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第13章 ― 夢の館炎上

 焦げた匂いが、赤い花の甘さを塗り潰していった。


 最初は、焼却炉の煙だと思った。


 庭の奥にあった煉瓦造りの炉。人間から剥がされた布、名札、レース、手袋を燃やしていた場所。あそこから立ちのぼる煙なら、Aはすでに嗅いでいる。古い布と薬品と、焼け残った名前の匂い。


 けれど、いま通路に流れ込んでくる煙は違った。


 もっと新しい。


 乾いた木材が焼ける匂い。壁紙が熱を含み、糊が焦げる匂い。重いカーテンが炎を吸い、布の奥に隠していた埃を吐き出す匂い。そこに、赤い花の香油が混じって、甘く、重く、息をするたび喉の奥に絡みついた。


 二号が黒いフェイスマスク越しに息を詰めた。


「煙が……」


 遠くで、召使いの声がした。


「東翼です!」


 別の声がそれに重なる。


「焼却炉ではありません!」


 Mの顔色が変わった。


 蒼いベールの奥で、唇が白くなる。


「東翼には、保存室が」


 Sが低く言った。


「誰が火を?」


 誰も答えなかった。


 けれど、二号が震える手で鍵束を握りしめた。


「お館様です」


 Aは彼女を見た。


「見たんですか」


 二号は首を振った。


「いいえ。ですが……わかります」


 その声はかすれていた。


「お館様は、不完全になったものを他人に渡しません。夢が壊されるくらいなら、ご自分で閉じられます」


 夢を閉じる。


 火を放つことさえ、この館では美しい言葉に置き換えられる。


 Aは奥歯を噛んだ。


 マダム・ヴィーは逃げていない。


 追い詰められて火をつけたのではない。彼女にとって炎は敗北ではなく、額縁なのだ。崩れかけた夢を、最後にもっとも美しい形で固定するための。


 Sが舌打ちした。


「趣味が悪すぎる」


 Jはいない。


 彼はマダム・ヴィーを足止めするため、赤い廊下に残った。背後から聞こえた杖の音、車輪音、召使いたちの足音。その後、何が起きたのかはわからない。


 Aは通路の奥、煙の濃い方角を見た。


 Mが彼の腕を掴んだ。


「今は、逃げるべきです」


 その声には、恐怖があった。だが、それだけではない。理性があった。Aを止めなければならないという、切迫した判断がある。


「保存室に行きます」


 Aは言った。


 Mの手に力が入る。


「駄目です」


「そこに、母のリボンがあります」


 自分で口にして、胸の奥が疼いた。


 白いリボン。


 幼い手に握らされたもの。地下の保存室で見つけたもの。母の手の温度を、まだ指先に残しているもの。マダム・ヴィーが保存し、飾り、物語の一部に変えていたもの。


「母の記憶を、もう一度燃やされるわけにはいかない」


 Sが吐き捨てた。


「馬鹿だね」


 だが、止めなかった。


 彼女は割れた赤黒い仮面の奥からAを睨み、それから煙の方へ視線を向けた。


「行くなら急げ。感傷に浸ってる暇はない」


 二号が鍵束を握り直した。


「東翼へは、召使い用の短い通路がございます」


「案内してください」


 二号は頷いた。


 彼らは煙の中へ進んだ。


 召使い用の通路は、すでに白く霞み始めていた。壁際のランプは煙に滲み、足元の木床がところどころ熱を持っている。遠くで、何かが崩れる音がした。重いものが落ち、床を揺らす。続いて、ガラスが割れる高い音。


 Mが咳き込んだ。


 Sが乱暴に彼女の腕を引く。


「口を塞げ。吸うな」


「わかっています」


「わかってる顔じゃない」


「あなたもです」


「うるさい」


 二号が自分のエプロンの端を裂き、Mへ渡した。Mはそれを口元に当てる。Aも袖で口元を覆った。まだ白い仮面はついたままだ。目元は隠されているのに、煙は口と鼻から容赦なく入ってくる。


