終章 ― 番号ではない名前
夢の館は、夜明け前の空に向かって燃えていた。
炎は、屋敷の窓という窓から舌を伸ばし、黒い煙を霧の上へ吐き出している。赤い花の庭は、もう花壇ではなかった。焼けた花弁が湿った土へ落ち、甘かった香りは焦げ臭さへ変わっていた。あれほど身体の奥を鈍らせていた匂いは、いまはただ苦く、喉を刺す。
井戸の鉄蓋は、半分開いていた。
熱で歪んだ縁が、ぎい、と時折小さな音を立てる。その下から風が上がってくる。声なのか、空気なのか、まだ暁人には聞き分けられなかった。
有栖川暁人は、燃える館の外に立っていた。
顔にはもう、白い仮面はない。
熱い煙が直接肌に触れる。喉は痛み、目は涙で滲み、頬には煤と汗が貼りついている。仮面の縁があった場所には、まだ赤い痕が残っていた。皮膚が空気に触れるたび、ひりつく。
苦しい。
だが、その苦しさは自分のものだった。
彼の手には、割れた白い仮面がある。内側には薬剤の染み、細い管、血か汗かわからない跡。もう二度と顔に戻すつもりはなかった。だが、捨てるつもりもなかった。
それは支配の道具だった。
同時に、彼がAとして生き延びた証でもあった。
二号は、まだ黒いフェイスマスクをつけていた。
外へ出ても、それを外してはいない。白いエプロンは煤で汚れ、手袋も黒ずんでいる。肩は震えていた。炎の熱のせいだけではない。外の空気、外の視線、外の音。そのすべてが、彼女には大きすぎるのだろう。
Mの蒼いベールにも煤がついていた。蒼は灰にくすみ、端は少し焦げている。それでも彼女は、二号の背にそっと手を添えていた。自分も咳き込み、足元も覚束ないのに、誰かを支える手だけは静かだった。
Sの赤黒い仮面は、さらに割れていた。片側はもうほとんど固定できず、指で押さえなければ落ちそうになっている。髪は乱れ、ドレスの裾は裂け、顔の半分には煤がついていた。
それでも彼女の目だけは、まだ燃えていた。
Jは少し離れたところに座り込んでいた。折れかけた杖を抱え、汚れた白手袋の片方を外しかけたまま、痛みを笑いで誤魔化している。仮面には傷があり、口元には乾いた血があった。
誰も、勝ったとは言わなかった。
ただ、生きて外に出た。
それだけだった。
遠くから、車の音が近づいてきた。
一台ではない。
霧の向こうで、複数のライトが揺れる。やがて、砂利道を踏むタイヤの音、扉の開く音、人々の怒鳴り声が重なった。消防隊員らしき男たち。警察の制服。医師らしい鞄を持った者。古い家紋の入った外套を着た男。財団関係者らしき背広姿の男女。
外の世界が来た。
だが、それは暁人が想像していた救いの形とは違っていた。
「マダム・ヴィーは?」
最初に誰かが叫んだ。
「女主人は無事なのか」
「地下の記録室は?」
「招待客名簿は焼けたのか」
「財産目録を確認しろ」
「領主家の保管物はどこだ」
「生存者の確認を――いや、その前に本館の中心部を!」
Sが、燃える館を背にして吐き捨てた。
「最初に聞くのがそれかよ」
Mは静かに目を伏せた。
二号は何も言わない。
ただ、黒いフェイスマスクの奥で呼吸を乱していた。
外部から来た男の一人が、暁人たちへ近づいた。年配の男だった。身なりは整っているが、現場に駆けつけた者の焦りより、何かを失うことへの恐怖のほうが濃い顔をしている。
「君たちは中にいたのか。マダム・ヴィーはどこだ。あの方は――」
二号が一歩前に出た。
暁人は彼女を見た。
彼女の手は震えていた。白い手袋は煤で汚れ、指先には鍵束の跡が残っている。黒いマスクの下で、唇が一度閉じられ、開いた。
「お館様は」
声は震えていた。
だが、途切れなかった。
「自らの夢に焼かれました」
男が言葉を失った。
それは弔辞のようでもあり、告発のようでもあった。
マダム・ヴィーが自ら選んだ終わり。
同時に、彼女が他人の名前と顔を燃やしてきた夢そのものへの宣告。
二号はすぐに頭を下げようとした。
暁人は言った。
「下げなくていい」
二号の肩が止まった。
彼女は頭を下げなかった。
その代わり、浅く、苦しそうに息を吸った。
