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第6章 ― Mの部屋

 Mを探せ。


 Gが帽子の内側に残したその文字は、ほかのどの言葉よりも静かだった。


 有栖。

 白峰。

 領主邸。

 三姉妹。

 Vは正当な主ではない。

 母は館で死んでいない。

 七時四十七分。

 映。地下。

 Jを信じるな。半分だけ信じろ。


 どの言葉も、Aの記憶のどこかを叩いた。けれど、扉は開かない。ただ奥で音がするだけだった。なのに、Mという一文字だけは違った。


 食卓にあった空席。


 蒼いナプキン。

 誰も触れないグラス。

 Sが鋭く放った「Mの話をするな」という声。

 Jの言った「部屋にこもるのが好きな淑女」。

 そして、Gの死者の言葉。


 Mを探せ。


 Aは紙片を襟の内側に戻し、壊れた時計を懐へしまった。時計の冷たさが、胸元で静かに存在を主張する。七時四十七分。死者の時間。あるいは、死へ歩かされた時間。


 帽子はGの部屋へ戻した。黒い繊維は袖口の裏に隠してある。紙片は襟元。時計は懐。自分の身体が、証拠の隠し場所になっていく。


 この部屋に筆記具はない。

 文字で残せないなら、身体で覚えるしかない。


 Aは扉の前に立った。


 二号に尋ねることはできた。


 Mの部屋はどこですか。

 そう聞けば、彼女は答えないだろう。あるいは、お館様の許可が必要でございます、と言うだろう。もっと悪ければ、AがMを探していることが、すぐに館へ伝わる。


 それだけではない。


 以前に二号は見逃した。Gの帽子と時計を。Aが証拠を持っていることを。彼女は「見なかったことにいたします」と言った。


 あれは、二号にとって小さな反抗だった。


 その反抗を、これ以上こちらから踏みにじりたくなかった。


 Aは廊下へ出た。


 赤い絨毯は相変わらず足音を吸う。屋敷は昼の光の中でも薄暗い。窓には重いカーテンが引かれ、外の霧は布越しに白く滲んでいる。布で覆われた肖像画が、壁に並んでいた。どれも顔を隠されている。見えない顔に見られているようで、Aは背筋に薄い冷たさを感じた。


 客人の部屋には、アルファベットの札がある。


 S。

 G。

 J。


 だが、Mの札は見つからなかった。


 Aは一度、食堂へ向かう廊下を歩き、そこから別の細い通路へ入った。壁紙の色が変わる。赤ではなく、灰がかった青。床の絨毯も少し古い。人が通る頻度が低いのか、空気に閉じた匂いがある。


 誰も通らない廊下。


 途中、使われていない階段があった。鎖はかかっていない。けれど、階段の上には薄く埃が積もっている。行ってはいけない、と書かれているわけではないのに、誰も上がらない階段。開いているのに通れない場所。この屋敷には、そういう場所が多すぎる。


 Aはさらに奥へ進んだ。


 そこで、蒼い花を見つけた。


 細い花瓶に、一本だけ活けられている。薔薇ではない。名を知らない花だった。花弁は薄く、青というより、霧を含んだ蒼。食卓のMのナプキンと同じ色に見えた。


 その先から、香りがした。


 古い茶葉の香り。

 乾いた薬草。

 わずかに甘く、しかし食堂の香水ほど濃くない。

 吸い込むと、仮面の内側ではなく、記憶の奥のほうに入ってくるような香りだった。


 Aはその香りを辿った。


 顔は仮面に覆われている。視界は狭い。けれど、香りだけは隙間から入ってくる。誰にも止められない。鏡も筆記具も名前も奪える。だが、香りだけは、本人の許可なく身体の奥へ入り込む。