 東翼へ近づくほど、熱が増した。


 赤い廊下の先で、火が揺れている。


 保存室の扉は半開きだった。


 内側から橙色の光が漏れている。煙が扉の隙間から流れ出し、廊下の天井へ這っていく。


 Aは扉を押した。


 熱が顔にぶつかった。


 保存室は燃えていた。


 かつては静かだった部屋。人間の痕跡を、展示品のように並べていた場所。帽子、手袋、靴、名札、写真、仮面、リボン、鍵、時計、髪飾り。人が人であった証を剥ぎ取り、持ち主から切り離して、美しい記録に変えていた部屋。


 いま、そのすべてが炎の中で崩れている。


 手袋が燃える。

 靴の革が反り返る。

 名札の金具が赤く熱を持つ。

 写真の顔が黒く縮み、誰だったのかもわからない影になる。

 白い仮面のひとつが熱で歪み、笑っているような形になってから崩れ落ちた。


 炎は解放にも見えた。


 展示物にされていたものが、ようやくガラスケースを破って消えていくようにも見える。


 だが同時に、二度目の殺害にも見えた。


 生きていた痕跡が、誰の手にも戻らないまま、灰になっていく。


 Aは歯を食いしばった。


 すべては救えない。


 その事実が、煙よりも苦かった。


「どこだ」


 Sが叫ぶ。


「白いリボンです。小さな銀の鍵のそばに」


 Aは棚の位置を思い出す。


 奥。右側。硝子ケース。子どもの手が届かない高さ。隣には古い時計と、黄ばんだ写真。


 火のついた布が天井から落ちてきた。


 Sが蹴り飛ばす。


「早くしろ!」


 二号がMを支えながら、入口近くで咳き込む。


 Mの声が震えた。


「奥の棚、右です」


 彼女も覚えていたのだ。


 Aは煙の中を進んだ。


 熱い。

 目が痛い。

 仮面の縁に煤がつく。

 喉が焼けるようだった。


 棚の前に辿り着く。


 硝子ケースは熱で割れていた。ひびが蜘蛛の巣のように走り、内部へ煙が入り込んでいる。


 その中に、白いリボンがあった。


 端はすでに焦げていた。かつての白は黄ばみ、さらに灰色にくすみ、片側が黒く縮れている。だが、結び目は残っていた。


 隣に、小さな銀の鍵。


 Aは手を伸ばした。


 割れた硝子の縁が指に触れる。


 熱い。


 皮膚が焼ける痛みが走った。だが、引かなかった。リボンを掴む。鍵も一緒に取る。硝子の破片が指先を切った。血が滲む。熱で痛みが遅れてくる。


 リボンは軽かった。


 しかし、掌の中で確かに存在した。


 母の手の温度が、炎の中で蘇った気がした。


「取った!」


 Aが叫ぶ。


 Sが入口から腕を伸ばした。


「戻れ!」


 背後で棚が崩れた。


 炎が跳ねる。


 Aはリボンと鍵を胸元へ押し込み、煙の中を戻った。Sが彼の腕を掴み、乱暴に引き寄せる。二号が扉の外へ押し出す。Mが咳き込みながら、Aの手を見る。


「火傷を」


「後でいい」


 Aは息を荒くした。


 白い仮面の表面に煤がついていた。目元の硬い縁が熱を持っている。


 保存室の中で、ガラスケースが次々に割れていった。


 かつて保存された夢が、炎に呑まれていく。


 彼らは廊下へ出た。


 しかし、そこでも炎は広がっていた。


 仮面室の扉の隙間から、火が見える。


 Aは足を止めた。


 開ける必要はなかった。扉の隙間だけで十分だった。


 壁一面に吊られていた仮面が燃えている。


 白い仮面。黒い仮面。蒼白い仮面。子ども用の小さな仮面。召使いの黒いフェイスマスク。Aのために作られた予備の白い仮面。顔の代用品たちが、熱で歪み、焦げ、内側から崩れていく。


