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第9章 ― 地下への鍵

 こつ。


 廊下の向こうで、杖の音がした。


 Aは顔を上げた。


 壊れた時計は机の上にある。割れた硝子の下で、針は七時四十七分を指したまま止まっている。部屋には鏡がない。化粧台には、鏡があった形だけが壁紙の色の違いとして残っている。


 Sの素顔。


 Mの蒼いベールの奥にあった輪郭。


 夢の中の赤い唇。


 逃げた母。

 逃げ損ねたSたち。

 同じ顔。

 見てはいけない顔。

 顔は危険な証拠だというJの言葉。


 Aは自分の仮面に触れた。


 この下には、まだ見たことのない自分の顔がある。


 自分の顔なのに、誰かが隠している。見せないために、鏡は外されている。顔を見れば、名前より先に血が語ってしまうのかもしれない。


 こつ。


 また杖の音がした。


 マダム・ヴィーの銀の車輪音ではない。二号のほとんど音のしない歩き方でもない。Sの乱れた足音でも、召使いたちの揃った足音でもない。


 Jの音だ。


 Aは、屋敷の住人を顔ではなく音で識別するようになっていた。


 車輪。

 杖。

 絨毯に吸われる無音。

 遠くで揃う召使いたちの足音。


 この館では顔を隠される。名前を隠される。だが、音だけは、まだ完全には奪われていない。


 Aは扉を開けた。


 Jが廊下に立っていた。


 濃紺の仮面。白手袋。細い杖。整ったスーツ。いつものように芝居がかった姿だったが、夜の廊下に立つ彼は、食卓やサロンで見るよりも少しだけ影が濃く見えた。


「そろそろ、地上の空気にも飽きただろう?」


 Aは、驚かなかった。


 胸の内側で、答えはもう決まっていた。


「地下へ行くんですね」


 Jは愉快そうに笑った。


「やっと話が早くなった」


「なぜ今なんです」


「Sの顔を見たから」


 Aの指が、扉の縁を掴んだ。


「知っていたんですか」


「君の顔に書いてある。いや、仮面に隠れていても、わかる」


「便利な目ですね」


「便利じゃない。悪趣味なだけだ」


 Jは杖の柄を白手袋の指で撫でた。


「顔は危険な証拠だと言っただろう。見たなら、次は見せられなかったものを見に行くべきだ」


「地下に、何があるんです」


 Jは少し首を傾けた。


「顔の代わりになるもの。名前の代わりになるもの。記憶の代わりになるもの」


 Aは黙った。


「仮面。映像。遺品。保存された夢。だいたい、ろくなものじゃない」


「あなたは、僕にそれを見せたいんですか」


「君はもう見に行くつもりだった。ボクは扉の開け方を知っているだけだ」


「Gさんのメモには、あなたを信じるなとありました」


「正しい」


「半分だけ信じろ、とも」


 Jの笑みが少し深くなった。


「Gらしい遺言だ」


「僕はあなたを半分だけ信じます」


「十分だよ。ここで全部信じる人間は、たいてい最初に消える」


 Aは壊れた時計を懐に入れた。襟の内側の紙片を確かめる。袖口には黒い繊維。赤い花壇の土を包んだ布も、内ポケットに隠してある。


 Jはそれを見て、何も言わなかった。


 二人は廊下へ出た。


 夜の屋敷は赤く沈んでいた。燭台の灯りが壁を舐め、布に覆われた肖像画の形だけを浮かび上がらせる。見えない顔が並んでいる。見えないからこそ、すべてがこちらを見ているようだった。


 数歩進んだところで、二号が現れた。


 彼女は廊下の暗がりに立っていた。


 黒いフェイスマスク。白いエプロン。白い手袋。だが、いつものような静けさではない。彼女の肩はわずかに強張り、手袋の指が胸の前で固く組まれていた。


「A様。そちらへは行かれません」


 Aは立ち止まった。


 Jが軽く笑う。


「いい夜だね、二号。仕事熱心で涙が出る」


 二号はJを見なかった。


 Aだけを見ていた。


「地下区画への立ち入りは禁じられております」


「知っています」


「では、お戻りください」


 Aは静かに尋ねた。


「戻ったら、何が変わりますか」


 二号は答えられなかった。


 Aは続けた。


「Gさんは死にました。Mさんは僕を眠らせました。Sさんは、僕の母が逃げたと言いました。井戸の底には、まだ生きている人がいます。あなたは、その全部を知らないふりで片づけるんですか」


