第9章 ― 地下への鍵
こつ。
廊下の向こうで、杖の音がした。
Aは顔を上げた。
壊れた時計は机の上にある。割れた硝子の下で、針は七時四十七分を指したまま止まっている。部屋には鏡がない。化粧台には、鏡があった形だけが壁紙の色の違いとして残っている。
Sの素顔。
Mの蒼いベールの奥にあった輪郭。
夢の中の赤い唇。
逃げた母。
逃げ損ねたSたち。
同じ顔。
見てはいけない顔。
顔は危険な証拠だというJの言葉。
Aは自分の仮面に触れた。
この下には、まだ見たことのない自分の顔がある。
自分の顔なのに、誰かが隠している。見せないために、鏡は外されている。顔を見れば、名前より先に血が語ってしまうのかもしれない。
こつ。
また杖の音がした。
マダム・ヴィーの銀の車輪音ではない。二号のほとんど音のしない歩き方でもない。Sの乱れた足音でも、召使いたちの揃った足音でもない。
Jの音だ。
Aは、屋敷の住人を顔ではなく音で識別するようになっていた。
車輪。
杖。
絨毯に吸われる無音。
遠くで揃う召使いたちの足音。
この館では顔を隠される。名前を隠される。だが、音だけは、まだ完全には奪われていない。
Aは扉を開けた。
Jが廊下に立っていた。
濃紺の仮面。白手袋。細い杖。整ったスーツ。いつものように芝居がかった姿だったが、夜の廊下に立つ彼は、食卓やサロンで見るよりも少しだけ影が濃く見えた。
「そろそろ、地上の空気にも飽きただろう?」
Aは、驚かなかった。
胸の内側で、答えはもう決まっていた。
「地下へ行くんですね」
Jは愉快そうに笑った。
「やっと話が早くなった」
「なぜ今なんです」
「Sの顔を見たから」
Aの指が、扉の縁を掴んだ。
「知っていたんですか」
「君の顔に書いてある。いや、仮面に隠れていても、わかる」
「便利な目ですね」
「便利じゃない。悪趣味なだけだ」
Jは杖の柄を白手袋の指で撫でた。
「顔は危険な証拠だと言っただろう。見たなら、次は見せられなかったものを見に行くべきだ」
「地下に、何があるんです」
Jは少し首を傾けた。
「顔の代わりになるもの。名前の代わりになるもの。記憶の代わりになるもの」
Aは黙った。
「仮面。映像。遺品。保存された夢。だいたい、ろくなものじゃない」
「あなたは、僕にそれを見せたいんですか」
「君はもう見に行くつもりだった。ボクは扉の開け方を知っているだけだ」
「Gさんのメモには、あなたを信じるなとありました」
「正しい」
「半分だけ信じろ、とも」
Jの笑みが少し深くなった。
「Gらしい遺言だ」
「僕はあなたを半分だけ信じます」
「十分だよ。ここで全部信じる人間は、たいてい最初に消える」
Aは壊れた時計を懐に入れた。襟の内側の紙片を確かめる。袖口には黒い繊維。赤い花壇の土を包んだ布も、内ポケットに隠してある。
Jはそれを見て、何も言わなかった。
二人は廊下へ出た。
夜の屋敷は赤く沈んでいた。燭台の灯りが壁を舐め、布に覆われた肖像画の形だけを浮かび上がらせる。見えない顔が並んでいる。見えないからこそ、すべてがこちらを見ているようだった。
数歩進んだところで、二号が現れた。
彼女は廊下の暗がりに立っていた。
黒いフェイスマスク。白いエプロン。白い手袋。だが、いつものような静けさではない。彼女の肩はわずかに強張り、手袋の指が胸の前で固く組まれていた。
「A様。そちらへは行かれません」
Aは立ち止まった。
Jが軽く笑う。
「いい夜だね、二号。仕事熱心で涙が出る」
二号はJを見なかった。
Aだけを見ていた。
「地下区画への立ち入りは禁じられております」