消防隊員たちが走り出す。警察官が周囲を封鎖しようとする。医師がMとJのほうへ向かう。財団関係者らしき女は、燃える東翼を見て青ざめていた。
暁人は井戸を指した。
「そこに、人がいます」
近くにいた警察官が振り返った。
「井戸に?」
「底に、まだ生きている人がいる。地下の格子は開いているはずです」
すぐには信じなかった。
当然だった。
燃える旧領主邸の庭で、井戸の底に生存者がいると言われても、普通は受け入れられない。警察官は一瞬、暁人の顔を見た。煤に汚れ、火傷の痕があり、割れた仮面を握っている男。錯乱していると判断されてもおかしくない。
二号が鍵束を差し出した。
「地下格子は、開いております」
声は小さい。
だが、彼女は警察官を見ていた。
「下層通路から入れます。処分場の補助扉は……この鍵です」
警察官は戸惑ったように鍵束を受け取る。
「処分場?」
二号は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
暁人が代わりに言った。
「人を捨てる場所です」
その場の空気が、わずかに凍った。
消防隊員と警察官が井戸へ向かう。照明が運ばれ、鉄蓋が完全に開かれる。強い光が暗い穴の中へ落ちていく。
しばらく、何も聞こえなかった。
次に、誰かが叫んだ。
「声がする!」
ロープが下ろされる。医師が呼ばれる。下層通路へ回る者たちが走る。財団関係者の一人が何かを止めようとしたが、Sが睨んだだけで黙った。
井戸の底から、最初の人影が引き上げられた。
痩せた男だった。
年齢はわからない。髪は伸び、顔は土と煤と薬液で汚れている。目だけが大きく見開かれ、光を見ても焦点が合っていない。口元が震え、何かを言おうとしている。
「名前は?」
医師が尋ねた。
男は答えなかった。
代わりに、乾いた声で繰り返した。
「六号……六号……六号……」
二号の身体が震えた。
Mが彼女の肩を支える。
次に引き上げられたのは、女だった。
彼女は毛布に包まれながら、ただ自分の喉を押さえていた。声が出ないのではない。声を出すことそのものを恐れているようだった。
三人目の男が引き上げられたとき、現場にいた刑事らしき人物が手帳をめくった。
「この顔……失踪者リストに」
暁人は顔を上げた。
Gの帽子の匂いが蘇る。
酒。煙草。汗染み。安い整髪料。
帽子の内側に隠された紙片。
Gは間違っていなかった。
彼はここに何かがあると知っていた。失踪した者たちの行き先を追っていた。古い館、匿名のサロン、消えた客人、夢と呼ばれた場所。
だが、彼は公表する前に死んだ。
事故にされかけた。
暁人は割れた白い仮面を握った。
彼の死を、事故にしてはいけない。
火は激しさを増していた。
消防の水がかけられても、中心部の炎はなかなか弱まらない。東翼の一部はすでに崩れ、地下へ落ち込んでいる。保存室のあたりから、細かい火の粉が夜空へ上がった。
やがて、誰かが低い声で言った。
「女主人の遺体が見つからない」
暁人は館を見た。
大広間は崩れた。上座も、長い食卓も、白銀の継承用仮面も、炎の中へ沈んだはずだった。マダム・ヴィーはそこにいた。黒いベール。銀の車輪。赤いルージュ。
けれど、遺体は見つからない。
領主Xの部屋があった地下も、崩落と水で近づけないという。あれが生きていたのか、保存されていたのか、すでに死んでいたのかさえ、外部の者たちには判断できない。
「逃げたのか」
「焼失したんだろう」
「誰かが運び出したのでは」
「記録は? 地下記録は残っているのか?」
ざわめきが広がる。
Sが、燃える館を見上げたまま言った。
「しぶとい女だからね。灰になっても赤い口紅だけ残してそうだ」
Jが薄く笑った。
「残っていたら、むしろ彼女らしい」
Mは何も言わなかった。
二号も何も言わなかった。
暁人も答えなかった。
マダム・ヴィーは死んだのか。
炎の中で完全に焼けたのか。
誰かが痕跡を隠したのか。
それとも、最後の演出として、自分の遺体さえ物語から外したのか。
結論は出なかった。
ただ、赤いルージュの女は、燃える館の中から姿を消した。
外部者の一人が、二号を見た。
「君、そのマスクを外しなさい。確認が必要だ」
