表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/15

第10章 ― 領主Xの部屋

 地下で聞いた映写機の音が、まだ仮面の内側で鳴っていた。


 かた、かた、かた。


 実際には、部屋は静かだった。

 天蓋の下。鏡のない化粧台。筆記具のない机。厚いカーテン。七時四十七分で止まった柱時計。


 何も動いていない。


 それなのにAの耳には、あの古い機械が回る音が残っていた。暗い映写室。白いスクリーン。若いマダム・ヴィー。黒い獣の仮面をつけた男。三人の女。炎。幼い手。白いリボン。小さな鍵。


 映像は答えをくれなかった。


 むしろ、見たことで余計に混乱した。

 母らしき女は逃げていた。けれど、誰が助け、誰が止めたのかわからない。若いマダム・ヴィーは扉を開けていたようにも、閉めていたようにも見えた。SとMに似た二人は、母の付き添いにも、同じ血の者にも、儀式に並べられた供物にも見えた。


 そして、領主X。


 地下の奥の扉。

 扉の向こうから聞こえた、呼吸とも機械音ともつかない音。


 Aは机の前に座っていた。


 懐にはGの壊れた時計。襟の内側には帽子から見つけた紙片。袖口には黒い繊維。赤い花壇の土を包んだ布も、まだ持っている。


 持ち物だけが増えていく。


 だが、名前は戻らない。

 顔も見えない。


 地下で見た仮面室には、Aに似せた白い仮面がいくつも並んでいた。自分は偶然運び込まれた客ではない。あの館は、もっと前からAを待っていた。子ども用の小さな仮面まであった。


 あれは誰のものなのか。


 幼いAのものなのか。

 それとも、Aになる前の誰かのものなのか。


 Aは仮面の縁を指でなぞった。


 この下にある顔を、まだ自分は知らない。


 Sの素顔はMに似ていた。Mは母に似ていた。ならば、自分の顔は誰に似ているのか。


 もし顔が血を語るなら、鏡がない理由はそこにある。


 考え続けるほど、仮面の内側が熱を持ちそうになった。Aは深く息を吸い、ゆっくり吐く。Mの紅茶の苦みはもう消えているはずなのに、喉の奥にまだ青い薬草の残り香があるような気がした。


 すぐに地下へ戻るべきではない。


 二号が庇った。

 彼女は禁じられた場所まで降りてきて、「これ以上は、わたくしにも庇えません」と言った。


 あの言葉は嘘ではなかった。


 Aがまた地下へ行けば、二号が罰を受けるかもしれない。Mも、Sも、Jも。誰かがAを助けたことにされる。あるいは、誰かがAを止めなかったことにされる。


 この館では、真実に近づいた本人より、その真実を渡した者が先に罰を受ける。


 Sの言葉が胸に残っていた。


 それでも、領主Xの扉を見なければならない。


 Aが迷っていたときだった。


 扉の下で、紙が擦れる音がした。


 Aは顔を上げた。


 白い扉の下。絨毯との隙間から、小さな紙片が差し込まれている。


 誰かの手は見えない。

 足音もない。


 ただ、紙片だけが、こちら側へ押し込まれていた。


 Aは立ち上がり、扉へ近づいた。しばらく耳を澄ます。廊下は静かだった。二号の気配も、召使いたちの足音も、Jの杖音も聞こえない。


 紙片を拾う。


 そこには、文字ではなく図が描かれていた。


 地下の通路。


 仮面室。

 映写室。

 保存室。

 奥の扉。


 線は簡素だが、迷わないだけの情報はある。隠し扉から石段を降り、左へ曲がり、番号札のついた扉を通り過ぎ、保存室の奥へ。


 図の端に、小さく一文字。


 X。


 Aは紙を鼻先へ近づけた。


 わずかに紅茶の香りがする。


 だが、それがJの紅茶なのか、Mの紅茶なのか判断できなかった。ベルガモットのようでもあり、薬草を混ぜた茶葉のようでもある。もっと言えば、その両方の香りをわざと重ねたようにも思える。