 二号が立ち止まった。


 彼女の視線は、黒いフェイスマスクの列へ向いていた。


 自分と同じもの。

 番号の召使いたちの顔。

 顔を捨てさせられた者たちの、交換可能な覆い。


 それが、炎に呑まれている。


 二号の手が、自分のマスクに触れた。


 白い手袋の指が、黒い布の縁をそっと押さえる。


 Aは言った。


「外してもいい」


 二号は動かなかった。


 長い沈黙のあと、首を横に振った。


「まだ、できません」


 声は小さかった。


 恥じるようでもあった。


 Aは頷いた。


「なら、今はそのままでいい」


 二号がAを見た。


 Aは続けた。


「外せるときに、君が外せばいい。今、無理に外さなくていい」


 二号の目が揺れた。


 顔を取り戻すより先に、選ぶことがある。


 Mの言葉が、煙の中で静かに残っていた。


 そのとき、廊下の奥から何かが倒れる音がした。


 次に、杖の音。


 こつ。


 だが、いつもの軽やかさはなかった。引きずるような、不揃いな音だった。


 Jが現れた。


 倒れ込むように壁に手をつき、片膝をつきかける。白手袋は汚れ、片方は破れていた。仮面の端には傷が走り、口元には血が滲んでいる。杖の先は折れかけ、銀の飾りが歪んでいた。


 それでも、彼は笑った。


「いやあ。再登場には、少し煙が多いね」


 Sが言った。


「まだ生きてたのか」


「残念ながらね。死に損なうのは得意なんだ」


 Aは駆け寄った。


「マダム・ヴィーは?」


 Jは息を整え、顎で奥を示した。


「上座へ戻ったよ。最後の舞台は、やっぱり食堂か大広間がいいらしい」


「逃げていないんですね」


「彼女は燃やされているんじゃない」


 Jは血の混じった息を吐いた。


「燃やしている」


 Aは奥を見た。


 赤い煙の先に、食堂へ続く廊下がある。


 最初にAが名前を与えられた場所。手の甲への接吻を強いられ、Aという一文字を受け取った場所。Gが言いかけた言葉を遮られ、Sが暴れ、Mの空席が置かれていた場所。


 マダム・ヴィーはそこにいる。


 Aは胸元のリボンを握った。


 焦げかけた白い布。小さな銀の鍵。血のついた指。


「行きます」


 Mが首を振った。


「もう行く必要はありません」


 Sも言った。


「あんたが行けば、あの女は喜ぶ」


 二号は何も言わず、Aを見ていた。


 Jは壁にもたれたまま言った。


「行きたいなら行けばいい。ただし、救おうとは思わないほうがいい」


「救いに行くんじゃない」


 Aはリボンを握った。


「僕の名前を、あの人の前で取り戻す」


 Sは舌打ちした。


 Mは目を伏せ、それから頷いた。


「……わかりました」


 二号が鍵束を差し出そうとする。


 Aは首を振った。


「ここから先は、一人で行きます」


「A様」


「出口を探してください。井戸も。まだ下に人がいる」


 二号の身体が強張った。


 Aは彼女を見た。


「君にしか開けられない場所があるはずです」


 二号は鍵束を握りしめた。


「……はい」


 Jが笑う。


「主役の一人歩きか。悪くない」


「あなたは歩けるんですか」


「歩けるよ。格好よくはないけれど」


 Aは彼らを一度見た。


 S。M。二号。J。


 全員が壊れている。傷ついている。完全ではない。


 けれど、いま彼らは自分の役割を少しずつ外し始めている。


 Aは食堂へ向かった。


 熱が強くなる。


 廊下のカーテンが燃え、壁紙が剥がれ、天井の梁から火の粉が落ちる。白い仮面の縁が熱を帯びる。仮面が皮膚へ食い込むように感じた。だが、もう怖くはなかった。


 食堂の扉は開いていた。


 中は、炎の大広間になっていた。


 赤い食卓。


 白いクロスはところどころ焦げ、皿は割れ、ワイングラスは熱でひび割れている。Mの蒼いナプキンは半分燃え、灰になりかけていた。Gの席は最初からなかったかのように空白で、そこへ火の粉が落ちている。Sの椅子は倒れている。Jのグラスは割れて床に転がっていた。


