第7章 ― 紅い花と井戸
紅茶の味が、まだ口の中に残っていた。
苦い。
甘い。
薬草の青い匂いが、喉の奥に薄く貼りついている。
Aは目を開けた。
見慣れた天蓋があった。象牙色に沈んだ布。古い花模様。高い天井。重いカーテン。鏡のない化粧台。筆記具のない机。
自室だった。
Mの部屋ではない。
蒼いベールも、薄い磁器のカップも、窓辺に立つ細い影もない。最後に見たものは、蒼いベールの向こうで震えるMの唇だった。彼女は、泣いていた。裏切り者の顔で、救いを乞うように。
そのあと、どうやってここへ戻されたのか、わからない。
誰が運んだのか。
二号か。
Mか。
Jか。
Sか。
それとも、お館様の命を受けた召使いたちか。
Aは身を起こそうとした。
身体が重い。
眠りの重さではない。底のほうに錘を沈められたような重さだった。腕を動かすだけで、少し遅れて感覚がついてくる。舌も、喉も、自分のものではないように鈍い。
だが、ひとつだけ違っていた。
仮面の内側が熱くない。
あれほど頬の奥から滲み出していた熱が引いている。目元に密着した白い仮面は相変わらず硬く、息苦しく、彼の顔を奪っている。けれど、皮膚の下へ根を伸ばすような痛みは薄れていた。
首元の痕も、少し軽い。
完全に痛みが消えたわけではない。喉の脇、鎖骨の近く、耳の後ろ。そこにはまだ小さな疼きがある。だが、Mの部屋で起きたあの異変――仮面が内側から熱を持ち、記憶を無理にこじ開けるような感覚はない。
Aは唇を噛んだ。
Mは薬を入れた。
それは事実だ。
Aはそれを見た。小瓶から紅茶へ落ちる数滴を。香りが変わる瞬間を。カップを差し出すMの手の震えを。
そして飲んだ。
自分の意思で。
信じきれないまま。
彼女はAを眠らせた。
同時に、仮面の熱を鎮めた。
裏切られたのか。救われたのか。
どちらか一つに決められないことが、この館ではいちばん不気味だった。
Aは寝具を見た。
乱れていない。
彼は意識を失ったはずだ。Mの部屋で倒れたはずだ。それなのに、今はベッドの中央に寝かされ、掛け布は丁寧に肩まで引き上げられていた。襟元も整っている。袖口も乱れていない。靴は脱がされ、ベッド脇に揃えられている。
誰かが、彼を運んだ。
着衣を整えた。
寝かせた。
身体が他人の手で配置された不快感が、遅れて皮膚に浮かんだ。
Aはゆっくり息を吐いた。
怒りはある。
だが、怒りだけでは何も残せない。
彼はベッドから降りた。足元が少しふらつく。手を伸ばし、窓辺へ向かった。
カーテンの隙間から、白い光が入っている。
Aは布を少しだけ開いた。
庭が見えた。
Gが倒れていたテラス下とは別の、屋敷の裏手にあたる場所だった。石畳が細く続き、その先に花壇がある。整えられた庭。刈り込まれた植え込み。低い柵。だが、そこに咲く花だけが、奇妙に目を引いた。
赤い花。
最初は薔薇に見えた。
しかし、薔薇ではない。
花弁が厚い。色は明るい赤ではなく、暗く沈んだ紅。中心は黒に近く、朝の光を受けてもどこか重い。美しいのに、生花というより、何かの肉片を花の形に整えたような湿った存在感がある。
Aは窓を少し開けた。
湿った空気が入ってきた。
甘い香り。
彼はすぐに、その香りを知っていると思った。
Gの顔にかけられていた白いハンカチ。
Gの部屋の前に残っていた、甘く鈍い匂い。
Mの紅茶の奥にあった薬草の気配。
完全に同じではない。
だが、近い。
同じ根から枝分かれした匂いだ。片方は濃く、片方は澄み、片方は紅茶で薄められていた。けれど、身体の奥に入ると、同じ場所を鈍らせる。
Aは窓を閉めた。
庭へ出る。
それは好奇心ではなかった。
香りが、Gの死と繋がっている。
Aは身支度を整えた。懐に壊れた時計があることを確かめる。襟の内側に紙片。袖口に黒い繊維。Gの残したものが、彼の身体のあちこちに隠されている。
扉を開ける。
廊下へ出ると、すぐに気配を感じた。
二号だ。
