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第5章 ― 帽子と止まった時計

 黒い糸は、指先に乗せると、あまりにも頼りなかった。


 Gの死体が倒れていた白い砂利の上で拾ったもの。Gの爪に挟まっていた黒い繊維の一部。たったそれだけのものが、今のAにとっては、Gの死が事故ではないと主張する唯一の物証だった。


 彼は自室の机の前に座っていた。


 机の上には便箋がある。封筒もある。封蝋さえある。だが、ペンはない。鉛筆もない。インクもない。書き留める道具だけが、意図的に取り除かれている。


 名前を書かせないため。

 記録を残させないため。

 自分の記憶を、自分の外側に逃がさせないため。


 Aは黒い繊維を見つめた。


 湿っている。

 埃っぽい。

 指先でこすると、わずかにざらつく。


 二号たちの黒いフェイスマスクの布にも見える。だが、彼女たちのマスクはもっと滑らかで、もっと新しい。洗濯糊と清潔な布の匂いがする。この繊維は違う。古い劇場の幕のような、閉じられた部屋に長く吊るされていた布の匂いがした。


 暗く、重く、埃を吸った布。


 Aは黒い糸を、便箋の上に置いた。


 白い紙の上で、それは小さな傷のように見えた。


 彼は目を閉じ、頭の中で繰り返した。


 靴底。水。

 黒い繊維。

 白いハンカチ。甘い香り。

 時計。七時四十七分。

 帽子がない。

 死体を見なかったマダム・ヴィー。

 笑っていたJ。

 震えていた二号。

 Gの口。何かを言いかけていた。

 事故。


 最後の言葉だけは、声に出さずとも毒のように苦かった。


 事故、とマダム・ヴィーは呼んだ。

 だから、この屋敷の召使いたちはGの死体を布で包み、血を水で薄め、白い砂利を整えた。死体は安置室と呼ばれる場所へ運ばれ、庭は庭に戻された。


 証拠は片づけられる。

 死者の顔は隠される。

 死者の席は食卓から消される。


 それでも、この黒い糸だけは残った。


 Aはそれを摘み上げ、袖口の内側へ戻した。ここには隠し場所がない。部屋の中のものはすべて、この館のものだ。机も、衣装箪笥も、寝台も、呼び鈴の紐も。自分の身体だけが、かろうじて自分に残された保管場所だった。


 そのことが、ひどく心許なかった。


 だが、同時に、確かな手応えでもあった。


 Gは死んだ。

 だが、Gの持ち物はまだ嘘をついていない。


 Aは椅子から立ち上がった。


 Gの部屋をもう一度調べる。


 その決意は、怒りよりも静かだった。怒りはすでにあった。悲しみもある。恐怖もある。だが、それらを表に出しても、この屋敷ではすぐに別の名前を与えられてしまう。


 不穏。

 混乱。

 疲労。

 事故のショック。


 だから、声にしない。


 見る。

 覚える。

 拾う。

 隠す。


 Aは扉の前に立った。


 二号の動きを思い返す。


 水差しの交換は、目覚めてからしばらく後。薬湯の確認はその少しあと。食事の案内は決まった時間。着替えの確認は、外出や面会の前。彼女はいつも突然現れるように見えるが、実際には屋敷のリズムに従っている。


 ならば、その隙間がある。


 支配のリズムを読めば、支配の隙も読める。


 Aは仮面の位置を自分で整えた。


 目元から頬へ密着する白い硬さ。いまだに慣れない。だが、指で縁を確かめる仕草も、少しずつ自分のものになっている。それが嫌だった。嫌だったが、今は使えるものは使うしかない。