 二号の指が震えた。


 白い手袋の先が、目に見えるほど小さく揺れる。


 Jは何も言わなかった。


 Aはさらに一歩近づいた。


「君は本当に、二号でいたいんですか」


 二号が息を呑んだ。


 黒いフェイスマスクの下で、唇がわずかに開く。


「……わたくしは」


 その先が出ない。


 名前を問われたわけではない。それでも、彼女の喉は言葉を拒んでいた。自分が二号でいたいのか。二号でしかいられないのか。その区別さえ、彼女には許されていないのかもしれない。


 Aは声を和らげた。


「答えられないなら、それでいい。でも、僕は戻れません」


 長い沈黙があった。


 廊下の灯りが揺れる。遠くで館のどこかが軋む。二号は立ちはだかったまま、しばらく動かなかった。


 やがて、彼女は一歩、横へずれた。


 それだけだった。


 道が開いた。


「わたくしは、何も見ておりません」


 礼儀正しい声だった。


 だが、それは明らかな裏切りだった。


 屋敷への。


 お館様への。


 そして、二号という番号に押し込められた自分への。


 Aは小さく頭を下げた。


「ありがとう」


 二号は答えなかった。


 ただ、顔を伏せた。


 Jが歩き出す。


「いい子だ」


 二号の指がわずかに強張った。


 AはJを見た。


「その言い方は、やめてください」


 Jは肩をすくめた。


「失礼。癖だよ」


「悪い癖です」


「この館では、悪い癖ほど長生きする」


 二人は廊下の奥へ進んだ。


 Jが案内したのは、外された大きな肖像画の跡がある廊下だった。以前、二号が「お館様の肖像を飾る準備」と言った場所。壁紙には長く絵が掛かっていた四角い痕が残り、金具だけが不自然に残っている。


 Jはその壁の脇へ立った。


「ここは、もともと領主Xの絵が掛かっていた場所だ」


 Aは壁の空白を見た。


「やはり、そうだったんですね」


「地上で消されたものは、たいてい地下へ送られる。絵も、人も、名前も」


 Jは杖の柄を壁際の小さな金具へ押し当てた。


 かちり。


 小さな音がした。


 壁の一部が、わずかに沈む。


 そのまま、細い隙間が開いた。


 Aは息を呑んだ。


 隠し扉。


「あなたは、何度もここを通ったんですね」


 Jは暗がりを見つめた。


「通ったというより、通された。昔はね」


 その言い方に、Aは口を閉じた。


 Jは軽口を続けなかった。


 扉の向こうには、石段があった。


 狭い。

 暗い。

 湿っている。


 赤い絨毯はない。燭台の飾りもない。石壁には古い水跡があり、鉄の手すりは冷たく錆びている。地下から、湿った空気が上がってきた。


 Aの仮面の縁に、冷気が触れた。


 彼はGの靴底を思い出した。


 濡れていた靴底。赤黒い土。水。泥。花壇だけではない。Gは、この湿った階段か通路を歩いたのかもしれない。


 Jの杖が石段を叩いた。


 こつ。


 地上の絨毯で聞くより、ずっと硬い音だった。


 Aは地下へ降りた。


 地下は、単なる地下牢ではなかった。


 古い貯蔵庫のような石の壁。医療施設めいた白い扉。劇場の裏手に似た暗幕。写真室のような赤い小窓。標本室めいた棚。倉庫。廊下。それらが継ぎ接ぎされ、ひとつの不自然な生活圏になっている。


 壁には配管が走っていた。床には水の跡がある。ところどころに香炉が置かれ、赤い花に似た甘い香りが薄く漂っている。扉にはアルファベットではなく、番号や記号が振られていた。