 誰が差し込んだのか。


 J。

 二号。

 M。

 S。


 あるいは、その誰でもない誰か。


 Aは紙片を握った。


 導かれているのか。

 罠に呼ばれているのか。


 その二つは、この館ではいつも同じ顔をしている。


 Aは扉を開けた。


 廊下に二号がいた。


 いつもの位置だった。いつものように、壁際に静かに立っている。黒いフェイスマスク。白いエプロン。白い手袋。だが、Aの手元の紙片を見ても、彼女は何も言わなかった。


「これを置いたのは、あなたですか」


 二号は答えない。


「違うなら、止めるはずです」


 二号は、しばらく沈黙した。


 それから、静かに言った。


「今夜は、見回りが少のうございます」


 それだけだった。


 Aは理解した。


 二号は直接協力できない。

 だが、行ける時間を教えている。


「ありがとう」


 二号の黒いマスクの下で、唇がわずかに動いた。


「わたくしは、何もしておりません」


 前に彼女は、何も見ておりませんと言った。


 今度は、何もしていないと言う。


 どちらも、礼儀の形をしている。けれど、その内側には、番号で呼ばれる女の小さな反抗がある。


 Aは頷いた。


「では、何も聞きません」


 二号は目を伏せた。


 Aは歩き出した。


 隠し扉のある廊下まで、誰にも会わなかった。いや、遠くに召使いの影はあった。けれど、彼らは見ていないふりをした。見回りが少ない、という二号の言葉は正しかった。


 外された肖像画の跡が残る壁の前で、Aは立ち止まった。


 Jが触れていた小さな金具を探す。指先が壁紙の凹凸をなぞる。焦ると見つからない。落ち着け、と自分に言い聞かせる。


 やがて、硬い金具に触れた。


 押す。


 かちり。


 壁が沈み、隠し扉が開く。


 石段が現れた。


 地下の冷気が上がってくる。


 Aは一人で降りた。


 前にJと二号がいたときより、石段はずっと暗く感じた。鉄の手すりは冷たく、湿った壁には指が吸い付くようだった。足音が石に反響する。赤い絨毯はない。燭台の装飾もない。ただ、地下の実務的な冷たさだけがある。


