第十八話 妹の、求婚者
平穏を装った日常の裏で、敵の手は、確実に六つの灯へ伸び始めていた。最初に狙われたのは――ジークハルトの、妹だった。
クラリス・オルデンブルク、十六歳。三年前の誘拐未遂以来、屋敷に籠もっていた少女は、この二年で見違えるように快活になり、社交界にも顔を出すようになっていた。
その彼女に、熱心な求婚者が現れた。南方の新興貴族の子息を名乗る、物腰の柔らかな青年である。
報せを持ってきたジークハルトの顔は、青ざめていた。
「妹が……あの子が、あの青年に、夢中になっている。三年ぶりに、あんなに笑って……。だが、ヴィオレッタ嬢。俺は、どうしても、あの男が信じられない。理由が言えないのが、歯痒い。ただの、兄の勘かもしれん。妹の幸せを、俺の心配性が、また、邪魔しようとしているだけかも」
――来た、と思った。
外伝、ジークハルトルート、第三章。彼の折り方、星三つ。妹に近づく偽の求婚者を放置させ、その求婚者に妹を再び危険な目に遭わせ、「また守れなかった」と彼を絶望させる手順。私は、その全チャートを知っている。
……いや、知っていた。今も、知っているだろうか。
「ジークハルト様。あなたの勘は、正しくてよ」
私は、断言した。そして、確かめるために――外伝の記憶を、参照しようとした。あの求婚者の正体、手口、次の一手。設定資料に、全部、書いてあったはず。
……霞んでいる。
求婚者が偽物であることは、分かる。それは覚えている。
けれど、彼が「次にどう動くか」の具体的な手順が、思い出せない。ページが、白い。ジークハルトの件は、まだ、一度も「使って」いないはずなのに。
――いえ。違う。今、まさに、使おうとしているのだ。この瞬間に。参照した瞬間に、消えていく。
背筋が寒くなった。けれど、迷っている暇はない。妹の灯が、消されようとしている。
「ノエル様。求婚者の身辺を、例の『足で調べる』方法で。魔法探査は、まだ使わないで。リュカ様は、その青年の健康状態を観察。アルノー氏の教本に照らして、工作員かどうかを見極めます。……手順は、覚えていなくても、いいのです。手順は、もう、この六人の頭数分、ありますもの」
私一人の記憶が白くなっても、栞の会には、六人分の目と手がある。これは、三年前の私には、なかったものだ。
調査は、四日で実を結んだ。求婚者の青年は、南方貴族の子息ではなく、残党商会と繋がりのある偽装工作員。狙いは、クラリスを再び誘拐し、ジークハルトの精神を折ること。
手口は――アルノー氏が図解した。
「配置が、教科書通りです。私が学園でやろうとしたことの、対人版。標的の家族を人質に、標的本人を無力化する。……ヴィオレッタ嬢の言う『外伝』の手順と、一致しますか?」
「ええ。……たぶん。細部は、もう、思い出せないのだけれど」
私は、正直に言った。ジークハルトが、はっとこちらを見る。私は微笑んで、誤魔化した。
偽の求婚者は、クラリス自身の機転で、あっさり尻尾を出した。彼女は求婚者に「三年前、私を助けてくれた人の名前」を尋ね、青年が答えられなかった瞬間に、席を立ったのだ。
「だって、私を本当に想ってくれる人なら、私の人生でいちばん大きな出来事を、調べてくるはずでしょう?」
――後で聞いたその台詞に、ジークハルトは、男泣きに泣いた。三年前、守れなかった妹は、もう、自分の灯を自分で守れる娘になっていた。折り方の、前提が、消えていた。
「ヴィオレッタ嬢。……礼を言う。だが、ひとつ、いいか」
事件の後、ジークハルトは、静かに私を見た。
「さっき、君は『思い出せない』と言った。……何を、思い出せないんだ? 君はいつも、全部知っている顔をしていたのに。初めて、君が、何かを失っているように見えた」
「……気のせいですわ、ジークハルト様」
私は、そう答えるしかなかった。守るために使った記憶が、一枚、また、還らない。手帳に印をつける。
『ジークハルト・妹の件、処理完了。代償、外伝三章の細部。……もう、思い出せない』。