 地上では礼儀や装飾に包まれていたものが、ここでは実務的で冷たい形を取っている。


 Aは息苦しさを覚えた。


「地上が舞台なら、ここは舞台裏だ」


 Jが言った。


「観客が見ないほうがいいものは、たいてい美しくない」


「でも、必要なものはここにある」


「その通り。真相はだいたい、綺麗な部屋には置かれない」


 Aは通路の壁に触れた。


 湿っている。


 指先に冷たい水気が移る。庭の赤い土とは違う。だが、Gの靴底についていた水は、この湿りにも似ていた。


 Jは最初の扉を開けた。


 そこは仮面室だった。


 Aは一歩入ったところで、息を止めた。


 壁一面に、仮面が吊られている。


 白い仮面。黒い仮面。赤黒い割れた仮面。蒼白い仮面。笑っている仮面。泣いているような仮面。召使い用の黒いフェイスマスク。子ども用の小さな仮面。未完成の仮面。


 顔ではない。


 顔の代用品が、壁に並んでいる。


 ひとつひとつに小さな札がついていた。アルファベット。数字。日付。削られた文字。消された名前の跡。


 Aは自分の仮面に触れた。


 自分は、顔を奪われたのではない。


 この壁の一部にされようとしている。


 そう感じた。


 Jが静かに言った。


「ここで、人は顔を失くす。あるいは、顔を与えられる」


 Aは壁の奥で足を止めた。


 白い仮面が並んでいる。


 自分のものに似ていた。


 いや、似ているどころではない。細部は違うが、どれもAの顔に合わせるためのものに見えた。目元から頬を覆う形。こめかみの接続部。頬骨に沿う縁。内側には細い金具、薬剤を染み込ませる布、小さな管のようなものがある。


