第13章 ― 夢の館炎上
焦げた匂いが、赤い花の甘さを塗り潰していった。
最初は、焼却炉の煙だと思った。
庭の奥にあった煉瓦造りの炉。人間から剥がされた布、名札、レース、手袋を燃やしていた場所。あそこから立ちのぼる煙なら、Aはすでに嗅いでいる。古い布と薬品と、焼け残った名前の匂い。
けれど、いま通路に流れ込んでくる煙は違った。
もっと新しい。
乾いた木材が焼ける匂い。壁紙が熱を含み、糊が焦げる匂い。重いカーテンが炎を吸い、布の奥に隠していた埃を吐き出す匂い。そこに、赤い花の香油が混じって、甘く、重く、息をするたび喉の奥に絡みついた。
二号が黒いフェイスマスク越しに息を詰めた。
「煙が……」
遠くで、召使いの声がした。
「東翼です!」
別の声がそれに重なる。
「焼却炉ではありません!」
Mの顔色が変わった。
蒼いベールの奥で、唇が白くなる。
「東翼には、保存室が」
Sが低く言った。
「誰が火を?」
誰も答えなかった。
けれど、二号が震える手で鍵束を握りしめた。
「お館様です」
Aは彼女を見た。
「見たんですか」
二号は首を振った。
「いいえ。ですが……わかります」
その声はかすれていた。
「お館様は、不完全になったものを他人に渡しません。夢が壊されるくらいなら、ご自分で閉じられます」
夢を閉じる。
火を放つことさえ、この館では美しい言葉に置き換えられる。
Aは奥歯を噛んだ。
マダム・ヴィーは逃げていない。
追い詰められて火をつけたのではない。彼女にとって炎は敗北ではなく、額縁なのだ。崩れかけた夢を、最後にもっとも美しい形で固定するための。
Sが舌打ちした。
「趣味が悪すぎる」
Jはいない。
彼はマダム・ヴィーを足止めするため、赤い廊下に残った。背後から聞こえた杖の音、車輪音、召使いたちの足音。その後、何が起きたのかはわからない。
Aは通路の奥、煙の濃い方角を見た。
Mが彼の腕を掴んだ。
「今は、逃げるべきです」
その声には、恐怖があった。だが、それだけではない。理性があった。Aを止めなければならないという、切迫した判断がある。
「保存室に行きます」
Aは言った。
Mの手に力が入る。
「駄目です」
「そこに、母のリボンがあります」
自分で口にして、胸の奥が疼いた。
白いリボン。
幼い手に握らされたもの。地下の保存室で見つけたもの。母の手の温度を、まだ指先に残しているもの。マダム・ヴィーが保存し、飾り、物語の一部に変えていたもの。
「母の記憶を、もう一度燃やされるわけにはいかない」
Sが吐き捨てた。
「馬鹿だね」
だが、止めなかった。
彼女は割れた赤黒い仮面の奥からAを睨み、それから煙の方へ視線を向けた。
「行くなら急げ。感傷に浸ってる暇はない」
二号が鍵束を握り直した。
「東翼へは、召使い用の短い通路がございます」
「案内してください」
二号は頷いた。
彼らは煙の中へ進んだ。
召使い用の通路は、すでに白く霞み始めていた。壁際のランプは煙に滲み、足元の木床がところどころ熱を持っている。遠くで、何かが崩れる音がした。重いものが落ち、床を揺らす。続いて、ガラスが割れる高い音。
Mが咳き込んだ。
Sが乱暴に彼女の腕を引く。
「口を塞げ。吸うな」
「わかっています」
「わかってる顔じゃない」
「あなたもです」
「うるさい」
二号が自分のエプロンの端を裂き、Mへ渡した。Mはそれを口元に当てる。Aも袖で口元を覆った。まだ白い仮面はついたままだ。目元は隠されているのに、煙は口と鼻から容赦なく入ってくる。
東翼へ近づくほど、熱が増した。