「知っています」
「では、お戻りください」
Aは静かに尋ねた。
「戻ったら、何が変わりますか」
二号は答えられなかった。
Aは続けた。
「Gさんは死にました。Mさんは僕を眠らせました。Sさんは、僕の母が逃げたと言いました。井戸の底には、まだ生きている人がいます。あなたは、その全部を知らないふりで片づけるんですか」
二号の指が震えた。
白い手袋の先が、目に見えるほど小さく揺れる。
Jは何も言わなかった。
Aはさらに一歩近づいた。
「君は本当に、二号でいたいんですか」
二号が息を呑んだ。
黒いフェイスマスクの下で、唇がわずかに開く。
「……わたくしは」
その先が出ない。
名前を問われたわけではない。それでも、彼女の喉は言葉を拒んでいた。自分が二号でいたいのか。二号でしかいられないのか。その区別さえ、彼女には許されていないのかもしれない。
Aは声を和らげた。
「答えられないなら、それでいい。でも、僕は戻れません」
長い沈黙があった。
廊下の灯りが揺れる。遠くで館のどこかが軋む。二号は立ちはだかったまま、しばらく動かなかった。
やがて、彼女は一歩、横へずれた。
それだけだった。
道が開いた。
「わたくしは、何も見ておりません」
礼儀正しい声だった。
だが、それは明らかな裏切りだった。
屋敷への。
お館様への。
そして、二号という番号に押し込められた自分への。
Aは小さく頭を下げた。
「ありがとう」
二号は答えなかった。
ただ、顔を伏せた。
Jが歩き出す。
「いい子だ」
二号の指がわずかに強張った。
AはJを見た。
「その言い方は、やめてください」
Jは肩をすくめた。
「失礼。癖だよ」
「悪い癖です」
「この館では、悪い癖ほど長生きする」
二人は廊下の奥へ進んだ。
Jが案内したのは、外された大きな肖像画の跡がある廊下だった。以前、二号が「お館様の肖像を飾る準備」と言った場所。壁紙には長く絵が掛かっていた四角い痕が残り、金具だけが不自然に残っている。
Jはその壁の脇へ立った。
「ここは、もともと領主Xの絵が掛かっていた場所だ」
Aは壁の空白を見た。
「やはり、そうだったんですね」
「地上で消されたものは、たいてい地下へ送られる。絵も、人も、名前も」
Jは杖の柄を壁際の小さな金具へ押し当てた。
かちり。
小さな音がした。
壁の一部が、わずかに沈む。
そのまま、細い隙間が開いた。
Aは息を呑んだ。
隠し扉。
「あなたは、何度もここを通ったんですね」
Jは暗がりを見つめた。
「通ったというより、通された。昔はね」
その言い方に、Aは口を閉じた。
Jは軽口を続けなかった。
扉の向こうには、石段があった。
狭い。
暗い。
湿っている。
赤い絨毯はない。燭台の飾りもない。石壁には古い水跡があり、鉄の手すりは冷たく錆びている。地下から、湿った空気が上がってきた。
Aの仮面の縁に、冷気が触れた。
彼はGの靴底を思い出した。
濡れていた靴底。赤黒い土。水。泥。花壇だけではない。Gは、この湿った階段か通路を歩いたのかもしれない。
Jの杖が石段を叩いた。
こつ。
地上の絨毯で聞くより、ずっと硬い音だった。
Aは地下へ降りた。
地下は、単なる地下牢ではなかった。
古い貯蔵庫のような石の壁。医療施設めいた白い扉。劇場の裏手に似た暗幕。写真室のような赤い小窓。標本室めいた棚。倉庫。廊下。それらが継ぎ接ぎされ、ひとつの不自然な生活圏になっている。
壁には配管が走っていた。床には水の跡がある。ところどころに香炉が置かれ、赤い花に似た甘い香りが薄く漂っている。扉にはアルファベットではなく、番号や記号が振られていた。
