第8章 ― Sの素顔
赤い花の香りが、まだ喉に残っていた。
甘く、湿っていて、息をするたびに身体の奥を鈍らせる。庭から戻ってしばらく経つはずなのに、あの花壇の匂いは、Aの服の繊維や髪の隙間にまだ絡みついているようだった。
机の前に座り、Aは袖口を見た。
赤黒い土の跡は、二号が払ってくれたあとも、完全には消えていない。白い布の端に、薄く滲んでいる。その色は、Gの倒れていた白い砂利に染み込んだ血よりも暗く、赤い花の中心よりも重かった。
Aは懐から壊れた時計を取り出した。
七時四十七分。
割れた硝子の下で、針は動かない。死者の手首から外された時計。Jが拾ったと言った時計。Gが落ちた瞬間を示すとは限らない時計。
Aはそれを机に置き、襟の内側に隠していた紙片も取り出した。
薄く波打った紙。滲んだインク。Gの帽子の汗止め革の裏に隠されていた言葉。
Mを探せ。
白峰。
三姉妹。
母は館で死んでいない。
何度読んでも、その一文だけは胸の奥を深く引っかいた。
母は館で死んでいない。
夢の中の炎。赤い唇。首元を押さえる女。幼い手に握らされた白いリボンと小さな鍵。Aはずっと、あれを死の記憶だと思いかけていた。
だが、Gのメモは違うと言っている。
Mは母の名を言おうとして、声を失った。
Sは井戸を知っていた。赤い花の危険を知っていた。Mを「あの子」と呼んだ。
二号も、赤い花に近づくなと忠告した。
Jは、半分だけ信じろとGに書かれていた。
全員が何かを知っている。
だが、全員が違う理由で黙っている。
Aは紙片を指でなぞった。
Gは死んだ。
しかし、死者はまだ、帽子の内側で喋っている。
Mを探せ。
その言葉に従ってMの部屋へ行った。そこでMは逃げろと言い、母を知っている様子を見せ、そしてAに薬入りの紅茶を飲ませた。裏切りか、救いか、まだわからない。
けれど、次に問うべき相手はもう決まっていた。
S。
怒りでしか話さない女。割れた赤黒い仮面の女。井戸の前でAを引き離し、赤い花の香りから救った女。
死んでるなら、まだ楽だ。
生きてるから、あそこにいる。
あの言葉が、赤い花の香りよりも長く喉に残っている。
Aは時計と紙片を隠し直し、立ち上がった。
Sを探す。
それは危険なことだった。
だが、Sの怒りの中には情報がある。暴言の奥に、言えない真実がある。彼女はAを傷つけるかもしれない。だが、それでも、ただの敵ではない。
Aは部屋を出た。
廊下はいつものように赤かった。絨毯は足音を吸い、布をかけられた肖像画は沈黙している。召使いたちが遠くを行き来していた。黒いフェイスマスク。白い手袋。白いエプロン。誰もAを見ない。見ていないように見える。
けれど、見られている。
Aは食堂へ向かった。
Sはいなかった。
長い食卓には、昼の支度が途中まで整えられていた。Mの蒼いナプキンはまだある。Gの席はない。Sの席には皿が置かれているが、椅子は少し乱れていた。誰かが座ったというより、乱暴に引かれたあと、直しきれず残ったような角度だった。
サロンにもいない。
暖炉の火は落とされ、琥珀色の部屋は冷えていた。Jの紅茶の香りも消えている。椅子の背に残ったわずかな影だけが、あの男がここにいたことを示していた。
Mの部屋の前にも行った。
蒼いリボンの扉は閉ざされていた。中から茶器の音は聞こえない。Aはノックしなかった。Mに会えば、また答えと薬のどちらを差し出されるかわからない。
廊下へ戻ると、二号がいた。
彼女は最初からそこにいたように立っている。黒いフェイスマスク。白いエプロン。白い手袋。姿勢はいつも通り整っているが、Aにはもう、その整い方の奥にある緊張が少しだけわかるようになっていた。
「A様」
「Sさんはどこにいますか」
二号は明らかに困った。
目がわずかに揺れる。唇が一度閉じられ、許された言葉を探すような間が生まれる。
「S様は……お加減が優れません」
「加減が優れない?」
「そういうことに、なっております」
Aはその言い方を聞き逃さなかった。
