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第11章 ― 後継者

 最初に感じたのは、痛みではなかった。


 美しく整えられている、という屈辱だった。


 Aは目を開けた。


 赤と黒の部屋だった。


 壁は深い葡萄酒のような赤で覆われ、その上から黒い木枠が縦に走っている。床には古い絨毯が敷かれ、燭台の灯りを吸って暗く沈んでいた。天井は思ったより低い。そこから吊るされた小さなシャンデリアが、琥珀色の光をゆっくり揺らしている。


 食堂ほど広くはない。

 寝室ほど私的でもない。

 処置室のようであり、謁見室のようでもあり、小劇場の舞台裏のようでもあった。


 部屋の奥には、大きな椅子があった。


 領主の椅子か。

 玉座か。

 あるいは、誰かを飾るための台座か。


 Aは、その椅子に座らされていた。


 手足は乱暴に縛られてはいない。縄も鎖もない。けれど、肘掛けの内側に柔らかい革の拘束具があり、手首を逃がさないように留めている。足元も同じだった。革は上質で、肌を傷つけないよう内側に柔らかな布が当てられている。


 逃げられない。


 だが、傷つけられてはいない。


 それが、かえって恐ろしかった。


 Aは身体を動かそうとした。革がわずかに軋む。痛みはない。ただ、自由だけがない。暴力で押さえつけられているのではなく、礼儀正しく固定されている。


 服は整え直されていた。


 地下の隠し通路を走り、巨漢の男たちに捕らえられたはずだった。もみ合った記憶もある。腕を掴まれ、視界が黒いマスクに囲まれ、赤い花に似た匂いを嗅がされ、身体が重くなった。


 それなのに、いまの彼の襟元は正されている。タイも結び直されている。上着の皺は伸ばされ、袖口も揃っていた。靴も磨かれ、椅子の前に正しく置かれている。


 乱れたはずの身体が、誰かの手で美しく戻されている。


 そのことが、吐き気を誘った。


 自分は捕らえられたのではない。


 儀式のために整えられたのだ。


 Aは首を動かした。高い襟が首元の痕に触れる。そこはまだ熱い。仮面はついたままだった。白い硬質な面が、目元から頬へ密着している。内側は少し湿っている。頬骨のあたりに、わずかな圧迫がある。


 この感覚を、身体は少しずつ覚え始めている。


 その事実に、Aは強い嫌悪を覚えた。


 三日間。


 二号はそう言った。


 三日間眠っていた、と。


 だが、それは眠りではなかったのだろう。眠らされ、起こされ、整えられ、また眠らされた。髭を剃られ、爪を整えられ、服を替えられ、仮面を調整された。こうして椅子に座らされた今、その空白の形が少しずつ見えてくる。


