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第4章 ― 最初の死者

 廊下の向こうで、何か重いものが床を擦っていた。


 Aは椅子から立ち上がろうとした。だが、身体がすぐには動かなかった。骨の中に濡れた綿でも詰め込まれたように、手足が重い。仮面の内側は熱く、頬にじっとりと汗が貼りついている。喉は乾いていた。首元の痕が、脈に合わせて浅く疼く。


 音は、遠ざかっていった。


 布が絨毯を擦るような音。

 押し殺された足音。

 それを覆うような、かすかな車輪の軋み。


 やがて、何も聞こえなくなった。


 部屋には、古い洋館の沈黙だけが戻ってきた。天蓋。鏡のない化粧台。洗面台の白い空白。筆記具のない机。窓硝子を覆う布。すべてが前と同じ場所にある。


 だからこそ、さきほどの音が現実だったのか、夢の続きだったのか、Aには判断できなかった。


 彼は息を整えた。


 夢の中では、柱時計は七時四十七分を指していた。赤い唇の女がいた。黒い獣の仮面をつけた男が立っていた。小さな銀の鍵と白いリボンを握らされた。


 忘れなさい。

 けれど、捨てないで。


 矛盾した言葉だけが、頭の奥に残っている。


 Aは顔を上げた。


 部屋の柱時計は、やはり七時四十七分で止まっていた。振り子は動かない。時間を測るためのものではなく、時刻を飾るためのものになっている。


 眠ったはずなのに、疲労は抜けていなかった。


 むしろ、眠る前より悪い。目の奥が重い。舌の奥に薬のような苦みがある。シーツからは、乾いた布の匂いに混じって、かすかに薬草のような香りがした。


 眠ったのか。

 眠らされたのか。


 Gの声が蘇る。


 ――今夜だ。俺の部屋に来い。帽子を見るな。いや、見るんだ。


 胸の奥が冷えた。


 Aは昨夜、Gに会えなかった。


 Jに止められた。サロンへ連れていかれた。紅茶を出された。領主Xの話を聞かされた。マダム・ヴィーの話を聞かされた。Gの部屋へ戻っても、扉は閉まっていた。二号は「G様は、お休みでございます」と言った。


 そして、夜のうちに何か重いものが運ばれていた。


 行くべきだった。


 もう一度、Gの部屋へ向かうべきだった。


 後悔は、遅れてくる痛みに似ていた。鋭くはない。だが、逃げ場のない場所に深く沈む。


 Aは立ち上がった。


 少しよろめいたが、倒れはしなかった。上着は昨夜のまま椅子の背に掛けてある。ネクタイは少し緩んでいた。彼はそれを整えようとして、途中でやめた。整えられた客人の姿でいることが、急に耐えがたかった。


 それでも、廊下へ出るなら乱れを見せるべきではない。


 彼はタイを結び直した。高い襟が首元の痕を隠す。仮面は外せない。白い仮面は、相変わらず彼の目元に密着している。


 扉へ近づいた。


 廊下の気配を探る。


 何も聞こえない。


 二号を呼ばなかった。


 Aは静かに扉を開けた。


 廊下は薄明るかった。朝なのだろう。窓の厚い硝子の向こうに霧が白く張りつき、外の光だけが布越しに滲んでいる。燭台の火は落とされ、代わりに壁際のランプが淡く灯っていた。


 夜の赤さは薄れている。


 だが、赤い絨毯は同じだった。


 Aは廊下へ出た。


 昨夜より空気が冷たい。食堂やサロンに満ちていた香水やワインの匂いは薄くなり、代わりに湿った布と洗剤のような香りが漂っている。


 赤い絨毯の上に、わずかな跡があった。


 引きずったような、浅い乱れ。


 毛足の向きがそこだけ違う。すでに誰かが整えたあとらしく、ぱっと見ただけではわからない。だが、Aは昨夜から廊下の細部を覚えようとしていた。左の壁際、二つ目の燭台の下。そこには昨夜、こんな跡はなかった。


 床はところどころ湿っている。


 清掃されたばかりのようだった。


 Aはしゃがみかけ、やめた。廊下で不自然な姿勢を取るのは危険だ。彼は歩きながら、目だけで覚える。


 湿り。

 引きずった跡。

 甘い香り。

 昨夜、何かが運ばれた。


 Gの部屋へ向かった。


 途中、召使いには会わなかった。廊下は不気味なほど静かだった。屋敷が、朝という時間だけ別の顔をしているように見える。夜は舞台。朝は片づけの時間。そんな言葉が浮かんだ。


