第12章 ― 怒りと沈黙の反乱
扉が開いた。
戻ってきた二号の手に、薬瓶はなかった。
かわりに、小さな鍵が握られていた。
銀色の鍵だった。掌に隠れてしまうほど小さい。だが、赤と黒の部屋の中で、その小さな金属だけが異様にはっきり光って見えた。
二号は黒いフェイスマスクをつけたままだった。白いエプロンも、白い手袋も、いつものまま。顔は戻っていない。名前も戻っていない。けれど、その手は薬ではなく鍵を握っている。
その後ろに、蒼いベールのMが立っていた。
Mは、いつものように震えていなかった。
いや、まったく震えていないわけではない。細い指先にはかすかな緊張があり、ベールの縁もわずかに揺れている。けれど、その揺れは恐怖に流されるものではなかった。静かな水面の下で、何かが強く流れているような揺れだった。
Aは拘束具に留められたまま、二人を見た。
薬を取りに行ったはずの二号。
沈黙の部屋にこもっていたはずのM。
二人が、ここへ来た。
マダム・ヴィーはしばらく二人を見ていた。
怒鳴らなかった。
驚いたとも言わなかった。
彼女の赤い唇が、やわらかく弧を描く。
「M。あなたまで、夜更かしですの?」
Mは部屋の入口に立ったまま、顔を上げた。
蒼いベールの奥で、目が静かに光っている。
「A様を、これ以上は眠らせません」
その声は大きくなかった。
だが、Aはその言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。
Mは、かつて彼に紅茶を飲ませた。薬を入れた紅茶を。仮面の熱を鎮める代わりに、彼の身体を重く沈めた。あのとき、MはAを眠らせた女だった。
そのMが、今は眠らせないと言った。
眠りの向こうへ押し込むのではなく、目覚めの側に立つと言った。
マダム・ヴィーは微笑みを深くした。
「まあ。かわいらしい反抗ですこと」
その言い方に、Aの背筋が冷えた。
彼女は、これさえも飾ろうとしている。反抗を、可愛らしいものとして。小さな揺らぎとして。自分の劇場に置かれた、美しい失敗として。
マダム・ヴィーの視線が、二号へ移る。
「二号。薬は?」
二号は答えなかった。
鍵を握る手袋の指が震えている。だが、後ろへは下がらない。
「二号」
声が、少しだけ低くなった。
黒いフェイスマスクの奥で、二号が息を整える気配がした。
「……薬は、ございません」
「なぜ?」
短い問いだった。
その一語だけで、部屋の温度が下がった気がした。
二号の肩が震える。白い手袋の内側で、鍵が小さく鳴った。
それでも、彼女は言った。
「必要ないと、判断いたしました」
Aは息を止めた。
判断。
かつて二号は、Gの死体の前で言った。自分には判断する権限がない、と。
それが今、彼女自身の口から出た。
判断いたしました。
顔は隠れたまま。番号のまま。手は震えたまま。だが、彼女は初めて、自分で判断したと言った。
マダム・ヴィーの微笑みが、わずかに止まった。
ほんの一瞬だった。
けれど、Aは見逃さなかった。
赤い唇から、いつもの余裕が薄く剥がれた。
「二号」
マダム・ヴィーが名を呼ぶように番号を呼ぶ。
二号はびくりとした。
だが、Mが静かに言った。
「二号、A様の拘束を解いてください」
二号は一瞬、マダム・ヴィーを見た。
次に、Mを見た。
それから、Aのほうへ歩いた。
その一歩は、小さかった。
けれど、この部屋で誰かがマダム・ヴィー以外の声を選んだ、最初の一歩だった。
二号はAの右手首へ近づいた。
白い手袋の指が、革の拘束具に触れる。鍵穴は小さい。彼女の手が震えて、鍵がうまく入らない。金属が革の金具をかすめ、かち、かち、と小さな音を立てる。
「申し訳ございません」
二号が小声で言った。
「謝らなくていい」
Aは言った。
二号の手が止まった。