赤い廊下の先で、火が揺れている。
保存室の扉は半開きだった。
内側から橙色の光が漏れている。煙が扉の隙間から流れ出し、廊下の天井へ這っていく。
Aは扉を押した。
熱が顔にぶつかった。
保存室は燃えていた。
かつては静かだった部屋。人間の痕跡を、展示品のように並べていた場所。帽子、手袋、靴、名札、写真、仮面、リボン、鍵、時計、髪飾り。人が人であった証を剥ぎ取り、持ち主から切り離して、美しい記録に変えていた部屋。
いま、そのすべてが炎の中で崩れている。
手袋が燃える。
靴の革が反り返る。
名札の金具が赤く熱を持つ。
写真の顔が黒く縮み、誰だったのかもわからない影になる。
白い仮面のひとつが熱で歪み、笑っているような形になってから崩れ落ちた。
炎は解放にも見えた。
展示物にされていたものが、ようやくガラスケースを破って消えていくようにも見える。
だが同時に、二度目の殺害にも見えた。
生きていた痕跡が、誰の手にも戻らないまま、灰になっていく。
Aは歯を食いしばった。
すべては救えない。
その事実が、煙よりも苦かった。
「どこだ」
Sが叫ぶ。
「白いリボンです。小さな銀の鍵のそばに」
Aは棚の位置を思い出す。
奥。右側。硝子ケース。子どもの手が届かない高さ。隣には古い時計と、黄ばんだ写真。
火のついた布が天井から落ちてきた。
Sが蹴り飛ばす。
「早くしろ!」
二号がMを支えながら、入口近くで咳き込む。
Mの声が震えた。
「奥の棚、右です」
彼女も覚えていたのだ。
Aは煙の中を進んだ。
熱い。
目が痛い。
仮面の縁に煤がつく。
喉が焼けるようだった。
棚の前に辿り着く。
硝子ケースは熱で割れていた。ひびが蜘蛛の巣のように走り、内部へ煙が入り込んでいる。
その中に、白いリボンがあった。
端はすでに焦げていた。かつての白は黄ばみ、さらに灰色にくすみ、片側が黒く縮れている。だが、結び目は残っていた。
隣に、小さな銀の鍵。
Aは手を伸ばした。
割れた硝子の縁が指に触れる。
熱い。
皮膚が焼ける痛みが走った。だが、引かなかった。リボンを掴む。鍵も一緒に取る。硝子の破片が指先を切った。血が滲む。熱で痛みが遅れてくる。
リボンは軽かった。
しかし、掌の中で確かに存在した。
母の手の温度が、炎の中で蘇った気がした。
「取った!」
Aが叫ぶ。
Sが入口から腕を伸ばした。
「戻れ!」
背後で棚が崩れた。
炎が跳ねる。
Aはリボンと鍵を胸元へ押し込み、煙の中を戻った。Sが彼の腕を掴み、乱暴に引き寄せる。二号が扉の外へ押し出す。Mが咳き込みながら、Aの手を見る。
「火傷を」
「後でいい」
Aは息を荒くした。
白い仮面の表面に煤がついていた。目元の硬い縁が熱を持っている。
保存室の中で、ガラスケースが次々に割れていった。
かつて保存された夢が、炎に呑まれていく。
彼らは廊下へ出た。
しかし、そこでも炎は広がっていた。
仮面室の扉の隙間から、火が見える。
Aは足を止めた。
開ける必要はなかった。扉の隙間だけで十分だった。
壁一面に吊られていた仮面が燃えている。
白い仮面。黒い仮面。蒼白い仮面。子ども用の小さな仮面。召使いの黒いフェイスマスク。Aのために作られた予備の白い仮面。顔の代用品たちが、熱で歪み、焦げ、内側から崩れていく。
二号が立ち止まった。
彼女の視線は、黒いフェイスマスクの列へ向いていた。
自分と同じもの。
番号の召使いたちの顔。
顔を捨てさせられた者たちの、交換可能な覆い。
それが、炎に呑まれている。
二号の手が、自分のマスクに触れた。