地上では礼儀や装飾に包まれていたものが、ここでは実務的で冷たい形を取っている。
Aは息苦しさを覚えた。
「地上が舞台なら、ここは舞台裏だ」
Jが言った。
「観客が見ないほうがいいものは、たいてい美しくない」
「でも、必要なものはここにある」
「その通り。真相はだいたい、綺麗な部屋には置かれない」
Aは通路の壁に触れた。
湿っている。
指先に冷たい水気が移る。庭の赤い土とは違う。だが、Gの靴底についていた水は、この湿りにも似ていた。
Jは最初の扉を開けた。
そこは仮面室だった。
Aは一歩入ったところで、息を止めた。
壁一面に、仮面が吊られている。
白い仮面。黒い仮面。赤黒い割れた仮面。蒼白い仮面。笑っている仮面。泣いているような仮面。召使い用の黒いフェイスマスク。子ども用の小さな仮面。未完成の仮面。
顔ではない。
顔の代用品が、壁に並んでいる。
ひとつひとつに小さな札がついていた。アルファベット。数字。日付。削られた文字。消された名前の跡。
Aは自分の仮面に触れた。
自分は、顔を奪われたのではない。
この壁の一部にされようとしている。
そう感じた。
Jが静かに言った。
「ここで、人は顔を失くす。あるいは、顔を与えられる」
Aは壁の奥で足を止めた。
白い仮面が並んでいる。
自分のものに似ていた。
いや、似ているどころではない。細部は違うが、どれもAの顔に合わせるためのものに見えた。目元から頬を覆う形。こめかみの接続部。頬骨に沿う縁。内側には細い金具、薬剤を染み込ませる布、小さな管のようなものがある。
複数ある。
予備ではない。試作品か、段階の違うものか、調整用か。
Aは吐き気を覚えた。
「なぜ、僕の仮面がこんなにあるんです」
Jは答えなかった。
代わりに、壁の奥の札を見た。
Aも見る。
そこには文字があった。
だが、削られている。
A
Ari……
Ak……
ほかの文字は削られ、塗りつぶされ、刃物で抉られていた。
Aの胸がざわついた。
Ari。
Ak。
自分の名前の断片なのか。
有栖。
白峰。
Gのメモの言葉が蘇る。
しかし、まだ繋がらない。
視線の端に、小さな仮面があった。
子ども用だった。
白く、古く、ところどころ黄ばんでいる。内側の布は取り替えられているが、縁に細い傷がある。幼い顔に合わせて作られたもの。
Aはそれを見て、掌に銀の鍵が食い込む感覚を思い出した。
白いリボン。
小さな手。
母の声。
忘れなさい。
けれど、捨てないで。
彼は手を伸ばしかけた。
Jが言った。
「触らないほうがいい」
「これも、僕のものですか」
「さあ」
「知らないんですか」
「知っていても、今の君に言えば壊れることがある」
「みんな、そればかりですね」
AはJを睨んだ。
「今はまだ。触るな。見るな。呼ぶな。いつならいいんですか」
Jは笑わなかった。
「戻ってこれる準備ができたら」
「誰が決めるんです」
「君だよ。最終的には」
「それまで、あなたたちが隠す?」
「そのつもりで隠したわけじゃなくても、結果は同じだね」
Aは子ども用の仮面から目を離した。
その近くに、濃紺の仮面があった。
Jの仮面に似ている。
だが、今の彼のものより古い。内側に、暗い染みがある。血か、薬か、古く変色した汗か。Aにはわからない。
「これは」
Jの表情から笑みが消えた。
「昔のボクだよ」
「あなたも、ここで?」
「ここで、というより、ここから出された。使い物になる程度には壊れたからね」
Aは言葉を失った。
Jはすぐに口元だけで笑った。