 上座には、マダム・ヴィーがいた。


 銀の車椅子。


 黒いベール。


 赤いルージュ。


 炎に照らされた横顔は、恐ろしいほど美しかった。


 食卓の上には、赤い花が置かれている。倒れた香油瓶から、赤い液体がクロスへ染み込み、そこから炎が広がっていた。隣には、白銀の継承用仮面が置かれている。熱を受けても、まだ美しい形を保っていた。


 マダム・ヴィーは逃げる気がなかった。


 むしろ、最も美しく見える場所を選んで座っているようだった。


 Aは食堂の入口で立ち止まった。


「あなたが火をつけたんですか」


 マダム・ヴィーは微笑んだ。


「ええ。夢は、誰かに壊される前に、主の手で閉じるべきですもの」


 炎が、彼女の赤い唇を照らした。


「不完全な夢ほど、醜いものはありません」


 Aは黙っていた。


 マダム・ヴィーは続ける。


「あなたは後継者にならなかった。SとMは二人に戻ろうとしている。二号は番号の軽さを捨てようとしている。Jは舞台を台無しにした。Gの汚れた帽子は、余計な真実を残した。あなたのお母様のリボンは、保存室から持ち出されてしまった」


 彼女はAの胸元を見た。


 リボンの存在を見抜いている。


「もう、美しい作品ではありません。ですから、閉じるのです」


「あなたは、また言い換える」


 Aは言った。


 マダム・ヴィーは微笑む。


「言葉は、美しくなければ」


「美しくなくていい」


 Aの声は、煙で少し掠れていた。


「Gさんの帽子みたいに、汚れていても、人が残っているほうがいい」


 マダム・ヴィーの目が、わずかに動いた。


 G。


 彼女が異物と呼び、夢に馴染めなかったと片づけた男。酒と煙草と汗染みのある帽子を残した男。美しくなかったからこそ、最後まで人間の匂いを失わなかった男。


 Aはその名前を、炎の中で置いた。


 マダム・ヴィーはゆっくりと、食卓の上の白銀の仮面へ手を伸ばした。


 それを持ち上げる。


 炎の中で、継承用の仮面は美しかった。


 白と銀。冷たく、滑らかで、まるで人間の顔よりも完璧な顔。内側には細い管と布があり、額には領主家の紋章に似た意匠が刻まれている。


 彼女はそれをAへ差し出した。


「Aとして、ここに残りなさい」


 その声は甘かった。


「あなたの本名など、もう苦しいだけでしょう」


 Aは黙った。


 完全な嘘ではなかった。


 本名には苦しみがある。


 母の逃亡。

 白峰の血。

 領主Xの血筋。

 自分がこの館へ近づいたこと。

 Gを連れてきたこと。

 Gを救えなかったこと。

 井戸の底の声をすぐに助けられなかったこと。

 Mを疑い、Sを恐れ、二号を傷つけ、Jを信用できなかったこと。


 名前を取り戻せば、そのすべてが戻ってくる。


 Aでいれば、軽い。


 一文字。


 始まりの文字。


 何も持たず、何も背負わず、ただ夢の館の後継者として座っていればいい。


 マダム・ヴィーは、それを見抜いていた。


「Aは軽い名ですわ。あなたを縛るものを、何も持たない。始まりの文字。美しいでしょう?」


 Aは白銀の仮面を見た。


 美しい。


 たしかに、美しかった。


 だが、その美しさの奥には、何も残らない空洞があった。


 Aは胸元のリボンを握った。


 焦げた白い布。銀の鍵。自分の血。母の記憶。


「軽くなんて、ならなくていい」


 その瞬間、記憶が戻った。


 炎ではない。


 熱ではない。


 母の手だった。


 幼い自分の前に、女が膝をついている。赤い唇。だが、それはマダム・ヴィーのものではない。自分を所有するための赤ではない。泣くのをこらえ、震える息を押し殺し、それでも笑おうとする赤。


 背後でSが叫んでいる。


「早く行け!」


 Mが泣いている。


「置いていかないで」


 若いマダム・ヴィーが扉のそばにいる。開けているのか、閉めようとしているのか、まだわからない。ただ、その顔には今のような女主人の微笑みはない。傷つき、迷い、何かを失う直前の女の顔だった。