 配管の音が遠くで鳴っている。


 水が流れるような音。

 どこかで金属が膨張するような音。

 そして、時折、甘い香りが薄く漂う。


 赤い花と同系統の匂い。


 Aは呼吸を浅くした。


 仮面室の前を通る。


 扉は閉じている。だが、その奥で壁一面の仮面がこちらを見ているような気がした。自分に似た白い仮面。子ども用の仮面。召使いたちの黒いフェイスマスク。Jの古い仮面。


 顔の代用品たち。


 映写室の前を通る。


 中は暗いはずだった。機械は止まっているはずだった。それなのに、扉の向こうから、かた、かた、と音がしたような気がした。


 Aは足を止めそうになった。


 気のせいだ。


 そう思おうとするほど、耳の奥で音が強くなる。


 かた。

 かた。


 彼は歩き出した。


 保存室の前を通る。


 白いリボンの感触が、指先に蘇った。母の手。小さな鍵。忘れなさい、でも捨てないで。実物は持ち出していない。それでも、触れた記憶だけが身体に残っている。


 奥の扉へ向かった。


 そこに、Jがいた。


 壁にもたれ、杖を片手に、まるで最初からその場所でAを待っていたように立っている。白手袋は暗闇の中で妙に浮かび、杖の先は石床に静かに立てられていた。


「遅かったね」


 Aは警戒して立ち止まった。


「あなたが紙を?」


 Jは笑った。


「ボクはもっと趣味の悪い誘い方をする」


「では、誰が」


「さあ。ボクではない、ということだけは言っておこう。信じるかは君の半分に任せる」


「あなたは、なぜここにいるんです」


「君が来ると思ったから」


「それは答えになっていません」


「この館では、答えになる言葉ほど早く死ぬ」


 Aは小さく息を吐いた。


「鍵は」


 Jの笑みが少し薄くなる。


「ある」


 目の前には、領主Xの扉があった。


 古い木と鉄で作られた重い扉。中央には領主家の紋章らしきものが刻まれている。だが、その一部は削られていた。獣の角のような意匠が、途中で刃物によって抉られている。


 鍵穴は古い。大きく、錆びた金具に囲まれている。


 扉の下から、薬品と古い布の匂いが漏れていた。


 Aは耳を澄ませた。


 中から、微かな音がする。


 呼吸音のようにも聞こえる。

 機械音のようにも聞こえる。

 寝台が軋む音のようにも聞こえる。


「生きているんですか」


 Aは問うた。


 Jは扉を見たまま言った。


「そこから先は、見てから決めればいい」


 Aはドアノブに手をかけた。


 動かない。


 鍵がかかっている。


 Jは懐から古い鍵を取り出した。


 Aは彼を睨んだ。


「持っていたんですね」


「持たされていた、と言うべきかな。昔、ここへ通うために」


「通う?」


「その話は、扉の向こうの空気を吸ってからのほうが似合う」


 Aは手を出した。


 Jは鍵を渡さなかった。


「君が開けると、戻れなくなる。ボクが開けるなら、まだ言い訳ができる」


「もう、言い訳はいりません」


 JはしばらくAを見た。


 仮面越しの視線。いつもの軽薄さは薄れ、何かを測っているようだった。


 やがて、彼は鍵をAの掌に落とした。


 古い金属の重さがあった。


 Aは鍵穴に差し込んだ。


 指が震えていることに気づいた。恐怖か。怒りか。期待か。自分でもわからない。


 鍵を回す。


 重い音がした。


 扉が開いた。


 中は、寝室であり、病室であり、保存室でもあった。


 重いカーテンが垂れ、窓は完全に塞がれている。古い寝台。薬品棚。埃をかぶった医療器具。黄ばんだ手袋。古い義足。銀の盆。使われていないワイングラス。壁には肖像画。


 部屋全体に、薬品と乾いた布と、古い身体の匂いがこもっていた。


 中央の寝台に、老人がいた。


 領主X。


 そう呼ぶ以外に、Aには言葉がなかった。


 老人は、死体のようにも見えた。


 だが、完全な死体ではないようにも見えた。


 細い腕。蝋のような肌。動かない瞼。片手だけにはめられた黄ばんだ手袋。首元には古い拘束痕のようなものがある。寝台の周囲には、生命維持装置にも、保存処置にも見える器具が置かれていた。