 自分の身体は、すでに何度もこの屋敷の手に渡っていた。


 そのとき、部屋の外から音がした。


 きい。


 銀の車輪。


 ころ。


 古い床を撫でる、ゆっくりとした音。


 Aは顔を上げた。


 香りが先に入ってきた。


 古い薔薇。粉。薬品。赤い花を遠くで潰したような甘さ。食堂で、廊下で、庭で、夢の中で、何度も彼の喉を塞いだ匂い。


 扉が開く。


 黒いベール。

 重いドレス。

 銀の車輪。

 赤い唇。


 マダム・ヴィーが現れた。


 彼女は怒っていなかった。


 そのことが、何よりも不気味だった。


 地下に入り、領主Xの部屋を見た。手記を読んだ。彼女の過去に触れた。Gの証拠を隠し、SとMに近づき、二号に庇われた。怒鳴られても、罰せられてもおかしくない。


 けれど、マダム・ヴィーは穏やかに微笑んでいた。


「ずいぶん歩き回りましたのね、A」


 その声は柔らかかった。


 Aは答えない。


 彼女は車椅子をゆっくり進め、Aの前で止まった。


「よろしいことですわ。館を継ぐ方は、館の裏側も知らなくてはなりませんもの」


 Aは背筋に冷たいものを感じた。


 地下へ行ったことさえ、彼女にとって完全な想定外ではない。

 そう思わせる言い方だった。


 いや、本当にどこまで想定していたのかはわからない。


 だが、マダム・ヴィーは相手の反抗さえ、自分の舞台の一部に見せる。偶然も、失敗も、抵抗も、彼女の赤い唇から語られた瞬間、用意されていた筋書きのように見えてしまう。


 それが、彼女の支配だった。


 部屋の端には召使いたちが控えていた。


 二号。三号。四号。

 巨漢の男。

 そのほか、黒いフェイスマスクの者たち。


 二号はAを見なかった。


 黒いマスクの奥で、目だけが伏せられている。彼女の手は前で組まれていた。白い手袋の指が、わずかに強張っている。


 マダム・ヴィーが片手を上げた。


 それだけで、召使いたちは下がった。


 二号も一歩下がる。


 だが、完全には部屋を出ない。隅に残された。残されたのか、残ることを許されたのか、Aにはわからない。


 部屋には、Aとマダム・ヴィー、そして隅の二号だけが残った。


 マダム・ヴィーはAの前で、ゆっくり手袋を外した。


 薄い革が指から抜ける音がした。


 静かな音だった。

 だが、Aの耳にはやけにはっきり響いた。


 深紅の爪。

 白い指。

 古い指輪。


 以前、食卓で彼女が手袋を外したとき、Aはその手の甲に口づけさせられた。


 今度は違う。


 彼女の手が、Aへ伸びる。


 Aは本能的に身を引こうとした。だが、椅子が逃がさない。革の拘束具が手首を留め、身体はわずかにしか動かない。


 マダム・ヴィーの素手が、Aの白い仮面に触れた。


 頬のあたり。


 目元。


 仮面の縁。


 それから、首元の痕の近く。


 冷たい手だった。


 けれど、死んだ手ではない。陶器のように管理され、香水と薬品の匂いをまとった手。暴力的ではなかった。むしろ、丁寧で、慈しむようで、だからこそ気味が悪い。


 彼女は作品の仕上がりを確かめるように触れていた。


「よく馴染んできましたわ」


 Aの胃が冷たく縮んだ。


 馴染む。


 自分の顔に仮面が馴染むことを、彼女は良いこととして語った。


「この仮面は何なんですか」


 Aは低く問うた。


 マダム・ヴィーは微笑む。


「あなたを守るものですわ」


「僕から顔を奪うものだ」


「顔は、人を縛ります。家名、血筋、記憶、親の面影、他人の期待。顔を隠せば、人はようやく軽くなれる」


 Aは領主Xの手記を思い出した。


 名を剥げば、人は軽くなる。

 顔を隠せば、ようやく美が見える。


「それは、領主Xの言葉だ」


 マダム・ヴィーの笑みが、わずかに止まった。


 ほんの一瞬。


 赤い唇の端に、小さな亀裂のような停止が生まれた。


 だがすぐに、彼女は微笑みを戻した。


「あの方も、たまには美しいことをおっしゃいましたもの」


 Aはぞっとした。


 彼女は領主Xを憎んでいる。

 だが、その言葉を捨てていない。


 憎んだものを、自分の内側に残している。


 マダム・ヴィーの指が、仮面の縁をなぞる。


「今の仮面は、目覚めのためのものです。あなたが急に思い出してしまわないように。あなた自身の重さで壊れてしまわないように」


「記憶を奪うためじゃないと?」