 母が、幼いAの手を包む。


 小さな銀の鍵。

 白いリボン。


 その手を閉じさせる。


 そして、額を寄せる。


 声が聞こえた。


「暁人」


 Aは息を呑んだ。


 母の声。


 初めて、はっきりと名前を呼んだ。


「有栖川暁人。忘れてもいい。怖くなったら、忘れてもいい。だけど、捨てないで。あなたの名前は、あなたのものだから」


 仮面の内側で、涙か汗かわからないものが頬を伝った。


 Aは立っていた。


 炎の食堂で。


 マダム・ヴィーの前で。


 白い仮面をつけたまま。


 彼は言った。


「僕の名前は、有栖川暁人」


 赤い唇が止まった。


 A――暁人は続けた。


「でも、Aでもあった」


 マダム・ヴィーの表情が動く。


「あなたに奪われた名前も、ここで生き延びるために使った名前も、僕の一部だ。だから、もうあなたには決めさせない」


 白い仮面に、音がした。


 ぴしり。


 小さな亀裂。


 額ではない。頬の縁から、目元へ向かって細い線が走った。


 Mの薬が、仮面の作用を弱めていた。

 二号が拘束と調整具の一部を外していた。

 炎の熱が、固定を緩めていた。

 母の声が、本名の暗示を破った。

 そして、Aという仮名さえ自分のものとして引き受けたことで、マダム・ヴィーの名づけは効力を失った。


 もう、仮面は完全ではなかった。


 暁人は仮面に手をかけた。


 痛みが走った。


 皮膚に密着していた縁が剥がれる。首元の痕が焼けるように痛む。内側の細い固定具が外れる感覚がある。頬の皮膚が引っ張られ、涙が滲む。


 マダム・ヴィーが初めて声を荒げた。


「おやめなさい」


 暁人は言った。


「これは、僕の顔です」


 そして、自分の手で仮面を外した。


 空気が触れた。


 熱い。


 煙で汚れた、苦い空気だった。

 美しい空気ではない。

 火の粉が頬に当たり、涙がそのまま肌を伝い、煙が喉へ入って咳が出る。頬は痛み、目は沁み、呼吸は苦しい。


 だが、それは自分の呼吸だった。


 仮面の内側を通らない空気。

 誰かに管理されていない息。


 暁人は初めて、苦しいのに自由だと思った。


 マダム・ヴィーは、彼の素顔を見ていた。


 その表情は複雑だった。


 怒り。

 失望。

 執着。

 懐かしさ。

 逃げた女への記憶。

 憎んだ領主の血への嫌悪。

 作り損ねた後継者への未練。


 彼女は、静かに言った。


「よく似ていますわ」


 誰に、と暁人は聞かなかった。


 母にか。

 領主Xにか。

 逃げた者たちにか。

 あるいは、マダム・ヴィーが失ったすべてにか。


 彼女は少し笑った。


「やはり、顔は残酷ですわね」


 暁人は煙の中で息をした。


「だから隠すんじゃなくて、見て決めるんです」


 マダム・ヴィーは目を伏せた。


 炎が食卓を舐める。ワイングラスが割れた。白銀の継承用仮面が熱で少し歪み、片側が沈む。完璧な顔が、炎の中で崩れていく。


 暁人は言った。


「一緒に出ましょう」


 それは、救済ではなかった。


 ただ、選択肢だった。


 彼女が最後まで人間であるなら、選ぶ余地だけは差し出さなければならないと思った。


 マダム・ヴィーは微笑んだ。


「優しいのね。お母様に似て」


 暁人は何も言わなかった。


 彼女は首を振る。


「でも、私は外へは出ません」


「なぜ」


「外に出れば、私はただの女になりますもの」


 その声には、初めて裸の恐怖があった。


 マダム・ヴィーではなくなる恐怖。

 夢の館の女主人ではなくなる恐怖。

 名前、過去、身体の傷、領主Xに壊された記憶、自分が誰かを壊した事実。そのすべてが、外の光の下で戻ってくる恐怖。


