第10章 ― 領主Xの部屋
地下で聞いた映写機の音が、まだ仮面の内側で鳴っていた。
かた、かた、かた。
実際には、部屋は静かだった。
天蓋の下。鏡のない化粧台。筆記具のない机。厚いカーテン。七時四十七分で止まった柱時計。
何も動いていない。
それなのにAの耳には、あの古い機械が回る音が残っていた。暗い映写室。白いスクリーン。若いマダム・ヴィー。黒い獣の仮面をつけた男。三人の女。炎。幼い手。白いリボン。小さな鍵。
映像は答えをくれなかった。
むしろ、見たことで余計に混乱した。
母らしき女は逃げていた。けれど、誰が助け、誰が止めたのかわからない。若いマダム・ヴィーは扉を開けていたようにも、閉めていたようにも見えた。SとMに似た二人は、母の付き添いにも、同じ血の者にも、儀式に並べられた供物にも見えた。
そして、領主X。
地下の奥の扉。
扉の向こうから聞こえた、呼吸とも機械音ともつかない音。
Aは机の前に座っていた。
懐にはGの壊れた時計。襟の内側には帽子から見つけた紙片。袖口には黒い繊維。赤い花壇の土を包んだ布も、まだ持っている。
持ち物だけが増えていく。
だが、名前は戻らない。
顔も見えない。
地下で見た仮面室には、Aに似せた白い仮面がいくつも並んでいた。自分は偶然運び込まれた客ではない。あの館は、もっと前からAを待っていた。子ども用の小さな仮面まであった。
あれは誰のものなのか。
幼いAのものなのか。
それとも、Aになる前の誰かのものなのか。
Aは仮面の縁を指でなぞった。
この下にある顔を、まだ自分は知らない。
Sの素顔はMに似ていた。Mは母に似ていた。ならば、自分の顔は誰に似ているのか。
もし顔が血を語るなら、鏡がない理由はそこにある。
考え続けるほど、仮面の内側が熱を持ちそうになった。Aは深く息を吸い、ゆっくり吐く。Mの紅茶の苦みはもう消えているはずなのに、喉の奥にまだ青い薬草の残り香があるような気がした。
すぐに地下へ戻るべきではない。
二号が庇った。
彼女は禁じられた場所まで降りてきて、「これ以上は、わたくしにも庇えません」と言った。
あの言葉は嘘ではなかった。
Aがまた地下へ行けば、二号が罰を受けるかもしれない。Mも、Sも、Jも。誰かがAを助けたことにされる。あるいは、誰かがAを止めなかったことにされる。
この館では、真実に近づいた本人より、その真実を渡した者が先に罰を受ける。
Sの言葉が胸に残っていた。
それでも、領主Xの扉を見なければならない。
Aが迷っていたときだった。
扉の下で、紙が擦れる音がした。
Aは顔を上げた。
白い扉の下。絨毯との隙間から、小さな紙片が差し込まれている。
誰かの手は見えない。
足音もない。
ただ、紙片だけが、こちら側へ押し込まれていた。
Aは立ち上がり、扉へ近づいた。しばらく耳を澄ます。廊下は静かだった。二号の気配も、召使いたちの足音も、Jの杖音も聞こえない。
紙片を拾う。
そこには、文字ではなく図が描かれていた。
地下の通路。
仮面室。
映写室。
保存室。
奥の扉。
線は簡素だが、迷わないだけの情報はある。隠し扉から石段を降り、左へ曲がり、番号札のついた扉を通り過ぎ、保存室の奥へ。
図の端に、小さく一文字。
X。
Aは紙を鼻先へ近づけた。
わずかに紅茶の香りがする。
だが、それがJの紅茶なのか、Mの紅茶なのか判断できなかった。ベルガモットのようでもあり、薬草を混ぜた茶葉のようでもある。もっと言えば、その両方の香りをわざと重ねたようにも思える。
誰が差し込んだのか。
J。
二号。
M。
S。
あるいは、その誰でもない誰か。
Aは紙片を握った。
導かれているのか。
罠に呼ばれているのか。
その二つは、この館ではいつも同じ顔をしている。