「奪う?」


 彼女は悲しそうに首を傾げた。


「乱暴な言葉ですわね。私は、順番を整えて差し上げているだけ」


「順番?」


「ええ。記憶は一度に戻ると、人を壊します。香り、圧迫、映像、名前、仮面。少しずつ、必要な形に整えていくのです」


 Aは首元の痕を意識した。


 喉の脇。鎖骨。耳の後ろ。


 仮面はただ貼りついているのではない。首元の処置痕と繋がっている。微量の薬剤、香り、圧迫、暗示。記憶の戻り方そのものを管理するための装置。


 彼女はAを真っ白にしたいのではない。


 自分の物語に沿って再構成したいのだ。


「僕は、本当に三日間眠っていたんですか」


 Aは問うた。


 マダム・ヴィーは穏やかに答えた。


「ええ。よくお休みでした」


「嘘だ」


「嘘ではありませんわ。あなたは、眠っていたほうが幸せでしたもの」


 Aは手首の革を握りしめた。指先に力が入る。


「僕は途中で起こされていた」


 マダム・ヴィーは否定しなかった。


「何度か、目を開けましたわね」


「仮面を調整された。映像も見せられた。僕の反応を見ていた」


「お支度ですわ」


「処置だ」


「お支度」


 彼女の声は変わらない。


「髭を整え、爪を整え、服を整え、呼び名を整え、記憶の扉を少しずつ開けて差し上げる。大切なお客様を迎えるには、支度が必要でしょう?」


「僕に何をした」


 Aの声が低くなる。


 マダム・ヴィーは優しく言った。


「あなたが、あなた自身の重さで壊れないように、少しずつ整えて差し上げました」


 怒りが喉まで上がった。


 だが、Aは飲み込んだ。


 怒鳴れば、彼女の言葉に巻き取られる。混乱している、疲れている、まだ整っていない、と言われるだけだ。


 Aは懐に隠した手記の断片を思い出した。


「僕は領主Xの血筋なんですね」


 マダム・ヴィーは、初めて本当に嬉しそうに微笑んだ。


「ええ。ようやく、そこまで辿り着きましたのね」


 その喜びに、Aは寒気を覚えた。


「あなたは偶然の客人ではありません。あなたは、夢の館の正当な継承権を持つ血筋。外でどんな名前で生きていようと、血は帰り道を忘れない」


「戻るべき場所なんかじゃない」


「あなたがそう思うのは、外で育ったからですわ。外の名前、外の生活、外の優しさ。けれど血は、夢の帰り道を覚えています」


 Aは吐き気を覚えた。


 血を、運命のように語る。

 意思より先に、血が館へ戻ると決めつける。


「あなたは逃げた子の子。戻ってきた血。だからこそ、A。始まりの文字。再び館を開く文字」


 A。


 食卓で与えられた一文字。


 それは、ただの仮名ではなかった。


 所有印であり、継承者の印だった。


「母は、あなたから逃げたんですか」


 Aは問うた。


 マダム・ヴィーは微笑む。


「いいえ。館から逃げたのです」


「母は、あなたを裏切ったんですか」


 マダム・ヴィーは、少しだけ黙った。


 その沈黙には、本物の感情があった。


 憎悪だけではない。

 痛みだけでもない。

 羨望と、怒りと、敬意が複雑に絡んだ沈黙。


「あの方は、夢より外を選びました。子を連れて、名前のある世界へ戻った。愚かで、勇敢で、残酷な方でした」


 赤い唇が、母を語る。


 Aは拳を握った。


「SとMは?」


「あの子たちは残りましたわ」


「残ったんじゃない。逃げ損ねた」


 Sの言葉だった。


 マダム・ヴィーの表情が、わずかに固まる。


「Sは、そのように言いましたのね」


 Aは黙った。


 マダム・ヴィーは微笑んだ。


「かわいそうな子。怒りでしか、自分を保てない」


「あなたがそうしたんだ」


 マダム・ヴィーは否定しなかった。


 ただ、優しく言った。


「私だけではありませんわ」


 その言葉の中に、領主Xの影があった。


 そして、おそらく館そのものの影も。


「Gさんを殺したのは、あなたですか」


 Aは続けた。


 マダム・ヴィーは、少し悲しそうな顔をした。


「殺す、という言葉は乱暴ですわ」


「彼は死んだ」


「ええ。夢に馴染めなかったのです」


 Aの胸に怒りが刺さった。


 マダム・ヴィーは続ける。


「あの方は、美しくありませんでした。疑い、嗅ぎ回り、帽子の汗染みにメモを隠し、酒と煙草の匂いをまとい、夢の館の調和を乱した。客人ではなく、夢の外から紛れ込んだ異物でした」