 複数ある。


 予備ではない。試作品か、段階の違うものか、調整用か。


 Aは吐き気を覚えた。


「なぜ、僕の仮面がこんなにあるんです」


 Jは答えなかった。


 代わりに、壁の奥の札を見た。


 Aも見る。


 そこには文字があった。


 だが、削られている。


 A


 Ari……


 Ak……


 ほかの文字は削られ、塗りつぶされ、刃物で抉られていた。


 Aの胸がざわついた。


 Ari。

 Ak。


 自分の名前の断片なのか。


 有栖。

 白峰。


 Gのメモの言葉が蘇る。


 しかし、まだ繋がらない。


 視線の端に、小さな仮面があった。


 子ども用だった。


 白く、古く、ところどころ黄ばんでいる。内側の布は取り替えられているが、縁に細い傷がある。幼い顔に合わせて作られたもの。


 Aはそれを見て、掌に銀の鍵が食い込む感覚を思い出した。


 白いリボン。

 小さな手。

 母の声。


 忘れなさい。

 けれど、捨てないで。


 彼は手を伸ばしかけた。


 Jが言った。


「触らないほうがいい」


「これも、僕のものですか」


「さあ」


「知らないんですか」


「知っていても、今の君に言えば壊れることがある」


「みんな、そればかりですね」


 AはJを睨んだ。


「今はまだ。触るな。見るな。呼ぶな。いつならいいんですか」


 Jは笑わなかった。


「戻ってこれる準備ができたら」


「誰が決めるんです」


「君だよ。最終的には」


「それまで、あなたたちが隠す?」


「そのつもりで隠したわけじゃなくても、結果は同じだね」


 Aは子ども用の仮面から目を離した。


 その近くに、濃紺の仮面があった。


 Jの仮面に似ている。


 だが、今の彼のものより古い。内側に、暗い染みがある。血か、薬か、古く変色した汗か。Aにはわからない。


「これは」


 Jの表情から笑みが消えた。


「昔のボクだよ」


「あなたも、ここで?」


「ここで、というより、ここから出された。使い物になる程度には壊れたからね」


 Aは言葉を失った。


 Jはすぐに口元だけで笑った。


「同情はやめてくれ。似合わない」


「同情ではありません」


「じゃあ、観察かな」


「……怒りです」


 Jは少しだけ目を細めた。


「それなら悪くない。怒りは、使い道を間違えなければ長持ちする」


 Jはその古い仮面に触れなかった。


 白手袋の指は、ほんの少し手前で止まった。触れないことが、かえって過去の痛みを浮かび上がらせていた。


 二人は仮面室を出た。


 奥の通路へ進むと、Aは聞き覚えのある音を聞いた。


 かた。

 かた。

 かた。


 映写機の音。


 悪夢の奥で、ずっと鳴っていた音。


 Jが扉を開ける。


 そこは映写室だった。


 古い映写機。フィルム缶。巻き取り機。白いスクリーン。数脚の椅子。奥の椅子には、革の拘束具がついていた。手首を固定するためのものだろう。古く、使い込まれ、だが手入れされている。