「同情はやめてくれ。似合わない」
「同情ではありません」
「じゃあ、観察かな」
「……怒りです」
Jは少しだけ目を細めた。
「それなら悪くない。怒りは、使い道を間違えなければ長持ちする」
Jはその古い仮面に触れなかった。
白手袋の指は、ほんの少し手前で止まった。触れないことが、かえって過去の痛みを浮かび上がらせていた。
二人は仮面室を出た。
奥の通路へ進むと、Aは聞き覚えのある音を聞いた。
かた。
かた。
かた。
映写機の音。
悪夢の奥で、ずっと鳴っていた音。
Jが扉を開ける。
そこは映写室だった。
古い映写機。フィルム缶。巻き取り機。白いスクリーン。数脚の椅子。奥の椅子には、革の拘束具がついていた。手首を固定するためのものだろう。古く、使い込まれ、だが手入れされている。
ここで映像を見た者は、ただ鑑賞していたのではない。
見せられていた。
Aの背筋が冷えた。
Jは棚のほうへ行き、フィルム缶を調べた。
「Gはここへ来た」
Aは驚いた。
「なぜわかるんです」
Jは映写機の近くを杖で示した。
床に泥が残っていた。
拭かれてはいる。だが、石の隙間に赤黒い湿りが残っている。庭の花壇の土と似ている。Gの靴底についていた泥にも似ている。
さらに、映写機の横にある古い暗幕に、引っ掻いた跡があった。
爪で強く掴んだような跡。
Aは袖口の裏に隠した黒い繊維を思い出した。
ここだ。
Gが最後に掴んだのは、二号の黒いマスクではなく、この暗幕だったのかもしれない。
Aは暗幕へ近づいた。
指で触れようとして、やめた。これ以上、証拠を乱してはいけない。
暗幕の布は厚く、古く、埃っぽい。Gの爪に挟まっていた黒い繊維と、質感が近い。
「Gさんは、ここで何を見たんですか」
「さあ」
Jは棚から一本のフィルムを取り出した。
「でも、それを見たあとで落ちた。あるいは、落とされた。歩かされた」
Aは映写機の近くの壁時計を見た。
止まっている。
七時四十七分。
Aは懐からGの腕時計を取り出した。
同じ時刻。
Jが壁時計を見る。
「やはりね」
「知っていたんですか」
「この部屋の機械は、ときどき時計を止める。古い磁気装置か、何かの仕掛けか。詳しい理屈は知らない。でも、この部屋に近づいた時計は、同じ時刻で狂うことがある」
「七時四十七分」
「この部屋が覚えている時刻だ」
Aは時計を握った。
Gの時計が示していたのは、死亡時刻ではない。
Gがここにいた時刻。
ここで何かを見せられた時刻。
あるいは、この部屋の機械に時間を止められた時刻。
死者の時計は嘘つきだと、Jは言った。
だが、その嘘は真実の場所を指していた。
Jはフィルム缶を光にかざした。
ラベルは一部剥がれている。
読める文字は断片だけ。
白峰
舞踏
七時四十七分
記録
V
X
Aは息を呑んだ。
「見るかい?」
Jが問う。
Aはすぐには答えなかった。
Mは言った。まだ地下へ行かせるわけにはいかない。
Sは言った。母の名を呼ぶな。
Jは言った。見るな、今はまだ。
それでも、ここまで来た。
見なければ、何も進まない。
「見ます」
Aは言った。
Jは映写機にフィルムをかけた。
機械が動き出す。
かた。
かた。
かた。
悪夢と同じ音が、部屋に満ちた。
スクリーンに光が走る。
白い面に、ざらついた映像が浮かんだ。
最初に映ったのは、若い女だった。
Aはすぐにわからなかった。
だが、唇で気づいた。
マダム・ヴィー。
今より若い。車椅子ではない。歩いている。黒いベールも今ほど重くない。赤いルージュは薄く、唇はまだ誰かの記号を奪い取る前のように見えた。