 彼女は、それを選ばない。


 暁人は理解した。


 彼女は助けを求めていない。


 彼女は、自分を美しい悪夢として保存しようとしている。


 だから暁人は言った。


「それなら、僕はあなたの終幕には参加しない」


 マダム・ヴィーの赤い唇が、かすかに震えた。


 怒りか、笑みか、わからない。


 そのとき、天井の梁が大きく軋んだ。


 炎が大広間に広がっている。カーテンが燃え、天井から火の粉が降る。食卓の上の赤い花が黒く焦げる。継承用の仮面の銀の装飾が熱で歪む。


 梁が落ちた。


 出口の一部を塞ぐ。


 暁人は一瞬、立ち止まった。


 背後からSの声が飛んだ。


「こっちだ!」


 食堂の横手、召使い用の扉が開いていた。


 Mがそこに立っている。二号が鍵を持ち、扉を押さえている。Sが煙の中から身を乗り出している。その後ろに、Jがいた。負傷している。杖に体重を預けながら、それでも笑っていた。


「最後の最後で、主役が焼け死ぬのは趣味が悪いよ」


 暁人はマダム・ヴィーを振り返った。


 彼女は炎の中で微笑んでいた。


 黒いベールの端に火がついている。銀の車輪が炎を映して赤く光る。赤い唇だけが、最後まで鮮やかだった。


「よい夢を」


 マダム・ヴィーが言った。


 暁人は答えた。


「もう、起きます」


 そして、背を向けた。


 扉へ走る。


 煙が喉に入る。仮面がない顔に火の粉が触れる。痛い。苦しい。涙が流れる。それでも、彼は走った。


 Sが腕を掴み、引き込む。


「遅い!」


「すみません」


「謝るな。走れ!」


 Mが暁人の顔を見て、息を呑んだ。


 二号も、黒いフェイスマスクの奥で目を揺らした。


 Jが笑う。


「なるほど。顔は残酷だね」


「今、感想はいりません」


「了解。生き延びたら改めて褒めるよ」


 彼らは燃える廊下を走った。


 Sが先導する。Mが息を切らしながら続く。二号が鍵束で扉を開ける。Jが後ろから杖で燃えた梁を押さえ、道を作る。暁人は母のリボンと割れた仮面を抱え、煙にむせながら走った。


 仮面がない。


 そのことを、身体が何度も思い出した。


 煙が直接入る。

 熱が直接触れる。

 涙が直接頬を伝う。

 息は苦しい。


 けれど、自分の息だ。


 途中、井戸へ続く裏通路の前で、微かな声が聞こえた。


 水。

 名前。

 助けて。


 言葉になりきらない声。


 暁人は足を止めた。


 Sが叫ぶ。


「今は無理だ!」


 Mが震えながら二号を見る。


「でも、鍵が」


 二号は鍵束を見た。


 その手が震える。


 しかし、今度は止まらなかった。


「井戸の下には、横格子があります。処理場から外へ繋がる排水路の鍵です」


「開けられるのか」


 暁人が問う。


 二号は頷いた。


「完全ではありません。ですが、下の格子は開きます」


 彼女は鍵束から古い鉄の鍵を一本外した。


 それを、井戸へ続く暗い補助扉の鍵穴に差し込む。回す。重い音がした。さらに脇の開放機構を引く。奥で、鉄が動く低い音が響いた。


 どこか下のほうで、水か空気が抜ける音がした。


 二号は小さく息を吐いた。


「これで、下の格子は開きます」


 井戸の底の者たちを、いまここで全員救い出すことはできない。


 だが、閉じたままにはしない。


 暁人は頷いた。


「行こう」


 彼らは裏庭へ出た。


 夜の外気が、熱い肺に刺さるようだった。


 屋敷の裏庭は炎に照らされていた。赤い花が燃えている。かつて甘く鈍い香りを放っていた花弁は、黒く縮れ、焦げた甘さを夜へ吐き出している。焼却炉の煙と、屋敷本体の煙が混ざり、空へ上がる。