Aは扉を開けた。
廊下に二号がいた。
いつもの位置だった。いつものように、壁際に静かに立っている。黒いフェイスマスク。白いエプロン。白い手袋。だが、Aの手元の紙片を見ても、彼女は何も言わなかった。
「これを置いたのは、あなたですか」
二号は答えない。
「違うなら、止めるはずです」
二号は、しばらく沈黙した。
それから、静かに言った。
「今夜は、見回りが少のうございます」
それだけだった。
Aは理解した。
二号は直接協力できない。
だが、行ける時間を教えている。
「ありがとう」
二号の黒いマスクの下で、唇がわずかに動いた。
「わたくしは、何もしておりません」
前に彼女は、何も見ておりませんと言った。
今度は、何もしていないと言う。
どちらも、礼儀の形をしている。けれど、その内側には、番号で呼ばれる女の小さな反抗がある。
Aは頷いた。
「では、何も聞きません」
二号は目を伏せた。
Aは歩き出した。
隠し扉のある廊下まで、誰にも会わなかった。いや、遠くに召使いの影はあった。けれど、彼らは見ていないふりをした。見回りが少ない、という二号の言葉は正しかった。
外された肖像画の跡が残る壁の前で、Aは立ち止まった。
Jが触れていた小さな金具を探す。指先が壁紙の凹凸をなぞる。焦ると見つからない。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
やがて、硬い金具に触れた。
押す。
かちり。
壁が沈み、隠し扉が開く。
石段が現れた。
地下の冷気が上がってくる。
Aは一人で降りた。
前にJと二号がいたときより、石段はずっと暗く感じた。鉄の手すりは冷たく、湿った壁には指が吸い付くようだった。足音が石に反響する。赤い絨毯はない。燭台の装飾もない。ただ、地下の実務的な冷たさだけがある。
配管の音が遠くで鳴っている。
水が流れるような音。
どこかで金属が膨張するような音。
そして、時折、甘い香りが薄く漂う。
赤い花と同系統の匂い。
Aは呼吸を浅くした。
仮面室の前を通る。
扉は閉じている。だが、その奥で壁一面の仮面がこちらを見ているような気がした。自分に似た白い仮面。子ども用の仮面。召使いたちの黒いフェイスマスク。Jの古い仮面。
顔の代用品たち。
映写室の前を通る。
中は暗いはずだった。機械は止まっているはずだった。それなのに、扉の向こうから、かた、かた、と音がしたような気がした。
Aは足を止めそうになった。
気のせいだ。
そう思おうとするほど、耳の奥で音が強くなる。
かた。
かた。
彼は歩き出した。
保存室の前を通る。
白いリボンの感触が、指先に蘇った。母の手。小さな鍵。忘れなさい、でも捨てないで。実物は持ち出していない。それでも、触れた記憶だけが身体に残っている。
奥の扉へ向かった。
そこに、Jがいた。
壁にもたれ、杖を片手に、まるで最初からその場所でAを待っていたように立っている。白手袋は暗闇の中で妙に浮かび、杖の先は石床に静かに立てられていた。
「遅かったね」
Aは警戒して立ち止まった。
「あなたが紙を?」
Jは笑った。
「ボクはもっと趣味の悪い誘い方をする」
「では、誰が」
「さあ。ボクではない、ということだけは言っておこう。信じるかは君の半分に任せる」
「あなたは、なぜここにいるんです」
「君が来ると思ったから」
「それは答えになっていません」
「この館では、答えになる言葉ほど早く死ぬ」
Aは小さく息を吐いた。
「鍵は」
Jの笑みが少し薄くなる。
「ある」
目の前には、領主Xの扉があった。
古い木と鉄で作られた重い扉。中央には領主家の紋章らしきものが刻まれている。だが、その一部は削られていた。獣の角のような意匠が、途中で刃物によって抉られている。