彼女は美しかった。
だが、女帝ではなかった。
むしろ、怯えているようにも見えた。背筋は伸びているが、肩がわずかに硬い。誰かの指示を待つように視線が動く。
その隣に、黒い獣の仮面をつけた男がいた。
領主X。
そう直感した。
夢の中の魔獣。硬質な輪郭。角のような飾り。人間の身体。獣の顔。仮面の奥の、見えない目。
男は若いマダム・ヴィーの肩に手を置いた。
優雅な仕草だった。
だが、所有の仕草でもあった。
Aの胸がざわつく。
映像が乱れる。
次に、三人の女性が映った。
一人は、赤い唇の女に似ていた。
Aは呼吸を忘れた。
母だ。
確信に近いものがあった。顔はフィルムの傷で一部欠けている。映像は荒い。だが、口元、顎の線、首を傾ける仕草。夢の中の女と重なる。
その左右に、よく似た二人の少女、あるいは若い女がいた。
一人は泣いているように見える。
一人は領主Xを睨んでいるように見える。
S。
M。
そう思った。
けれど、映像だけではわからない。
三人は白い衣装を着せられていた。侍女のようにも見える。花嫁のようにも見える。儀式の参加者のようにも見える。立ち位置のせいで、赤い唇の女が主で、左右の二人が付き添いのようにも見えた。
だが、顔立ちは似ている。
血縁か。
同じ顔に作られたのか。
同じ役を与えられたのか。
映像は答えない。
音声は欠けている。
かた、かた、かた。
次の映像へ飛んだ。
廊下。
炎。
幼い子ども。
女がその手を引いている。
白いリボン。
小さな鍵。
Aは、自分の掌に鍵の感触を思い出した。
背後に、黒い獣の仮面の影がある。さらに奥に、若いマダム・ヴィーの姿。彼女は扉のそばに立っている。
開けているのか。
閉めているのか。
助けているのか。
逃亡を阻もうとしているのか。
音声は途切れ途切れだった。
「……連れて……」
「……逃げ……」
「……名前を……」
「……置いて……」
「……戻っては……」
Aは混乱した。
母は自分を連れて逃げたのか。
それとも、何かを奪って逃げたのか。
若いマダム・ヴィーは味方だったのか。
それとも、逃げ道を閉ざしたのか。
映像が焼けるように白くなる。
フィルムの傷が走る。
スクリーンに、幼いAらしき子どもの顔が映った。
顔が、見えない。
フィルムの傷で削れている。
ちょうど顔の部分だけが、焼け落ちたように欠けている。
Aは息ができなくなった。
まただ。
鏡がない。
自分の顔が見えない。
映像の中でも、自分の顔だけが欠けている。
仮面の内側が熱くなる。
首元の痕が疼く。喉の脇が焼ける。視界が赤く染まる。映写機の光が白い仮面にちらちら反射し、目の奥に入り込んでくる。
Aは膝をついた。
Jが映写機を止めようとした。
だが、機械は止まらない。
かた、かた、かた。
勝手に回り続ける。
スクリーンでは、幼い子どもの欠けた顔が、赤い光の中で揺れていた。
「見るな」
JがAを支えた。
「今はまだ」
Aは苦しみながら言った。
「あなたも、そう言うんですね」
Mも。
Sも。
Jも。
まだ。
見るな。
呼ぶな。
触るな。
誰も最後まで見せない。
「いつなら、見ていいんですか」
Jは答えなかった。
映写機が、ようやく止まった。
部屋に沈黙が戻る。
Aは荒く息をした。仮面の内側の熱は少しずつ引いていくが、首元の痕はまだ痛む。
JはしばらくAを支えていた。
それが不快だった。
助けられている。
だが、信用しきれない相手に支えられている。
Aは自分で立ち上がった。
「次は」
「まだ見るつもりかい」
「見に来たんです」
Jは少し笑った。
