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第33話 名前を呼ぶということ

 収穫祭から五日後。


 朝、アルノルドが執務室に飛び込んできた。


「ナカムラさん! 南区の井戸で子供が落ちた!」


 走った。フィーネも走った。


 南区の古井戸。柵が壊れていた。修繕リストに入っていたが、まだ手が回っていない箇所だった。レイガスの仕様書にも入っていたが、優先順位は下位だった。


(——行政の不作為。柵の修繕が遅れた。これは俺の責任だ。優先順位を間違えた。前世でも同じ失敗をした。——「まだ手が回らない」は、いつだって「手遅れ」の前段階だ)


 井戸を覗くと、子供が水の中にいた。首まで浸かっている。泣き声が聞こえる。小さな男の子だ。


 周囲に人が集まっている。だが、誰も中に入らない。井戸が深いのだ。大人でも肩まで浸かる深さで、壁面は苔で滑る。


 その時、一人の男の子が走ってきた。帰還民のヴェンツェルの近所に住む、アダムという八歳の子だ。帰還民の子供だ。


 アダムは何も言わずに井戸の柵を乗り越えた。


「あぶねぇっ!」


 アルノルドが叫んだが、アダムはもう中に入っていた。水に腰まで浸かりながら、泣いている子供を抱き上げた。


「泣くなよ! ほら、つかまれ!」


 アルノルドが井戸の縁に腹這いになって、深く手を伸ばした。まずグスタフを掴み、次にアダムの腕を引いて、二人を引き上げた。


 泣いていた子は、残留民のクラウスの次男だった。トビアスの弟のグスタフ、六歳。


 引き上げられたグスタフは、アダムの服を握ったまま離さなかった。泣きながら、「こわかった、こわかった」と繰り返している。


 アダムは濡れた服のまま、グスタフの頭を不器用に撫でた。


「大丈夫だって。——お前、名前は?」


「……グスタフ」


「おれはアダム。もう大丈夫だから」


 周りにいた大人たちが、黙った。


 帰還民の子供が、残留民の子供を助けた。名前を聞いた。名前を名乗った。——それだけのことだが、広場の空気が変わった。


 クラウスが走ってきた。グスタフを抱き上げて、それからアダムを見た。


 クラウスの顔が歪んだ。——帰還民の子供に、息子が助けられた。残留民の大人として、何と言えばいいのかわからない顔だ。


「……ありがとう」


 クラウスが言った。声が震えていた。


「ありがとう。——アダム、だったか。お前のおかげで、うちの子が」


 アダムは照れくさそうに鼻をこすった。


「別に。フィーネ先生が言ってたから。『困ってる人を見たら、名前を聞いてあげてね』って」


(——フィーネ先生が言った。「困ってる人を見たら、名前を聞いてあげてね」。学校で教えた言葉が、子供を動かし、子供が子供を助けた。教育は即効性がないと思っていた。——この結果は、フィーネの授業が生んだものだ)


 フィーネの目が潤んだ。でも泣かなかった。アダムに駆け寄って、濡れた体にタオルをかけた。自分のショールを外して、アダムの肩に巻いた。


「アダムくん。ありがとう。——風邪ひかないでね。グスタフくんも、もう大丈夫?」


 二人の子供が頷いた。フィーネは二人の頭を同時に撫でた。その手は震えていたが、笑顔は震えていなかった。


 アダムが首をすくめた。


「先生のショール、いい匂いがする」


「え、そ、それは——」


 フィーネの頬が赤くなった。ショールに浮遊花の香りがついていたのだろう。


(この子のショールは、いつも花の匂いがする。——十三歳の女の子だ。行政官として完璧でなくていい。花の匂いのショールを巻いて、子供の頭を撫でて、それでいい)


 レイガスが走ってきた。遅れて事態を把握したらしい。


「——誰か落ちたのか」


「もう助かりました。子供が子供を助けました」


「……俺が来る前に終わったのか」


「はい。チートは不要でした」


 レイガスが黙った。——何か考えている顔。


 日報にこう書いてあった。『南区井戸事故。チートなしで解決された。柵の修繕を即日実施する。——以上、すみません、優先順位を上げるべきでした』


 俺は赤字で返信した。『仕様書の優先順位を決めたのは俺です。俺の不作為です。——直してくれて、ありがとう』


(「すみません」が二回目。この男は、反省の速度が上がっている。——そして、柵の修繕を即日実施すると自分で判断した。仕様書を待たずに動いた。自主判断だ。報告書の形で、事後承認を求めている。——この男は、行政的に正しい行動を、誰にも教わらずに取り始めている)