白い手袋の指が、黒い布の縁をそっと押さえる。
Aは言った。
「外してもいい」
二号は動かなかった。
長い沈黙のあと、首を横に振った。
「まだ、できません」
声は小さかった。
恥じるようでもあった。
Aは頷いた。
「なら、今はそのままでいい」
二号がAを見た。
Aは続けた。
「外せるときに、君が外せばいい。今、無理に外さなくていい」
二号の目が揺れた。
顔を取り戻すより先に、選ぶことがある。
Mの言葉が、煙の中で静かに残っていた。
そのとき、廊下の奥から何かが倒れる音がした。
次に、杖の音。
こつ。
だが、いつもの軽やかさはなかった。引きずるような、不揃いな音だった。
Jが現れた。
倒れ込むように壁に手をつき、片膝をつきかける。白手袋は汚れ、片方は破れていた。仮面の端には傷が走り、口元には血が滲んでいる。杖の先は折れかけ、銀の飾りが歪んでいた。
それでも、彼は笑った。
「いやあ。再登場には、少し煙が多いね」
Sが言った。
「まだ生きてたのか」
「残念ながらね。死に損なうのは得意なんだ」
Aは駆け寄った。
「マダム・ヴィーは?」
Jは息を整え、顎で奥を示した。
「上座へ戻ったよ。最後の舞台は、やっぱり食堂か大広間がいいらしい」
「逃げていないんですね」
「彼女は燃やされているんじゃない」
Jは血の混じった息を吐いた。
「燃やしている」
Aは奥を見た。
赤い煙の先に、食堂へ続く廊下がある。
最初にAが名前を与えられた場所。手の甲への接吻を強いられ、Aという一文字を受け取った場所。Gが言いかけた言葉を遮られ、Sが暴れ、Mの空席が置かれていた場所。
マダム・ヴィーはそこにいる。
Aは胸元のリボンを握った。
焦げかけた白い布。小さな銀の鍵。血のついた指。
「行きます」
Mが首を振った。
「もう行く必要はありません」
Sも言った。
「あんたが行けば、あの女は喜ぶ」
二号は何も言わず、Aを見ていた。
Jは壁にもたれたまま言った。
「行きたいなら行けばいい。ただし、救おうとは思わないほうがいい」
「救いに行くんじゃない」
Aはリボンを握った。
「僕の名前を、あの人の前で取り戻す」
Sは舌打ちした。
Mは目を伏せ、それから頷いた。
「……わかりました」
二号が鍵束を差し出そうとする。
Aは首を振った。
「ここから先は、一人で行きます」
「A様」
「出口を探してください。井戸も。まだ下に人がいる」
二号の身体が強張った。
Aは彼女を見た。
「君にしか開けられない場所があるはずです」
二号は鍵束を握りしめた。
「……はい」
Jが笑う。
「主役の一人歩きか。悪くない」
「あなたは歩けるんですか」
「歩けるよ。格好よくはないけれど」
Aは彼らを一度見た。
S。M。二号。J。
全員が壊れている。傷ついている。完全ではない。
けれど、いま彼らは自分の役割を少しずつ外し始めている。
Aは食堂へ向かった。
熱が強くなる。
廊下のカーテンが燃え、壁紙が剥がれ、天井の梁から火の粉が落ちる。白い仮面の縁が熱を帯びる。仮面が皮膚へ食い込むように感じた。だが、もう怖くはなかった。
食堂の扉は開いていた。
中は、炎の大広間になっていた。
赤い食卓。
白いクロスはところどころ焦げ、皿は割れ、ワイングラスは熱でひび割れている。Mの蒼いナプキンは半分燃え、灰になりかけていた。Gの席は最初からなかったかのように空白で、そこへ火の粉が落ちている。Sの椅子は倒れている。Jのグラスは割れて床に転がっていた。
上座には、マダム・ヴィーがいた。
銀の車椅子。