 彼は扉を開けた。


 廊下は静かだった。


 赤い絨毯に足を置く。足音はほとんどしない。壁に並ぶ布をかけられた肖像画が、朝の薄い光の中で眠っているように見える。誰もいない。いや、誰もいないように見える。


 Aは一歩ごとに息を抑えた。


 Gの部屋へ向かう道は、もう覚えている。


 Sの扉。Mの扉。蒼い布。曲がり角。燭台の短い蝋。壁に残る車輪の細い傷。Gの札。


 Gの部屋の前に着いた。


 Aは周囲を確認した。廊下の奥に人影はない。杖の音も、車輪の音も、黒いフェイスマスクの召使いたちの気配もない。


 ドアノブに手をかける。


 開いた。


 中へ入る。


 そして、すぐに違和感を覚えた。


 部屋が整いすぎていた。


 朝、最初に入ったときには、まだGの生活の痕跡が残っていた。乱れたベッド。机の上の酒瓶。グラス。包帯。水差し。くたびれた旅行鞄。Gの匂い。煙草と酒と安い整髪料の混じった、生きた人間の匂い。


 今は、それらが薄れている。


 酒瓶はない。

 グラスもない。

 包帯も、最初から置かれていなかったように消えている。

 ベッドの掛け布は整え直され、枕はきれいに置かれていた。


 だが、綺麗すぎる。


 枕の位置が、前に見たときと左右逆だった。

 ベッドの皺は、眠った人間の身体が作ったものではない。上から押さえつけて平らにしたあと、残った皺だけが不自然に走っている。

 机の上は拭かれているが、奥の埃が一部だけ残っている。

 椅子はテーブルからわずかに離れている。

 床には、細い水跡があった。


 入口から奥へ、ではない。


 奥から入口へ。


 誰かが濡れたものを運び出したような跡。拭き取られているが、木目の間にわずかな湿りが残っている。薬品と洗濯糊の匂いが、部屋全体を薄く覆っていた。


 Gの部屋ではなくなっている。


 Gがいたという事実を、部屋ごと消そうとしている。


 Aはゆっくり息を吐いた。


 これは清掃ではない。


 証拠隠滅だ。


 だが、完全ではない。


 完全に片づけようとするからこそ、片づける前の形が見えてしまう。Gがここで眠ったように見せたい。Gが酒を飲んで部屋へ戻り、眠り、ふらふらとテラスへ出て落ちたように見せたい。だからこそ、部屋は「眠った人間の部屋」に整えられた。


 けれど、Gはここで眠っていない。


 少なくとも、死の直前までここにいたわけではない。


 Aは部屋を調べ始めた。


 衣装箪笥。空。

 机の引き出し。便箋だけ。筆記具はない。

 ベッドの下。埃が一部だけ乱れているが、何もない。

 カーテンの裏。窓は少しだけ開いている。だが、外側に足跡はない。

 洗面台。水滴は拭き取られている。

 旅行鞄。空ではないが、替えのシャツと靴下、古い雑誌、割れた櫛だけ。


 帽子はない。


 Aは焦りを覚えた。


 Gの言葉は間違っていたのか。

 それとも、もう誰かに持ち去られたのか。

 あるいは、自分がまだ見落としているのか。


 帽子を見るな。

 いや、見るんだ。


 言い直したのはなぜだ。


 見るなと言った直後に、見るんだと言った。外から見てはいけない。あるいは、普通に見てはいけない。見る場所が違う。


 外側ではなく、内側。


 まず帽子を見つけなければならない。


 Aはもう一度、部屋を見回した。


 クローゼットの奥に、麻袋が置かれていた。


 さきほどは見落としていた。いや、正確には、床と同じ色の影に紛れていた。Aは膝をつき、手を伸ばす。


 麻袋は古く、屋敷の洗濯物を入れる袋に似ていた。口は紐で軽く結ばれているだけだ。


 中を開けた瞬間、匂いがした。


 煙草。

 整髪料。

 汗。

 古い布。


 Gの匂いだった。


 中折れ帽が入っていた。


 Aは息を止めた。


 帽子は汚れ物として投げ込まれたのではなかった。薄い布に包まれ、潰れないように形を保たれている。丁寧に、奥へ隠されている。


 誰かが隠した。


 あるいは、誰かが守った。


 Aは帽子を取り出した。


 くたびれた帽子だった。


 夢の館の中にあるものは、たいてい過剰に清潔だった。磨かれた銀食器。白い手袋。皺のないエプロン。汚れひとつない仮面。そうしたものに囲まれていると、この帽子の汚れは異物だった。