黒いフェイスマスクの奥の目が、一瞬だけAを見る。
謝らなくていい。
その言葉が、彼女にはひどく不慣れなもののようだった。命令を果たせなければ謝る。遅れれば謝る。揺れれば謝る。存在そのものが誰かの規則から外れたとき、すぐに謝る。そう躾けられてきた女にとって、謝らなくていいという言葉は、鍵よりも扱いづらいものなのかもしれなかった。
二号は息を吸い直した。
鍵が入る。
回る。
革の拘束具が外れた。
右手が自由になった。
重い。
自由になったはずの腕は、すぐには動かなかった。薬の残り、疲労、仮面の圧迫、長く固定されていた感覚。すべてが鈍く絡みついている。
二号は左手首へ移る。
鍵を差し込む。今度は早かった。
かちり。
もう片方の腕が解ける。
足元の拘束も外される。
Aは立ち上がろうとした。
だが、身体が椅子に沈んだままだった。膝に力が入らない。視界が少し揺れる。白銀の継承用仮面が箱の中で冷たく光っているのが見えた。
Mが近づいた。
蒼いベールが揺れる。彼女は小さな瓶を取り出した。透明な硝子瓶。中には淡い緑がかった液体が入っている。
Aの身体が反射的にこわばった。
Mはそれに気づき、瓶を持つ手を止めた。
「飲ませません」
静かな声だった。
「嗅ぐだけです」
瓶の栓が開く。
香りが立った。
苦みのある清涼な匂い。薬草。雨に濡れた葉。赤い花の甘さとは違う。あの花が意識を鈍らせ、深い眠りへ沈めるものなら、これは霧の中に細い刃を入れるような香りだった。
Mは瓶をAの鼻元に近づけた。
Aは浅く吸った。
胸の奥が少し冷える。
仮面の内側にこもっていた熱が引く。
頭の輪郭が戻る。
赤い部屋の輪郭、二号の手袋、Mのベール、マダム・ヴィーの赤い唇。ぼやけていたものが、少しずつ別々のものとして見えてくる。
Aは息を吐いた。
「あなたの薬は、全部眠らせるものではなかったんですね」
Mは瓶を閉じた。
「眠らせることも、起こすこともできます」
「では、なぜあのとき僕を眠らせたんです」
Mは目を伏せなかった。
蒼いベールの奥から、まっすぐAを見た。
「あなたの仮面が、記憶を無理に開こうとしていました」
Aは黙った。
Mは続ける。
「急に思い出せば、あなたは壊れる。身体が先に耐えられなくなる。だから、止めました」
「なぜ、それを言わなかった」
Mの唇が、わずかに震えた。
「言えませんでした。言葉にすれば、館に聞かれる。聞かれれば、私ではなく、Sが罰を受ける」
Aは、その言葉を胸の中で受け止めた。
沈黙は、臆病だけではなかった。
Mは黙ることで、自分だけを守っていたのではない。Sを守っていた。言葉を飲み込むことで、別の誰かへ罰が流れるのを止めようとしていた。
マダム・ヴィーが微笑んだ。
「美しい姉妹愛ですこと」
Mは、初めてマダム・ヴィーをまっすぐ見た。
「違います」
声は小さい。
だが、はっきりしていた。
「これは、あなたの言葉ではありません」
赤い唇が、わずかに固まった。
Aはその言葉に、さきほど自分が言ったことを思い出した。
全部、あなたの言葉だ。
Mは、それを引き継いだのだ。
沈黙していた女が、初めて自分の言葉でマダム・ヴィーの言葉を拒んだ。
そのとき、部屋の外で大きな音がした。
陶器の割れる音。
続いて、椅子が倒れる音。
召使いたちの足音。
遠くから怒鳴り声。
「触るな! その手でMの部屋に入るな!」
Sの声だった。
赤い仮面の向こうから飛んでくるような、荒く、鋭く、喉を傷つける声。
また何かが割れる。
食堂か。
廊下か。
あるいは仮面室の入口か。
Sは暴れている。
だが、Aにはもうわかった。
あれはただの癇癪ではない。
召使いたちを引きつけている。巨漢の男を遠ざけている。Mと二号がこの部屋へ来るための時間を作っている。