黒いベール。
赤いルージュ。
炎に照らされた横顔は、恐ろしいほど美しかった。
食卓の上には、赤い花が置かれている。倒れた香油瓶から、赤い液体がクロスへ染み込み、そこから炎が広がっていた。隣には、白銀の継承用仮面が置かれている。熱を受けても、まだ美しい形を保っていた。
マダム・ヴィーは逃げる気がなかった。
むしろ、最も美しく見える場所を選んで座っているようだった。
Aは食堂の入口で立ち止まった。
「あなたが火をつけたんですか」
マダム・ヴィーは微笑んだ。
「ええ。夢は、誰かに壊される前に、主の手で閉じるべきですもの」
炎が、彼女の赤い唇を照らした。
「不完全な夢ほど、醜いものはありません」
Aは黙っていた。
マダム・ヴィーは続ける。
「あなたは後継者にならなかった。SとMは二人に戻ろうとしている。二号は番号の軽さを捨てようとしている。Jは舞台を台無しにした。Gの汚れた帽子は、余計な真実を残した。あなたのお母様のリボンは、保存室から持ち出されてしまった」
彼女はAの胸元を見た。
リボンの存在を見抜いている。
「もう、美しい作品ではありません。ですから、閉じるのです」
「あなたは、また言い換える」
Aは言った。
マダム・ヴィーは微笑む。
「言葉は、美しくなければ」
「美しくなくていい」
Aの声は、煙で少し掠れていた。
「Gさんの帽子みたいに、汚れていても、人が残っているほうがいい」
マダム・ヴィーの目が、わずかに動いた。
G。
彼女が異物と呼び、夢に馴染めなかったと片づけた男。酒と煙草と汗染みのある帽子を残した男。美しくなかったからこそ、最後まで人間の匂いを失わなかった男。
Aはその名前を、炎の中で置いた。
マダム・ヴィーはゆっくりと、食卓の上の白銀の仮面へ手を伸ばした。
それを持ち上げる。
炎の中で、継承用の仮面は美しかった。
白と銀。冷たく、滑らかで、まるで人間の顔よりも完璧な顔。内側には細い管と布があり、額には領主家の紋章に似た意匠が刻まれている。
彼女はそれをAへ差し出した。
「Aとして、ここに残りなさい」
その声は甘かった。
「あなたの本名など、もう苦しいだけでしょう」
Aは黙った。
完全な嘘ではなかった。
本名には苦しみがある。
母の逃亡。
白峰の血。
領主Xの血筋。
自分がこの館へ近づいたこと。
Gを連れてきたこと。
Gを救えなかったこと。
井戸の底の声をすぐに助けられなかったこと。
Mを疑い、Sを恐れ、二号を傷つけ、Jを信用できなかったこと。
名前を取り戻せば、そのすべてが戻ってくる。
Aでいれば、軽い。
一文字。
始まりの文字。
何も持たず、何も背負わず、ただ夢の館の後継者として座っていればいい。
マダム・ヴィーは、それを見抜いていた。
「Aは軽い名ですわ。あなたを縛るものを、何も持たない。始まりの文字。美しいでしょう?」
Aは白銀の仮面を見た。
美しい。
たしかに、美しかった。
だが、その美しさの奥には、何も残らない空洞があった。
Aは胸元のリボンを握った。
焦げた白い布。銀の鍵。自分の血。母の記憶。
「軽くなんて、ならなくていい」
その瞬間、記憶が戻った。
炎ではない。
熱ではない。
母の手だった。
幼い自分の前に、女が膝をついている。赤い唇。だが、それはマダム・ヴィーのものではない。自分を所有するための赤ではない。泣くのをこらえ、震える息を押し殺し、それでも笑おうとする赤。
背後でSが叫んでいる。
「早く行け!」
Mが泣いている。
「置いていかないで」