鍵穴は古い。大きく、錆びた金具に囲まれている。
扉の下から、薬品と古い布の匂いが漏れていた。
Aは耳を澄ませた。
中から、微かな音がする。
呼吸音のようにも聞こえる。
機械音のようにも聞こえる。
寝台が軋む音のようにも聞こえる。
「生きているんですか」
Aは問うた。
Jは扉を見たまま言った。
「そこから先は、見てから決めればいい」
Aはドアノブに手をかけた。
動かない。
鍵がかかっている。
Jは懐から古い鍵を取り出した。
Aは彼を睨んだ。
「持っていたんですね」
「持たされていた、と言うべきかな。昔、ここへ通うために」
「通う?」
「その話は、扉の向こうの空気を吸ってからのほうが似合う」
Aは手を出した。
Jは鍵を渡さなかった。
「君が開けると、戻れなくなる。ボクが開けるなら、まだ言い訳ができる」
「もう、言い訳はいりません」
JはしばらくAを見た。
仮面越しの視線。いつもの軽薄さは薄れ、何かを測っているようだった。
やがて、彼は鍵をAの掌に落とした。
古い金属の重さがあった。
Aは鍵穴に差し込んだ。
指が震えていることに気づいた。恐怖か。怒りか。期待か。自分でもわからない。
鍵を回す。
重い音がした。
扉が開いた。
中は、寝室であり、病室であり、保存室でもあった。
重いカーテンが垂れ、窓は完全に塞がれている。古い寝台。薬品棚。埃をかぶった医療器具。黄ばんだ手袋。古い義足。銀の盆。使われていないワイングラス。壁には肖像画。
部屋全体に、薬品と乾いた布と、古い身体の匂いがこもっていた。
中央の寝台に、老人がいた。
領主X。
そう呼ぶ以外に、Aには言葉がなかった。
老人は、死体のようにも見えた。
だが、完全な死体ではないようにも見えた。
細い腕。蝋のような肌。動かない瞼。片手だけにはめられた黄ばんだ手袋。首元には古い拘束痕のようなものがある。寝台の周囲には、生命維持装置にも、保存処置にも見える器具が置かれていた。
胸は、ごくわずかに上下しているように見える。
いや、機械の動きで布が揺れているだけかもしれない。
Aは思った。
これは、生かされているのか。
死なせてもらえないのか。
あるいは、もう死んでいるのに、生きている形だけを保存されているのか。
Jが低く言った。
「これが、夢の館の本当の主だったものだ」
「だったもの?」
「人間かどうかは、もう彼自身にもわからないだろう」
Aは寝台へ近づいた。
領主Xの顔は痩せこけていた。だが、骨格には不自然な優雅さが残っている。若い頃に人を見下ろすために作られた顔が、老いて乾き、それでもまだ部屋の中心に置かれている。
口元だけが、かすかに笑っているようにも見えた。
Aは視線を壁へ移した。
肖像画があった。
若い頃の領主X。
黒い獣の仮面。優雅な礼装。片手には白い手袋。口元には穏やかな笑み。悪夢の魔獣の影と、映像で見た仮面の輪郭が一致する。
だが、目元だけが切り取られていた。
誰かが刃物で抉ったように、肖像の目だけが失われている。穴の向こうには暗い壁が見えた。見る者だった男から、見るための場所だけが奪われている。
「誰が、目を切り取ったんです」
Jは肖像画を見上げた。
「さあ。マダム・ヴィーか。Sか。Mか。あるいは、彼に見られ続けた誰か全員かもしれない」
肖像画の下には、外された額縁の跡があった。
地上の廊下にあった空白が思い出される。あの場所から外された領主Xの肖像。あるいは、同じ構図の肖像。その片割れが、今ここに隠されている。
マダム・ヴィーは領主Xを消したのではない。
見えない場所へ押し込め、なお保存している。
Aは部屋の机へ向かった。
古い手記があった。
表紙には領主家の紋章。ページは黄ばんでいる。一部は破られ、一部は赤黒く染みていた。紙からは、古い香水と薬品の匂いがした。