 廊下の突き当たりに、扉があった。


 古い扉だった。他の客室よりも彫刻は少なく、木目はくすんでいる。札はない。Mという文字もない。ただ、取っ手に蒼いリボンが結ばれていた。


 食卓の蒼いナプキンと同じ色。


 Aは扉の前に立った。


 しばらく、ノックできなかった。


 Gは死んだ。

 帽子はMを探せと告げた。

 だが、そのMが味方とは限らない。


 Jは言った。

 彼女の紅茶は飲みすぎないほうがいい。


 Aは息を整え、扉を叩いた。


 返事はない。


 もう一度叩く。


 中から、かすかな音がした。


 茶器が皿に触れる、小さな音。


 Aは声をかけた。


「Mさん。僕はAです」


 沈黙。


 扉の向こうの空気が、少しだけ動いた気がした。


 やがて、静かな声がした。


「まだ、その名で呼ばれているのですね」


 Aは息を呑んだ。


 その声は小さかった。けれど、弱いだけではない。水の底から聞こえるように静かで、部屋の扉越しでも、まっすぐAの仮面の奥へ届いた。


 まだ、その名で。


 Mは知っている。


 Aという名が、本来の名ではないことを。


「入ってもいいですか」


 Aは尋ねた。


 少しの間。


 それから、内側で鍵が外れる音がした。


 扉が開いた。


 Mの部屋は、赤くなかった。


 食堂の赤、サロンの琥珀色、廊下の暗い朱。そのどれとも違う。部屋全体が、静かな蒼の中に沈んでいた。海ではない。湖でもない。閉じた水槽の中にいるような、外へ流れ出さない水の色だった。


 厚いカーテンが窓を覆っている。だが、完全には閉じられていない。隙間から白い霧の光が入り、窓際の椅子を淡く照らしていた。本棚には古い本が並び、棚の一角には薬草の瓶がいくつも置かれている。机の上には茶器。薄い磁器のカップ。ポット。小さな小瓶。便箋。


 便箋には、書きかけの文字があった。


 途中で止まった線。インクが滲み、文字になる前に崩れている。筆記具もある。Aの部屋にはないものが、この部屋にはある。


 Mは窓際に立っていた。


 蒼いベールを被っている。顔の輪郭は見えるが、細部はわからない。仮面もつけていた。Sの割れた赤黒い仮面とは違う。薄く、静かで、肌に溶けるような淡い色。顔を隠すというより、顔が消えないよう辛うじて覆っているように見えた。


 彼女は細かった。


 窓辺に置かれた白い手首。長い指。蒼い袖。動くたびに、ベールがかすかに揺れる。顔が見えそうで見えない。その見えなさは、マダム・ヴィーの黒いベールとはまったく違っていた。