Sは、自分に貼られた「騒がしい狂女」という役を逆手に取っている。
マダム・ヴィーは目を細めた。
「Sは、いつも騒がしい子」
Mが静かに言った。
「騒がしいから、私たちはまだ生きています」
その声には、感謝も、痛みも、長い年月の疲れもあった。
Aは椅子の肘掛けを掴み、どうにか立ち上がった。膝が揺れる。二号が反射的に支えようとして、一瞬迷う。それから、白い手袋の手を差し出した。
Aはその手を取った。
手袋越しだった。
だが、今は支配の手ではなかった。
「Gさんの帽子を隠したのは、君ですか」
Aは二号へ尋ねた。
二号の手が、かすかに止まった。
黒いマスクの奥で、目が伏せられる。
「はい」
短い答えだった。
Aは息を呑んだ。
二号は続けた。
「お館様は、処分をお命じになりました。帽子も、紙片も、時計も、すべて。ですが、G様は……」
言葉が詰まる。
Aは言った。
「君を番号で呼ばなかった」
二号の目が揺れた。
小さく頷く。
「お嬢さん、と」
それだけのこと。
Gにとっては、軽口のひとつだったのかもしれない。酒と煙草の匂いをまとい、くたびれた帽子を持ち、死を目前にしても冗談を忘れなかった男の、何気ない呼び方。
だが、二号にとっては違った。
番号ではなく、人間として呼ばれた。
だから彼女は、Gの帽子を完全には処分できなかった。
Mが言った。
「J様が時計を持ち出し、二号が帽子を隠し、Sが食卓で騒ぎを起こした。誰も、完全には協力できませんでした。けれど、少しずつ、あなたに残したのです」
Aは目を閉じた。
Gの死のあとに拾った手がかりは、すべて偶然ではなかった。
帽子。時計。食卓の騒ぎ。紅茶。Sの怒鳴り声。二号の見逃し。Jの半分だけの助言。
誰も完全な味方ではなかった。
誰も安全な場所にいなかった。
それでも、壊れたまま、少しずつAへ真実を押し出していた。
マダム・ヴィーはまだ落ち着いていた。
「皆さん、ずいぶんと勝手な解釈をなさいますのね」
Aは顔を上げた。
「解釈していたのは、あなたです」
赤い唇がわずかに止まる。
Aは一歩前へ出た。身体はまだ重い。それでも、立っている。
「母は裏切ったんじゃない。逃げた。SとMは残ったんじゃない。逃げ損ねた。Gさんは夢に馴染めなかったんじゃない。殺された。二号は番号で幸せなんじゃない。名前を奪われた。Jは完成したんじゃない。壊された」
Mが続けた。
「そして、A様は戻ってきたのではありません」
二号の声が、黒いマスクの奥から小さく出た。
「連れてこられたのです」
Aは最後に言った。
「僕は、あなたの後継者じゃない」
その瞬間、部屋の空気が変わった。
マダム・ヴィーの赤い唇から、笑みが消えた。
完全に怒ったわけではない。叫びもしない。だが、彼女の言葉がまとっていた柔らかな膜が剥がれ、そこに冷たい芯が見えた。
「二号。Aを――」
「二号、A様を立たせてください」
Mの声が、マダム・ヴィーの命令を遮った。
Aも、二号も、マダム・ヴィーも、同時にMを見た。
Mは蒼いベールの奥で、静かに立っていた。
「鍵を持って。出口までは私が案内します」
二号は一瞬、マダム・ヴィーを見た。
次にMを見る。
そして、Mの言葉に従った。
Aの腕を支え、鍵を握り直す。
マダム・ヴィーが静かに言った。
「M。あなたに、そんな声があったのね」
Mは答えた。
「ありました。あなたが聞かなかっただけです」
遠くで、また何かが割れた。
Sの怒鳴り声が近づいている。
そして、廊下の反対側から、別の音がした。
こつ。
杖の音。
こつ。
こつ。
扉の隙間から、Jが現れた。
白手袋は汚れていた。いつもなら過剰なほど整えられている仮面の端にも、細い傷がある。肩で少し息をしている。髪もわずかに乱れていた。
それでも、彼は笑っていた。