 ◇ ◇ ◇


 夜。執務室。


 俺はアルノルドを呼んだ。


「アルノルドさん」


「何だ」


「今日のこと、見ていましたか」


「……ああ。見ていた」


「帰還民の子供が、残留民の子供を助けました。名前を聞いて、名前を名乗りました。——それだけのことですが」


「それだけのことだ。——だが、それだけのことが、俺たち大人にはできていなかったな」


 アルノルドが溜息をついた。深い溜息。肩の力が抜けた溜息だ。


「ナカムラさん。お前が赴任してきた時に言ったことがある。『台帳には、逃げたとか残ったとか書いていない。名前だけだ』と」


「言いました」


「あの時は、きれいごとだと思った。名前だけじゃ腹は膨れんし、奪われた三年は戻らんと」


 アルノルドが煙草を深く吸った。


「……女房に何度も言われたよ。『逃げよう』と。でもな、先代の墓がここにある。あの人に『畑を頼む』と言われたんだ。——だから残った。意地じゃない。約束だ」


「……はい」


「今日、帰還民のガキがうちの子供を助けたとき、——名前を聞いたんだ。あのガキは。『お前、名前は?』と。それを聞いて、——ああ、名前を呼ぶってのは、こういうことかと」


 アルノルドの目が赤い。


「……折れてやるよ。全部とは言わん。だが、帰還民のやつらを『帰還民』じゃなくて名前で呼ぶくらいは、してやれる」


(「名前で呼ぶくらいは、してやれる」。——それは、行政が達成できる最大の成果だ。台帳に名前を載せるだけではなく、人が人の名前を呼ぶ。その小さな行為が、壁を壊す)


「アルノルドさん。ありがとうございます」


「礼を言うのはこっちだ。——お前と、フィーネ様にな」


 ◇ ◇ ◇


 翌日、学校で。


 アダムとグスタフが隣同士で座っていた。フィーネが席を指定したのではない。自分で、隣に座った。


 他の子供たちも、昨日の出来事を知っている。教室の空気が、少し変わっていた。帰還民の子と残留民の子の間にあった「見えない壁」が、一筋だけひびが入った。


 アダムがグスタフにペンの持ち方を教えている。


「こうだよ。こう持つんだ。——フィーネ先生、このペン、インクが出ないんですけど」


 フィーネが新しいペンを渡した。その手が一瞬止まった。二人が隣に座っているのを見て、何か言いかけて、やめた。代わりに小さく微笑んだ。——教師としての最も正しい反応だ。褒めすぎない。特別扱いしない。ただ、嬉しそうにする。


 グスタフがおずおずとアダムに聞いた。


「……アダム。俺の名前、書ける?」


「書けるよ。ほら。グ・ス・タ・フ」


 グスタフが、自分の名前を他の子供に書いてもらうのを、初めて見た。嬉しそうに笑った。


「……アダムの名前も俺に書かせて」


「まだ書けないだろ」


「練習する。フィーネ先生に教わったから」


 グスタフが慎重にペンを持って、ゆっくりとアダムの名前を書いた。ア・ダ・ム。三文字。曲がっている。でも、読める。


 アダムが自分の名前を見て、ぱちくりと瞬いた。


「……おう。読めるじゃん」


 二人が笑った。フィーネも笑った。俺は窓の外から見て、笑わなかったが、今日の日報にはこう書くだろう。「学校運営、順調」。——三文字で済む報告が、一番いい報告だ。


(名前を書く。名前を呼ぶ。名前を覚える。——行政の基本は、ここに帰る。台帳も、予算案も、学校も、全部「名前」から始まっている)

「フィーネ先生が言ってたから。

『困ってる人を見たら、名前を聞いてあげてね』って」


教育が子供を動かし、子供が子供を助け、

大人がようやく気づいた。名前を呼ぶということ。


アルノルドの言葉——

「折れてやるよ。帰還民のやつらを名前で呼ぶくらいは、してやれる」。


▶ 次話「全員の領地」——フィーネの演説。百五十人の前で。

 三行書いた原稿の、一行目だけを言って、止まった。

 第五部完結。


作者のお気に入り登録で、次の物語もお届けします。☆評価もぜひ。

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― 新着の感想 ―
予算の縛りがあり優先順位が発生するのは仕方ないが・・・ 行政側、人手不足過ぎやしないか? 離れた側近と徴税管ぐらいしか役人居なかったんか? レイガスぐらいしか修繕しとるように見えないって事は 公共事…
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