 マダム・ヴィーのベールは支配するためのものだった。

 Mのベールは、消えるためのものに見えた。


「お入りください」


 Mは言った。


「けれど、長くいてはいけません」


 Aは部屋へ入った。


 扉が静かに閉まる。


 その音だけで、廊下から切り離された気がした。だが、安心はなかった。ここも屋敷の中だ。どれほど静かでも、完全に安全な場所ではない。


 Mは茶器の前へ向かった。


「紅茶を」


「飲むとは言っていません」


 思わずそう言っていた。


 Mは責めなかった。


「飲まなくてもかまいません」


 ポットの蓋を開ける手が、わずかに震えている。Aはそれを見た。Mは隠そうとしているが、茶器の小さな音が震えを告げていた。


「では、なぜ出すんですか」


「手が震えるからです」


 Mは静かに答えた。


「何かをしていないと、声まで震えてしまう」


 Aは言葉を失った。


 紅茶は、罠かもしれない。

 武器かもしれない。

 けれど、この女にとっては、恐怖を形にしないための所作でもあるのだ。


 Mはカップを一つ置いた。


 薄い磁器。淡い琥珀色の液体。湯気。茶葉の香り。薬草の匂いが、ほんの少し混じっている。


 Aはカップを見た。


 Jの紅茶を思い出した。あれは飲まなかった。飲まないことで、かろうじて自分を守った気がした。


 この屋敷では、飲み物は信用できない。


 Mはその警戒を見抜いたように言った。


「今日の紅茶には、まだ何も入れていません」


 Aは顔を上げた。


「まだ?」


 Mの手が止まった。


「言葉のあやです」


「そうは聞こえませんでした」


「ここでは、言葉はよく、言った本人より先に本当のことを言います」


 MはカップをAの前に置いた。


「飲まなくてもかまいません」


 Aは飲まなかった。


 椅子に座る。Mは向かいに腰を下ろした。二人の間には紅茶があり、湯気だけが静かに立ち上っている。


「Gさんは、あなたを探せと残しました」


 Aは言った。


 Mの手が止まった。


 カップが受け皿に触れ、ちいさく音を立てる。


「G様は、正しいことと、間違ったことを同じ紙に書く方でした」


「彼を知っていたんですか」


「少しだけ」


 Mは目を伏せた。


「彼は、この館に似合わない方でした」


 それは、哀悼の言葉に聞こえた。


 Aは胸の奥が少しだけ痛んだ。


「Gさんは殺されたんですか」


 Mはすぐには答えなかった。


 紅茶の湯気が、彼女のベールの前で薄く揺れる。


「この館では、殺される人より、歩かされる人のほうが多いのです」


 Aは身を固くした。


 Jの言葉。


 落ちたんじゃない。

 歩かされたんだ。


「Jも同じことを言いました」


 Aが言うと、Mの指がかすかに動いた。


「J様は、たくさんのことをご存じです」


「信用していいんですか」


「半分だけ」


 Aは息を止めた。


「それも、Gさんのメモにありました」


 Mは驚かなかった。


「なら、G様は正しいことも書いていたのでしょう」


「間違ったことも?」


「人は、怖いときほど、自分が見たものを正しく書けません。けれど、怖いときほど、書かずにはいられないこともあります」


 AはMを見つめた。


 この人は、直接答えない。

 だが、逃げているだけでもない。


 真実に近い場所を歩いている。けれど、足元には見えない線があり、それを踏み越えられない。


「ここには、眼があります」


 Mは突然、声を潜めた。


 Aは周囲を見た。


 壁。カーテン。茶器。本棚。空の額縁。扉。


 何かがあるようには見えない。だが、何もないとは言えなかった。この屋敷では、見えるものより、見えないもののほうが働いている。


「召使いたちの眼。仮面の眼。お館様の眼。館そのものの眼。……それから、まだ名前を持っている者の眼」


「まだ名前を持っている者?」


 Mは答えなかった。


 代わりに、机の上の便箋を裏返した。


 Aはその瞬間、見てしまった。


 文字の途中。


 名前を書きかけた跡。