二号の身体が硬直した。
命令。
外の人間にとっては当然の指示だったのだろう。身元確認、医療確認、事情聴取。そのために顔を見る。そういう意味で言っただけかもしれない。
だが、二号には違った。
その声は、マダム・ヴィーの声と同じ形をしていた。
外しなさい。
つけていなさい。
名乗りなさい。
黙りなさい。
命じられることそのものが、彼女の呼吸を奪った。
暁人は間に入った。
「命令しないでください」
男は戸惑った。
「しかし、確認を」
「確認は必要でしょう。でも、命令しないでください」
暁人は二号へ向き直った。
「外したいなら、外せばいい。まだ無理なら、そのままでいい」
Mが静かに言った。
「選べばいいのです」
Sがぶっきらぼうに続けた。
「外すも外さないも、あんたの勝手だよ」
Jが地面に座り込んだまま笑った。
「顔を出すにも、舞台の準備というものがある」
二号は、黒いマスクに手をかけた。
白い手袋の指が震えている。
留め具に触れる。
離す。
もう一度、触れる。
誰も急かさなかった。
消防の声、警察官の足音、燃える館の崩れる音。そうしたものが周囲で激しく動いているのに、その場だけは奇妙なほど静かだった。
二号は留め具を外した。
黒いフェイスマスクが、ゆっくり下がる。
現れたのは、ただの若い女性の顔だった。
痩せている。
唇は血の気がなく、震えている。
頬には長く隠されていた跡があり、皮膚は外気に慣れていないように白かった。
だが、怪物ではなかった。
異形でもなかった。
マダム・ヴィーが隠していたのは、恐ろしい顔ではない。
ただの人間の顔だった。
二号は、マスクなしの空気を吸った。
すぐに咳き込む。
Mが背を支える。Sが顔を背けながらも、彼女の肘を支えた。暁人は何も言わなかった。ただ、待った。
やがて彼女は、震えながらも顔を上げた。
暁人は静かに言った。
「名前を、選べばいい」
彼女は目を見開いた。
「名前……」
「本名じゃなくてもいい。今ここで選んでもいい」
Mが頷く。
「名は、戻るものだけではありません。選ぶものでもあります」
Sが言った。
「変な名前にするなよ」
Jが笑う。
「変な名前でも、本人が気に入れば名作だ」
彼女は少しだけ笑いそうになった。
だが、泣きそうにも見えた。
長い沈黙。
燃える館の音の中で、彼女は自分の内側へ耳を澄ませているようだった。忘れた名前を探しているのか。昔どこかで呼ばれた響きを拾っているのか。それとも、今この場で新しく選んでいるのか。
やがて、彼女は言った。
「……依織」
それが本名だったのか、新しい名だったのか、暁人にはわからなかった。
聞かなかった。
確認もしなかった。
ただ、頷いた。
「依織さん」
番号ではない名で呼ばれた瞬間、彼女は泣かなかった。
深く息を吸った。
まだ咳が混じる、頼りない呼吸だった。
それでも、二号ではない誰かが、そこに立っていた。
しばらくして、SとMも身元確認を求められた。
外部者たちは混乱していた。
二人の顔はよく似ている。煤で汚れ、仮面やベールに隠れ、傷つき、疲れ果てている。それでも、血のつながりはあまりにも明白だった。
「どちらがSで、どちらがMですか」
警察官の問いに、Sが苛立った。
「見りゃわかるだろ」
相手は困った顔をした。
Mが静かに言った。
「私はMです」
Sが少し遅れて言った。
「あたしはSだ」
それだけだった。
本名を名乗るかどうかは、まだ決めなくていい。
彼女たちは、マダム・ヴィーの言う「二人で一つの夢」からは出た。だが、すぐに過去の名前へ戻れるわけではない。戻る必要があるのかどうかも、今は誰にも決められない。
Mが暁人を見た。
「あなたのお母様のことは、いつかお話しします」
暁人は頷いた。
「今でなくていいです」
Sが言う。
「今聞いたら、あんたまた倒れるよ」
暁人は少し笑った。
Sは顔を背けた。
医療班がJの手当てを始めた。
彼は白手袋を外されそうになり、明らかに不機嫌な顔をした。
「乱暴だね。これでも気に入っているんだけど」
「手当てが先です」
医師に言われ、Jは大げさにため息をついた。