Jは触れなかった。
「読めばいい」
「あなたは読まないんですか」
「もう何度も読まされた」
その言葉に、Aはページをめくる手を止めた。
読まされた。
ここでもまた、見ることは自由ではなかった。
Aは手記を開いた。
文字は美しかった。
整い、流れ、まるで詩のようだった。
だが、内容は異常だった。
『名を剥げば、人は軽くなる。己であることの重みから、ようやく解かれる』
『顔を隠せば、ようやく美が見える。個人の醜い偶然を覆い、輪郭だけを残すこと。それが保存の第一歩である』
『欠けたものだけが、永遠に保存できる。完全なものは老いる。欠落したものだけが、時の外に置ける』
『人は、自分であることに疲れている。だから、私が外してやる』
『夢とは、本人が望まなかった自由の名である』
Aは吐き気を覚えた。
これは、マダム・ヴィーの言葉に似ている。
静養。
夢。
忘却は救い。
名前など必要ない。
顔など、あなたを縛るだけ。
監禁をもてなしと呼ぶ。
忘却を優しさと呼ぶ。
名前を剥ぐことを軽くすると呼ぶ。
仮面を自由と呼ぶ。
Aは震えた。
「これは……マダム・ヴィーの言葉じゃない」
Jは静かに言った。
「彼女が最も憎んだ男の言葉だ」
Aは手記を握りしめそうになり、こらえた。
紙が破れそうだった。
「彼女は、これを知っているんですか」
「知りすぎた。浴びすぎた。憎みすぎた。たぶん、区別がつかなくなった」
Aはさらにページをめくった。
後半には名簿があった。
だが、人名ではない。
V。
J。
S。
M。
知らない文字。番号の列。
黒線で塗りつぶされた本名らしき痕跡。削られた姓。消された出生地。人間が、記号に置き換えられている。
さらに古い記録の中に、三つ並んだ記号があった。
M-1。
M-2。
M-3。
その横に、かすかに読める文字。
白峰。
Aの指が止まった。
白峰の三姉妹。
Gのメモ。
Sの動揺。
Mの言えなかった名前。
Sの素顔。
すべてがそこへ繋がりかける。
だが、記録は完全ではなかった。本名の欄は黒く塗りつぶされている。三つの記録のうち、一つにはAともMとも読める奇妙な記号が振られていた。ある箇所には、赤い染みが文字を潰している。
Aは混乱した。
Aは自分に与えられた文字だと思っていた。
だが、過去にも同じ文字を与えられた者がいたのかもしれない。
自分の母も、この屋敷では本名を奪われ、記号で呼ばれていた可能性がある。
「僕の母も、ここで名前を奪われたんですか」
Jは答えた。
「少なくとも、奪われかけた」
「SとMも?」
Jは黙った。
それで十分だった。
Aはさらにページをめくった。
そこには歩行についての記録があった。
部屋の隅に、古い義足があることに気づく。
埃を被っている。装飾的で、美しい。だが、実用のためというより、展示するために作られたように見えた。金具には繊細な彫刻があり、革紐は古く乾いている。
Aはマダム・ヴィーの車椅子を思い出した。
銀の車輪。重いドレス。片脚を隠す布。
手記には、婉曲な言葉が並んでいた。
『不完全な歩行は、美を止める』
『彼女は逃げるには美しすぎた』
『片方を奪えば、もう片方は永遠にこちらへ向く』
『歩けぬものは、館そのものを歩かせればよい』
Aは意味を理解してしまった。
具体的な描写はない。方法も書かれていない。だが、残された器具、義足、手記の言葉、現在のマダム・ヴィーの車椅子。
それだけで十分だった。
領主Xは、若いマダム・ヴィーの身体を壊した。
逃げられないように。
保存するために。
美を止めるために。
Jが低く言った。
「彼女は、歩けなくされた。だから今、館全体を足にしている」
Aは寒気を覚えた。