 ここで映像を見た者は、ただ鑑賞していたのではない。


 見せられていた。


 Aの背筋が冷えた。


 Jは棚のほうへ行き、フィルム缶を調べた。


「Gはここへ来た」


 Aは驚いた。


「なぜわかるんです」


 Jは映写機の近くを杖で示した。


 床に泥が残っていた。


 拭かれてはいる。だが、石の隙間に赤黒い湿りが残っている。庭の花壇の土と似ている。Gの靴底についていた泥にも似ている。


 さらに、映写機の横にある古い暗幕に、引っ掻いた跡があった。


 爪で強く掴んだような跡。


 Aは袖口の裏に隠した黒い繊維を思い出した。


 ここだ。


 Gが最後に掴んだのは、二号の黒いマスクではなく、この暗幕だったのかもしれない。


 Aは暗幕へ近づいた。


 指で触れようとして、やめた。これ以上、証拠を乱してはいけない。


 暗幕の布は厚く、古く、埃っぽい。Gの爪に挟まっていた黒い繊維と、質感が近い。


「Gさんは、ここで何を見たんですか」


「さあ」


 Jは棚から一本のフィルムを取り出した。


「でも、それを見たあとで落ちた。あるいは、落とされた。歩かされた」


 Aは映写機の近くの壁時計を見た。


 止まっている。


 七時四十七分。


 Aは懐からGの腕時計を取り出した。


 同じ時刻。


 Jが壁時計を見る。


「やはりね」


「知っていたんですか」


「この部屋の機械は、ときどき時計を止める。古い磁気装置か、何かの仕掛けか。詳しい理屈は知らない。でも、この部屋に近づいた時計は、同じ時刻で狂うことがある」


「七時四十七分」


「この部屋が覚えている時刻だ」


 Aは時計を握った。


 Gの時計が示していたのは、死亡時刻ではない。


 Gがここにいた時刻。

 ここで何かを見せられた時刻。

 あるいは、この部屋の機械に時間を止められた時刻。


 死者の時計は嘘つきだと、Jは言った。


 だが、その嘘は真実の場所を指していた。


 Jはフィルム缶を光にかざした。


 ラベルは一部剥がれている。


 読める文字は断片だけ。


 白峰


 舞踏


 七時四十七分


 記録


 V


 X


 Aは息を呑んだ。


「見るかい?」


 Jが問う。


 Aはすぐには答えなかった。


 Mは言った。まだ地下へ行かせるわけにはいかない。

 Sは言った。母の名を呼ぶな。

 Jは言った。見るな、今はまだ。


 それでも、ここまで来た。


 見なければ、何も進まない。


「見ます」


 Aは言った。


 Jは映写機にフィルムをかけた。


 機械が動き出す。


 かた。

 かた。

 かた。


 悪夢と同じ音が、部屋に満ちた。


 スクリーンに光が走る。


 白い面に、ざらついた映像が浮かんだ。


 最初に映ったのは、若い女だった。


 Aはすぐにわからなかった。


 だが、唇で気づいた。


 マダム・ヴィー。


 今より若い。車椅子ではない。歩いている。黒いベールも今ほど重くない。赤いルージュは薄く、唇はまだ誰かの記号を奪い取る前のように見えた。


 彼女は美しかった。


 だが、女帝ではなかった。


 むしろ、怯えているようにも見えた。背筋は伸びているが、肩がわずかに硬い。誰かの指示を待つように視線が動く。


 その隣に、黒い獣の仮面をつけた男がいた。


 領主X。


 そう直感した。


 夢の中の魔獣。硬質な輪郭。角のような飾り。人間の身体。獣の顔。仮面の奥の、見えない目。


 男は若いマダム・ヴィーの肩に手を置いた。


 優雅な仕草だった。


 だが、所有の仕草でもあった。


 Aの胸がざわつく。


 映像が乱れる。


 次に、三人の女性が映った。


 一人は、赤い唇の女に似ていた。


 Aは呼吸を忘れた。


 母だ。


 確信に近いものがあった。顔はフィルムの傷で一部欠けている。映像は荒い。だが、口元、顎の線、首を傾ける仕草。夢の中の女と重なる。


 その左右に、よく似た二人の少女、あるいは若い女がいた。


 一人は泣いているように見える。

 一人は領主Xを睨んでいるように見える。


 S。

 M。


 そう思った。


 けれど、映像だけではわからない。


 三人は白い衣装を着せられていた。侍女のようにも見える。花嫁のようにも見える。儀式の参加者のようにも見える。立ち位置のせいで、赤い唇の女が主で、左右の二人が付き添いのようにも見えた。


