第34話 全員の領地
赴任十四ヶ月目。
フィーネが住民寄合で演説をする日が来た。
企画は中村——つまり俺が提案したものではない。フィーネが自分で「住民寄合で話したいことがある」と言い出した。
「原稿は書くんですか?」
「はい。——書いてみたので、見てください」
紙を三枚渡された。びっしりと文字が書いてある。正字で、きれいな字で。
読んだ。
(……長い)
「フィーネ様」
「はい」
「長すぎます。——三行にしてください」
「三行!?」
「三行です。伝えたいことが十個あったら、一つだけ選んでください。聞く側は、十個のうち一つしか覚えません」
「一つだけ……」
フィーネが黙った。紙を見つめた。それから、新しい紙を取り出して、何かを書き始めた。
三行。
「この領地は、全員のものです」
「残った人も、戻った人も、ここに住む全員の」
「だから、私たちは一緒にやっていきます」
(三行。——いや、実際には最もインパクトがあるのは最初の一行だ。「この領地は、全員のものです」。これだけで十分だ)
「フィーネ様。一行目だけで十分です」
「でも——」
「一行目を言ったら、そこで止まってください。残りは、住民が自分で考えます」
フィーネの目が揺れた。——「本当にそれだけでいいのか」という顔だ。
「大丈夫です。あなたが言えば、届きます」
◇ ◇ ◇
演説の前夜。
フィーネが執務室に来た。メモ帳を抱えて。顔が蒼い。
「ナカムラさん。——緊張してます」
「当然です」
「当然、なんですか」
「百五十人の前で話すんです。緊張しない人間はいません。前世で管理職に昇進して初めて議会答弁に立った時は、手が震えて原稿を落としました」
「ナカムラさんでも?」
「ええ。三秒間、頭が真っ白になりました。——でも、四秒目に声が出ました。それで十分です」
フィーネが少し笑った。まだ蒼いが、目に力が戻った。
「四秒目……」
「最初の三秒は、猫を握ってください。四秒目に、目を開けてください」
(前世の議会答弁では猫の代わりにボールペンを握っていた。——ツールは違うが、効果は同じだ。人間は、何かを握ると落ち着く)
「——はい。四秒で、言います」
◇ ◇ ◇
住民寄合の日。
広場に百五十人が集まった。赴任時より人口が増えている。七千人を超えた領地で、百五十人の出席は多い。関心があるのだ。
アルノルドが議長席に座っている。その隣に、帰還民代表としてヴェンツェルが座った。——二人が並んでいるだけで、半年前には考えられなかった光景だ。
「本日の寄合を開会します」
アルノルドの声。低く、落ち着いている。
「議題の前に、フィーネ様からお話があるそうです」
フィーネが立ち上がった。
両手が震えている。ポケットに手を入れた。——猫の木彫りを握っているのだろう。
住民の視線が集まる。百五十人。帰還民も残留民も。レイガスが一番後ろに立っている。腕を組んで、壁にもたれている。
フィーネが口を開いた。
「——」
声が出なかった。
喉が詰まった。唇が動いたが、音にならなかった。
住民がざわめいた。俺は後ろに立って、動かなかった。——これはフィーネの仕事だ。俺が助けたら、この子の成長は止まる。
フィーネが目を閉じた。
ポケットの中の猫を握りしめた。
目を開けた。
「この領地は、全員のものです」
静かに言った。震えながら、しかし、はっきりと。
広場が静まった。
フィーネは続けなかった。三行書いた原稿の、一行目だけを言って、止まった。
——俺の助言通りだ。
住民は息を呑み、お互いの顔を見合わせている。
水を打ったように静まった広場の中で、アダムの小さな囁き声が、やけにはっきりと響いた。「フィーネ先生が言ったとおりだ」。隣のグスタフに、そう言った。
クラウスがヴェンツェルを見た。ヴェンツェルがクラウスを見た。二人は何も言わずに頷いた。——子供たちが先に歩いていた道を、大人がようやく追いかけ始めた。