 胸は、ごくわずかに上下しているように見える。


 いや、機械の動きで布が揺れているだけかもしれない。


 Aは思った。


 これは、生かされているのか。

 死なせてもらえないのか。

 あるいは、もう死んでいるのに、生きている形だけを保存されているのか。


 Jが低く言った。


「これが、夢の館の本当の主だったものだ」


「だったもの?」


「人間かどうかは、もう彼自身にもわからないだろう」


 Aは寝台へ近づいた。


 領主Xの顔は痩せこけていた。だが、骨格には不自然な優雅さが残っている。若い頃に人を見下ろすために作られた顔が、老いて乾き、それでもまだ部屋の中心に置かれている。


 口元だけが、かすかに笑っているようにも見えた。


 Aは視線を壁へ移した。


 肖像画があった。


 若い頃の領主X。


 黒い獣の仮面。優雅な礼装。片手には白い手袋。口元には穏やかな笑み。悪夢の魔獣の影と、映像で見た仮面の輪郭が一致する。


 だが、目元だけが切り取られていた。


 誰かが刃物で抉ったように、肖像の目だけが失われている。穴の向こうには暗い壁が見えた。見る者だった男から、見るための場所だけが奪われている。


「誰が、目を切り取ったんです」


 Jは肖像画を見上げた。


「さあ。マダム・ヴィーか。Sか。Mか。あるいは、彼に見られ続けた誰か全員かもしれない」


 肖像画の下には、外された額縁の跡があった。


 地上の廊下にあった空白が思い出される。あの場所から外された領主Xの肖像。あるいは、同じ構図の肖像。その片割れが、今ここに隠されている。


 マダム・ヴィーは領主Xを消したのではない。


 見えない場所へ押し込め、なお保存している。


 Aは部屋の机へ向かった。


 古い手記があった。


 表紙には領主家の紋章。ページは黄ばんでいる。一部は破られ、一部は赤黒く染みていた。紙からは、古い香水と薬品の匂いがした。


 Jは触れなかった。


「読めばいい」


「あなたは読まないんですか」


「もう何度も読まされた」


 その言葉に、Aはページをめくる手を止めた。


 読まされた。


 ここでもまた、見ることは自由ではなかった。


 Aは手記を開いた。


 文字は美しかった。


 整い、流れ、まるで詩のようだった。


 だが、内容は異常だった。


『名を剥げば、人は軽くなる。己であることの重みから、ようやく解かれる』


『顔を隠せば、ようやく美が見える。個人の醜い偶然を覆い、輪郭だけを残すこと。それが保存の第一歩である』


『欠けたものだけが、永遠に保存できる。完全なものは老いる。欠落したものだけが、時の外に置ける』


『人は、自分であることに疲れている。だから、私が外してやる』


『夢とは、本人が望まなかった自由の名である』


 Aは吐き気を覚えた。


 これは、マダム・ヴィーの言葉に似ている。


 静養。

 夢。

 忘却は救い。

 名前など必要ない。

 顔など、あなたを縛るだけ。


 監禁をもてなしと呼ぶ。

 忘却を優しさと呼ぶ。

 名前を剥ぐことを軽くすると呼ぶ。

 仮面を自由と呼ぶ。


 Aは震えた。


「これは……マダム・ヴィーの言葉じゃない」


 Jは静かに言った。


「彼女が最も憎んだ男の言葉だ」


 Aは手記を握りしめそうになり、こらえた。


 紙が破れそうだった。


「彼女は、これを知っているんですか」


「知りすぎた。浴びすぎた。憎みすぎた。たぶん、区別がつかなくなった」


 Aはさらにページをめくった。


 後半には名簿があった。


 だが、人名ではない。


 V。


 J。


 S。


 M。


 知らない文字。番号の列。


 黒線で塗りつぶされた本名らしき痕跡。削られた姓。消された出生地。人間が、記号に置き換えられている。


 さらに古い記録の中に、三つ並んだ記号があった。


 M-1。

 M-2。

 M-3。


 その横に、かすかに読める文字。


 白峰。


 Aの指が止まった。


 白峰の三姉妹。


 Gのメモ。

 Sの動揺。

 Mの言えなかった名前。

 Sの素顔。


 すべてがそこへ繋がりかける。


 だが、記録は完全ではなかった。本名の欄は黒く塗りつぶされている。三つの記録のうち、一つにはAともMとも読める奇妙な記号が振られていた。ある箇所には、赤い染みが文字を潰している。


 Aは混乱した。


 Aは自分に与えられた文字だと思っていた。


 だが、過去にも同じ文字を与えられた者がいたのかもしれない。


 自分の母も、この屋敷では本名を奪われ、記号で呼ばれていた可能性がある。


「僕の母も、ここで名前を奪われたんですか」


 Jは答えた。


「少なくとも、奪われかけた」


「SとMも?」


 Jは黙った。


 それで十分だった。


 Aはさらにページをめくった。


 そこには歩行についての記録があった。


 部屋の隅に、古い義足があることに気づく。


 埃を被っている。装飾的で、美しい。だが、実用のためというより、展示するために作られたように見えた。金具には繊細な彫刻があり、革紐は古く乾いている。


 Aはマダム・ヴィーの車椅子を思い出した。


 銀の車輪。重いドレス。片脚を隠す布。


 手記には、婉曲な言葉が並んでいた。


『不完全な歩行は、美を止める』


『彼女は逃げるには美しすぎた』


『片方を奪えば、もう片方は永遠にこちらへ向く』


『歩けぬものは、館そのものを歩かせればよい』


 Aは意味を理解してしまった。


 具体的な描写はない。方法も書かれていない。だが、残された器具、義足、手記の言葉、現在のマダム・ヴィーの車椅子。


 それだけで十分だった。


 領主Xは、若いマダム・ヴィーの身体を壊した。


 逃げられないように。

 保存するために。

 美を止めるために。


 Jが低く言った。


「彼女は、歩けなくされた。だから今、館全体を足にしている」


 Aは寒気を覚えた。


 マダム・ヴィーは廊下を歩かない。車輪で移動する。だが、召使いたちが動く。二号が動く。三号が動く。Gの死体が運ばれる。井戸へ袋が落とされる。地下の扉が開く。館そのものが、彼女の身体の延長のように動いている。