姿は見えない。けれど、どこかにいる。あるいは、彼女ではないのかもしれない。屋敷の規則そのものが、Aの背後に立っているように感じる。
正面の廊下を通れば見つかる。
Aは足を止めた。
食器や水差しを運ぶ召使いたちの動きを思い出す。彼らは表の赤い廊下だけを使うわけではない。食堂へ皿を運ぶとき、壁際の細い扉から出入りしていた。水差しは廊下の奥ではなく、脇の通路から運ばれてきた。汚れた布は、飾られた廊下を通らない。
表の屋敷には表の導線がある。
なら、裏にも裏の道がある。
Aは、以前から気になっていた壁際の狭い扉へ向かった。
取っ手に装飾はない。使用人用の扉だ。開けると、冷たい空気が流れた。
そこは、表の廊下とはまったく違っていた。
赤い絨毯はない。代わりに、古い木の床がむき出しになっている。壁は白い漆喰だが、ところどころ湿りで色が変わっている。装飾は少なく、照明も暗い。洗濯糊、薬品、湿った布の匂い。人が生活し、働き、汚れを運ぶ場所の匂いがした。
夢の館の裏側。
Aは壁に手をついた。
手袋はしていない。指先に冷たい湿りが触れる。表の世界で白手袋越しに扱われていたものの裏で、ここには素手で触れるしかない湿りがある。
狭い通路では、仮面がいつもより息苦しかった。壁が近い。視界が狭い。白い仮面の縁が、通路の圧迫感を増幅させる。
それでも進んだ。
通路の奥に、勝手口のような扉があった。
鍵はかかっていない。
外へ出る。
庭の空気は、湿っていた。
表から見えた庭は美しかった。整えられた植え込み。石畳。白い霧。だが、裏庭へ回ると、その美しさは管理の厳密さに変わった。
赤い花だけが、一定の間隔で植えられている。
花壇の周囲には低い柵。土は常に湿っている。水やり用の道具もあるが、それよりも目につくのは、小さな薬剤瓶と布袋だった。花を育てるための庭というより、何かを採取するための畑に近い。
Aは花に近づいた。
香りが強くなる。
甘い。
最初は心地よい。次に、息が深くなる。深く吸ったつもりはないのに、肺の奥へ入ってくる。頭の輪郭が少しぼやけた。視界の端が、ゆっくり赤く染まる。
Aは危険を感じ、一歩下がろうとした。
足元がふらついた。
石畳に手をつきそうになり、辛うじて踏みとどまる。
これだ。
Gのハンカチに残っていた匂い。廊下に残っていた甘さ。意識の輪郭を鈍らせる香り。
Aは呼吸を浅くした。袖で口元を覆う。仮面が目元を塞いでいても、香りは口と鼻から入ってくる。
彼は花壇の土を見た。
黒に近い赤土。常に湿っている。表面は整えられているが、指で少し触れると、下は柔らかかった。
Aはしゃがみ、土を指先に取った。
湿っている。
指につく。
匂いがある。
Gの靴底。
濡れていた。泥と水がついていた。テラスから落ちただけでは説明できない湿り。あの靴底の泥に、この土の匂いが混じっていたのではないか。
Aはハンカチの端を使い、赤黒い土を少し包んだ。自分のものではないハンカチだった。部屋に置かれていたものを持ってきた。こんなものまで証拠の器になる。
立ち上がると、また軽い眩暈がした。
早く離れなければならない。
花壇の奥へ進むと、小さな建物が見えた。
庭師小屋かと思った。
だが、近づくと違った。
焼却炉だった。
古い煉瓦造り。低い煙突。鉄の扉。外側は蔦で少し覆われ、美しい庭の景観を損なわないよう隠されている。だが、煙突の周囲には新しい煤がついていた。扉の取っ手に手を近づけると、まだ熱が残っている。
最近使われたのだ。
Aは周囲を確認した。誰もいない。
扉を開ける。
熱が顔に触れた。
中には燃え残りがあった。
紙。
布。
薄いレース。
黒い繊維。
白い布の端。
焦げた革のようなもの。
小さな金具。
Aは息を止めた。
死体を燃やしているのではない。
少なくとも、今ここにあるのは違う。燃やされているのは、身につけていたもの。名前を示すもの。服。布。記録。飾り。誰かが誰かであった痕跡。
彼は灰の中に、焦げたレースの端を見つけた。