 だが、顔立ちは似ている。


 血縁か。

 同じ顔に作られたのか。

 同じ役を与えられたのか。


 映像は答えない。


 音声は欠けている。


 かた、かた、かた。


 次の映像へ飛んだ。


 廊下。


 炎。


 幼い子ども。


 女がその手を引いている。


 白いリボン。

 小さな鍵。


 Aは、自分の掌に鍵の感触を思い出した。


 背後に、黒い獣の仮面の影がある。さらに奥に、若いマダム・ヴィーの姿。彼女は扉のそばに立っている。


 開けているのか。

 閉めているのか。


 助けているのか。

 逃亡を阻もうとしているのか。


 音声は途切れ途切れだった。


「……連れて……」


「……逃げ……」


「……名前を……」


「……置いて……」


「……戻っては……」


 Aは混乱した。


 母は自分を連れて逃げたのか。

 それとも、何かを奪って逃げたのか。

 若いマダム・ヴィーは味方だったのか。

 それとも、逃げ道を閉ざしたのか。


 映像が焼けるように白くなる。


 フィルムの傷が走る。


 スクリーンに、幼いAらしき子どもの顔が映った。


 顔が、見えない。


 フィルムの傷で削れている。


 ちょうど顔の部分だけが、焼け落ちたように欠けている。


 Aは息ができなくなった。


 まただ。


 鏡がない。

 自分の顔が見えない。

 映像の中でも、自分の顔だけが欠けている。


 仮面の内側が熱くなる。


 首元の痕が疼く。喉の脇が焼ける。視界が赤く染まる。映写機の光が白い仮面にちらちら反射し、目の奥に入り込んでくる。


 Aは膝をついた。


 Jが映写機を止めようとした。


 だが、機械は止まらない。


 かた、かた、かた。


 勝手に回り続ける。


 スクリーンでは、幼い子どもの欠けた顔が、赤い光の中で揺れていた。


「見るな」


 JがAを支えた。


「今はまだ」


 Aは苦しみながら言った。


「あなたも、そう言うんですね」


 Mも。

 Sも。

 Jも。


 まだ。

 見るな。

 呼ぶな。

 触るな。


 誰も最後まで見せない。


「いつなら、見ていいんですか」


 Jは答えなかった。


 映写機が、ようやく止まった。


 部屋に沈黙が戻る。


 Aは荒く息をした。仮面の内側の熱は少しずつ引いていくが、首元の痕はまだ痛む。


 JはしばらくAを支えていた。


 それが不快だった。


 助けられている。

 だが、信用しきれない相手に支えられている。


 Aは自分で立ち上がった。


「次は」


「まだ見るつもりかい」


「見に来たんです」


 Jは少し笑った。


「本当に、この館にふさわしくなくなってきたね」


 映写室を出て、さらに奥へ進む。


 次の部屋は保存室だった。


 Aは扉を開けた瞬間、嫌悪を覚えた。


 そこには、人間の持ち物が並んでいた。


 帽子。

 手袋。

 ドレス。

 靴。

 仮面。

 名札。

 写真。

 手紙。

 髪飾り。

 壊れた時計。

 子どものリボン。

 小さな鍵。

 番号札。


 雑に置かれているのではない。


 展示品のように並べられている。


 小さな札がつき、布の上に置かれ、ガラスケースに収められているものもある。まるで美しい思い出の保存庫のようだった。


 だが、ここにあるのは思い出ではない。


 帰れなかった人間たちの痕跡だ。


 Jが言った。


「彼女は、死体より遺品が好きだ。死体は腐る。遺品は、物語にできるから」


 Aは寒気を覚えた。


 マダム・ヴィーは、人間そのものを保存するのではない。人間から剥がした役割、名前、記号、痕跡を保存する。死者の席を消し、持ち物だけを飾る。人間を夢に変える。


 Aは奥へ進んだ。


 そこで、白いリボンを見つけた。


 硝子の小さなケースの中にある。


 古い。黄ばんでいる。だが、結び目の形に見覚えがあった。幼い手に握らされていたもの。銀の鍵に結ばれていたもの。


 隣には、小さな鍵があった。


 銀色。

 掌に食い込むほど小さく、しかし確かな重みを持っていた記憶の鍵。


 Aは手を伸ばした。


 Jが止めた。


「触るな」


「これは、僕の記憶にあるものです」


「だから危険なんだ」


 AはJの手を振り払った。


 硝子ケースは完全には閉じられていなかった。隙間から指を入れる。白いリボンに触れる。


 その瞬間、記憶が閃いた。


 母の手。


 温かい。

 震えている。

 けれど、強い。


 幼いAの掌を開かせ、そこへ小さな鍵を握らせる。白いリボンが指に絡む。


 忘れなさい。


 でも、捨てないで。


 背後で誰かが泣いている。


 誰かが怒鳴っている。


 若いマダム・ヴィーが扉を開けている。いや、閉めている。わからない。彼女の顔は映像よりも近く、唇には薄い赤。彼女は泣いていたのか、笑っていたのか。


 母の赤い唇が動く。


 いきなさい。


 Aはリボンから手を離した。


 膝が崩れそうになる。


 Jが低く言った。


「これ以上は、領主Xの部屋を見ないと繋がらない」


「領主X」


 Aは保存室の奥を見た。


 そのとき、音が聞こえた。


 車輪音ではない。


 井戸の呻き声とも違う。


 呼吸音。


