたくしにとっては、そんなものより……貴方の命の方が、何万倍、何億倍も大事なのよっ!」
「イリス……」
木霊するような彼女の本音に、ヴァンは息を呑んだ。
泥にまみれ、なりふり構わず自分を案じる彼女の姿。死地を共に潜り抜けてきた戦友としての絆を超えた、剥き出しの情愛がそこにはあった。
ヴァンは覚悟を決めたように、イリスをその腕の中に力強く引き寄せた。
「イリス、悪かった。……もう二度と、一人で突っ走るなんて馬鹿な真似はしない。約束する」
イリスの耳元で囁かれる誓いの言葉。
その低い声は、どんな魔法よりも深くイリスの心に浸透していった。
「これからは君のすぐ傍で、君と一緒に戦う。君のことが見える場所で、俺が全力で守り抜くから……いいか?」
覗き込むようなヴァンの瞳に、イリスは静かに、しかし決然と頷いた。
「……ええ、約束よ。絶対に、わたくしから離れないで」
震える指先でヴァンの腕を強く掴み返すイリス。
夕闇が迫る荒野の中、寄り添い合う二人のシルエット。
――そんな美しい光景を、遠くから死んだ魚のような目で見つめている者が一人。
レオニア公国の第一王子、レイモンド。
名門の気品を漂わせるその佇まいは、今や秋の終わりに散る枯葉よりも哀愁を帯びていた。
『恋した相手が悪かったな。出会って、惚れて、即座に散るとは』
……可哀想な男の寂しそうな背中を、遠くから眺めるオイラなのであった。




