第10回 王脩、己の名声を懸ける
王脩が孔融の主簿となり二年が経過した。
忙しい毎日を送り、休んでいる暇などない様な感じであったが、充実した日々を過ごしていた。
ある日の早朝、王脩は孔融から呼び出された。
いつもの執務開始より、早い時間帯である。
何か緊急の事でも生じたのかと、急いで孔融を訪ねた。
孔融が言う。
「淑治よ、早い時間に申し訳ない。何の経験もない所からこれまで二年間、主簿をつとめたわけだが、その感想を聞かせてくれんか?」
「感想でございますか?」
「ああ、率直なところを頼む。」
「そうですね、最初は手惑うことも多くありましたが、書佐の練達殿やその他多くの吏、師、門下吏に助けられ、自分なりに仕事は全うできたと思っております。何か不首尾がございましたら、ご指摘ください。」
「いや、私はむしろ感謝している。この二年間、良く我が右腕としてやってくれた。淑治よ、お前はもう立派な名士だ。次の段階に進んでもらおうと思う。」
「次の段階というのは・・・。」
「淑治、お前に高密県の県令を任せようと思っている。」
「私が県令でございますか?」
「ああ、そうだ。県令はそれこそ県の全てを司る仕事だ。直接民に触れる機会も多いであろう。今以上に忙しくなるかもしれんが、どうか?」
「ご命令とあれば、お受けいたします。私の後任の主簿は、既にお考えなのでしょうか?」
「そこをまだ決めかねている。淑治の様に若くて有望であり、名声のある者を探しているのだが、私の耳に届くほどの者が現れていない・・・。」
「それでしたら、黄練達は如何でしょうか?書佐として私の補佐を献身的に行ってくれました。他の者たちからの信頼も厚く、仕事も滞りなく進むと思います。」
「うむ・・・。淑治の仕事を支え続けたことは評価できるが、もう一つ決め手に欠けるのう・・・。」
「私は、我が名に懸けて黄練達を孔融様に推挙したいと考えております。どうか、黄練達に拝謁の機会をお許しください。さすれば、黄練達の人物はわかって頂けると思います。」
「ほう、淑治の名に懸けてときたか。そこまで言うなら一度、会ってみようではないか。ただし、そこで私が何も感じなければ、今日した話は全てを白紙に戻す。そしてお前の名声にも傷がつくが、その覚悟はあるか?」
「はい、もちろんです。我が名を懸ける、など軽々しく申してはおりません。」
「わかった。明日早朝、執務開始前にここに来るように黄練達には伝えよ。」
「承知いたしました。では、失礼いたします。」
王脩は拝礼して、書房に戻った。
既に、全員が出てきて仕事を開始していた。
王脩は黄文に話がある、と言って外に連れ出した。
黄文が言う。
「主簿殿。外で話とは珍しいが、何かあったのですか?」
「実は・・・。」
王脩は孔融とのやり取りをかいつまんで説明した。
聞き終わると黄文はあまりの事に大汗をかいた。そして、王脩に言う。
「主簿殿。何故私のためにそこまで・・・。」
「練達殿がいなければ、ここまでやってこられなかったと思っています。支えて頂いてこそ、やってこられたと。これは恩返しと言うわけではなく、現任の主簿として、今の書房を見渡したうえで、私の代わりになれると言ったら、やはり練達殿である、と感じたのです。」
「しかし、私が孔融様との面談でお怒りを買うようなことがあれば、ご出世の話が無くなるどころか、これまで育んできた名士の名にも傷がつきかねません・・・。」
「それなら、それで結構です。私は、自分の名を懸けて、自信を持ち、練達殿を推挙したのですから。」
「わかりました。明日の早朝、自分なりにやってみます。それでは、仕事に戻ります。」
こうして、黄文は明日の事をなるべく考えない様、書佐としての仕事に集中をした。王脩も特別に気を遣わず、普段通りに接することを心がけた。
そして日も落ち、仕事を終えて官舎に帰宅した。
―明朝―
黄文は足早に正堂に向かった。
これまで二年、書佐として仕事をしてきたが、孔融に直接説明や諮問を受けることは主簿である王脩が行っており、その補佐でありながら、一度も孔融と話をしたことなどなかった。
孔融ほどの名士になると、孔融と話しただけで自分は認められたと勘違いする者が多く、孔融はそういう煩わしさを嫌い、自分の見込んだ者以外と接することを極力避けていた。
正堂にて、黄文は待っていると、ほどなくして孔融が入ってきた。黄文は立ち上がり、拝礼する。孔融も拝礼を返し、座るようにと手を振った。孔融が言う。
「黄練達よ。書佐として、主簿である淑治の仕事を支えてきたことは知っている。しかし、私はそなたの事をそれ以上は知らない。まずは、お前がどういう人間なのか、聞かせてくれまいか。」
「私は、物事や人の心の変化にはよく気付ける方だと思います。そういった点を、主簿殿は鋭敏であり、視野が広いと言ってくれました。そして、私はあまり感情的にならずに、多くの人を受け入れることが出来ます。その点を主簿殿は人柄がおおらかである、と言ってくれました。」
「ほう、淑治がそういったのか。それはいつ頃だ?」
「孔融様にお仕えする直前の頃の話です。」
「なるほど。淑治が練達をどう思っているかは今の話で分かったが、お前自身はどう思っている?」
「はい・・・。私は、人の上に立つというよりは、人を支える方が性に合っていると思っています。よって、身の丈に合わない出世などは望んでおりません。しかし、この人を支えると決めれば、身命を賭して臨む自信はあります。」
「なるほど、よくわかった。ところで、今までお前は淑治を支えてきたが、私を支えていく自信はあるか?」
「・・・。やる前から自信があります、と言い切れる度量はありませんが、必死にお支えするための努力は出来るつもりです。」
孔融は天井を見つめ、目をつむった。これは孔融の癖で、難しい事案を判断する時にそういった格好になると黄文は王脩から聞いた時がある。
「しくじってしまったか・・・。淑治、申し訳ない。」
黄文は心の中で王脩に詫びた。
しばらくして、孔融は目をゆっくりと開けて黄文を見つめて言った。
「お前の人となりはわかった。さすがは淑治が自分の名を懸けて推挙しただけはある。黄練達よ、お前のことを淑治の後任の主簿に任命する。今までお前が支えてきたのは淑治であるが、今度は私をその力で支えてくれ、頼むぞ。」
まさかの言葉に、思わず黄文の瞳に涙があふれた。
孔融が笑いながら言う。
「この程度で涙するようでは、とても私の支えにはなれぬぞ。練達よ、期待をしているぞ。」
黄文は拝礼し、退出をした。
黄文はすぐに書房に行った。そこで王脩は待っていた。
黄文の瞳が涙で濡れている。駄目であったのかと思ったが、その涙は感極まって出た者であることを聞き、二人は喜び合った。
こうして、王脩は高密県県令、黄文は主簿と別の道を歩むことになるのである。