「いやあ、素晴らしい。ようやくこの館も、少しは退屈しなくなってきた」
「あなたは、どちら側なんですか」
Aは問うた。
Jは肩をすくめた。
「今さら聞く?」
Aは睨んだ。
Jは笑みを残したまま、少しだけ真面目な声になった。
「マダム・ヴィーの夢を台無しにする側だよ。君を助ける側と、たまたま今は重なっている」
マダム・ヴィーが微笑んだ。
「J。あなたまで、悪い子」
Jは深く一礼した。
「ええ。あなたの教育がよかったので」
「あなたは、壊れてから美しくなったのに」
Jは顔を上げた。
いつもの道化の笑み。
だが、目だけは笑っていなかった。
「壊れたものを美しいと言う癖、そろそろやめたほうがいい」
マダム・ヴィーの赤い唇が硬くなる。
Jは続けた。
「この館は、あなたの作品じゃない。ただの墓場だ。しかも、飾りつけの趣味が悪い」
部屋が凍った。
夢の館。
美しく保存された場所。
名前を外し、顔を隠し、記憶を整え、死者の持ち物を飾る場所。
それを、Jはただの墓場と呼んだ。
マダム・ヴィーの視線が、初めて明確に冷たくなる。
そのとき、扉が乱暴に開いた。
Sが飛び込んできた。
赤黒い仮面はさらに割れていた。片側の留め具は壊れ、髪は乱れ、ドレスの裾には赤い花の汁か血かわからないものがついている。息を切らし、手には割れた燭台の一部を握っていた。
背後の廊下には、倒れた椅子と、足止めされた召使いたちの影が見えた。
Sは部屋を見渡した。
Aが立っている。
Mがいる。
二号が鍵を持っている。
Jがマダム・ヴィーの前に立っている。
Sは舌打ちした。
「遅い。何を上品に揉めてんだよ」
「S」
Mが言った。
SはMを見る。
その視線だけで、長い時間が流れた。
同じ顔。
同じ輪郭。
違う傷。
違う声。
違う壊れ方。
Aは、二人を初めて同じ空間で見た。
Sは赤黒い仮面の女。怒りで立っている女。
Mは蒼いベールの女。沈黙で立っている女。
似ている。
だが、同じではない。
Aは呟いた。
「やっぱり、二人は……」
「今ごろ気づいたのか。遅いんだよ」
Sが吐き捨てる。
Mが静かに言った。
「私たちは、姉妹です」
Aの胸が鳴った。
Mは続けた。
「あなたのお母様と、同じ家に生まれました」
Aは息を呑んだ。
白峰。
三姉妹。
Gの帽子の紙片。領主Xの手記。Sの素顔。Mの言えなかった名前。母の赤い唇。
点が、痛みを伴って繋がり始める。
Sは苛立ったように言う。
「あんたの母親は逃げた。あたしたちは逃げ損ねた。何度も言わせるな」
Mが静かに補う。
「けれど、あの人はあなたを連れて逃げた。それだけは、間違っていません」
Aは胸の奥が熱くなった。
母は自分を捨てたのではない。
連れて逃げた。
守るために。
マダム・ヴィーがSとMを見つめた。
「せっかく、二人で一つの夢にして差し上げたのに」
Sの顔が歪んだ。
「ふざけるな」
Mも静かに言った。
「私たちは、一人ではありません」
「同じ顔。同じ血。同じ痛み。分ける必要がどこにありますの?」
Sが一歩前へ出た。
割れた仮面の奥の目が、燃えるようだった。
「必要があるんだよ! あたしはSで、MはMだ! あんたが決めるな!」
その叫びは、怒りだった。
だが、それ以上に、存在の宣言だった。
SはMを守っているだけではない。
自分とMが別々の人間であることを守っている。
Aは、ここにいる全員が同じものと戦っているのだと理解した。
他人の出来事に、他人の言葉をかぶせられること。
顔を隠され、名前を置き換えられ、一人分にまとめられ、作品にされること。
Mが短く言った。
「行きます」
Jが杖を鳴らした。
「そろそろ、舞台袖へ引っ込もうか」
Aたちは動いた。
MがAを支え、二号が鍵を握る。Sが前に出る。Jが最後尾でマダム・ヴィーとの間に立つ。