そういうことに、なっている。
つまり、Sは屋敷の中でそう扱われている。狂女。不調者。癇癪を起こす客人。近づいてはいけない、扱いにくい女。
「本当に具合が悪いんですか」
二号は答えなかった。
代わりに、ほんの一瞬だけ視線が動いた。
廊下の奥。
食堂でもサロンでも客室でもない、もっと古い区画へ続く道。
Aはそれを見た。
二号はすぐに目を伏せる。
「お近づきにならないほうが、よろしいかと存じます」
命令ではなかった。
忠告だった。
Aは静かに頭を下げた。
「ありがとうございます」
二号の指が、かすかに震えた。
Aは彼女の示した廊下へ向かった。
そこは、屋敷の中でも古い場所だった。壁紙は褪せ、絨毯もところどころ毛羽立っている。華やかな赤ではなく、くすんだ臙脂色。窓は少なく、空気には古い香水と埃が混じっていた。
奥へ進むと、扉が半開きになっている部屋があった。
中から、陶器の割れる音がした。
続いて、何かが床を転がる音。
Aは足を止めた。
覗き込む。
そこは化粧室だった。
かつては豪奢だったのだろう。化粧台には彫刻が施され、壁には楕円形の跡がある。大きな鏡が掛かっていた痕跡だ。金具だけが残り、壁紙の日焼けの差がくっきりと浮かんでいる。
鏡はない。
化粧室なのに、鏡がない。
化粧台の上には、散らばった化粧品。白粉の缶。割れた香水瓶。折れた櫛。赤いルージュ。布で覆われた鏡枠。床には香水がこぼれ、甘く刺すような匂いが漂っていた。
その中に、Sがいた。
赤黒い仮面。乱れた髪。片側だけ崩れたドレス。爪で傷ついた手。彼女は化粧台の上に残っていた赤いルージュを掴み、床へ叩き落とした。
赤い芯が折れ、床に転がる。
Sはそれを踏みつけた。
ぐしゃり、と柔らかい音がした。
赤が床に伸びる。
Aは息を呑んだ。
赤いルージュ。
マダム・ヴィーの唇。
夢の中の女の唇。
母の記憶かもしれない記号。
それをSは、憎むように踏み潰している。
Sは振り返らなかった。
「覗き見かい。趣味が悪いね」
「話があります」
「こっちはない」
「井戸のことを知っていましたね」
Sの手が止まった。
だが、すぐに笑う。
「知ってたら何だい。掘ってみるかい? 底まで落ちれば、よく見えるよ」
Aは部屋に入った。
床に落ちたガラスを踏まないようにする。香水の匂いが強い。甘く、古く、どこか腐った花のようだった。赤いルージュの潰れた色が、靴先の近くに伸びている。
「Mさんのことも知っている。Gさんのことも。僕の母のことも」
Sの動きが止まった。
Aは続けた。
「あなたは、僕に何かを思い出させようとしている」
Sがゆっくり振り返った。
割れた仮面の奥で、目が光る。
「思い出させる?」
「食卓でも、庭でも、あなたは僕に何かを言いかけた。でも、直接は言わない」
Sは近づいてきた。
距離が近い。香水と赤い花と、彼女自身の荒い息が混ざる。赤黒い仮面の割れ目から、目だけが鋭くこちらを刺してくる。
「言わないんじゃない」
低い声だった。
「言えないんだよ」
Aは黙った。
Sはさらに近づく。
「この館で、本当の名前を口にするのがどれだけ痛いか、あんたはまだ知らない」
その言葉に、Mの喉を押さえた仕草が蘇った。
名前を言おうとして、声が出なかったM。
夢の中で首元を押さえていた赤い唇の女。
Aは喉に小さな寒気を覚えた。
「Mさんは、僕を眠らせました」
Sの目が細くなる。
「そうだろうね」
「あなたは知っていたんですか」
「知ってたら?」
Aの中で、抑えていた怒りが少し崩れた。
「彼女は僕に逃げろと言った。そのあと薬を飲ませた。あれは裏切りじゃないんですか」
瞬間、Sが動いた。
胸ぐらを掴まれる。
Aの身体が化粧台のほうへ引かれた。白い仮面が、Sの赤黒い仮面のすぐ前に来る。彼女の爪がAの服に食い込む。首元の痕が引きつれ、痛みが走った。
「裏切り?」
Sの声は低く、怒りで震えていた。
「あの子はね、裏切れるほど強くない。助けたい相手を眠らせるくらいしかできないんだよ」
