第32話 収穫祭と二つの食卓
赴任十三ヶ月目。初夏。
朝日が畑を黄金色に染めている。風が穂を揺らすたびに、さざ波のように光が走る。空気が甘い。熟した麦の匂いだ。
冬麦の収穫が始まった。
半年前に蒔いた種が、ようやく実をつけた。黄金色の穂が風に揺れる景色を、俺はこの世界で初めて見た。前世で見た田んぼの収穫とは規模が違うが、住民たちの表情は同じだ。——安堵と歓喜。「自分たちの手で育てたものが実った」という感覚は、人間の根っこにある喜びだ。
「ナカムラさん! 見てください!」
フィーネが穂を一束抱えて走ってきた。頬には泥がついている。髪に藁が刺さっている。——領主としての威厳はゼロだが、今日ばかりはそれでいい。
「素晴らしい出来ですね」
「アルノルドさんが、十五年前の豊作に近いって言ってました。——三圃制、成功です!」
(三圃制が初年度でこの結果を出したのは、堆肥の仕込みが正しかったからだ。前世の農林課で学んだ土壌改良の知識が、ここで役に立つとは思わなかった)
◇ ◇ ◇
収穫祭は、フィーネの発案だった。
「収穫を祝う祭りをやりたいんです。帰還民の人たちも、残留民の人たちも、みんなで」
「いいですね。——予算は」
「収穫物の一部を使います。それと、マリアさんが特別にパンを焼いてくれると。あ、マリアさん、今回は収穫祭用に『特大パン』を焼くって張り切ってました。『うちのパンで泣かせてやる』って」
(マリアさんのパン製造意欲は、このところ異常に高い。「泣かせてやる」は、たぶん味で泣かせるという意味だろう。前世の役所の忘年会で「今年こそ部長を泣かせる」と宣言して余興で本当に部長を泣かせた後輩を思い出す)
「では、広場を使いましょう」
フィーネが走っていった。——この子は最近、走って移動する頻度が上がっている。忙しいのではなく、楽しいのだ。
◇ ◇ ◇
収穫祭の日。
広場には長テーブルが並べられた。住民の手作りだ。パンの匂い、焼いた肉の匂い、カブと根菜のスープの匂い。子供たちが走り回っている。学校の生徒たちだ。リッカが、トビアスの手を引っ張って噴水の前で踊っている。
マリアの「特大パン」は、本当に特大だった。大人の腕ほどもある丸いパンが、テーブルの中央にどんと鎮座している。焼きたてで、表面が黄金色に光っている。匂いだけで五人は泣ける。
「マリアさん。これは」
「収穫祭用のお祝いパンよ。小麦がいいものだから、味も最高よ。——ほら、ちぎって食べな」
帰還民の子供が、パンをちぎる前に躊躇した。——まだ遠慮がある。残留民のものに手を出していいのか、という躊躇だ。
マリアが子供の前にしゃがんだ。
「これは、全員のパンよ。うちの畑で取れた小麦と、帰還民のご家族が運んでくれた塩で焼いたの。だから、あんたのパンでもあるのよ」
(マリアさんの言葉は、いつも核心を突く。「全員のパン」。——小麦は残留民の畑、塩は帰還民の交易品。二つの素材が一つのパンになった。この祭りの意味は、実はマリアさんのパンに全部詰まっている)
子供がパンをちぎった。頬張った。目を見開いた。
「……おいしい!」
マリアが満足そうに頷いた。「泣かせてやる」の宣言通り、子供はパンの味で泣いた。
◇ ◇ ◇
フィーネが広場の中央に花を飾った。野花を摘んで、壺に挿した。素朴だが、色の配置に意味がある。暖色を中央に、寒色を外側に。
「フィーネ様。花の並べ方に何か意図が?」
「あ、えっと。——中心が温かい色だと、真ん中に人が集まるかなって」
(色彩心理を、独学で使っている。——たぶん自覚はないが、この子の直感は鋭い)
レイガスが広場の端に立っていた。祭りに参加するわけでもなく、離れるわけでもなく、曖昧な距離感で。日報帳を持ったまま。——覗くと、何か書いている。
『しゅうかくさい。にぎやか。パンはうまかった』
三行。——だが、これは業務日報ではない。個人的な感想だ。日報帳に個人の感情が記録されたのは、これが初めてだ。
「レイガスさん。食べないんですか」
「……人が多い」
「前世のオフ会にも、こういう気持ちでしたか」
「……行ったことないから、わからない」
(前世のオフ会に行けなかった男が、異世界の収穫祭の端に立っている。距離は徐々に縮んでいる。あと三メートルくらいだ。——そして、日報帳に「パンはうまかった」と書いている。業務ではなく、感情を記録し始めた)