「あなたも、ここで何かを奪われたんですか」


 AはJに問うた。


 Jはいつものように笑おうとした。


 だが、笑えなかった。


 彼は古い仮面を思い出すように、部屋の暗がりへ視線を向けた。領主Xの手記。寝台の老人。目を切り取られた肖像画。


「ボクはね、もともと舞台の人間だった」


 Jは言った。


「仮面舞踏会、匿名のサロン、上流階級の秘密。そういうものを、面白がる側にいた。名前を捨てる遊びも、顔を隠す快楽も、舞台装置としては悪くなかった」


「だから、この館へ?」


「招かれた。好奇心で来た。取材と言ってもいいし、演出のための下見と言ってもいい。要するに、自分は観客でいられると思っていたんだ」


 Jは白手袋の指を見た。


「でも、マダム・ヴィーに気に入られた。客人は、ある日から所有物になった。ボクは地下の映写室で、自分の過去を何度も見せられた。演じてきた役。捨てた名前。愛した顔。逃げた客席。そういうものを、順番を壊して、音を抜いて、何度も何度もね」


 Aは映写室の椅子を思い出した。


 革の拘束具。


「顔を隠され、名前を剥がされ、自分が演じてきた役と本当の自分の区別を壊された」


 Jは笑った。


 今度は、少しだけ笑えた。


「その結果が、今のJだ」


「あなたは、彼女の被害者なんですね」


「それだけじゃ綺麗すぎる。ボクはこの館を面白がっていた。舞台として。遊びとして。人の秘密を覗く装置として。その結果、舞台に引きずり込まれた」


 彼は杖を軽く床へついた。


「ボクは彼女の失敗作だ。壊れたけれど、従順にはならなかった」


「だから復讐を?」


 Jは口元を歪めた。


「復讐なんて、まっすぐな言葉は似合わない。ボクはただ、彼女の舞台を台無しにしたいだけだ」


 その言葉は、軽く聞こえた。


 だが、軽さの下に、乾いた憎しみがあった。


 そのとき、寝台の老人が動いた。


 そう見えた。


 黄ばんだ手袋の指が、微かに震えたように見えた。


 Aは息を呑んだ。


 領主Xの口元がわずかに開く。


 乾いた音が漏れた。


「……名……」


 Aは近づこうとした。


 Jが腕を掴む。


「近づくな」


 老人の唇がまた動く。


「……軽く……」


 Aは手記の言葉を思い出した。


 名を剥げば、人は軽くなる。


 領主Xは、今もその言葉を繰り返しているのか。

 それとも、マダム・ヴィーに同じ言葉を浴びせられ続けた残響なのか。


 さらに、かすれた声。


「……顔……欠け……美……」


 Aの背筋が凍った。


 支配者ではなくなっても、彼の言葉はまだ生きている。

 彼自身が人間であるかどうかは曖昧なのに、その思想だけが、部屋の空気にこびりついている。


 Aは手記を見た。義足を見た。目を切り取られた肖像画を見た。寝台に置かれた領主Xを見た。


 そして、理解した。


 領主Xはかつてマダム・ヴィーを所有した。


 名前を奪い、顔を隠し、身体を壊し、美として保存しようとした。


 その後、マダム・ヴィーは領主Xを支配し返した。


 彼を地下に置いた。肖像の目を切り取った。地上から彼の名を消した。自分の肖像を飾ろうとした。屋敷の主の座を奪った。


 だが、自由になったわけではない。


 彼女は領主Xの言葉を受け継いだ。


 憎んだ男の思想を、今度は他者へ向ける側になった。


「彼女は、彼を倒したんじゃない」


 Aは言った。


「彼になったんだ」


 Jは静かに答えた。


「それを本人に言うと、怒るよ」


「怒るなら、まだ救いがあります」


 Jは少しだけ笑った。


「君は残酷だね」


「残酷なのは、この館です」


「館は人を映すだけだよ。もっとも、ここでは鏡が外されているけれどね」


 Aは手記の最後のほうを開いた。


 文字はさらに乱れていた。一部は破られ、一部は塗りつぶされている。だが、読める断片がある。


『白峰の女が逃げた』


『子を連れて』


『血は戻る』


『Aの系譜』


『有栖……』


『正当な継承』