Aは息を呑んだ。
SはMを責めていない。
怒っている。苛立っている。けれど、それはMに向けた憎悪ではない。むしろ、弱さごと守ろうとしている声だった。
「あの子って、何なんです。あなたとMさんは――」
SはAを突き放した。
「聞くな」
「Gさんは死にました」
Aは踏みとどまった。
Sの動きが、わずかに止まる。
「あなたは、それも知っていたんですか」
Sは沈黙した。
「彼は帽子にメモを残していました」
Aは言葉を選ばなかった。
もう、引くわけにはいかなかった。
「白峰。三姉妹。Mを探せ。母は館で死んでいない」
Sの顔が変わった。
仮面越しでもわかった。
割れた赤黒い面の奥で、目が揺れる。怒りでは隠しきれない動揺。手の甲に爪が食い込む。唇が何かを言おうとして、噛み殺す。
「死んだ男のメモなんて、読むから悪い」
「なぜです」
「死者はね、生きてる者より無責任に本当のことを書くんだよ」
「白峰とは何ですか」
Sは黙る。
「三姉妹とは?」
Sの喉が動いた。
「……その言葉を、ここで口にするな」
「僕の母は、この館で死んでいない。そう書いてありました」
Sの怒りが爆ぜた。
「黙れ!」
彼女はAに掴みかかった。
Aは避けきれず、化粧台へ押しつけられた。背中に硬い縁が当たる。化粧台の上に残っていた布が落ちた。布の下から、空の鏡枠が現れる。
鏡はない。
ただ、化粧台の上に置かれていた古い銀の盆だけが、わずかに反射していた。
そこに、二つの仮面が歪んで映る。
Aの白い仮面。
Sの赤黒い仮面。
二つの顔が歪み、近づき、重なる。
揉み合いの中で、Sの仮面の留め具が音を立てた。
小さく、乾いた音。
片側が外れた。
仮面が完全に落ちたわけではない。
ずれた。
一瞬だけ。
Sの素顔の半分が見えた。
頬。
口元。
目元の一部。
怒りで噛み切られた唇。白い肌。細い顎の輪郭。ベールの奥にいたMと同じ線。静かなMの顔が、怒りで燃えたらこうなるのではないかと思わせる輪郭。
そして。
夢の中の赤い唇の女に似ていた。
Aは息を止めた。
世界が止まった。
Sも、自分の顔が見えたことに気づいた。
彼女の目が見開かれる。
その瞬間、Aの頭の奥で何かが裂けた。
激しい痛みが走る。
仮面の内側が熱くなる。白い仮面が、皮膚の下から記憶を引きずり出そうとする。首元の痕が焼けるように痛んだ。喉の脇、鎖骨、耳の後ろ。視界が赤く染まる。
赤い絨毯の廊下。
幼い手。
三人の女性。
一人は赤い唇の女。
二人はよく似た少女、あるいは若い女。
片方は泣いている。
片方は怒っている。
燃える舞踏会。
黒い獣の仮面をつけた男。
まだ車椅子に乗っていない若い女。
赤いルージュ。
白いリボン。
小さな鍵。
かた、かた、かた。
映写機の音。
炎。
女の唇が動く。
いきなさい。
Aは叫びそうになった。
「母さ――」
声になる前に、Sの手がAの口を塞いだ。
乱暴に。
爪が頬に触れる。香水と血と赤いルージュの匂いが近い。Sの壊れた仮面が、片側だけずれたまま、彼の目の前にある。見えてはいけない顔が、半分だけ見えている。
「呼ぶな」
Sの声は低かった。
「ここでその名前を呼ぶな。呼んだら、あんたの中の残りまで持っていかれる」
Aは苦しんだ。
息ができない。
名前が喉で暴れる。
呼びたい。
だが、呼んではいけない。
SはしばらくAの口を塞いだまま、彼の目を見ていた。
それは怒りだけではなかった。
恐怖だった。
Sは、Aが母を呼ぶことを恐れている。
やがて、彼女は手を離した。
Aは膝をついた。
息を吸う。仮面の内側がまだ熱い。頭痛が脈打つ。視界の赤が薄れたり濃くなったりする。
Sは壊れた仮面を押さえた。留め具が片方外れている。完全には隠れない。彼女は必死に顔を隠そうとしているが、頬の一部、唇の端、目元の線がまだ見えていた。
Aは震える声で言った。
「あなたは……Mさんと……」
「違う」
「でも、同じ顔――」
「違うって言ってるだろ!」
Sの声が割れた。
それは、同じ顔ではないという否定ではなかった。