きれいな隊列ではなかった。
Aはまだふらついている。
Mは体力がなく、息が浅い。
二号は震えている。
Sは乱暴で、今にもまた何かを壊しそうだ。
Jは信用できない笑みを浮かべたまま、白手袋を汚している。
それでも、噛み合っていた。
ひとりでは開けられなかった扉を、二号の鍵が開ける。
ひとりでは通れなかった通路を、Mが示す。
ひとりでは止められなかった追手を、Sの怒鳴り声が乱す。
ひとりでは読めなかった舞台裏を、Jの悪意が壊す。
ひとりでは立てなかったAを、全員の不完全さが支えている。
彼らは赤と黒の部屋を出た。
廊下は混乱していた。
倒れた椅子。割れた皿。床に広がった水。Sが撒き散らしたのか、赤い花の汁のようなものが壁についている。遠くで召使いたちが走る足音がする。普段は揃っているはずの足音が乱れている。
Sが鼻で笑った。
「やっと館らしくなったじゃないか」
「君の館の基準はおかしい」
Jが言う。
「黙れ。あんたの趣味よりはましだ」
二人のやり取りに、Mが小さく息を吐いた。笑ったのか、疲れたのか、Aにはわからなかった。
召使い用の通路へ入ろうとしたとき、巨漢の男が立ちはだかった。
庭の井戸で麻袋を落としていた男。
Gの遺体を運んでいた男。
黒い服。簡素な覆面。大きな身体。無言。
そこに立っているだけで、通路の幅が半分以下になったように感じる。
Sが前へ出た。
「どけ」
男は動かない。
Jが軽く杖を回した。
「紳士なら、淑女の通り道は空けるものだよ」
男は動かない。
二号が、一歩前に出た。
Aは驚いた。
二号の手は震えている。黒いフェイスマスクの下の呼吸も乱れている。それでも、彼女は巨漢の男の前へ立った。
「下がりなさい」
声は震えていた。
だが、命令の形をしていた。
男が二号を見る。
二号は続けた。
「これは、お館様のご命令ではありません」
Aは息を呑んだ。
二号の白い手袋が、鍵を握りしめている。
「私の判断です」
巨漢の男は、わずかに動きを止めた。
命令に従うためだけに動く男が、命令系統の外から来た言葉に一瞬だけ迷ったのがわかった。私の判断。それはこの館にとって異物だった。
完全に道を空けたわけではない。
だが、その一瞬で十分だった。
Sが燭台の破片を投げつける。男が腕で払う。Jの杖が男の足元を叩く。MがAを引き、二号が鍵束で脇の扉を開ける。
彼らは隙間を抜けた。
背後で男が振り返る気配がした。
Jが立ち止まった。
「先に行け」
Aは振り返った。
「何をしているんです」
「年寄りの足止め役だよ。杖もあるしね」
「あなたはまだ――」
「死ぬ気はないよ。まだ退屈していないから」
Jは笑った。
汚れた白手袋。傷のついた仮面。乱れた髪。
それでも、彼は道化の姿を崩さない。
遠くから、銀の車輪音が近づいてくる。
きい。
ころ。
マダム・ヴィーだ。
Jは廊下の中央に立った。
「行け」
Aは一瞬ためらった。
Jは肩越しに言った。
「君がここで感動していると、ボクの見せ場が台無しになる」
SがAの腕を引いた。
「置いてけ。あいつはああいう顔をしてる時が一番しぶとい」
Aは歯を食いしばり、進んだ。
背後で、Jの杖の音が響く。
こつ。
次に、銀の車輪音が止まった。
「あなたは、最後まで舞台を荒らすのね」
マダム・ヴィーの声。
Jの声が返る。
「荒らしているんじゃない。換気しているんだ。少し空気が悪すぎる」
「J。あなたは私の失敗作ですわ」
「ええ。あなたの最高傑作にならずに済んで、心底ほっとしている」
Aは走りながら、その声を聞いた。
廊下の奥で、道化と女主人が対峙している。
「あなたは夢を作ったつもりでいる。でも、ここに残っているのは、名前を剥がされた人間の残骸だけだ」
「残骸ではありません。美しい保存です」