「彼は僕と一緒に来た」


 Aは言った。


 その瞬間、頭の奥で何かが割れた。


 霧。

 山道。

 車のヘッドライト。

 雨ではない。濃い霧が光を白く返している。

 助手席のG。いや、運転席かもしれない。彼は煙草をくわえず、代わりに録音機を弄っている。帽子は膝の上。手帳。メモ。

 Aの手には、古い新聞記事の切り抜き。

 白峰。失踪。夢の館。領主邸。

 母の名前を探していた。

 Gが言う。


 ――先生、ここはやばいぞ。引き返すなら今だ。


 Aは答える。


 ――ここまで来たんです。確かめます。


 ヘッドライトの中に、門が浮かぶ。


 黒い鉄柵。

 霧の奥の館。


 Aは息を呑んだ。


 戻ってきた記憶は、痛みを伴っていた。


「僕たちは、この館を調べていた」


 Aは呟いた。


「Gさんは僕を助けに来たんじゃない。僕と一緒に来た。僕は……母のことを調べていた」


 マダム・ヴィーは微笑む。


「そう。思い出しましたのね」


 Aは彼女を睨んだ。


「あなたは、それも知っていた」


「もちろん」


「なら、Gさんを異物と呼ぶな」


「異物ですわ。けれど、必要な異物でもありました。あなたが自分で門を叩くためには、外の人間が必要だった」


 Aは言葉を失った。


 彼女は、Gの同行すら自分の物語の一部にしている。


「Jも、あなたの被害者ですか」


 Aは別の名を出した。


 マダム・ヴィーは楽しそうに目を細めた。


「Jは、壊れてから美しくなりました」


「人を壊しておいて、美しい?」


「あの方は、もともと自分を演じることがお好きでした。ですから、ほんとうの自分を脱がせて差し上げただけ」


 Aは地下で聞いたJの言葉を思い出した。


 舞台の人間。

 客席側でいられると思っていた男。

 仮面を楽しんでいた男が、仮面から出られなくなった。


「ただ、Jは少しばかり完成しきらなかった。だから、あの方は今も館をうろついているのです。舞台に未練を残した亡霊のように」


「あなたは、人を作品のように言う」


「人は皆、自分という未完成な作品を抱えて苦しんでいますもの」


 Aは、喉の奥に冷たい怒りを感じた。


「二号は、なぜ番号なんですか」


 隅にいる二号が、かすかに反応した。


 マダム・ヴィーは穏やかに答える。


「あの子には、番号のほうが軽いのです」


「名前を奪っただけだ」


 マダム・ヴィーは首を振った。


「名前は重いものですわ。過去、家族、罪、後悔、戻れない場所。番号は、それらを持たなくてよい。二号は、二号でいることで息ができるのです」


 Aは二号の言葉を思い出した。


 名前は必要ございません。


 それは二号自身の言葉ではない。

 そう言わなければ生きられなかった言葉だ。


「あの子が名前を思い出せば、壊れますわ」


「壊れるかどうかを決めるのは、あなたじゃない」


 マダム・ヴィーの目が、わずかに細くなった。


 初めて、Aの言葉が彼女の柔らかな膜に触れた気がした。


「Mさんは、僕を眠らせた」


 Aは続けた。


 マダム・ヴィーは微笑みを戻した。


「あの子は、まだ優しいのです」


「優しい?」


「優しい者は、眠らせることしかできない。起こす覚悟がないから」


 Mの紅茶を思い出す。


 苦み。

 薬草の香り。

 仮面の熱が引く感覚。

 身体が重くなる屈辱。

 Mの震える手。


 まだ、あなたを地下へ行かせるわけにはいかない。


「あの子は、あなたを止めようとした。あなたが壊れないように。けれど、それでは遅い。後継者は、いつか壊れなければなりません。壊れて、形を選ぶのです」


 Aは理解し始めた。


 Mは裏切ったのではない。少なくとも、殺すためではなかった。仮面の作用を抑え、地下へ早く行きすぎることを止めようとした。


 ただし、マダム・ヴィーはそれすら、優しすぎる失敗として語る。


 マダム・ヴィーが車椅子の肘掛けに手を置いた。


 部屋の空気が変わった。


 彼女は立ち上がろうとしていた。


 Aは息を止めた。


 完全に立つわけではない。杖と椅子の背に身体を預け、重いドレスの裾を床へ引きながら、ゆっくりと身体を持ち上げる。片脚の不在を直接見ることはできない。だが、床に落ちる影の不均衡、布の重さ、車椅子から離れた一瞬の危うさが、その不自由を雄弁に示していた。


 それでも、彼女は立った。


 わずかな時間。


 それだけで、部屋全体が息を呑んだように思えた。


 マダム・ヴィーは、Aの椅子の後ろへ回った。


 片手で椅子に体重を預けながら、もう片方の素手でAの仮面に触れる。


 後ろから。


 逃げ場のない角度で。


「あなたは、この館を継ぎます」


「継がない」


 Aは即座に言った。


 マダム・ヴィーは優しく続ける。


「今は、そうおっしゃるでしょう。けれど、あなたはもう知ってしまった。館の表も、裏も、死者も、保存された夢も。知らない者は継げません。知った者だけが、継げるのです」


「知ったから壊す」


 マダム・ヴィーは微笑んだ。


「壊すことも、継承の一形態ですわ」


 Aはぞっとした。


 反抗さえ、取り込まれる。


 継がないと言えば、壊す者として継ぐと言われる。拒めば、その拒否が資質になる。怒れば、館への理解になる。知れば、継承に近づく。


 彼女の物語の中では、どの道も彼女へ戻っていく。


 マダム・ヴィーが合図した。


 三号が箱を持って入ってきた。


 いや、箱を持っていたのは二号だった。


 黒いフェイスマスクの下、彼女の目は伏せられている。白い手袋の指が、箱の底を強く支えている。震えを隠そうとして、かえって力が入りすぎている。


 箱は黒い木製だった。内側には白い絹が敷かれている。


 その中に、新しい仮面があった。


 白と銀。


 Aの今の仮面よりも、さらに洗練されている。目元は深く、口元には影が落ちる形。頬のラインは冷たく美しい。内側には細い管と布が見えた。領主家の紋章を思わせる意匠が、額のあたりに刻まれている。