暁人が近づくと、Jは折れた杖を抱えたまま片眉を上げた。
「どうしたんだい。感謝の抱擁なら遠慮しておくよ。骨が響く」
「これから、どうするんですか」
「さあ」
Jは空を見た。
夜明け前の空は、煙で暗かった。
「退屈する練習でもするよ」
その言葉は軽かった。
だが、軽さの下に空白があった。
マダム・ヴィーの夢を台無しにする。
そのために生きてきた男から、舞台が燃え落ちた後の役目が消えた。その空っぽを、彼はいつもの笑いで隠している。
暁人は言った。
「あなたは、まだ証言できます」
Jは顔をしかめた。
「面倒だね」
「Gさんのためにも」
Jは少し黙った。
そして、軽く笑った。
「死者を口実に働かせるなんて、君もなかなか悪趣味だ」
「生存者の特権でしょう」
Jは満足そうに笑った。
「いい返しだ。少しだけ、君を見直したよ」
空が少しずつ白み始めていた。
夢の館は、まだ燃えていた。
その夜が完全に終わるまでに、何人かが井戸と下層通路から救い出された。だが、全員ではなかった。名前を言える者もいれば、番号だけを繰り返す者もいた。口を開こうとすると過呼吸を起こす者もいた。何年も前に失踪届が出ていた者と一致する人影もあった。
Gの調査は、間違っていなかった。
だが、Gはその報告書を書けなかった。
マダム・ヴィーの遺体は見つからなかった。
領主Xの最期も、曖昧なまま残った。
地下の一部は崩落し、水没し、多くの記録は灰と泥に変わった。燃え残ったものは、外部者たちの手で回収されたが、そのすべてが明るみに出ることはなかった。
夢の館に出入りしていた者たちは多すぎた。
旧い家名。財団。政治家。芸術家。匿名で快楽を買った者たち。名前を捨てる遊びに参加しながら、自分の名だけは守られると信じていた者たち。
夢の館は焼けた。
けれど、夢の館を可能にした社会は、外に残っていた。
数日後、新聞は旧領主邸の大規模火災と不審死について小さく報じた。
数週間後、失踪者保護の続報が出た。
だが、その全貌が書かれることはなかった。
記事には、黒く塗り潰されたような空白が多かった。誰が客人だったのか。誰が見て見ぬふりをしたのか。マダム・ヴィーとは何者だったのか。Gがなぜ死んだのか。Aがどういう名で館に入ったのか。
それらは、簡単には紙面に載らなかった。
一年後。
有栖川暁人は、机の前に座っていた。
窓の外には夜があり、静かな風がカーテンを揺らしている。燃える館の音はもうしない。赤い花の匂いもしない。だが、時折、ふとした瞬間に、喉の奥へ煙の苦みが戻ってくることがあった。
机の上には、いくつかのものが並んでいる。
割れた白い仮面。
焦げた白いリボン。
小さな銀の鍵。
Gの壊れた時計。
帽子から出てきた紙片。
黒い繊維。
赤黒い土を包んだ布。
事件の記事。
公表されなかった失踪者リストの写し。
依織から届いた手紙。
SとMからの短い近況。
Jからの葉書と、小さな劇場のチケット。
暁人は、手記を書いていた。
表紙には、まだ題を入れていない。
仮の題だけが、別紙に書かれている。
『夢の館のマダム・ヴィー』
公表するつもりはなかった。
少なくとも、今は。
書けば、また誰かの名前が晒される。救い出された者たちが、奇妙な事件の生存者として消費されるかもしれない。依織の名が、また二号という番号と並べられるかもしれない。SとMが、同じ顔の姉妹として見世物にされるかもしれない。
だから、今は書くだけだった。
Gのために。
母のために。
依織のために。
SとMのために。
Jが本当に退屈できる日のために。
そして、自分がAだったことを忘れないために。
暁人は、依織の手紙を手に取った。
最初の手紙の署名は、震えていた。
依織。
細く、ところどころ筆圧が抜け、途中で止まりかけた線。それでも、番号ではない名がそこにあった。
二通目では、少しだけ線が強くなっていた。
三通目には、短い近況があった。
夜になると、まだ番号で呼ばれる夢を見ること。黒いマスクを完全に捨てたわけではないこと。知らない人の前では、つい口元を隠してしまうこと。
けれど最近、自分で紅茶を淹れるようになったこと。