 井戸の鉄蓋は熱で軋んでいた。


 遠くで、地下から抜けるような風の音がする。助けを呼ぶ声がまだあるのか、火と煙の音に紛れて聞き取れなかった。


 二号は外へ出た瞬間、膝をつきそうになった。


 Mが支える。


 Sも反対側から乱暴に腕を掴む。


「倒れるなら後にしろ」


「……申し訳ございません」


「謝るなって、何回言わせるんだよ」


 二号はそれ以上言えなかった。


 Jはその場に座り込んだ。


「いやあ、外の地面はいいね。趣味は悪いけれど、燃えていない」


「座ってる場合か」


「立っている場合でもない」


 Sが舌打ちしたが、手は貸さなかった。


 暁人は屋敷を振り返った。


 夢の館が燃えていた。


 赤い廊下。食堂。仮面室。保存室。映写室。領主Xの部屋。井戸。焼却炉。あらゆるものが炎と煙の中でつながり、一つの巨大な悪夢として夜に浮かんでいる。


 中にはまだ、マダム・ヴィーがいる。


 領主Xも地下にいるのかもしれない。


 保存された遺品の多くは燃えた。仮面も、映像も、記録も、すべては灰になっていく。


 それでも、すべてが終わったわけではない。


 暁人には、勝利の高揚はなかった。


 ただ、重い息があった。


 仮面のない顔で、彼は息をしていた。


 そのとき、二階の大きな窓に影が見えた。


 車椅子の影。


 黒いベールの影。


 炎を背にして、マダム・ヴィーの輪郭が浮かび上がる。


 一瞬、その影が立ち上がったように見えた。


 本当に立ったのか、炎がそう見せただけなのか、誰にもわからない。


 黒いベールの影が、ゆっくりカーテンの向こうへ消える。


 次の瞬間、窓が内側から崩れた。


 火の粉が夜空へ舞い上がる。


 Sが呟いた。


「最後まで、舞台女優気取りかよ」


 Jが座り込んだまま言った。


「そこが、彼女の一番厄介なところでね」


 Mは何も言わなかった。


 二号も何も言わなかった。


 暁人も、何も言わなかった。


 沈黙だけが、燃える館の前に落ちた。


 やがて、暁人は手に持っていた白い仮面を見た。


 割れている。


 内側には薬剤の染みがあり、細い管のようなものが焦げ、汗か血かわからない跡が残っていた。自分の顔を隠していたもの。Aという名を固定していたもの。マダム・ヴィーの言葉を、皮膚のすぐ外側に貼りつけていたもの。


 Sが言った。


「捨てろよ、そんなもの」


 Mは何も言わなかった。


 二号はその仮面を見て、自分の黒いマスクに手を添えた。


 暁人は、仮面を捨てなかった。


「これは、証拠です」


 少し間を置いて、続けた。


「それに、僕がAだった証でもある」


 Sは顔をしかめる。


「悪趣味だね」


 Jが笑った。


「いいじゃないか。悪趣味は生存者の特権だ」


 暁人は仮面を胸に抱えた。


 二度とつけるつもりはない。


 だが、なかったことにはしない。


 奪われた名も、隠された顔も、眠らされた時間も、Aとして生き延びた時間も、すべてを誰かの美しい言葉で片づけさせないために。


 遠くから、車の音がした。


 一台ではない。


 複数のライトが、霧の向こうで揺れている。警察か、消防か、旧領主家の代理人か、財団の関係者か。まだわからない。サイレンは聞こえない。ただ、外の世界が近づいてくる気配だけがある。


 暁人は燃える館を見上げた。


 これで終わりではない。


 Gの死。

 井戸の底の者たち。

 領主Xの血筋。

 白峰の過去。

 マダム・ヴィーの外にいる協力者。

 夢の館に出入りしていた者たち。

 隠されてきた失踪者。

 燃えてしまった証拠。

 燃え残った証拠。


 片づけなければならないものは、まだ山ほどある。


 それでも、いまは外にいる。


 Aは、いや、有栖川暁人は、仮面のない顔で夜明け前の煙を吸い込んだ。


 苦かった。


 熱かった。


 それでも、彼は自分の息で呼吸していた。

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