「本当に、この館にふさわしくなくなってきたね」
映写室を出て、さらに奥へ進む。
次の部屋は保存室だった。
Aは扉を開けた瞬間、嫌悪を覚えた。
そこには、人間の持ち物が並んでいた。
帽子。
手袋。
ドレス。
靴。
仮面。
名札。
写真。
手紙。
髪飾り。
壊れた時計。
子どものリボン。
小さな鍵。
番号札。
雑に置かれているのではない。
展示品のように並べられている。
小さな札がつき、布の上に置かれ、ガラスケースに収められているものもある。まるで美しい思い出の保存庫のようだった。
だが、ここにあるのは思い出ではない。
帰れなかった人間たちの痕跡だ。
Jが言った。
「彼女は、死体より遺品が好きだ。死体は腐る。遺品は、物語にできるから」
Aは寒気を覚えた。
マダム・ヴィーは、人間そのものを保存するのではない。人間から剥がした役割、名前、記号、痕跡を保存する。死者の席を消し、持ち物だけを飾る。人間を夢に変える。
Aは奥へ進んだ。
そこで、白いリボンを見つけた。
硝子の小さなケースの中にある。
古い。黄ばんでいる。だが、結び目の形に見覚えがあった。幼い手に握らされていたもの。銀の鍵に結ばれていたもの。
隣には、小さな鍵があった。
銀色。
掌に食い込むほど小さく、しかし確かな重みを持っていた記憶の鍵。
Aは手を伸ばした。
Jが止めた。
「触るな」
「これは、僕の記憶にあるものです」
「だから危険なんだ」
AはJの手を振り払った。
硝子ケースは完全には閉じられていなかった。隙間から指を入れる。白いリボンに触れる。
その瞬間、記憶が閃いた。
母の手。
温かい。
震えている。
けれど、強い。
幼いAの掌を開かせ、そこへ小さな鍵を握らせる。白いリボンが指に絡む。
忘れなさい。
でも、捨てないで。
背後で誰かが泣いている。
誰かが怒鳴っている。
若いマダム・ヴィーが扉を開けている。いや、閉めている。わからない。彼女の顔は映像よりも近く、唇には薄い赤。彼女は泣いていたのか、笑っていたのか。
母の赤い唇が動く。
いきなさい。
Aはリボンから手を離した。
膝が崩れそうになる。
Jが低く言った。
「これ以上は、領主Xの部屋を見ないと繋がらない」
「領主X」
Aは保存室の奥を見た。
そのとき、音が聞こえた。
車輪音ではない。
井戸の呻き声とも違う。
呼吸音。
古い寝台が軋むような音。喉の奥で笑うような、詰まった空気の音。あるいは、機械で誰かへ空気を送っているような音。
Aは振り返った。
Jの表情が変わっていた。
ここまで軽口を絶やさなかった男が、明確に嫌悪を見せている。
「何ですか」
Aは問うた。
Jは答えなかった。
「この館が、本当に隠したかったもの」
「領主X?」
沈黙。
それが答えだった。
保存室のさらに奥に、重い扉があった。
古い木と鉄でできた扉。鍵穴は大きく、錆びた金具に囲まれている。中央には、領主家の紋章らしきものが刻まれていた。獣の角のような意匠。黒い仮面を思わせる輪郭。
扉の向こうから、また呼吸音がした。
Aは一歩進んだ。
Jが腕を掴んだ。
「今夜はここまでだ」
「ここまで来て?」
「ここから先は、見ると戻れない」
「もう戻れません」
「そう思っているうちは、まだ戻れる」
Aは振り払おうとした。
そのとき、背後から足音がした。
軽い。
だが、いつもより乱れている。
二号だった。
彼女は地下へ降りてきていた。
黒いフェイスマスク。白いエプロン。白い手袋。だが、足元が震えている。禁じられた場所にいる恐怖が、顔ではなく、膝と指に出ていた。
「A様。お戻りください」
Aは驚いた。