誰かに命じられたからではなく、自分が飲みたいと思ったから。
暁人は、その一文を何度も読んだ。
完全な回復ではない。
だが、確かな変化だった。
依織という名が本名だったのか、新しい名だったのか、今でも彼にはわからない。
それでよかった。
名は、由来だけで決まるものではない。使うことで、自分のものになっていく。
SとMからの便りは、同じ紙に書かれていた。
最初の行はMの筆跡だった。
静かで整った字。療養先の窓から、最近は外の道を歩くようになったこと。本を読んでいること。空を見る時間が、以前より少しだけ怖くなくなったこと。
その下に、乱暴な字があった。
『余計なことを書くな。あと、こっちを見るな』
Sの追記だった。
さらに端に、小さく書き足されている。
『こいつは本ばかり読んでる。歩けと言っても遅い。面倒くさい』
その下に、Mの字で、
『Sも一緒に歩いてくれます』
とある。
暁人は少し笑った。
同じ紙の上に、二つの筆跡がある。
似た顔を持つ二人。
だが、文字は違う。呼吸が違う。怒り方も、沈黙の仕方も違う。
夢の館が彼女たちに与えようとした「二人で一つの夢」は、少なくともその紙の上では壊れていた。
Jからの葉書は、さらに短かった。
『退屈に失敗した。』
それだけだった。
差出人名はJ。
本名ではない。
けれど、暁人はそれを見て、これはもうマダム・ヴィーに与えられた役ではないのかもしれないと思った。Jは、Jのまま生きることを自分で選び直しているのかもしれない。
葉書には、小さな劇場のチケットが挟まれていた。
暁人は、まだ行くかどうか決めていない。
母についてのページには、空白が多かった。
焦げた白いリボンを見ると、声だけは思い出せる。
暁人。
母は自分を捨てたのではない。
逃げた。
自分を連れて逃げた。
名前を守ろうとした。
それだけは、いまの彼には確かだった。
だが、逃亡のあと、何があったのか。なぜ母の記憶が赤い唇だけになってしまったのか。母がどこで、どのように終わったのか。まだ書けないことが多すぎた。
暁人は、その空白を消さなかった。
名前を取り戻すことと、すべてを説明できることは同じではない。
書けないこともまた、記録だった。
彼は手記の最後に、マダム・ヴィーについて書いた。
何度も書き直した。
怪物。
そう書くのは簡単だった。
犠牲者。
そう書くのも、ある意味では簡単だった。
だが、どちらも違う。
どちらか一つにすれば、彼女が他人にしてきたことを軽くしてしまう。あるいは、彼女が領主Xに壊された事実を消してしまう。
暁人は、ゆっくりとペンを走らせた。
私は、彼女を怪物とだけ書くことができない。
けれど、彼女を哀れな犠牲者とだけ書くこともできない。
どちらも、彼女が他人にしてきたことを軽くしてしまう。
だから私は、彼女をマダム・ヴィーと書く。
夢の館の女主人。
名前を剥ぎ、顔を隠し、記憶を飾り、最後には自分の夢ごと燃えた女。
それ以上でも、それ以下でもない。
ペンを置いた。
夜風が窓を揺らした。
暁人は席を立ち、窓を開けた。冷たい空気が部屋へ入る。あの館の煙とは違う、ただの夜の空気だった。
しばらく外を見ていた。
どこか遠くで、車の音がする。誰かが歩く音。日常の音。名前を隠さなくてもよい場所の音。
暁人は机へ戻った。
そして、足を止めた。
手記の最後のページに、赤い跡があった。
小さな、唇の形。
赤いルージュの跡。
ページの隅に、まるで誰かが読み終えた印として口づけたように、淡く残っている。
暁人は凍りついた。
部屋には誰もいない。
窓は開いている。夜風がカーテンを揺らしている。机の上には、焦げたリボンと、白い仮面と、止まった時計があるだけだ。
それは本当に口紅なのか。
古い赤インクが移ったのか。
焦げたリボンの染料が指についていたのか。
疲れた記憶が見せた幻なのか。
誰かがここへ来たのか。
マダム・ヴィーが、まだどこかで微笑んでいるのか。
答えは出なかった。
暁人は、長いあいだその赤い跡を見つめた。
そして、ページを破らなかった。
消さなかった。
その下に、一行だけ書き足した。
夢に戻るかどうかは、私が決める。