 Gの札がついた扉の前に着く。


 真鍮の札は、昨夜と同じように少し傾いていた。


 Aは扉を叩いた。


「Gさん」


 返事はない。


 もう一度叩く。


「僕です。起きていますか」


 沈黙。


 Aはドアノブに手をかけた。


 昨夜は開かなかった。内側から鍵が挿さっているように見えた。そう見えた。Jも「内側から閉まっているように見える」と言った。


 今度は、ノブが回った。


 扉が開いた。


 Aは一瞬、動けなかった。


 昨夜閉まっていた扉が、朝には開く。


 その事実だけで、部屋の中を見る前から何かが決定的に変わってしまった気がした。


 彼は扉を押した。


 Gの部屋は、自分の部屋より狭かった。


 ベッド。小さな机。椅子。衣装掛け。窓際に低いテーブル。酒瓶とグラス。替えの包帯。水差し。床にはくたびれた旅行鞄が置かれている。


 Gはいなかった。


 ベッドは乱れていた。


 だが、眠った人間が自然に乱した形ではない。枕にはへこみがある。掛け布は一度乱れ、それから急いで整え直されたように端だけが不自然に揃っていた。シーツには皺が残り、しかし体温はない。


 机の上には酒瓶があった。

 グラスには底に少しだけ琥珀色の液体が残っている。

 水差しの水は半分ほど減っている。

 包帯の替えは開封されていない。


 Aは部屋を見回した。


 中折れ帽がない。


 それだけで、Gがここで眠っていないことよりも強い違和感があった。


 Gは帽子を手放さなかった。食堂でも持っていた。酔ったふりをしていても、帽子だけは手にしていた。昨夜の囁きも、帽子についてだった。


 帽子を見るな。

 いや、見るんだ。


 その帽子が、ない。


 Aは机の下を覗いた。椅子の影。ベッドの下。衣装掛け。旅行鞄の横。ない。


 窓へ近づく。


 外は白い霧に覆われている。窓は閉じられていた。内側から鍵がかかっている。窓枠に汚れはない。ここから出入りしたようには見えない。


 Aは机の上のグラスに顔を近づけた。


 酒の匂いに混じって、昨夜Gの部屋の前で嗅いだ、甘く鈍い香りがかすかに残っている。


 そのとき、外から小さな悲鳴が聞こえた。


 女の声だった。召使いのものかもしれない。


 すぐに足音が続いた。


 ばらばらではない。訓練された足音が、しかし一瞬だけ乱れていた。誰かが低く「お館様を」と言った。すぐに別の声がそれを制する。静かに。だが鋭く。


 Aは窓へ駆け寄った。


 窓硝子の向こう、霧に沈んだ庭の一部が見える。テラスの下。白い砂利。赤い花壇。そこに人影が集まっていた。


 黒いフェイスマスクの召使いたち。三号。四号。もう一人、大柄な男の影。二号もいた。手に白い布を持っている。


 Aは直感した。


 Gだ。


 彼は部屋を飛び出した。


 廊下を走る。赤い絨毯が足音を吸う。だが、息だけは乱れた。仮面の内側が熱い。首元の痕が痛む。曲がり角を抜けようとしたところで、誰かとすれ違った。


 Jだった。


 すでに身支度を整えている。黒に近い濃紺の仮面。白手袋。細い杖。髪も乱れていない。まるで、朝の騒ぎが始まる前から起きていたように。


 Aが問いかけるより先に、Jは言った。


「朝の庭は、たいてい何かを隠すには明るすぎる」


 Aは足を止めなかった。


「知っていたんですか」


「何を?」


「とぼけないでください」


「今は走ったほうがいい。怒るのはあとでもできる」


 Jの声は軽かった。

 だが、ほんの一瞬、笑みが薄かった。


 Aは返事をせず、庭へ向かった。


 屋敷の裏手へ出る扉は開いていた。


 朝の空気が冷たい。


 霧はまだ濃く、庭全体を白く包んでいる。石畳は朝露に濡れ、赤い花壇の花びらには水滴が溜まっていた。テラスは二階部分から庭へ張り出している。石の欄干。古い鉄柵。そこから下へ、白い砂利が敷かれた場所がある。


