第31話 予算案、百点
赴任十ヶ月半。
フィーネが執務室の扉を叩いた。普段より丁寧なノックだ。三回。等間隔。——緊張している時のフィーネのノックだ。
「ナカムラさん。見てほしいものがあります」
紙を差し出した。五枚つづり。表紙に「ヴァレスティア公領 来年度予算案(素案)」と書いてある。
(予算案。——フィーネ様が、自分で作った)
表紙の字はきれいだった。「議事録」を書いた時よりさらに上達している。一画ずつ丁寧に書いた字。インクの太さが均一だ。
「……合ってますか?」
声が小さい。自信がないのではなく、自信を持ちたいのに持てない声だ。
俺は紙をめくった。
——驚いた。
柱一・インフラ整備費。柱二・民生費。柱三・教育費。柱四・農業振興費。柱五・予備費。
五本の柱で構成されている。俺が教えたのはインフラ・民生・予備費の三本柱だけだ。この子はそれを自分の判断で五本に拡張し、「農業振興費」と「教育費」を新設していた。学校の運営費、紙と筆記具の補充、黒板の維持費。全部入っている。しかも予備費は最後にきちんと残してある。
「柱三の教育費。これは新設ですね」
「はい。学校を始めたので、来年も続けるなら予算が要ると思って」
(予算の新設を自分で判断した。「続けるなら予算が要る」——つまり、この子は「来年度」を見ている。行政は今年だけのものじゃない。継続するには予算が要る。その認識は正しい)
数字を追う。各項目の金額。合計。財源の内訳——ダンジョン素材の売却収入、ベルント商会との交易収入、そして少額だが「復興寄付金」の項目がある。
「この復興寄付金は?」
「ベルントさんに聞いたんです。『うちの商会で領地の復興に寄付する制度はないか』と。そうしたら、交易量に比例して少額を積み立てる方式があると教えてくれました」
(商人に財源の相談をした。——フィーネ様は、自分のネットワークを使い始めている。俺が教えたのは予算の概念だけだ。財源の調達方法まで自分で動いたのは、この子の行動力だ)
数字を検算した。
歳入合計と歳出合計が一致している。端数まで合っている。
「フィーネ様」
「はい」
「一つ聞いていいですか。この予算案、誰かに手伝ってもらいましたか」
「いいえ。全部、自分で書きました。——夜、三日かかりました。一日目は項目を決めて、二日目は金額を計算して、三日目に清書しました」
(三日。項目設計→数値計算→清書。この工程は、前世の予算査定と同じだ。フィーネ様は、独力で予算編成のプロセスを再発明した)
もう一度、紙をめくった。
最後のページに「補足事項」と書いてある。
「一、レイガスさんの公共土木作業は、仕様書に基づく業務委託として処理する」
「二、薬草園の維持費は保健係エルザが管理し、四半期ごとに報告する」
「三、学校の出席簿は住民台帳と連動させること」
(補足事項が三項目。業務委託の概念、四半期報告、台帳との連動。——どれも俺が教えたことだが、この子は「予算案」の中に全部組み込んだ。行政文書としての完成度が、前世の新人が書く起案書より高い)
フィーネが不安そうに俺を見ている。指先が膝の上で組まれている。片方の手がメモ帳を握っている。——「百点だった」と書く準備をしているのか、「やり直し」と書く準備をしているのか。
「フィーネ様」
「……はい」
「百点です」
フィーネの目が大きくなった。唇が震えた。——泣くかと思ったが、泣かなかった。代わりに、両手で予算案を抱きしめた。
「……ほんとうですか」
「本当です。俺より字がきれいです」
「字は……字は関係ないです」
「いえ。予算案は清書の美しさも大事です。上に出す書類が汚いと、中身がよくても読んでもらえません」
フィーネが笑った。涙目のまま笑った。メモ帳を取り出して、「よさんあん。ひゃくてん」と書いた。その横に猫の絵。——だが、今日の猫は花束を持っていた。
(猫が花束を持っている。今日は特別な日だったらしい)
◇ ◇ ◇
廊下に出ると、レイガスが窓際に立っていた。日報を小脇に抱えて、何かを書き足している。
「レイガスさん。日報は夕方に提出してください」
「……書いてない。これは別のメモだ」
「何のメモですか」
「……教室の壁が一箇所ひび入ってた。明日直す」
(自主的に修繕箇所を記録している。——この男の日報スキルが、ついに「自主メモ」の段階に進化した。前世で言えば、新人が自分の判断でToDoリストを作り始めたようなものだ。成長は確実にしている)
「仕様書に入れましょう。レイガスさんの自主メモは、そのまま仕様書の原案になりますから」
「……原案」
「はい。あなたが見つけた修繕箇所を、俺が仕様書にまとめて、フィーネ様が承認する。それが行政の流れです」
レイガスが黙った。何かを考えている顔だ。前世なら「面倒くせぇ」と言って帰るところだが、この男は帰らなかった。代わりに、日報の裏に何かを書き始めた。
覗いてみた。——修繕箇所の位置と、ひびの長さと、補修に必要な魔法の出力予想が書いてある。
(この男は、工事報告書の書き方を誰にも教わらずに自分で始めた。——行政は時々、本当に奇跡を起こす)
◇ ◇ ◇
その夜。俺は予算案をもう一度読み直した。
実は、一箇所だけミスがある。柱四の農業振興費の中で、来年蒔くための種籾の購入単価が二割ほど高い。おそらく、計算の途中で端数を切り上げたのだろう。
修正すべきだ。
だが、俺は赤を入れなかった。代わりに、欄外に鉛筆で薄く書いた。
『種籾の単価について、アルノルドさんに実勢価格を確認してください』
(答えを教えるのではなく、確認の手順を示す。——前世の上司にもこうしてほしかった。「違う」と赤を入れるだけの上司がどれだけ多かったか。答えを教えずに「確認の仕方」を教える。それが教育だ)
フィーネは明日、アルノルドのところに行くだろう。実勢価格を聞いて、自分で数字を書き直すだろう。そして、次からはこのミスをしなくなるだろう。
(「人は道さえ示せば自分で走る」。——俺がフィーネ様に対してやったことは、道を示しただけだ。走ったのはこの子自身だ)
デスクの上に、湯のみが置いてあった。「おつかれさまです」と書いた付箋。猫の絵つき。——冷めていたが、飲んだ。
(前世では、デスクにお茶を置いてくれる人なんていなかった。異動のたびに「お世話になりました」の紙コップが最後の一杯で、それっきりだった。——この湯のみは、毎日ここにある)
「百点です」
フィーネが目を大きく見開いた。
泣くかと思ったが、泣かなかった。代わりに、両手で予算案を抱きしめた。
俺は一箇所だけ赤を入れなかった。
代わりに鉛筆で薄く書いた。「アルノルドさんに実勢価格を確認してください」。
——答えを教えるのではなく、確認の手順を示す。それが教育。
猫が花束を持っている。今日は特別な日だったらしい。
▶ 次話「収穫祭と二つの食卓」——冬麦の収穫と祝祭。
マリアさんの「特大パン」で泣かせにきます。
でも——テーブルは、まだ二つに分かれていた。
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