マダム・ヴィーは廊下を歩かない。車輪で移動する。だが、召使いたちが動く。二号が動く。三号が動く。Gの死体が運ばれる。井戸へ袋が落とされる。地下の扉が開く。館そのものが、彼女の身体の延長のように動いている。
「あなたも、ここで何かを奪われたんですか」
AはJに問うた。
Jはいつものように笑おうとした。
だが、笑えなかった。
彼は古い仮面を思い出すように、部屋の暗がりへ視線を向けた。領主Xの手記。寝台の老人。目を切り取られた肖像画。
「ボクはね、もともと舞台の人間だった」
Jは言った。
「仮面舞踏会、匿名のサロン、上流階級の秘密。そういうものを、面白がる側にいた。名前を捨てる遊びも、顔を隠す快楽も、舞台装置としては悪くなかった」
「だから、この館へ?」
「招かれた。好奇心で来た。取材と言ってもいいし、演出のための下見と言ってもいい。要するに、自分は観客でいられると思っていたんだ」
Jは白手袋の指を見た。
「でも、マダム・ヴィーに気に入られた。客人は、ある日から所有物になった。ボクは地下の映写室で、自分の過去を何度も見せられた。演じてきた役。捨てた名前。愛した顔。逃げた客席。そういうものを、順番を壊して、音を抜いて、何度も何度もね」
Aは映写室の椅子を思い出した。
革の拘束具。
「顔を隠され、名前を剥がされ、自分が演じてきた役と本当の自分の区別を壊された」
Jは笑った。
今度は、少しだけ笑えた。
「その結果が、今のJだ」
「あなたは、彼女の被害者なんですね」
「それだけじゃ綺麗すぎる。ボクはこの館を面白がっていた。舞台として。遊びとして。人の秘密を覗く装置として。その結果、舞台に引きずり込まれた」
彼は杖を軽く床へついた。
「ボクは彼女の失敗作だ。壊れたけれど、従順にはならなかった」
「だから復讐を?」
Jは口元を歪めた。
「復讐なんて、まっすぐな言葉は似合わない。ボクはただ、彼女の舞台を台無しにしたいだけだ」
その言葉は、軽く聞こえた。
だが、軽さの下に、乾いた憎しみがあった。
そのとき、寝台の老人が動いた。
そう見えた。
黄ばんだ手袋の指が、微かに震えたように見えた。
Aは息を呑んだ。
領主Xの口元がわずかに開く。
乾いた音が漏れた。
「……名……」
Aは近づこうとした。
Jが腕を掴む。
「近づくな」
老人の唇がまた動く。
「……軽く……」
Aは手記の言葉を思い出した。
名を剥げば、人は軽くなる。
領主Xは、今もその言葉を繰り返しているのか。
それとも、マダム・ヴィーに同じ言葉を浴びせられ続けた残響なのか。
さらに、かすれた声。
「……顔……欠け……美……」
Aの背筋が凍った。
支配者ではなくなっても、彼の言葉はまだ生きている。
彼自身が人間であるかどうかは曖昧なのに、その思想だけが、部屋の空気にこびりついている。
Aは手記を見た。義足を見た。目を切り取られた肖像画を見た。寝台に置かれた領主Xを見た。
そして、理解した。
領主Xはかつてマダム・ヴィーを所有した。
名前を奪い、顔を隠し、身体を壊し、美として保存しようとした。
その後、マダム・ヴィーは領主Xを支配し返した。
彼を地下に置いた。肖像の目を切り取った。地上から彼の名を消した。自分の肖像を飾ろうとした。屋敷の主の座を奪った。
だが、自由になったわけではない。
彼女は領主Xの言葉を受け継いだ。
憎んだ男の思想を、今度は他者へ向ける側になった。
「彼女は、彼を倒したんじゃない」
Aは言った。
「彼になったんだ」
Jは静かに答えた。
「それを本人に言うと、怒るよ」
「怒るなら、まだ救いがあります」
Jは少しだけ笑った。
「君は残酷だね」
「残酷なのは、この館です」
「館は人を映すだけだよ。もっとも、ここでは鏡が外されているけれどね」