「なぜ、ここまで」
二号は荒い呼吸を整えようとしていた。
「お館様が、A様をお探しです」
Jが低く言った。
「早いな」
二号はJを見た。
「J様。これ以上は、わたくしにも庇えません」
Aは、その言葉で理解した。
二号は止めに来たのではない。
庇いに来たのだ。
ここまで降りてくること自体が、彼女にとって危険なはずだった。それでも来た。Aが領主Xの扉の前で見つかる前に、地上へ戻すために。
二号はAへ向き直った。
「どうか、今は」
Aは領主Xの扉を見た。
知りたい。
扉の向こうに何がいるのか。
領主Xは生きているのか。
死体なのか。
置かれているものなのか。
呼吸音の正体は何なのか。
だが、ここで捕まれば、Mが罰を受けるかもしれない。Sが罰を受けるかもしれない。二号が地下まで来たことも、ただでは済まない。
Aは拳を握った。
今は引く。
だが、戻る。
必ず。
「……わかりました」
二号の肩が少しだけ下がった。
Jは何も言わなかった。
三人は地下を戻った。
仮面室を抜ける。映写室の前を通る。保存室の扉が閉まる。石段を上がる。湿った空気が少しずつ薄れ、代わりに地上の香水と蝋燭の匂いが戻ってくる。
赤い絨毯へ足を置いた瞬間、Aは違和感を覚えた。
地上は美しい。
燭台。赤い布。整った廊下。布に覆われた肖像画。二号の白いエプロン。Jの整ったスーツ。すべてが以前と同じ場所にある。
だが、もう同じには見えない。
赤い絨毯は、血を薄めた庭の砂利と繋がって見える。仮面の客人は、地下の仮面室に吊られていた殻と同じに見える。食卓の皿も、保存室の遺品も、同じ展示の一部に見える。
地上は舞台。
地下は舞台裏。
そして、どちらも同じ館だった。
Jは去り際に言った。
「次は領主Xだ。覚悟ができたらね」
Aは彼を見た。
「あなたは、僕に覚悟させたいんですか。それとも、怖がらせたいんですか」
Jは少し笑った。
「両方」
「相変わらず、半分だけですね」
「全部より安全だろう」
Jは杖をつき、廊下の奥へ消えていった。
こつ。
こつ。
こつ。
二号はAのそばに残っていた。
「A様」
「はい」
「今夜のことは」
「何も見ていなかった、ですね」
二号は答えなかった。
Aは小さく言った。
「ありがとう」
二号の手袋の指が、ほんの少しだけ震えた。
それから彼女は、いつものように頭を下げた。
「お休みなさいませ」
Aは自室へ戻った。
扉を閉める。
机の前に座る。
地下で触れた白いリボンの感触が、まだ指先に残っていた。実物は持ち出していない。だが、母の手の温度だけが、皮膚の奥に残っている。
Aは時計を取り出した。
七時四十七分。
地下は答えをくれなかった。
代わりに、答えの形をした映像と、顔の代わりに吊られた仮面と、母の手の感触だけを残した。
仮面室には、自分の仮面の予備があった。
つまり、自分は偶然の客人ではない。
映写室には、Gの泥跡と暗幕の傷があった。
つまり、Gは落下前にそこへ連れて来られた可能性が高い。
七時四十七分は、死亡時刻ではない。
映写室に関わる時刻だ。
映像には、母らしき女、SとMに似た二人、若いマダム・ヴィー、領主Xが映っていた。
だが、誰が助け、誰が止めたのかはわからない。
保存室には、母の記憶に繋がる白いリボンと鍵があった。
地下の奥には、領主Xの扉がある。
Aは仮面の内側で息を整えた。
次に開けるべき扉は、もう決まっている。
地上へ戻っても、Aの耳にはまだ映写機の音が残っていた。かた、かた、かた。まるで地下で止まった時間が、自分の仮面の内側で回り続けているようだった。