 だが、それは最後まで続いていない。線は震え、インクは途中で滲み、紙の上で固まっている。まるで、書こうとした手が、途中で痛みに負けたようだった。


 Aは目を凝らそうとした。


 Mの白い手が、それを隠した。


「見ないでください」


「それは」


「まだ、私のものではありません」


 意味がわからなかった。


 自分の名前が、自分のものではない。

 そういうことが、この屋敷では本当に起きるのか。


 二号は言った。名前は必要ございません。

 Mは言う。まだ、私のものではありません。


 どちらも、名前を持たない女の言葉だった。


 Aは、核心へ踏み込んだ。


「僕の母を知っていますか」


 Mの手の震えが止まった。


 それまで小さく震えていた指が、不自然なほど静かになる。カップの湯気だけが、彼女の前で揺れていた。


「あなたは、まだその方を母と呼べるのですね」


 Mは言った。


 Aは苛立ちを覚えた。


「どういう意味ですか」


「ここでは、母という言葉も、長く持っていると重くなります」


「名前を知っているんですか。僕の母の名前を」


 Mは口を開いた。


 声は出なかった。


 唇が震える。喉がひくりと動く。彼女は何かを言おうとしている。だが、言葉が上がってこない。いや、上がってきた言葉が、喉の手前で押し戻されている。


 Mの手が、首元へ向かった。


 Aは息を呑んだ。


 夢の中の赤い唇の女。

 炎の中で、首元を押さえていた女。

 声を出そうとして、名前を呼ぼうとして、音にならなかった女。


 Mも、同じ仕草をしている。


「ごめんなさい」


 Mの声はかすれていた。


「名前は……ここでは、まだ」


「言えないんですか」


 Mは答えなかった。


 答える代わりに、目を伏せた。


 Aは、名前を口にできない制約が、この館に本当に存在することを知った。比喩ではない。規則だけでもない。身体が、声が、喉が、名前を拒む。


「Sさんは、あなたのことを話すなと言っていました」


 Aは話題を変えた。


 Mの指が、再び小さく震え始めた。


「Sは、話すことで守ろうとする人です」


「あれが、守る?」


 Aは食卓でのSを思い出す。割れた仮面。ナイフ。爪で皿を叩く音。見るな、謝るな、早く思い出せ。


「あの子は、怒っていないと死んでしまうのです」


 Mはそう言った。


 あの子。


 Aはその言葉に引っかかった。


「あの子?」


 Mはすぐに顔を伏せた。


「Sは、とても長くここにいます」


「あなたたちは、似ているんですか」


 沈黙。


 部屋の中の蒼が、少し濃くなった気がした。


「見ないほうがいいものもあります」


 Mは言った。


 それは答えではなかった。

 だが、否定でもなかった。


 AはSの割れた仮面と、Mの蒼いベールを思い浮かべた。怒りとして存在する女と、沈黙として消えようとする女。二人は、なぜ同じ食卓に同時にいないのか。なぜSはMの話を拒むのか。


 Mは突然、声を低くした。


「逃げてください」


 Aは彼女を見た。


「どうやって」


「方法は、まだわかりません。けれど、ここに留まってはいけません」


「あなたは?」


「私は、もう長くここにいすぎました」


「一緒に逃げればいい」


 Mは静かに笑った。


 それは、喜びの笑みではなかった。あまりに遠いものを見た人間が、そこへ手を伸ばす者の若さを眩しく思うような笑みだった。


「優しいことを言うのですね。まだ、ここに来たばかりだから」


「なぜ僕を助けるんです」


 Mは少しだけ顔を上げた。


 ベールの奥の瞳が、見えたような気がした。


「あなたが、まだ名前を失いきっていないからです」


 名前を失いきっていない。


 その言葉は、希望のようで、同時に宣告のようでもあった。失いきる、という状態がある。名前は一瞬で奪われるのではなく、少しずつ失われていくものなのだ。


 Aは言い返そうとした。


 その瞬間、仮面の内側が熱くなった。


「っ……」


 目元から頬へかけて、じわりと熱が広がる。白い仮面が、ただの硬い板ではなく、皮膚の下へ細い根を伸ばしてくるようだった。首元の痕が強く疼く。鎖骨の近く。喉の脇。耳の後ろ。