リッカがレイガスに近寄った。パンの欠片を差し出した。
「おにいちゃん、たべる?」
「……もらう」
受け取って、黙って食べた。パンの味に何か感じたらしく、一瞬、口元が動いた。笑顔ではない。でも、何かの感情はあった。
祭りは順調に始まった。住民たちが笑っている。パンをちぎって分け合っている。子供たちが歌い始めた。フィーネが教えた「あいうえお」の歌だ。歌詞はでたらめだが、メロディーは明るい。
だが、気づいた。
テーブルの配置を見ると——残留民と帰還民が、きれいに分かれて座っている。左側のテーブルに残留民。右側のテーブルに帰還民。学校の初日と同じだ。
フィーネも気づいた。笑顔が少し曇った。
「……まだ、壁があります」
「ありますね」
「私が席を混ぜましょうか。学校みたいに」
「……いいえ」
フィーネが俺を見た。
「大人は、子供と違います。席を指定しても、居心地が悪いだけです。——壁を壊すのは、制度ではなく、時間です」
(嘘をついた。時間だけでは壁は壊れない。きっかけが要る。——だが、そのきっかけを行政が作れるのかどうか、正直に言えば、わからなかった。前世のどの部署でも、こんな対立を仲裁した経験がない。異動すれば、結果を見届けずに済んだ。ここでは、それが許されない)
フィーネは何も言わなかった。黙って、右側のテーブル——帰還民のテーブルに歩いていった。
「お料理、足りてますか? パン、もう一皿持ってきますね」
帰還民の女性が目を丸くした。領主が直接給仕している。
「フィーネ様。そんな、ご自分でなんて——」
「大丈夫です。私、これくらいしかできませんから」
(この子は「壁を壊す」方法として、自分の足で帰還民のテーブルに行くことを選んだ。命令でも演説でもなく、パンを一皿運ぶことで。——俺は、この子の方法論が好きだ)
残留民のテーブルから、アルノルドが俺を見た。
「ナカムラさん。あの、フィーネ様は——」
「見てるだけです。俺は」
「お前は、いつもそうだな。見てるだけで、全部仕組んでいる」
「仕組んでいません。——フィーネ様が自分で考えて動いています。俺は何も言っていませんよ」
アルノルドが苦笑した。
「……嘘つけ」
(嘘じゃない。本当に何も言っていない。——ただし、「フィーネ様が自分で考えて動ける環境」は作った。それが行政の仕事だ)
◇ ◇ ◇
祭りが終わった。夕焼けが広場を赤く染めている。子供たちは疲れて親に抱かれて帰っていく。テーブルの上にはパンくずと花弁が残っている。
フィーネが一人で広場を片づけていた。テーブルを拭いて、花を集めて、壺を洗って。
「手伝いましょうか」
「大丈夫です。——これも領主の仕事ですから」
(領主が片づけ。前世の首長が市民祭りの後にゴミを拾っていたら大ニュースだが、この子は自然にやる。行政サービスの提供者であり、同時に受益者でもある。——その感覚は、正しい)
片づけが終わった後、フィーネはメモ帳を開いた。
「しゅうかくさい。たのしかった。でも、つくえがわかれた。まだ、かべがある。マリアさんのパンはさいこうだった」
その横に、猫の絵。——今日の猫は、少し悲しそうな顔をしていた。でも、パンを持っている。
(フィーネ様は、成果と課題の両方をメモする。良いことだけ書く人間は成長しない。「壁がある」と書ける人間は、次にその壁を壊しに行く)
(——ただ、猫がパンを持っているのは、マリアさんのパンが本当にうまかったからだろう。この子のメモは、行政記録と食レポが混在している)
「特大パン」はマリアさんの魂の一品。
小麦は残留民の畑、塩は帰還民の交易品。二つが一つのパンになった。
でもテーブルは二つに分かれている。
壁を壊すのは、制度ではなく、時間。——本当にそうだろうか。
フィーネは黙って帰還民のテーブルにパンを運んだ。
命令でも演説でもなく、一皿のパンで。
▶ 次話「名前を呼ぶということ」——井戸に落ちた子を、帰還民の子が助ける。
「お前、名前は?」——たった一言が、壁を壊す。
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