第十一話 返事は、書面で
卒業パーティーから、七日が経った。
私、ヴィオレッタ・アシュフォードは、公爵邸の自室で、人生最大の難敵と向き合っていた。
敵の名は――白紙の便箋である。
「…………」
机の上には、書き損じの山。
『拝啓 オーレリアン殿下』で始めた一枚目は堅すぎて捨てた。
『先日のお話の件ですが』で始めた二枚目は事務連絡すぎて捨てた。
『お慕いしております』まで書けた七枚目は、書いた瞬間に全身が沸騰して、反射的に破いた。破いてから三十分、枕に顔を埋めた。
上質の便箋は一枚が銀貨一枚――前世で言えば一枚千円ほどの高級紙だ。
それを十枚は無駄にした。庶民なら、恋の一つも安くはできないわねと、現実逃避に物価のことを考えた。
おかしい。おかしいのだ。
私は三年間、この国でいちばん危険な男たちの心の急所を素手で扱ってきた女よ?
間者の投降交渉だってやり遂げた。怪文書だって粉砕した。それが、たかが恋文一枚で、なぜ。
「……そうよ。攻略情報がないからだわ」
外伝『プレリュード・ノワール』に、恋文の書き方は載っていない。あのゲームに載っていたのは、恋文を利用して人を破滅させる方法だけ。
たとえばオーレリアンの闇落ちルート三章、偽の恋文で彼と陛下の対立を煽る場面――手順は確か、まず筆跡を似せた依頼を街の代筆屋に、それから封蝋を……。
「……あら?」
手が、止まった。
思い出せない。偽の恋文イベントで使う封蝋の細工、その手順の後半が、頭の中で霞んでいる。
三百時間やり込んで、目を瞑ってもチャート図が描けたはずの外伝の、ほんの一場面が。
「……まあ、いいわ。三年も経てば、使わない記憶は薄れるものよね」
私はそう結論して、便箋に向き直った。四年前の私が聞いたら卒倒するほど、軽く考えていた。
この小さな「ページの欠け」が何を意味するのか、このときの私は、まだ知らない。
――結局、恋文は書けなかった。代わりに私は、生涯でいちばん私らしい書面を仕上げた。
三日後。王宮の東屋で、オーレリアンは私の差し出した封書を開き、中身を一読して、盛大に吹き出した。
「『承認書』……! 『貴殿より受領した求婚一件について、審査の結果、これを承認する』……ヴィオレッタ、君は、求婚の返事を稟議書の様式で書いたのか!?」
「し、仕方ないでしょう! 恋文の様式は、手持ちにございませんでしたの!」
「ふ、ははは! 見ろ、この『承認条件』の欄! 一つ、政略ではなく相互の意思による婚姻であること。二つ、互いに隠し事の権利を留保すること――おい、二つ目はなんだ」
「そのままの意味ですわ。わたくしには、墓まで持っていく秘密があると申し上げました。それを詮索しないことが、条件です」
オーレリアンは笑いを収め、承認書を丁寧に畳んで、胸元に仕舞った。宝物の場所に。
「承知した。条件を呑む。……だが、こちらからも一つ、口頭で条件を足す。秘密は詮索しない。ただし――秘密ごと君が沈みそうになったときは、事情を聞かずに引き上げる。これは詮索ではなく、救助だ。拒否権はない」
「……ずるい条件の付け方ですこと」
「君の婚約者を三年やっていると、書類の読み方も覚える」
東屋を、初夏の風が抜けていった。シナリオのない世界の、シナリオのない婚約が、こうして始まった。私はまだ知らない。彼が口にした「救助」の条件が、二年後、文字通り私の命綱になることを。
【幕間】
――今夜も、あの東屋に灯りがついている。
僕は本を閉じて、窓の外の星を見た。星は静かだ。まだ、静かだ。
彼女はページをめくらずに、栞を挟むことを覚えたらしい。面白い。これまでの誰とも、読み方が違う。
どうか、そのまま。
最後のページまで、どうか、そのまま。