同一人物ではない、という叫びに聞こえた。
Aには、まだ何が違うのかわからない。
Sは荒い呼吸を整えようとした。
「あたしはMじゃない。Mはあたしじゃない。あの子は……」
言葉が止まる。
Aは、膝をついたまま顔を上げた。
「姉妹ですか」
Sは答えなかった。
だが、その沈黙は、答えに近かった。
Sは代わりに、壊れた仮面を押さえながら言った。
「あんたの母親は逃げた。あたしたちは、逃げ損ねた」
Aは息を呑んだ。
「逃げた?」
「死んだんじゃない」
Sの声は掠れていた。
「少なくとも、この館では死んでない」
Gのメモと同じだった。
母は館で死んでいない。
紙の上の文字が、Sの口から血の通った言葉になった。
「僕の母は、なぜ逃げたんですか」
Aは問うた。
Sは笑った。
痛い笑いだった。割れた香水瓶の上を素足で歩くような笑い。
「逃げたかったからだよ。生きたかったから。あんたを連れて、名前のある場所へ戻りたかったから」
名前のある場所。
Aはその言葉を胸の中で受け止めた。
自分は、幼い頃にこの館にいた。
その可能性を、初めて心の底で受け入れた。
夢ではない。
ただの悪夢ではない。
この屋敷は、自分の過去にある。
「あなたたちは、なぜ逃げなかったんですか」
Sの表情が変わった。
怒りではない。
傷だった。
「逃げなかったんじゃない」
彼女は言った。
「逃げ損ねたんだ」
その声には、母への憎しみだけではないものがあった。
羨望。
誇り。
置き去りにされた痛み。
それでも、逃げた者を責めきれない苦しさ。
Aは言葉を失った。
母は逃げた。
Sたちは逃げ損ねた。
母はAを連れて、名前のある場所へ戻ろうとした。
では、なぜAはここに戻ってきたのか。
なぜ記憶を失っているのか。
母は今どこにいるのか。
Sがさらに何かを言おうとした。
そのとき、廊下から音がした。
きい。
車輪の音。
銀の車輪が床を撫でる音。
AもSも、同時に動きを止めた。
きい。
ころ。
近づいている。
マダム・ヴィー本人なのか。
それとも、ただ音だけが廊下を渡っているのか。
Sの顔が強張った。
彼女は壊れた仮面を直そうとする。しかし留め具は折れている。何度押さえても、片側がわずかに浮く。
SはAを睨んだ。
「見たことを忘れろ」
「忘れられません」
「なら、忘れたふりをしろ」
Sの声が低くなる。
「あんたが今それを顔に出せば、Mが殺される」
Aは凍った。
「なぜMさんが」
Sは答えない。
「この館では、知られたくないことを知った本人より、そいつに話したやつが先に罰を受ける」
Aは喉を鳴らした。
二号。
M。
S。
J。
Aが真実に近づくほど、彼に言葉を渡した者が危険になる。
自分が知ることは、自分だけの問題ではない。
車輪音が近づく。
Sは一瞬で顔を変えた。
いや、顔は半分見えたままだ。だからこそ、彼女は表情ではなく、行動で偽装した。
化粧台の上の香水瓶を掴む。
壁へ投げつけた。
大きな音がした。
硝子が割れ、香水が飛び散る。甘く鋭い匂いが部屋中に広がった。
「出ていけ! 覗き魔!」
Sは叫んだ。
Aは立ち上がる前に突き飛ばされた。よろめきながら廊下へ出る。白い仮面の内側で頭痛がまだ脈打っていた。
Sはさらに叫ぶ。
「その白い仮面でこっちを見るな! 気持ち悪いんだよ!」
二号が廊下の奥から駆けつける。三号もいる。彼らの背後、曲がり角の向こうで、車輪音が止まったように聞こえた。
Sは大声で罵倒を続ける。
「気安く話しかけるんじゃないよ! 次に覗いたら、その仮面ごと顔を剥いでやる!」
表面上は、癇癪だった。
SがAを罵倒し、暴れ、追い出した。
屋敷が知っているSの姿。扱いにくい客人。狂女。不調者。
だが、Aにはもうわかっていた。
これは偽装だ。
完全な演技ではない。Sは本当に怒っている。本当に壊れている。だが、その壊れ方さえ、今は武器として使っている。
二号がAのそばへ来た。
「A様、お怪我は」
「ありません」
Aは息を整えた。