若いマダム・ヴィーが扉のそばにいる。開けているのか、閉めようとしているのか、まだわからない。ただ、その顔には今のような女主人の微笑みはない。傷つき、迷い、何かを失う直前の女の顔だった。
母が、幼いAの手を包む。
小さな銀の鍵。
白いリボン。
その手を閉じさせる。
そして、額を寄せる。
声が聞こえた。
「暁人」
Aは息を呑んだ。
母の声。
初めて、はっきりと名前を呼んだ。
「有栖川暁人。忘れてもいい。怖くなったら、忘れてもいい。だけど、捨てないで。あなたの名前は、あなたのものだから」
仮面の内側で、涙か汗かわからないものが頬を伝った。
Aは立っていた。
炎の食堂で。
マダム・ヴィーの前で。
白い仮面をつけたまま。
彼は言った。
「僕の名前は、有栖川暁人」
赤い唇が止まった。
A――暁人は続けた。
「でも、Aでもあった」
マダム・ヴィーの表情が動く。
「あなたに奪われた名前も、ここで生き延びるために使った名前も、僕の一部だ。だから、もうあなたには決めさせない」
白い仮面に、音がした。
ぴしり。
小さな亀裂。
額ではない。頬の縁から、目元へ向かって細い線が走った。
Mの薬が、仮面の作用を弱めていた。
二号が拘束と調整具の一部を外していた。
炎の熱が、固定を緩めていた。
母の声が、本名の暗示を破った。
そして、Aという仮名さえ自分のものとして引き受けたことで、マダム・ヴィーの名づけは効力を失った。
もう、仮面は完全ではなかった。
暁人は仮面に手をかけた。
痛みが走った。
皮膚に密着していた縁が剥がれる。首元の痕が焼けるように痛む。内側の細い固定具が外れる感覚がある。頬の皮膚が引っ張られ、涙が滲む。
マダム・ヴィーが初めて声を荒げた。
「おやめなさい」
暁人は言った。
「これは、僕の顔です」
そして、自分の手で仮面を外した。
空気が触れた。
熱い。
煙で汚れた、苦い空気だった。
美しい空気ではない。
火の粉が頬に当たり、涙がそのまま肌を伝い、煙が喉へ入って咳が出る。頬は痛み、目は沁み、呼吸は苦しい。
だが、それは自分の呼吸だった。
仮面の内側を通らない空気。
誰かに管理されていない息。
暁人は初めて、苦しいのに自由だと思った。
マダム・ヴィーは、彼の素顔を見ていた。
その表情は複雑だった。
怒り。
失望。
執着。
懐かしさ。
逃げた女への記憶。
憎んだ領主の血への嫌悪。
作り損ねた後継者への未練。
彼女は、静かに言った。
「よく似ていますわ」
誰に、と暁人は聞かなかった。
母にか。
領主Xにか。
逃げた者たちにか。
あるいは、マダム・ヴィーが失ったすべてにか。
彼女は少し笑った。
「やはり、顔は残酷ですわね」
暁人は煙の中で息をした。
「だから隠すんじゃなくて、見て決めるんです」
マダム・ヴィーは目を伏せた。
炎が食卓を舐める。ワイングラスが割れた。白銀の継承用仮面が熱で少し歪み、片側が沈む。完璧な顔が、炎の中で崩れていく。
暁人は言った。
「一緒に出ましょう」
それは、救済ではなかった。
ただ、選択肢だった。
彼女が最後まで人間であるなら、選ぶ余地だけは差し出さなければならないと思った。
マダム・ヴィーは微笑んだ。
「優しいのね。お母様に似て」
暁人は何も言わなかった。
彼女は首を振る。
「でも、私は外へは出ません」
「なぜ」
「外に出れば、私はただの女になりますもの」
その声には、初めて裸の恐怖があった。
マダム・ヴィーではなくなる恐怖。
夢の館の女主人ではなくなる恐怖。
名前、過去、身体の傷、領主Xに壊された記憶、自分が誰かを壊した事実。そのすべてが、外の光の下で戻ってくる恐怖。