 美しい。


 美しいほど、吐き気がした。


「今の仮面は、目覚めのためのもの」


 マダム・ヴィーは言った。


「こちらは、継承のためのものです」


「つけない」


「今は、そうおっしゃるでしょう」


 二号の手が震えた。


 マダム・ヴィーが視線だけを向ける。


「二号。震えていますわ」


 二号の身体が硬直した。


「申し訳ございません」


 Aは二号を見た。


 彼女は新しい仮面をつけたくないのだ。

 だが、命令に逆らえない。


 Aは、マダム・ヴィーの言葉を思い返した。


 母は裏切った。

 SとMは残った。

 Gは夢に馴染めなかった。

 Jは壊れてから美しい。

 二号は番号でいるほうが幸せ。

 Mは優しすぎる。

 Aは戻ってきた。


 すべて、彼女の言葉だ。


「あなたは、母を裏切り者と呼んだ」


 Aは静かに言った。


 マダム・ヴィーの視線が戻る。


「SとMを残った者と呼んだ。Gさんを夢に馴染めなかった者と呼んだ。二号を番号でいたほうが幸せだと言った。Jを完成したと言った」


 マダム・ヴィーは微笑んでいる。


 Aは続けた。


「全部、あなたの言葉だ」


 赤い唇の笑みが、ほんの少し変わった。


「彼ら自身の言葉じゃない」


 部屋が静かになった。


 Aは手首を拘束されたまま、マダム・ヴィーを見上げた。


「あなたは嘘をついているんじゃない。もっと悪い。誰かの出来事に、あなたの言葉をかぶせている。母が逃げたことも、Sたちが逃げ損ねたことも、Gさんが死んだことも、二号が名前を奪われたことも、Jが壊されたことも。全部、あなたの赤い唇で綺麗な物語にしている」


 マダム・ヴィーの笑みが消えた。


 完全にではない。

 だが、赤い唇から温度が抜けた。


「僕は、あなたの言葉では継がない」


 沈黙。


 長い沈黙だった。


 やがて、マダム・ヴィーは優しく言った。


「少し、早すぎたようですわね」


 彼女は二号へ視線を向けた。


「薬を」


 二号は動かなかった。


 マダム・ヴィーの声が、少しだけ低くなる。


「二号」


 二号の肩がびくりと震えた。


「はい」


「新しい調整をいたします。Aは、少し思い出しすぎました」


「二号、行くな」


 Aは思わず叫んだ。


 二号がAを見た。


 黒いマスクの奥の目が揺れている。


 マダム・ヴィーは穏やかに言った。


「二号。あなたは何のために名前を捨てたの?」


 二号の目が、深く沈んだ。


 彼女は箱を三号に渡し、頭を下げた。


「薬を、お持ちいたします」


 Aは拘束具に力を込めた。


「二号!」


 二号はもう一度だけAを見た。


 その目に、謝罪があったのか、決意があったのか、Aにはわからなかった。


 彼女は部屋を出ていった。


 扉が閉まる。


 Aの中に、冷たい絶望が落ちた。


 マダム・ヴィーは再びAに向き直った。


「大丈夫。怖がる必要はありません」


 彼女の素手が、Aの仮面を撫でた。


「あなたは、ようやく戻ってきたのですもの」


 Aは彼女を睨んだ。


 母は逃げた。

 Aは外で育った。

 Gとともに調査に来た。


 それを、彼女は戻ってきたと呼ぶ。


「僕は戻ったんじゃない。調べに来た」


 マダム・ヴィーは微笑む。


「最初は、そうでしたわね」


 その一言が、何より怖かった。


 彼女は、Aが調査者として来たことを認めている。

 だが、それさえ今では後継者の道筋に変換している。


 三号が新しい仮面を箱ごと脇の台へ置いた。別の召使いが小さな投影装置を運び込む。映写室のものより小さいが、レンズとフィルムの巻き取り部がある。赤い花に似た香りのする小瓶も置かれた。


 処置の準備。


 Aは拘束具を引いた。革が軋むだけで外れない。


 マダム・ヴィーは静かに待っていた。


 だが、二号が戻ってこない。


 部屋の空気が、ほんの少し変わった。


 マダム・ヴィーが顔を上げる。


「遅いですわね」


 その声に、初めて薄い苛立ちが混じった。


 Aは息を止めた。


 扉の外で、小さな物音がした。


 マダム・ヴィーが視線を向ける。


 扉が静かに開いた。


 戻ってきた二号の手に、薬瓶はなかった。


 かわりに、小さな鍵が握られていた。


 その後ろで、蒼いベールのMが静かに顔を上げた。

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