Mの蒼いベールではない。Sの赤黒いドレスでもない。もっと古い。召使いの制服か、客人の装飾か。白かったものが黒く縮れ、端だけがかろうじて模様を残している。
その横に、金具があった。
名札の留め具に似ていた。
焼け残った小さな紙片には、文字の一部があった。
……号
Aは背筋が冷たくなった。
番号。
召使いのものか。
それとも、番号にされる前の誰かのものか。
焼却炉の中の黒い繊維を、Aはじっと見た。
自分が持っている繊維に似ている。だが、完全に同じではない。これはもっと薄い。衣服の端か、マスクの一部かもしれない。Gの爪に挟まっていたものは、もっと厚く、もっと古い暗幕のようだった。
似ているが、違う。
この屋敷は、似たものをいくつも用意して、真実を曖昧にする。
Aは焼却炉の扉を閉めた。
そのとき、足音がした。
重い足音。
Aは咄嗟に小屋の陰へ身を引いた。
庭の奥から、巨漢の男が現れた。
Gの遺体を運んでいた男だ。
召使いのような黒い服を着ている。だが、二号たちとは違う。白いエプロンも、整った所作もない。顔は簡素な黒い覆面で隠されている。客人でも、召使いでもない。人間というより、屋敷の力仕事だけを切り出した装置のように見えた。
肩に麻袋を担いでいる。
重そうだった。
袋はところどころ湿っている。底から、赤黒い水滴が一つ落ちた。土の上に染みる。
Aは息を止めた。
中身が何か、見えない。
人か。
物か。
死体か。
まだ死んでいないものか。
巨漢は焼却炉の前を通り過ぎた。炉には入れない。さらに庭の奥へ向かう。
追うべきではない。
危険だ。
そう思った。
だが、Gの靴底。赤い花。焼却炉。麻袋。井戸のような、まだ見えない何か。
追わなければ、何もわからない。
Aは距離を取って後を追った。
庭の最奥は、花壇の美しさから切り離されていた。植え込みの奥に、石造りの古い井戸があった。
普通の井戸ではない。
石の縁は低く、円形ではなく少し歪んでいる。上には重い鉄蓋がはめられていた。水を汲むための滑車も桶もない。井戸というより、縦穴だった。周囲の雑草は少なく、最近も人が出入りしていることがわかる。
巨漢は麻袋を肩から下ろした。
鉄蓋に手をかける。
重い音がした。
ぎい、と蓋が動く。金属が石を擦る。中は暗い。底は見えない。
Aは植え込みの陰から見ていた。
巨漢は麻袋を持ち上げた。
何のためらいもなく、井戸の中へ落とした。
袋は落ちる途中で一度、内壁に当たった。
鈍い音。
布が擦れる音。
それから、底で何か柔らかいものに落ちる音。
水音ではなかった。
Aの身体が凍った。
巨漢は無言で鉄蓋を閉めた。
そして、そのまま来た道を戻っていく。
Aはしばらく動けなかった。
死体を捨てたのか。
いや、袋の底から滴っていたものは血か。水か。泥か。花壇の薬液か。わからない。わからないことが、かえって恐ろしい。
巨漢の足音が遠ざかった。
Aは井戸へ近づいた。
鉄蓋は重い。完全には閉まっていない。ほんのわずかな隙間がある。巨漢が急いだのか、蓋の縁に小石が挟まったのかもしれない。
Aはしゃがみ、耳を近づけた。
石は冷たい。
鉄の匂い。湿った土。暗闇から上がってくる、生ぬるい息のような気配。
最初は何も聞こえなかった。
次に、かすかな音。
水音ではない。風でもない。
呻き声。
Aは息を止めた。
井戸の底に、誰かがいる。
生きている。
彼は鉄蓋に手をかけた。動かそうとした。重い。腕に力を込めても、わずかに軋むだけで開かない。仮面の内側で息が荒くなる。
中から、かすかな声が上がった。
「……な……まえ……」
Aは凍りついた。
名前、と言ったのか。
助けて、と言ったのか。
まだ、と言ったのか。
声は弱く、湿っていて、言葉になる前に井戸の壁へ吸われていく。
「誰かいるんですか」
Aは小声で呼びかけた。
返事はない。
いや、ある。
息。
呻き。
複数かもしれない。
井戸の底には、死体だけがあるのではない。まだ死んでいない者がいる。けれど、それは救いではなかった。むしろ、もっと深い恐怖だった。
背後で、足音がした。