 だが、Aにはその汚れが、ひどく人間らしく見えた。


 汗染み。

 少し潰れたつば。

 内側の革に残る皮脂。

 煙草の匂い。

 安い整髪料の匂い。


 Gは生きていた。


 酒を飲み、煙草を吸い、軽口を叩き、帽子を指で持ち上げ、Aを先生と呼んだ。屋敷の人工的な美しさの中で、この汚れた帽子だけが、Gが本当に存在していたことを証明しているようだった。


 Aは帽子の内側を見た。


 汗止め革がある。黒ずみ、擦れ、縫い目がほつれかけている。一見、ただの古い革だ。だが、革の端に、爪でこじ開けたような跡があった。


 Aの指が震えた。


 縫い目を探る。


 革はきつく縫いつけられている。だが、一箇所だけ糸がゆるい。そこへ爪を入れ、ゆっくり開く。自分の爪は短く整えられている。誰かが切った爪だ。こんなときまで、それがもどかしい。


 ようやく、革の裏から何かが出てきた。


 小さく折り畳まれた紙片。


 湿気を吸って波打っている。端は少し破れ、インクも滲んでいた。だが、文字は残っている。


 Aは息を殺して紙を開いた。


 読める部分だけを追う。


 有栖……


 白峰……


 領主邸


 三姉妹


 Vは正当な主ではない


 母は館で死んでいない


 Mを探せ


 Aの指が止まった。


 母は館で死んでいない。


 その一文だけが、紙の上から浮き上がって見えた。


 彼は無意識に、夢の中の炎を思い出した。赤い唇の女。首元を押さえ、声を出せず、幼いAに鍵を握らせた女。


 彼女は、この館で死んだのではないのか。


 そもそも、死んだのか。

 逃げたのか。

 連れ去られたのか。

 Aが見た炎は、死の記憶ではなく、逃走の記憶なのか。


 Aは胸を押さえた。


 頭痛が来るかと思った。だが来なかった。代わりに、深い空白が胸の奥で開いた。


 母。


 自分は母を知っている。

 母さん、と叫んだ。

 だが、顔は思い出せない。


 赤い唇しか。


 Aは紙片を光にかざした。


 窓から差し込む霧の光は弱い。仮面越しの視界は少し歪んでいる。それでも、紙の繊維の奥に別の文字が浮かぶのが見えた。


 表の文字とは違う。


 薄く、透かしのように仕込まれている。


 7:47


 映……


 地下


 帽子は半分


 Jを信じるな


 いや、半分だけ信じろ


 Aは眉をひそめた。


 Jを信じるな。

 いや、半分だけ信じろ。


 Gらしい言い方のような気もした。混乱しているようで、意図的でもある。完全に信じるな。だが、完全に切り捨てるな。Jは嘘をつく。だが、全部が嘘ではない。


 帽子は半分。


 どういう意味だ。


 Aは帽子本体へ視線を戻した。


 汗止め革の裏に、文字とは別の傷がある。針か爪で刻まれた小さな記号。直線と点。地図のようにも、アルファベットの配置図のようにも見える。


 Aにはまだ読めない。


 だが、これも手がかりだ。


 紙片は表。

 透かしの文字。

 帽子本体の記号。


 Gは情報を分けて隠した。


 紙が奪われても、帽子が残れば何かが残る。帽子が処分されても、紙片だけでも何かが伝わる。見つけた者がすぐ理解できなくても、後で意味を持つ。