アルノルドが立ち上がった。
「——フィーネ様のお言葉、承りました。他に意見がある方は」
帰還民のおばさんが手を挙げた。
「……あたしは、この領地に戻ってこられて、本当に嬉しかった。あの子が——フィーネ様が『お帰りなさい』と言ってくれた時、泣きました」
残留民の男が言った。
「俺たちは怒ってた。逃げた奴が何をいまさら、と。——でも、あの子供たちを見てたら、もう怒れない。あいつらはもう名前で呼び合ってる」
別の帰還民が言った。
「レイガス——レイガスさんが、うちの屋根を直してくれた。あいつが災厄の元凶だってのは変わらない。でも、うちの屋根を直してくれたのも事実だ」
レイガスが後ろで黙っている。表情は変わらない。だが、拳が少し緩んでいた。
住民の声が続いた。一人、また一人。怒りも、感謝も、不安も。全部が混ざった声が、広場に溢れた。
フィーネは黙って聞いていた。一言も返さなかった。全員の言葉を受け止めて、目を逸らさなかった。
◇ ◇ ◇
寄合が終わった。
フィーネが外に出ると、広場の隅でレイガスが魔動灯の下で日報を書いていた。
俺はその光景を、執務室の窓から見ていた。
フィーネが学校に向かう。明日の授業の準備をするのだろう。アルノルドがヴェンツェルと並んで帰っていく。マリアがパン屋の暖簾をかけ直している。保健係のエルザが薬草園に水をやっている。
全員が、自分の仕事をしている。
(——自分がいなくなっても回る仕組みを作ることが、公務員の仕事だ。俺はそう思って赴任してきた。だが、「仕組み」を作ったのは俺だけじゃない。フィーネが学校を作り、アルノルドが議長を引き受け、レイガスが日報を書き、マリアがパンを焼き、エルザが薬草を育てた。——俺が作ったのは「仕組み」じゃなく、「仕組みを作る人間」だったのかもしれない)
◇ ◇ ◇
夜。
デスクの上に、フィーネのメモが置いてあった。
「ナカムラさんへ。わたしのことば、とどきましたか?——フィーネ」
その下に、三行の原稿が全部書いてあった。
「この領地は、全員のものです」
「残った人も、戻った人も、ここに住む全員の」
「だから、私たちは一緒にやっていきます」
そして、一行目の横に小さく書いてあった。
「ナカムラさんのアドバイスで、一ぎょうめだけ言いました。あとの二ぎょうは、いつか、みんなが自分でおもってくれたら」
(「みんなが自分でおもってくれたら」。——この子は、俺が教えたことの核心を掴んでいる。行政は「考えさせる」ための環境を作るだけだ。答えを押しつけるものではない)
(公文書では一画も崩さない正字を書くくせに、俺宛てのメモではまだ「おもってくれたら」とひらがなが混じっている。——いや、気を抜いているのか。この子は、俺の前でだけ十三歳の顔になる)
メモの端に、猫の絵が描いてあった。——今日の猫は、笑っていた。
(フィーネ様。あなたの言葉は、届きました。——俺には、確実に)
窓の外で、魔動灯が点いた。レイガスが巡回を終えて戻ってきたらしい。
夏の温もりの風に混じって、まだ温かいパンの匂いがした。マリアが明日の分を仕込んでいるのだろう。
この街は回っている。
「この領地は、全員のものです」
目を閉じた。猫を握りしめた。目を開けた。
一行だけ言って、止まった。
あとの二行は——「いつか、みんなが自分でおもってくれたら」。
第五部「フィーネの試練」、完結です。
「きたくのいど」と簡易文字で書いていた子が、
百五十人の前で一行だけを放ち、百五十人を黙らせた。
▶ 明日から最終部「凡人の仕事」——
住民自治が芽吹き、レイガスの日報が「百点」に届き、
そしてナカムラは——「ここにいたい」と初めて思う。
ラスト5話、お届けします。
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