Aは振り返った。
Sが立っていた。
赤黒い仮面。乱れた髪。剥げた赤いネイル。ドレスの裾は少し汚れている。いつからそこにいたのかわからない。彼女は植え込みの陰から、Aを見ていた。
「死体漁りの次は、穴覗きかい」
声には棘があった。
だが、その奥に、別のものがある。
Aは立ち上がった。
「あなたは……」
Sは井戸を見た。
一瞬だけ、顔が変わった。
怒りではない。恐怖か、嫌悪か。仮面越しでもわかるほどの反応だった。彼女はすぐに表情を怒りで塗りつぶす。
「そこに顔を近づけるな。戻ってこれなくなるよ」
「中に誰がいるんですか」
「知りたいなら、自分で落ちればいい」
「ふざけないでください。人が――」
「人?」
Sは笑った。
笑いというより、喉を傷つけるような音だった。
「この館で、まだ人って呼ばれてるなら上等だよ」
Aは言葉を失った。
井戸の底から、湿った息が上がってくる気がした。名前になりそこねた声。暗闇に押し込められた何か。人と呼ばれなくなったものたち。
AはSに詰め寄ろうとした。
そのとき、視界が揺れた。
赤い。
端から赤く染まっていく。
赤い花の香りを長く吸いすぎたのだ。さらにMの紅茶の余韻、仮面の処置、眠りの重さ、焦りが重なっている。
Sの仮面が歪む。
赤黒い仮面が、夢の中の魔獣の仮面に重なった。黒い角。硬い輪郭。裂けた口。赤い舞踏会の光。
Aはふらついた。
「馬鹿」
Sが舌打ちした。
「あの花の近くで息をするな」
彼女の手が、Aの襟元を掴んだ。
乱暴だった。
高い襟が首元の痕を引っ張り、痛みが走る。仮面の縁もわずかに揺れ、Aは息を詰めた。それでも、Sは構わず引きずるように彼を花壇から離した。
石段のところまで来て、ようやく手を離す。
Aは咳き込んだ。
花の香りが薄くなる。視界の赤が少しずつ引いていく。代わりに、喉の奥に甘い不快感だけが残った。
Sは腕を組んで彼を見下ろした。
「Mの部屋に行ったんだろ」
Aは顔を上げた。
「なぜ知っているんです」
「さあね」
「Mさんは、僕に紅茶を飲ませました」
Sの顔が歪んだ。
「飲んだのか。馬鹿だね」
「彼女は僕を眠らせた」
Sはしばらく黙った。
風が、赤い花の香りを薄く運んでくる。Sはそちらを見ず、井戸のほうも見なかった。
やがて、低く言った。
「あの子は、眠らせるくらいしかできないんだよ」
Aは聞き逃さなかった。
「あの子?」
Sは一瞬、しまったという顔をした。
すぐに怒鳴る。
「うるさい。聞くな」
「Mさんも、あなたのことを“あの子”と言いました」
「聞くなって言ってるだろ!」
Sの声が鋭く跳ねた。
だが、Aはもう確信に近いものを得ていた。
SとMは深い関係にある。
ただ同じ館にいる客人ではない。
互いを怒りと沈黙で隠している。
井戸のほうから、再び音がした。
今度は、Aだけではなかった。
Sも聞いた。
かすかな声。
「……み……ず……」
水。
そう聞こえた。
Aは立ち上がろうとした。
Sが腕を掴んだ。
「やめろ」
「生きているんです」
「だからだよ」
Aは意味がわからなかった。
Sは井戸を睨んだ。いや、井戸そのものを見ないように、わずかに視線をずらしていた。
「死んでるなら、まだ楽だ」
低い声だった。
「生きてるから、あそこにいる」
Aの背筋が凍った。
死んでいないことが、救いではない。
この館では、生きているからこそ、隠される場所がある。客人にも召使いにもできず、死者として片づけることもできない者たちが、名前を奪われ、声を奪われ、暗闇へ落とされる。
井戸の底から、湿った息のような気配が上がってくる。
遠くで声がした。
「A様をお探しです」
召使いの声。
二号かもしれない。三号かもしれない。複数の足音が近づいてくる。
Sは舌打ちした。
「戻れ。今ならまだ、庭に迷っただけで済む」
「中の人は」
「助けたいなら、今ここで騒ぐな」
SはAの袖を掴んだ。
「あんたが消えれば、誰も助けられない」
乱暴な言葉だった。
けれど、正しかった。