 Gは死の前に、そこまで考えていたのか。


 いや、死を予期していたのか。


 そのとき、扉が開いた。


 Aは振り返った。


 二号が立っていた。


 黒いフェイスマスク。白いエプロン。白い手袋。静かな姿勢。だが、彼女の目は帽子へ落ちた。


 一瞬、動きが止まった。


 Aはとっさに紙片を手の中に握り込んだ。帽子を隠そうとしたが、間に合わない。二号はもう見ている。


 沈黙が落ちた。


「この帽子をここに隠したのは、あなたですか」


 二号は答えなかった。


「Gさんの帽子は現場になかった。さっき部屋を見たときもなかった。なのに、ここにある。誰が戻したんですか」


 二号の唇が、黒いマスクの下でわずかに動いた。


「それは、処分されるはずのものでした」


「処分?」


 Aの声が低くなった。


「お館様は、不要なものを残されません」


 Aは帽子を握りしめた。


「Gさんは不要なものじゃない」


 二号が震えた。


 本当にわずかに。

 だが、震えた。


「……わたくしには、お答えする権限がございません」


「知っているんですね」


「お答えする権限がございません」


「この帽子がここにあることを、あなたは知っていた」


 二号は目を伏せた。


 嘘をついているのではない。


 言えないのだ。


 だが、帽子がここにあることを知らなかったわけではない。見つけて驚いたのではない。見つけられてしまったことに、動揺したのだ。


 Aは帽子を胸元へ引き寄せた。


 二号の白い手袋が、帽子へ伸びかけた。


 途中で止まる。


 帽子からは、Gの生活臭がした。二号の手袋からは、洗濯糊と清潔な布の匂いがした。その対比が、妙に痛々しかった。


 こつ。


 廊下から杖の音がした。


 こつ。

 こつ。


 Aは閉じたくなった目をこらえた。


 Jが現れた。


「死者の部屋で逢い引きとは、趣味が悪いね」


 いつもの軽口。


 だが、Jの視線はすぐ帽子へ向いた。


 ほんの少し、表情が変わった。


「それを見つけたのか」


 Aは警戒を強めた。


「あなたが隠したんですか」


 Jは答えなかった。


 代わりに、懐へ手を入れた。白手袋の指が、何かを摘み出す。


 壊れた腕時計だった。


 Gの時計。


 Aは息を呑んだ。


「それは……」


「探しているのは、帽子だけじゃないだろう」


 Jは時計を掌に乗せた。


 ガラスは割れている。革のベルトには擦れがある。針は止まっている。


 七時四十七分。


「庭で拾った。いや、拾わせてもらった、と言うべきかな」


「盗んだんですか」


「人聞きが悪い。片づけられる前に保護したと言ってほしいね」


「どちらも同じです」


「そうかな。この館では、言葉が違えば結果も違う」


 Aは時計を受け取った。


 死者の手首から外された物。

 死者の時間。


 時計は掌の中で冷たかった。


 Aは割れたガラスを見つめた。落下で壊れたなら、もっと放射状に割れるのではないか。だが、この割れ方は、一方向から圧力を受けたように見える。時計の竜頭がわずかに浮いていた。衝撃で止まったのか。誰かが操作したのか。磁気か、圧力か。専門的なことはわからない。