『夢の館は、血を忘れない』


 Aの指が震えた。


 有栖。


 それは、Gのメモにあった断片と重なる。


 Ak。

 Ari。


 Aという文字。

 自分に与えられた仮名。

 始まりの文字。


 AはJを見た。


「僕は、こいつの子孫なんですか」


 Jは答えなかった。


「マダム・ヴィーは、それを知っている?」


 Jはゆっくり言った。


「知っているから、君をAと呼んだ」


 Aは胸の奥に怒りを覚えた。


 あの食卓。手の甲への接吻。赤いルージュ。

 始まりの文字ですもの、と微笑んだマダム・ヴィー。


 気まぐれではなかった。


 彼女は知っていた。


 Aの本名。母の逃亡。白峰の血。領主家の血。正当な継承。


 すべてを知ったうえで、Aという一文字を与えた。


「僕は後継者じゃない」


 Aは言った。


 Jは静かに答えた。


「まだね」


 その「まだ」に、Aはぞっとした。


 次の瞬間、廊下の向こうから音がした。


 きい。


 銀の車輪。


 Aは凍った。


 マダム・ヴィーの音。


 きい。

 ころ。


 近づいてくる。


 Aは手記を戻そうとした。


 Jが低く言った。


「遅い」


「あなたは、罠だと知っていたんですか」


「半分だけ」


 Aは睨んだ。


 だが、Jの顔にも余裕はなかった。彼も予想より早いと思っている。少なくとも、そう見えた。


 扉の外で、二号の声がした。


「お館様、お待ちください」


 Aは息を止めた。


 二号だ。


 彼女が時間を稼いでいる。


 マダム・ヴィーの声が、扉の外で柔らかく響いた。


「そこに、いらっしゃるのでしょう?」


 甘い声。


 薬のような声。


 扉越しなのに、赤い唇が見える気がした。


 Aは逃げ場を探した。


 領主Xの部屋には、奥に小さな扉があった。医師や召使いが使った通路かもしれない。壁と同じ色に塗られ、暗がりに隠れている。


 Jは手記を掴み、数枚だけ破った。


 紙が裂ける音がした。


「持っていけ。全部は無理だ」


 Aは紙片を受け取った。


 そこには、白峰三姉妹に関する断片と、有栖、正当な継承、血は戻る、という文字があった。


 Aはそれを懐へ隠した。


 車輪音が扉の前で止まる。


 二号の声。


「お館様、こちらは――」


「二号」


 マダム・ヴィーの声が、少しだけ低くなった。


「よくおどきなさい」


 沈黙。


 Aは扉を見る。


 Jが小さな隠し扉を開けた。


 暗い通路が現れる。


「行け」


「あなたは?」


 Jは笑った。


「ボクは叱られ慣れている」


 Aは躊躇した。


 Jが低く言う。


「行け。君が捕まるのは次でいい」


「次?」


「今捕まると、まだ舞台の準備が整っていない」


「あなたは本当に、最低ですね」


「知っている」


 背後で、領主Xの部屋の扉が開く音がした。


 JがAを押した。


 Aは隠し通路へ入った。


 背後で、マダム・ヴィーの声がした。


「J。悪い子」


 Jの声が返る。


「褒め言葉として受け取るよ」


 Aは狭い通路を進んだ。


 天井が低い。壁が湿っている。暗い。仮面の内側で息が熱くなる。懐には手記の紙片。胸元にはGの時計。自分の身体が、また証拠の隠し場所になっている。


 通路の先に薄い光が見えた。


 出口。


 Aはそこへ向かった。


 しかし、通路の先に待っていたのは出口ではなかった。


 黒いフェイスマスクが三つ。


 三号。四号。もう一人。


 そして、その後ろに巨漢の男が立っていた。


 庭の井戸で麻袋を落としていた男。


 Aは足を止めた。


 逃げ道もまた、用意されていた。


 背後で、マダム・ヴィーの甘い声がまだ響いている。


 Aはそのとき初めて、領主Xの部屋へ辿り着いたことさえ、マダム・ヴィーの夢の内側だったのだと知った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