Aは井戸を見た。
鉄蓋の隙間。暗闇。水ではない落下音。名前になりそこねた声。
助けたい。
だが、今は蓋を開ける力もない。巨漢の男もいる。召使いたちが来る。ここで騒げば、A自身が井戸の中へ落とされるかもしれない。
Aは悔しさを飲み込んだ。
Sは彼を裏道へ押しやる。
「戻れ。あと、Mを責めるな」
Aは振り返った。
Sは井戸を見ていた。
「あの子はあの子で、壊れないように必死なんだよ」
Sの横顔が、霧の中で少しだけ見えた。
仮面に隠れている。髪も乱れている。それでも、Aはそこにどこか見覚えを覚えた。夢の中の赤い唇の女ではない。だが、その輪郭に近い何か。母という言葉に触れたとき、胸の奥で痛む形に、少しだけ似ていた。
Aが何か言う前に、Sは顔を背けた。
「行け」
Aは裏道へ戻った。
庭から屋敷へ入る勝手口の前で、二号に見つかった。
彼女はいつもより焦っていた。
「A様。お探しいたしました」
黒いフェイスマスクの奥で、呼吸が少しだけ乱れている。走っていたのかもしれない。あるいは、走ってはいけないと躾けられているため、走れないまま急いだのかもしれない。
「少し、庭に迷いました」
Aは言った。
嘘だった。
下手な嘘でもあった。
二号の視線はすぐにAの袖へ落ちた。赤黒い土がついている。靴の縁にも土がある。さらに、Aの呼吸がまだ少し浅いこと、服に赤い花の香りが移っていることにも気づいたようだった。
二号の姿勢が硬くなる。
彼女は白い手袋の指で、Aの袖についた土を払った。
その所作は丁寧だった。だが、指先がわずかに強張っていた。
「あの花の近くには、長くいらしてはいけません」
Aは彼女を見た。
「なぜです」
二号は答えなかった。
いつもの沈黙。
そして、いつもの言葉。
「わたくしには、お答えする権限がございません」
Aは何も言わなかった。
二号は少しだけ顔を伏せた。
それから、聞こえるか聞こえないかの声で付け加えた。
「……お身体に障ります」
Aは息を止めた。
それは忠告だった。
命令でも、定型文でもない。規則の隙間に押し込められた、二号自身の言葉に近かった。
「知っているんですね」
二号は答えなかった。
答えないまま、Aの袖口を整えた。赤い土が完全には落ちない。白い手袋に、かすかな赤が移った。
二号はその汚れを見た。
一瞬だけ、何かを思い出したように手が止まる。
「A様。お部屋へお戻りください」
「はい」
Aは従った。
今は。
自室へ戻ると、二号は何も言わずに扉を閉めた。鍵の音はない。けれど、廊下の向こうに彼女が立っている気配があった。
Aは机の前に座った。
紙はある。
ペンはない。
また、頭の中で繰り返す。
赤い花。
甘い香り。
Gのハンカチ。
濡れた靴底。
赤黒い土。
焼却炉。
焦げたレース。
名札の金具。
黒い繊維。
麻袋。
巨漢の男。
井戸。
呻き声。
名前。水。
Sの言葉。
死んでるなら、まだ楽だ。
生きてるから、あそこにいる。
Aは机に手をついた。
Gの死は、終わりではなかった。
単独の事故でも、ただの殺人でもない。この館には、人を消すための手順がある。香りで鈍らせ、服や名札を燃やし、死者は事故に変え、まだ死んでいない者は見えない場所へ落とす。
美しい庭は、死者を隠すためだけにあるのではない。
まだ死んでいない者を、見えなくするためにも咲いている。
MはAを眠らせた。
Sはそれを知っていた。
二号も赤い花の危険を知っていた。
Jは半分だけ信じろと言われている。
Gは帽子の内側でMを探せと残した。
全員が何かを隠している。
だが、隠している理由は同じではない。
AはSの横顔を思い出した。
井戸を見ないようにする目。
Mを「あの子」と呼んだ声。
Aの襟を掴んで花壇から引き離した乱暴な手。
母の夢に似た輪郭。
次に問うべき相手は、Sだ。
Gの死は、終わりではなかった。庭の井戸の底で、まだ誰かが名前になりそこねた声を上げていた。Aはその声を忘れないよう、仮面の内側で息を止めた。