 耳鳴りがした。


 遠くで、映写機が鳴る。


 かた。

 かた。

 かた。


 部屋の壁に掛かっている空の額縁が視界に入った。そこに何もないはずなのに、Aには赤い光が見えた。舞踏会。影絵の紳士。魔獣の仮面。白い手袋。切れたリボン。赤い唇。


 記憶が戻りかけている。


 そう感じた。


 だが、それは扉が開く感覚ではなかった。内側から無理やりこじ開けられるような痛みだった。


 Aは椅子の背に手をついた。


 身体が傾く。


 Mが立ち上がった。


「もう始まっている」


「何が……」


 Aは問うた。


 Mは答えない。


 棚へ向かい、小瓶を取った。透明な小瓶。中には淡い緑がかった液体が入っている。Mの手は震えている。だが、その動きには迷いがなかった。


 彼女は紅茶のポットを開けた。


 小瓶を傾ける。


 数滴。


 紅茶の中へ落ちた。


 湯気の香りが変わった。


 茶葉の香りの奥に、薬草の苦みが立ち上がる。昨夜から廊下に漂っていた甘い鎮静香とは違う。もっと苦く、もっと澄んでいる。


 Aはそれを見た。


「今、何を入れたんですか」


 Mは静かに言った。


「あなたを、まだ地下へ行かせないためのものです」


 Aは立ち上がろうとした。


 足がふらつく。


「嫌です」


 Mはカップを差し出した。


「飲んでください」


「嫌です」


 今度は、はっきり言った。


「あなたは、逃げろと言った。なのに、薬を入れたものを飲ませるんですか」


「このままでは、仮面があなたの記憶を無理に開きます」


 Mの声は震えていた。


「開き方を間違えれば、あなたは壊れる」


「意味がわかりません」


「わからないままでいい。今は、まだ」


「その“まだ”を、皆さん都合よく使いますね」


 Aは笑いそうになった。笑えなかった。


 部屋の外から足音が聞こえた。


 遠い。だが、近づいている。


 Mの顔色が変わる。


「時間がありません」


「これは、毒ですか」


 Mは首を振った。


「いいえ」


 少し間を置いて、彼女は言った。


「毒より、少しだけ優しいものです」


 Aはその言い方に寒気を覚えた。


 優しいもの。


 マダム・ヴィーも、忘却を救いと呼んだ。夢は記憶より優しいと言った。言葉の形だけなら似ている。


 だが、Mの声には痛みがあった。


 支配するための優しさではない。

 せめて壊れ方を遅らせようとする、弱い人間の嘘のように聞こえた。


 Aはカップを見た。


 GのメモはMを探せと言った。

 JはMの紅茶を飲みすぎるなと言った。

 Mは逃げろと言った。

 そして今、薬を入れた紅茶を差し出している。


 信じていいのか。


 信じられるものなど、この館にあるのか。


 足音が近づく。


 Mの手が震えている。


 その震えを見て、Aはカップを受け取った。


 磁器は薄く、熱かった。


「もし嘘だったら」


 Aは言った。


 Mは答えた。


「恨んでください」


 Aは紅茶を飲んだ。


 苦い。


 すぐに甘さが追いかけてくる。薬草の味。喉の奥に残る青い苦み。液体が喉を通ると、仮面の内側の熱が少し引いた。


 安心があった。


 その直後に、身体の重さが来た。


 Aはカップを置こうとした。指がうまく動かない。カップが受け皿に当たり、乾いた音を立てる。


「あなたは……僕を……」


 言葉が続かなかった。


 Mが支えようとした。彼女の手は細く、弱かった。それでも、倒れかけるAの腕を必死に受け止めようとする。


「ごめんなさい」


 声が近い。


「まだ、あなたを地下へ行かせるわけにはいかない」


 視界が蒼く滲んだ。


 ベール。湯気。白い手首。紅茶の苦み。仮面の熱が引いていく安心。それと同時に、身体の自由が奪われていく屈辱。


 Aは床へ崩れた。


 倒れながら、記憶の断片を見た。


 蒼いベール。

 赤い唇。

 白いリボン。

 幼い手。

 三人の女性の後ろ姿。


 一人は赤い唇の女。

 二人はよく似た少女。


 片方は泣いている。

 片方は怒っている。


 泣いている少女が、怒っている少女の手を握ろうとする。怒っている少女は、その手を振り払う。けれど、離れない。二人の影は、まるで一人分の輪郭を分け合っているようだった。


 S。


 M。


 名前ではない文字が、遠くで揺れる。


 Mの声が聞こえた。


「S、ごめんなさい」


 それはAに向けた謝罪ではなかった。

 あるいは、Aにも向けられていた。

 誰か一人ではなく、何度も間に合わなかった人々すべてに向けた声だった。


 扉が開く音がした。


 足音。


 一人ではない。


 Aは目を開けようとしたが、瞼が重い。視界の端で、蒼いベールが揺れている。Mが立ち上がった気配がした。


 知らない声が言った。


「お館様がお呼びです」


 Mの声は、低かった。


「この方は、まだ駄目です」


「お館様がお呼びです」


「だから、まだ駄目なのです」


 Aは手を伸ばそうとした。


 指は動かなかった。


 紅茶の底に沈んでいくように、意識が遠ざかった。最後に見えたのは、蒼いベールの向こうで震えるMの唇だった。彼女は、裏切り者の顔で、救いを乞うように泣いていた。

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