第30話 学校と、二つの列
赴任十ヶ月目。
冬が近い。朝の吐息が白く染まり、石畳に薄い霜が降り始めた。噴水の水面に映る空は、夏の青から灰がかった冬空に変わっている。
フィーネが執務室に入ってきた。手にはいつものメモ帳ではなく、何枚かの紙を束ねたものを抱えている。
「ナカムラさん。提案があります」
声が硬い。緊張している。だが目は逸らさない。
「学校を作りたいんです」
(——学校。来たか)
正直に言えば、俺も考えていた。帰還民と残留民の統合に必要なのは、大人への制度ではなく、子供の世代の接点だ。前世でも、地域の統合事業で一番効果があったのは「公民館」と「学校」だった。子供が一緒に過ごす場所があれば、親も顔を合わせる。
「場所は」
「北区の旧集会所です。屋根は残っていますし、レイガスさんに壁を補強してもらえば使えます」
「教える人は」
「私が教えます。——読み書きと計算を」
(フィーネ様が教師。半年前は「きたくのいど」と書いていた子が。——だが、この子は「教わった」経験がある。教わる側の気持ちがわかる教師は、往々にして優秀だ)
「予算は?」
「紙と筆記具は倉庫の在庫で賄えます。机と椅子は、レイガスさんの仕様書に追加で——」
「仕様書は俺が書きます」
「はい。あと、黒板が欲しいのですが」
「黒板?」
「ナカムラさんが帳簿をつけるとき、大きな板に書いて説明してくれたでしょう。あれがあると、みんなに一度に教えられます」
(——俺が予算説明に使った仮設のホワイトボードもどきを「黒板」として流用する。この子は、行政ツールを教育ツールに転用した。前世の公務員には思いつかない発想だ)
「わかりました。承認します」
フィーネが小さく拳を握りしめた。——最近、この子が拳を握る回数が増えている。成功体験が積み重なっている証拠だ。
「あと、もう一つお願いがあります」
「何ですか」
「学校の名前を、決めてほしいんです。ナカムラさんに」
「——俺が?」
「はい。ナカムラさんが来なかったら、学校なんてできなかったから」
(名前をつける。——前世では、新しい施設の名前は行政が決めるのが通例だった。「第一集会所」とか「南区公民館」とか、無味乾燥な名前を。だが、ここは異世界だ)
「では——『ひかりの教室』で」
「ひかりの教室!」
フィーネの目が輝いた。メモ帳に書いた。「ひかりのきょうしつ。ナカムラさんめいめい」
(光魔晶の光で勉強する教室だ。レイガスが直した魔動灯の下で、子供たちが文字を覚える。——「光」には、いくつもの意味がある)
◇ ◇ ◇
三日後。旧集会所の改修が終わった。
レイガスの仕様書は「壁の補強・窓枠の修理・床の掃除」の三項目だけだったが、レイガスは勝手に「天井にも防水処理をしといた」と言い出した。仕様書外。でも正しい判断だ。
俺は赤字を入れた。『事前に提案してください。ただし判断は適切です』
日報の返信:『すみません。でも雨漏りしたら子供が濡れるだろ。——以上、報告します』
(「子供が濡れる」。この男が他人の快適さを考慮した文章を書くのは、日報史上初めてだ)
入り口の上に、フィーネが手書きで看板を掛けた。「ひかりの教室」。字がやや右に傾いているが、読める。看板の端に、例の猫が描いてある。
「フィーネ様。看板に猫が」
「教室のマスコットです。——いいでしょう?」
(教室のマスコットが猫。あの倉庫の木彫りの猫が、ついに公共施設のマスコットに昇格した)
◇ ◇ ◇
開校初日。
子供は二十三人。帰還民の子が十一人、残留民の子が十二人。——きれいに、二つの列に分かれて座った。
左側が残留民の子。右側が帰還民の子。誰が指示したわけでもない。子供たちが自分で分かれたのだ。大人たちの「壁」が、そのまま子供に伝染していた。
フィーネが前に立った。両手にチョークを持って、黒板の前で子供たちを見回した。
「えっと。——今日から、ここで読み書きと計算をお勉強します。私が先生です」
帰還民の女の子——ムルテが手を挙げた。
「先生、あたしたちとあっちの子は一緒なの?」