彼女は、それを選ばない。
暁人は理解した。
彼女は助けを求めていない。
彼女は、自分を美しい悪夢として保存しようとしている。
だから暁人は言った。
「それなら、僕はあなたの終幕には参加しない」
マダム・ヴィーの赤い唇が、かすかに震えた。
怒りか、笑みか、わからない。
そのとき、天井の梁が大きく軋んだ。
炎が大広間に広がっている。カーテンが燃え、天井から火の粉が降る。食卓の上の赤い花が黒く焦げる。継承用の仮面の銀の装飾が熱で歪む。
梁が落ちた。
出口の一部を塞ぐ。
暁人は一瞬、立ち止まった。
背後からSの声が飛んだ。
「こっちだ!」
食堂の横手、召使い用の扉が開いていた。
Mがそこに立っている。二号が鍵を持ち、扉を押さえている。Sが煙の中から身を乗り出している。その後ろに、Jがいた。負傷している。杖に体重を預けながら、それでも笑っていた。
「最後の最後で、主役が焼け死ぬのは趣味が悪いよ」
暁人はマダム・ヴィーを振り返った。
彼女は炎の中で微笑んでいた。
黒いベールの端に火がついている。銀の車輪が炎を映して赤く光る。赤い唇だけが、最後まで鮮やかだった。
「よい夢を」
マダム・ヴィーが言った。
暁人は答えた。
「もう、起きます」
そして、背を向けた。
扉へ走る。
煙が喉に入る。仮面がない顔に火の粉が触れる。痛い。苦しい。涙が流れる。それでも、彼は走った。
Sが腕を掴み、引き込む。
「遅い!」
「すみません」
「謝るな。走れ!」
Mが暁人の顔を見て、息を呑んだ。
二号も、黒いフェイスマスクの奥で目を揺らした。
Jが笑う。
「なるほど。顔は残酷だね」
「今、感想はいりません」
「了解。生き延びたら改めて褒めるよ」
彼らは燃える廊下を走った。
Sが先導する。Mが息を切らしながら続く。二号が鍵束で扉を開ける。Jが後ろから杖で燃えた梁を押さえ、道を作る。暁人は母のリボンと割れた仮面を抱え、煙にむせながら走った。
仮面がない。
そのことを、身体が何度も思い出した。
煙が直接入る。
熱が直接触れる。
涙が直接頬を伝う。
息は苦しい。
けれど、自分の息だ。
途中、井戸へ続く裏通路の前で、微かな声が聞こえた。
水。
名前。
助けて。
言葉になりきらない声。
暁人は足を止めた。
Sが叫ぶ。
「今は無理だ!」
Mが震えながら二号を見る。
「でも、鍵が」
二号は鍵束を見た。
その手が震える。
しかし、今度は止まらなかった。
「井戸の下には、横格子があります。処理場から外へ繋がる排水路の鍵です」
「開けられるのか」
暁人が問う。
二号は頷いた。
「完全ではありません。ですが、下の格子は開きます」
彼女は鍵束から古い鉄の鍵を一本外した。
それを、井戸へ続く暗い補助扉の鍵穴に差し込む。回す。重い音がした。さらに脇の開放機構を引く。奥で、鉄が動く低い音が響いた。
どこか下のほうで、水か空気が抜ける音がした。
二号は小さく息を吐いた。
「これで、下の格子は開きます」
井戸の底の者たちを、いまここで全員救い出すことはできない。
だが、閉じたままにはしない。
暁人は頷いた。
「行こう」
彼らは裏庭へ出た。
夜の外気が、熱い肺に刺さるようだった。
屋敷の裏庭は炎に照らされていた。赤い花が燃えている。かつて甘く鈍い香りを放っていた花弁は、黒く縮れ、焦げた甘さを夜へ吐き出している。焼却炉の煙と、屋敷本体の煙が混ざり、空へ上がる。
井戸の鉄蓋は熱で軋んでいた。
遠くで、地下から抜けるような風の音がする。助けを呼ぶ声がまだあるのか、火と煙の音に紛れて聞き取れなかった。