「なら、保存される側の悲鳴を、一度くらい聞いてやれ」
その先の音は、足音と扉の開閉に紛れた。
Jの杖が床を叩く音。
召使いたちが動く音。
何かが倒れる音。
Aは振り返りそうになった。
Mが言った。
「今は、前へ」
召使い用の通路は狭く、暗かった。
赤い絨毯はない。木の床。白い漆喰の壁。湿った布と薬品の匂い。遠くで水が流れる音。地上の華やかな廊下とは違う、館の内臓のような場所だった。
Mは息が切れていた。
二号が彼女を支える。
「M様。私は、戻れません」
二号が小声で言った。
Mは即座に答えた。
「戻らなくていいのです」
二号の身体が震えた。
「名前を思い出せません」
「今は、それでいい」
Mの声は穏やかだった。
「名前より先に、選ぶことがあります」
Aはその言葉を聞きながら、二号を見た。
黒いマスクはまだ外れていない。
彼女は本名を取り戻していない。
それでも、薬ではなく鍵を選んだ。お館様の命令ではなく、自分の判断を選んだ。マダム・ヴィーではなく、Mの声を選んだ。
名前を取り戻す前に、意思を取り戻せる。
それを、二号は今、証明している。
途中で、Mが足をもつれさせた。
Sが乱暴に支えた。
「遅いんだよ」
「ごめんなさい」
「謝るな。謝るなら走れ」
Mは息を切らしながら、少しだけ笑った。
「あなたは、本当に怒っていないと優しくできないのですね」
Sは顔を背けた。
「うるさい」
その声はいつも通り荒かった。
だが、Mの腕を支える手は離さなかった。
Aはその横顔を見ながら、母が逃げたあと、二人がどれほど長くこの館で互いを失わないようにしてきたのかを想像した。怒りで繋ぎとめる者と、沈黙で耐える者。似た顔を持ちながら、一人にされることを拒み続けた二人。
やがて、通路の先に外へ続く扉が見えた。
二号が鍵束を取り出す。
だが、扉の前で手が止まった。
鍵穴が塞がれていた。
外側から金具が下ろされている。内側の鍵だけでは開かない。窓には鉄格子。鎧戸も外から閉じられている。正面玄関のほうからは、召使いたちの足音が聞こえる。
Sが舌打ちした。
「やっぱり、ただ逃げるだけじゃ駄目か」
Mは扉を見つめた。
「館そのものを止めなければ」
Aは荒い息を整えた。
夢の館の支配は、マダム・ヴィー一人だけではない。
仮面室。
映写室。
保存室。
処置室。
赤い花。
香炉。
井戸。
焼却炉。
召使いたちの命令系統。
地下の機械。
それらが動き続ける限り、たとえ外へ出ても終わらない。追われる。隠される。名を奪われる。誰かがまた、事故と呼ばれる。誰かがまた、夢に馴染めなかったと言われる。
そのとき、焦げた匂いがした。
最初は、焼却炉の匂いかと思った。
だが、違う。
もっと新しい。木が焦げる匂い。布が熱を含む匂い。古い壁紙が燻り始める匂い。
二号が顔を上げた。
「煙が――」
遠くで、召使いの声がした。
「東翼です!」
別の声。
「焼却炉ではありません!」
Mの顔色が変わった。
「東翼には、保存室が」
Sが低く言った。
「誰が火を?」
答えはなかった。
廊下の奥で、鐘のような音が鳴った。火災を知らせるものか、古い館の警鐘か。赤い廊下の向こうで、薄い煙が流れてくる。
そして、館の奥からマダム・ヴィーの声が響いた。
拡声器なのか、廊下の反響なのか、それとも彼女という存在が館全体に染み込んでいるのか、Aにはわからない。
「不完全な夢は、美しく閉じなければなりません」
Aは、息を止めた。
マダム・ヴィーは、Aを後継者にできないなら、夢の館ごと閉じるつもりなのかもしれない。
燃やして。
美しく。
赤い煙が、細い通路の天井に滲み始めた。
赤い花の甘い匂いが、焦げた匂いに塗り潰されていく。
Aはそのとき、夢の館が初めて目覚めたのではなく、燃えながら眠ろうとしているのだと悟った。