教室が静まった。残留民の子がちらちらと帰還民を見る。帰還民の子が居心地悪そうに身を縮める。
フィーネは一瞬、メモ帳に目を落とした。——何かが書いてある。予め用意した言葉のようだ。
だが、フィーネはメモ帳を閉じた。
「席は混ぜます」
声が震えていた。しかし、「混ぜます」のところだけは震えなかった。
「ムルテ——あなたは前の列の右から三番目。トビアス——あなたの隣。リッカちゃん——一番前の真ん中」
名前を呼んで、一人ずつ席を指定した。残留民と帰還民が互い違いになるように。
最初は全員が固まっていた。誰も動かない。
リッカが最初に動いた。五歳の女の子が、「いっちばんまえ」と嬉しそうに走って席に座った。隣に座ることになったトビアスが、フィーネを見た。フィーネが頷いた。トビアスが、ゆっくりと席についた。
一人が動けば、全員が動く。——行政と同じだ。最初の一人が大事なのだ。
フィーネが黒板にチョークで書いた。
「今日のもくひょう」
その下に——
「じぶんのなまえを、かけるようになる」
(自分の名前を書けるようになる。——台帳の原点だ。名前を書くことは、「ここにいる」ことの証明だ。この子は、俺が教えた行政の根幹を、子供への教育に落とし込んだ)
フィーネが安堵したように息をついた。子供たちがざわざわと動き始めた。帰還民の子が隣の残留民の子に「ペン貸して」と言った。——それだけのことが、今日の一番大きな成果だった。
授業が始まった。フィーネが一人ずつ名前を書かせる。まず黒板に見本を書いて、次に子供たちが真似をする。
帰還民の女の子が手を挙げた。
「先生、私の名前むずかしいです。ムルテのル、書けない」
「大丈夫。こうです。——ル、は丸を描いて、こう」
フィーネが手を取って一緒に書いた。ムルテが嬉しそうに自分の紙を眺めた。曲がった文字だが、初めて書いた自分の名前だ。
トビアスが隣のムルテの紙を覗き込んだ。
「お前の名前、きれいだな」
「……ほんと?」
「うん。俺のはもっと曲がってる」
二人が笑った。——帰還民の子と残留民の子が、名前を見せ合って笑っている。この教室で一番大切なのは、文字の上手さじゃない。「見せ合える」関係が生まれたことだ。
◇ ◇ ◇
夕方、教室の見回りに行くと、フィーネが一人で残っていた。黒板を消さずに眺めている。子供たちの名前が、二十三人分並んでいた。
「どうでしたか、初日は」
「……緊張しました。リッカちゃんが動いてくれなかったら、私、泣いてたと思います」
「泣いてません。——あの席順は、事前に考えていたんですか」
「はい。昨夜、全員の名前を並べて、何通りか組み合わせを考えました。帰還民と残留民が交互になるように」
(名簿の配席計画。——この子は、行政的思考で席順を設計した。俺が示したのは考え方だけだ。それを応用して席順表を作ったのは、フィーネ自身だ)
「フィーネ様。百点です」
フィーネの耳が赤くなった。メモ帳を取り出して、「がっこうしょにち。ひゃくてん。ナカムラさんにいわれた」と書いた。その横に猫の絵。
「あと、黒板の名前は消さないでおきます」
「なぜ?」
「明日来た子が、自分の名前がちゃんとあるって確認できるように」
(出席確認を視覚化した。——この子は「存在の承認」を黒板で表現している。俺が教えたのは台帳の作り方だけだ。「名前が書いてある場所がある」ことの意味を、この子は自分で見つけた)
(この子のメモ帳は、いつかこの領地の教育史になるかもしれない)
「ひかりの教室」開校。
帰還民と残留民の子が、きれいに二列に分かれて座った。
フィーネは「席は混ぜます」と言った。震えながら。
でも、「混ぜます」のところだけは震えなかった。
五歳のリッカが最初に動いた。
——一人が動けば、全員が動く。行政と同じ。
「じぶんのなまえを、かけるようになる」——今日の目標。
名前を書くことは、「ここにいる」ことの証明。
▶ 次話「予算案、百点」——フィーネ、独力で来年度予算案を作成。
五本の柱。端数まで合っている。
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