Aは手記の最後のほうを開いた。
文字はさらに乱れていた。一部は破られ、一部は塗りつぶされている。だが、読める断片がある。
『白峰の女が逃げた』
『子を連れて』
『血は戻る』
『Aの系譜』
『有栖……』
『正当な継承』
『夢の館は、血を忘れない』
Aの指が震えた。
有栖。
それは、Gのメモにあった断片と重なる。
Ak。
Ari。
Aという文字。
自分に与えられた仮名。
始まりの文字。
AはJを見た。
「僕は、こいつの子孫なんですか」
Jは答えなかった。
「マダム・ヴィーは、それを知っている?」
Jはゆっくり言った。
「知っているから、君をAと呼んだ」
Aは胸の奥に怒りを覚えた。
あの食卓。手の甲への接吻。赤いルージュ。
始まりの文字ですもの、と微笑んだマダム・ヴィー。
気まぐれではなかった。
彼女は知っていた。
Aの本名。母の逃亡。白峰の血。領主家の血。正当な継承。
すべてを知ったうえで、Aという一文字を与えた。
「僕は後継者じゃない」
Aは言った。
Jは静かに答えた。
「まだね」
その「まだ」に、Aはぞっとした。
次の瞬間、廊下の向こうから音がした。
きい。
銀の車輪。
Aは凍った。
マダム・ヴィーの音。
きい。
ころ。
近づいてくる。
Aは手記を戻そうとした。
Jが低く言った。
「遅い」
「あなたは、罠だと知っていたんですか」
「半分だけ」
Aは睨んだ。
だが、Jの顔にも余裕はなかった。彼も予想より早いと思っている。少なくとも、そう見えた。
扉の外で、二号の声がした。
「お館様、お待ちください」
Aは息を止めた。
二号だ。
彼女が時間を稼いでいる。
マダム・ヴィーの声が、扉の外で柔らかく響いた。
「そこに、いらっしゃるのでしょう?」
甘い声。
薬のような声。
扉越しなのに、赤い唇が見える気がした。
Aは逃げ場を探した。
領主Xの部屋には、奥に小さな扉があった。医師や召使いが使った通路かもしれない。壁と同じ色に塗られ、暗がりに隠れている。
Jは手記を掴み、数枚だけ破った。
紙が裂ける音がした。
「持っていけ。全部は無理だ」
Aは紙片を受け取った。
そこには、白峰三姉妹に関する断片と、有栖、正当な継承、血は戻る、という文字があった。
Aはそれを懐へ隠した。
車輪音が扉の前で止まる。
二号の声。
「お館様、こちらは――」
「二号」
マダム・ヴィーの声が、少しだけ低くなった。
「よくおどきなさい」
沈黙。
Aは扉を見る。
Jが小さな隠し扉を開けた。
暗い通路が現れる。
「行け」
「あなたは?」
Jは笑った。
「ボクは叱られ慣れている」
Aは躊躇した。
Jが低く言う。
「行け。君が捕まるのは次でいい」
「次?」
「今捕まると、まだ舞台の準備が整っていない」
「あなたは本当に、最低ですね」
「知っている」
背後で、領主Xの部屋の扉が開く音がした。
JがAを押した。
Aは隠し通路へ入った。
背後で、マダム・ヴィーの声がした。
「J。悪い子」
Jの声が返る。
「褒め言葉として受け取るよ」
Aは狭い通路を進んだ。
天井が低い。壁が湿っている。暗い。仮面の内側で息が熱くなる。懐には手記の紙片。胸元にはGの時計。自分の身体が、また証拠の隠し場所になっている。
通路の先に薄い光が見えた。
出口。
Aはそこへ向かった。
しかし、通路の先に待っていたのは出口ではなかった。
黒いフェイスマスクが三つ。
三号。四号。もう一人。
そして、その後ろに巨漢の男が立っていた。
庭の井戸で麻袋を落としていた男。
Aは足を止めた。
逃げ道もまた、用意されていた。
背後で、マダム・ヴィーの甘い声がまだ響いている。
Aはそのとき初めて、領主Xの部屋へ辿り着いたことさえ、マダム・ヴィーの夢の内側だったのだと知った。




