第九話 ページめくりの、折り方
バザー当日は、雲ひとつない秋晴れだった。
中庭に並ぶ露店、孤児院の子供たちの合唱、飛ぶように売れる焼き菓子。寄付金は三名立会いで封蝋され、本物の台帳は粛々と数字を刻んでいく。
そして午後三時十二分――会計室に置いた「餌」の台帳から、ノエルの術式が反応を伝えた。魔力残滓、記録完了。現行犯。
ジークハルトの警備網が音もなく閉じ、司書は逃走経路を先回りされ、人気のない旧資料室に追い込まれた。踏み込む直前、私は皆を制した。
「五分だけ、わたくしに時間をくださいな。一人で入ります」
「駄目だ、危険すぎる」
「殿下。あの男は、追い詰められた瞬間に服毒する訓練を受けています。六人で踏み込めば、彼は五秒で死にますわ。死なれたら、背後の組織まで糸が辿れない。……そして彼の『終わらせ方』を知っているのは、この場でわたくしだけですの」
オーレリアンは苦渋の顔で、それでも頷いた。「三分過ぎたら入る」「四分にしてくださいまし」
旧資料室。埃と古い紙の匂い。司書は窓を背に立っていた。図書館で見せていた柔和な仮面は、もうない。あるのは、疲れ切った中年の男の顔だけだ。
「……お一人とは。舐められたものですね、お嬢さん」
「あなたの終わらせ方を知っているのが、わたくしだけですもの」
外伝の隠しルート。
この男の「折り方」を、私は知っている。彼の急所は、忠誠心ではない。祖国への信仰でもない。
――三年前に本国との連絡が途絶え、送金も止まり、それでも解かれない任務だけが、自分という人間を支える最後の柱になっている。
その柱の、致命的な脆さだ。外伝の悪役令嬢はそこを嘲笑って折る。
『あなたはとっくに捨てられた駒よ』と。男は表情ひとつ変えずに毒を呷り、画面が暗転する。後味の悪さで有名な、バッドエンドの一つ。
でも私は、折らない。折り方を完璧に知っているなら、折らずに済む角度も、完璧に分かる。
「本国からの連絡、三年前の秋を最後に途絶えていますわね。送金も。あなたは回収予定のない駒。……ここまでは、あなた自身、薄々ご存知のはず。夜ごと、薬で眠気を殺しながら考えていたはずですわ」
「……だから、何です。同情ですか」
「いいえ。ここからが、あなたの知らない話ですの」
私は、ノエルたちの調査書の写しを、床に置いて滑らせた。
「今回のバザー工作の指令書――あなたの下宿から回収した燃え残りの、封蝋の紋様。あれは貴国の情報部で二年前に廃止された旧式印章ですわ。つまり、あなたに指令を出しているのは、もう本国政府ですらない。国に切り捨てられたあなたを、国の名を騙って使い潰しているのは――モルダート系の、ただの残党商会」
男の手が、初めて震えた。薬の副作用ではない、震え方だった。任務という柱が、軋む音が聞こえた気がした。私は、折れる前に、支えを差し込む。
「あなたには、二つ道がありますわ。偽物の任務という柱と一緒に、ここで崩れるか。――それとも、知っていることをすべて話して、生き直すか。この国の法では、証言者には保護と減刑の道があります。手続きの書類は、わたくしが一枚残らず整えます。書類仕事は、得意ですの」
長い、長い沈黙。窓の外から、バザーの喧騒と、子供たちの合唱が微かに届く。
やがて男は懐から小さな薬瓶を取り出し――床に、置いた。ころん、と乾いた音がした。
「……取り調べには、日付と場所を正確に述べます。記録は、正確でなければ意味がない。工作員の、性分でしてね」
「結構。日付に強い方、好きですわ」
扉の外で、四分ちょうどを数えていた五人が、一斉に息を吐く音がした。
――後日、証人となったこの男、アルノーの供述から、ひとつだけ、私の頭に小さな棘のように残った一言があった。取り調べの片隅で、彼は誰にともなく呟いたという。
『あの残党商会に、こちらの弱みを最初に流したのは……ずっと以前から、この国の内側を知り尽くした、別の"筋"だ。私も、顔は見たことがない』――。
その"筋"の正体を私が知るのは、まだずっと、先の話だ。