 ただ、Gが落ちた瞬間にこの時刻で止まったとは限らない。


 それだけはわかった。


「七時四十七分は、死亡時刻ではないかもしれない」


 Aが呟くと、Jが目を細めた。


「死者が持っていた時計ほど、嘘つきなものはない」


「では、なぜ渡したんです」


「嘘つきは、真実を隠す場所を知っているから」


「あなたの言葉は、いつも答えになっていない」


「答えは危険だからね。手がかりくらいがちょうどいい」


 二号が一歩前に出た。


「それらは、お館様へお預けください」


 声は丁寧だった。

 だが、いつもより硬い。


 Aは時計を握った。


「これはGさんのものです」


「お客様の遺品は、館でお預かりする決まりです」


 Jが笑った。


「便利な決まりだ。死者の持ち物も、死者の言葉も、全部預かってくれる」


「J様」


 二号の声が強くなった。


 初めて聞く響きだった。


 Jがわずかに黙る。


 二号はAへ向き直った。


 黒いマスク越しに、彼女の呼吸が少し乱れているのがわかった。手袋の指が震えている。それでも姿勢は崩さない。


「……見なかったことに、いたします」


 Aは驚いた。


 二号は続ける。


「ですが、長くは隠せません」


「二号」


「わたくしは、何も見ておりません」


 そう言って、彼女は頭を下げた。


 礼儀の形をしていた。

 だが、それは初めて見た、二号の小さな反抗だった。


 彼女は部屋を出ていく。


 背筋はいつもより硬かった。


 扉が閉まったあと、しばらく誰も喋らなかった。


 Aは帽子と時計を持ったまま、Jと向き合った。


「あなたは、Gさんを助けられたんじゃないですか」


 Jはすぐには笑わなかった。


「たぶんね」


 Aの胸の中で、怒りがはっきり形を持った。


「なぜ助けなかった」


 Jの白手袋が、杖の柄を強く握った。


「助けに行けば、君もGも消えた。ボクは、二人のうち一人を選んだ」


 Aは言葉を失った。


「それが許せないなら、正しい。許さなくていい」


「あなたは、それで平気なんですか」


「平気に見えるよう訓練された」


「答えになっていません」


「この館では、答えになる言葉ほど早く死ぬ」


 Jの笑みは戻っていた。


 だが、完全ではない。仮面の下の口元に、わずかに疲れがあった。


「僕はあなたを信用しません」


「それでいい。Gもそう書いていただろう?」


 Aは手の中の紙片を握った。


 Jが気づいた。


「ボクを信じるな、とでも書いてあった?」


 Aは黙った。


 Jは小さく笑った。


「Gは賢い。半分だけね」


「半分?」


「彼は文字で残す男じゃない。というより、文字で残したものは奪われると知っていた。だから、見せる情報と隠す情報を分ける」


 Jは帽子の内側を示した。


「光に透かしたかい」


 Aは答えなかった。


「透かしたね。君は顔より指先のほうが正直だ」


「あなたには見せません」


「見せなくていい。見せた瞬間、ボクも君もそれを知らなかったことにできなくなる」


 Jは帽子へ手を伸ばした。


 Aは帽子を引いた。


「触らないでください」


「全部を君が持っていたら、君が消される」


 Jの声が、珍しく低くなった。


「証拠は一箇所に置かない。人間も、記憶も、手がかりも。この館でひとつにまとめられたものは、必ず美しく片づけられる」


「だから奪うんですか」


「分けるんだよ」


 Jは帽子の汗止め革の端を指で探った。


 白手袋の指が、汚れた革に触れる。その対比がひどく不快だった。綺麗な手袋が、Gの汗染みに触れる。死者の生活臭を、舞台装置のように扱う。


 Jは小さな革片を摘んだ。


 ぷつ、と糸が切れる音がした。


 Aは思わず声を荒げた。


「何をするんです」


「全部を君が持っていたら、君が消される」


 同じ言葉。


 Jは破り取った汗止め革の端を、自分の懐に入れた。


「返してください」


「必要になれば返す」


「信用できるとでも?」


「半分だけ信じろ、とGが言ったんだろう?」


 Aは奥歯を噛んだ。