二号は外へ出た瞬間、膝をつきそうになった。
Mが支える。
Sも反対側から乱暴に腕を掴む。
「倒れるなら後にしろ」
「……申し訳ございません」
「謝るなって、何回言わせるんだよ」
二号はそれ以上言えなかった。
Jはその場に座り込んだ。
「いやあ、外の地面はいいね。趣味は悪いけれど、燃えていない」
「座ってる場合か」
「立っている場合でもない」
Sが舌打ちしたが、手は貸さなかった。
暁人は屋敷を振り返った。
夢の館が燃えていた。
赤い廊下。食堂。仮面室。保存室。映写室。領主Xの部屋。井戸。焼却炉。あらゆるものが炎と煙の中でつながり、一つの巨大な悪夢として夜に浮かんでいる。
中にはまだ、マダム・ヴィーがいる。
領主Xも地下にいるのかもしれない。
保存された遺品の多くは燃えた。仮面も、映像も、記録も、すべては灰になっていく。
それでも、すべてが終わったわけではない。
暁人には、勝利の高揚はなかった。
ただ、重い息があった。
仮面のない顔で、彼は息をしていた。
そのとき、二階の大きな窓に影が見えた。
車椅子の影。
黒いベールの影。
炎を背にして、マダム・ヴィーの輪郭が浮かび上がる。
一瞬、その影が立ち上がったように見えた。
本当に立ったのか、炎がそう見せただけなのか、誰にもわからない。
黒いベールの影が、ゆっくりカーテンの向こうへ消える。
次の瞬間、窓が内側から崩れた。
火の粉が夜空へ舞い上がる。
Sが呟いた。
「最後まで、舞台女優気取りかよ」
Jが座り込んだまま言った。
「そこが、彼女の一番厄介なところでね」
Mは何も言わなかった。
二号も何も言わなかった。
暁人も、何も言わなかった。
沈黙だけが、燃える館の前に落ちた。
やがて、暁人は手に持っていた白い仮面を見た。
割れている。
内側には薬剤の染みがあり、細い管のようなものが焦げ、汗か血かわからない跡が残っていた。自分の顔を隠していたもの。Aという名を固定していたもの。マダム・ヴィーの言葉を、皮膚のすぐ外側に貼りつけていたもの。
Sが言った。
「捨てろよ、そんなもの」
Mは何も言わなかった。
二号はその仮面を見て、自分の黒いマスクに手を添えた。
暁人は、仮面を捨てなかった。
「これは、証拠です」
少し間を置いて、続けた。
「それに、僕がAだった証でもある」
Sは顔をしかめる。
「悪趣味だね」
Jが笑った。
「いいじゃないか。悪趣味は生存者の特権だ」
暁人は仮面を胸に抱えた。
二度とつけるつもりはない。
だが、なかったことにはしない。
奪われた名も、隠された顔も、眠らされた時間も、Aとして生き延びた時間も、すべてを誰かの美しい言葉で片づけさせないために。
遠くから、車の音がした。
一台ではない。
複数のライトが、霧の向こうで揺れている。警察か、消防か、旧領主家の代理人か、財団の関係者か。まだわからない。サイレンは聞こえない。ただ、外の世界が近づいてくる気配だけがある。
暁人は燃える館を見上げた。
これで終わりではない。
Gの死。
井戸の底の者たち。
領主Xの血筋。
白峰の過去。
マダム・ヴィーの外にいる協力者。
夢の館に出入りしていた者たち。
隠されてきた失踪者。
燃えてしまった証拠。
燃え残った証拠。
片づけなければならないものは、まだ山ほどある。
それでも、いまは外にいる。
Aは、いや、有栖川暁人は、仮面のない顔で夜明け前の煙を吸い込んだ。
苦かった。
熱かった。
それでも、彼は自分の息で呼吸していた。