「少し、Sさんを怒らせてしまったようです」
二号の目が揺れた。
見抜いているのかもしれない。
だが、何も言わなかった。
化粧室の扉が乱暴に閉められる。
その向こうで、さらに何かが割れる音がした。
Aは廊下を歩き出した。
その先に、Jがいた。
いつからそこにいたのかわからない。壁にもたれ、杖を片手に、いつものように薄く笑っている。白手袋が、杖の柄をゆっくり撫でていた。
「Sに嫌われたね」
Aは立ち止まった。
「あなたは、SとMのことを知っているんですね」
Jは答えない。
「二人は同じ顔をしている」
Jの目が、少しだけ細くなった。
「見たのか」
Aは答えなかった。
沈黙だけで十分だった。
Jは珍しく真面目な声になった。
「なら、そのことを食卓では口にしないほうがいい。君が思っているより、顔はここでは危険な証拠だ」
「SとMは同一人物なんですか」
Jは微笑んだ。
「そう見えたなら、今はそう思っておくといい」
「はぐらかさないでください」
「はぐらかしているんじゃない。君の誤解が、今は君を守ることもある」
「誤解なんですか」
「半分だけね」
Jは杖を床についた。
こつ。
「顔は名前より危険なときがある。名前は捨てられる。仮名にできる。番号にできる。でも顔は、血を告げる。似ていることを告げる。誰が誰の子で、誰が誰の姉妹で、誰が誰から逃げたのかを、勝手に喋ってしまう」
Aは息を止めた。
血。
姉妹。
逃げた。
「あなたは全部知っているんですか」
Jは笑った。
「全部知っている人間は、この館では長生きしない」
「では、あなたは?」
「半分だけ知っている。だから、まだ置かれている」
AはJを見た。
置かれている。
彼が領主Xについて使った言葉。自分自身についても使った言葉。人と物の境界が曖昧になる館の言葉。
Aは何も言わず、その場を離れた。
自室へ戻る。
扉を閉める。鍵の音はない。だが、いつものように閉じ込められた感覚がある。
Aは机の前に座った。
頭痛はまだ残っている。仮面の内側には熱が戻りかけている。首元の痕が鈍く疼く。
彼は指で仮面の縁をなぞった。
この下に、自分の顔がある。
だが、まだ一度も見ていない。
鏡がないから。
Sの素顔。
Mの蒼いベールの奥の輪郭。
夢の中の赤い唇の女。
白峰。
三姉妹。
逃げた母。
逃げ損ねたSたち。
Mが殺される、というSの言葉。
顔は危険な証拠、というJの言葉。
Aは初めて、はっきりと恐れた。
もしSとMが母に似ているなら。
もし、自分も母に似ているなら。
鏡を取り外した理由は何か。
Aに自分の顔を見せたくないのは、醜いからではない。恐ろしいからでもない。見れば思い出すからだ。血筋を。母を。SとMを。白峰という名を。
Aは化粧台の跡を見た。
そこに鏡はない。
長年そこにあったものを外した跡だけがある。壁紙の日焼けの差。金具の穴。楕円形の空白。
自分の顔を見たい。
見なければならない。
だが、この館には鏡がない。
Aは壊れた時計を取り出した。
七時四十七分。
その針が、ただ時刻を示しているのではなく、どこかを指しているように見えた。
Gは「映」「地下」と残した。
Jは領主Xが地下に置かれていると言った。
Mは、まだ地下へ行かせるわけにはいかないと言った。
Sは井戸と花壇を知っていた。
赤い花の香りは、Gのハンカチと繋がっていた。
焼却炉は人の痕跡を燃やしていた。
井戸の底には、まだ生きている者がいた。
すべての線が地下へ向かっている。
表の部屋を歩き回っているだけでは、真相には届かない。
Aは時計を握った。
地下へ行く。
だが、一人では無理だ。鍵がいる。通路を知る者がいる。屋敷の裏を歩ける者がいる。
J。
二号。
S。
誰を信じるべきか。
半分だけ。
Gの言葉が胸の中で響く。
そのとき、廊下の向こうから音がした。
こつ。
杖の音。
こつ。
こつ。
Aは顔を上げた。
七時四十七分で止まった時計の針が、地下を指しているように見えた。廊下の向こうで、杖の音がした。