 Gのメモに書かれていたことを、Jは見ていない。はずだ。だが、知っているように言う。


 Jはどこまで知っているのか。


 あるいは、Gと事前に何かを取り決めていたのか。


 Aは紙片を開き直した。


 Mを探せ。


 その文字に目が止まる。


 食卓の空席。蒼いナプキン。Sの怒り。Jの言葉。部屋にこもる淑女。窓の外ばかり見ている女。


「Mとは何者ですか」


 Aが問うと、Jは杖を軽く床へついた。


「館で一番静かな人」


「それだけですか」


「だから、一番多くを聞いている」


「会えますか」


「会おうと思えばね。ただし、彼女の紅茶は飲みすぎないほうがいい」


「また紅茶ですか」


 Jは笑った。


「この館では、真実はたいてい茶器か酒瓶の底に沈んでいる」


「あなたの紅茶は?」


「飲まなかっただろう」


「飲ませる気はあったんですか」


「会話の小道具に過ぎないと言ったはずだ」


「Mの紅茶も?」


 Jは答えなかった。


 それが答えだった。


 廊下から足音が聞こえた。


 複数。


 二号ではない。彼女の足音はもっと軽い。これは、もっと重く、揃った足音だった。召使いか。あるいは、庭で遺体を運んだ巨漢の男か。


 Jの表情が変わる。


「戻したほうがいい」


「帽子を?」


「帽子そのものはここにあったほうがいい。今、持ち出せば、君が見つけたことがすぐにわかる」


 Aは迷った。


 帽子を置いていくのは、Gを置いていくようだった。


 だが、帽子を持ち歩けば守れない。紙片と時計があれば、今は足りる。帽子本体の記号は覚えるしかない。


 Aは紙片を襟の内側へ隠した。肌に紙の湿りが触れる。首元の痕の近く。そこへ死者の言葉を隠す。


 壊れた時計は懐へ入れた。


 死者の止まった時間を、自分の胸元に持つ感覚があった。


 帽子は、元の布に包み直し、麻袋の奥へ戻す。


 後ろめたかった。


 Gの帽子は、まるでまだ温度を持っているようだった。Aの指に煙草と整髪料の匂いが残る。


 Jが言った。


「見つかれば、君はGの死に興味を持ちすぎた客人になる」


「もう遅いです」


 Jは笑った。


「そう。君はようやく、この館にふさわしくなくなってきた」


 足音が近づく。


 Jは扉とは反対側、カーテンの陰へ一歩下がった。そこに細い脇扉があることに、Aは初めて気づいた。


「あなたはどこへ」


「置物には、置物用の通路がある」


 そう言って、Jは細い扉の向こうへ消えた。


 Aは深く息を吸った。


 部屋を出る。


 廊下の奥から、二人の召使いが現れた。黒いフェイスマスク。白い手袋。彼らはAを見たが、何も言わない。Aも何も言わなかった。


 堂々と歩く。


 慌てている者は疑われる。

 従っているふりをする者は、通り過ぎられる。


 Aは自室へ戻った。


 扉を閉める。鍵の音はしない。それでも、ようやく呼吸が戻った。


 彼は机の前へ座り、襟の内側から紙片を取り出した。懐から壊れた時計も出す。机の上に、二つを並べる。


 便箋はある。

 ペンはない。


 だから、また頭の中で整理する。


 有栖。

 白峰。

 領主邸。

 三姉妹。

 Vは正当な主ではない。

 母は館で死んでいない。

 Mを探せ。

 七時四十七分。

 映。

 地下。

 帽子は半分。

 Jを信じるな。

 半分だけ信じろ。


 時計の針は、七時四十七分で止まっている。


 夢の柱時計。寝室の柱時計。Gの腕時計。

 同じ時刻。


 それが死亡時刻ではないなら、何の時刻なのか。


 映。

 地下。


 映写機。


 Aは胸の奥が冷たくなった。


 そして、M。


 蒼い空席の女。Sが語るなと怒った女。Jが「一番静かな人」と呼んだ女。Gが命をかけて、探せと残した文字。


 Gは死んだ。


 けれど、帽子の内側にはまだ、彼の汗と煙草と、言いそこねた真実が残っていた。


 Aは壊れた時計を握りしめ、次に探すべき文字を見つめた。


 M。

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