 古い寝台が軋むような音。喉の奥で笑うような、詰まった空気の音。あるいは、機械で誰かへ空気を送っているような音。


 Aは振り返った。


 Jの表情が変わっていた。


 ここまで軽口を絶やさなかった男が、明確に嫌悪を見せている。


「何ですか」


 Aは問うた。


 Jは答えなかった。


「この館が、本当に隠したかったもの」


「領主X?」


 沈黙。


 それが答えだった。


 保存室のさらに奥に、重い扉があった。


 古い木と鉄でできた扉。鍵穴は大きく、錆びた金具に囲まれている。中央には、領主家の紋章らしきものが刻まれていた。獣の角のような意匠。黒い仮面を思わせる輪郭。


 扉の向こうから、また呼吸音がした。


 Aは一歩進んだ。


 Jが腕を掴んだ。


「今夜はここまでだ」


「ここまで来て?」


「ここから先は、見ると戻れない」


「もう戻れません」


「そう思っているうちは、まだ戻れる」


 Aは振り払おうとした。


 そのとき、背後から足音がした。


 軽い。

 だが、いつもより乱れている。


 二号だった。


 彼女は地下へ降りてきていた。


 黒いフェイスマスク。白いエプロン。白い手袋。だが、足元が震えている。禁じられた場所にいる恐怖が、顔ではなく、膝と指に出ていた。


「A様。お戻りください」


 Aは驚いた。


「なぜ、ここまで」


 二号は荒い呼吸を整えようとしていた。


「お館様が、A様をお探しです」


 Jが低く言った。


「早いな」


 二号はJを見た。


「J様。これ以上は、わたくしにも庇えません」


 Aは、その言葉で理解した。


 二号は止めに来たのではない。


 庇いに来たのだ。


 ここまで降りてくること自体が、彼女にとって危険なはずだった。それでも来た。Aが領主Xの扉の前で見つかる前に、地上へ戻すために。


 二号はAへ向き直った。


「どうか、今は」


 Aは領主Xの扉を見た。


 知りたい。


 扉の向こうに何がいるのか。

 領主Xは生きているのか。

 死体なのか。

 置かれているものなのか。

 呼吸音の正体は何なのか。


 だが、ここで捕まれば、Mが罰を受けるかもしれない。Sが罰を受けるかもしれない。二号が地下まで来たことも、ただでは済まない。


 Aは拳を握った。


 今は引く。


 だが、戻る。


 必ず。


「……わかりました」


 二号の肩が少しだけ下がった。


 Jは何も言わなかった。


 三人は地下を戻った。


 仮面室を抜ける。映写室の前を通る。保存室の扉が閉まる。石段を上がる。湿った空気が少しずつ薄れ、代わりに地上の香水と蝋燭の匂いが戻ってくる。


 赤い絨毯へ足を置いた瞬間、Aは違和感を覚えた。


 地上は美しい。


 燭台。赤い布。整った廊下。布に覆われた肖像画。二号の白いエプロン。Jの整ったスーツ。すべてが以前と同じ場所にある。


 だが、もう同じには見えない。


 赤い絨毯は、血を薄めた庭の砂利と繋がって見える。仮面の客人は、地下の仮面室に吊られていた殻と同じに見える。食卓の皿も、保存室の遺品も、同じ展示の一部に見える。


 地上は舞台。


 地下は舞台裏。


 そして、どちらも同じ館だった。


 Jは去り際に言った。


「次は領主Xだ。覚悟ができたらね」


 Aは彼を見た。


「あなたは、僕に覚悟させたいんですか。それとも、怖がらせたいんですか」


 Jは少し笑った。


「両方」


「相変わらず、半分だけですね」


「全部より安全だろう」


 Jは杖をつき、廊下の奥へ消えていった。


 こつ。

 こつ。

 こつ。


 二号はAのそばに残っていた。


「A様」


「はい」


「今夜のことは」


「何も見ていなかった、ですね」


 二号は答えなかった。


 Aは小さく言った。


「ありがとう」


 二号の手袋の指が、ほんの少しだけ震えた。


 それから彼女は、いつものように頭を下げた。


「お休みなさいませ」


 Aは自室へ戻った。


 扉を閉める。


 机の前に座る。


 地下で触れた白いリボンの感触が、まだ指先に残っていた。実物は持ち出していない。だが、母の手の温度だけが、皮膚の奥に残っている。


 Aは時計を取り出した。


 七時四十七分。


 地下は答えをくれなかった。


 代わりに、答えの形をした映像と、顔の代わりに吊られた仮面と、母の手の感触だけを残した。


 仮面室には、自分の仮面の予備があった。

 つまり、自分は偶然の客人ではない。


 映写室には、Gの泥跡と暗幕の傷があった。

 つまり、Gは落下前にそこへ連れて来られた可能性が高い。


 七時四十七分は、死亡時刻ではない。

 映写室に関わる時刻だ。


 映像には、母らしき女、SとMに似た二人、若いマダム・ヴィー、領主Xが映っていた。

 だが、誰が助け、誰が止めたのかはわからない。


 保存室には、母の記憶に繋がる白いリボンと鍵があった。

 地下の奥には、領主Xの扉がある。


 Aは仮面の内側で息を整えた。


 次に開けるべき扉は、もう決まっている。


 地上へ戻っても、Aの耳にはまだ映写機の音が残っていた。かた、かた、かた。まるで地下で止まった時間が、自分の仮面の内側で回り続けているようだった。

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