 そこに、Gが倒れていた。


 白い砂利の上。

 赤い花壇のすぐ横。

 片腕が不自然な角度に曲がり、片方の靴が脱げかけている。スーツの背中は砂利と湿りで汚れていた。後頭部のあたりに暗い血があり、砂利の白さを鈍く染めている。


 顔には、白いハンカチがかけられていた。


 Aは近づいた。


 二号が前に出る。


「お近づきにならないでください」


「どいてください」


「A様」


「その人は、僕を知っていた」


 二号の目が揺れた。


 Aはその隙に、Gのそばへ膝をついた。


 死体、という言葉が頭の中で遅れて響く。


 これはGだ。

 昨夜、食堂で酒を飲み、軽口を叩き、自分を「先生」と呼び、帽子を見るなと言った男だ。


 それが今、白い砂利の上に倒れている。


 顔に白いハンカチをかけられて。


 Aは手を伸ばした。


 二号が止めようとした。


「いけません」


 だが、間に合わなかった。


 Aはハンカチをめくった。


 Gの顔が現れた。


 Aは息を呑んだ。


 顔は、落下の苦痛だけで歪んでいるのではなかった。目は見開かれ、口はわずかに開いている。何かを言いかけて、そのまま止まった形だった。額には汗が乾いた跡があり、唇の端には酒ではない苦いものを噛んだような歪みがある。


 恐怖。


 そう見えた。


 落ちている最中に、人はこんな顔になるのか。


 それとも、落ちる前からこの顔だったのか。


 Aの喉が詰まった。


「Gさん」


 返事があるはずはなかった。


 それでも、呼ばずにはいられなかった。


 白いハンカチを握る手が震える。二号がそっと手を伸ばし、ハンカチを戻そうとしたが、Aはそれを押し返さなかった。むしろ、視線をGの身体へ移した。


 怒るより先に、見る。


 覚える。


 Gの靴底が濡れている。


 脱げかけた靴の底に、泥と水がついていた。庭の朝露に濡れたというより、もっと深い湿りだ。白い砂利の上に落ちた靴跡にも、黒っぽい水分が混じっている。


 昨夜、雨は降っていない。

 庭の芝も、朝露以上には濡れていない。


 テラスから落ちただけなら、なぜ靴底がこんなに濡れている。


 次に、手。


 Gの片手は砂利を掴むように曲がっていた。爪の間に、黒い繊維が挟まっている。最初、Aは二号たちの黒いマスクの布かと思った。だが近くで見ると違う。もっと古い。埃っぽい。布というより、劇場の暗幕の端を引きちぎったような質感。


 黒い繊維。


 覚える。


 帽子がない。


 Gの中折れ帽は、死体のそばにも、花壇の中にも、砂利の上にも見えない。昨夜まで彼が手放さなかった帽子が、現場にない。


 帽子を見るな。

 いや、見るんだ。


 Aの胸が詰まる。


 腕時計。


 Gの左手首に古い腕時計があった。硝子は割れている。落下の衝撃で割れたのだろうか。だが、針は動いていない。


 Aは見た。


 七時四十七分。


 息が止まった。


 夢の柱時計。

 寝室の柱時計。

 Gの腕時計。


 すべてが同じ時刻を指している。


 偶然ではない。


 偶然ではないはずだ。


 白いハンカチから、甘い香りがした。


 Aはそれを戻す手元で気づいた。昨夜、Gの部屋の前に残っていた香り。サロンの外で聞いた物音のあと、廊下に漂っていた甘く鈍い香り。花のようで、薬のようで、嗅いでいると舌の奥が重くなる。


 Gの顔にかけられていた布から、その匂いがする。


「A様」


 二号の声が震えていた。


「お離れください」


 Aはゆっくり立ち上がった。


 頭の中で繰り返す。


 靴底。水。

 黒い繊維。

 帽子がない。

 時計。七時四十七分。

 ハンカチの甘い香り。

 恐怖の顔。


 忘れるな。


 そのとき、銀の車輪の音が近づいてきた。


 砂利の上ではなく、テラスの石畳の上を滑る音。きい、と小さく軋み、ころ、と静かに進む。


 召使いたちが一斉に頭を下げた。


 二号も、白いハンカチを胸元に抱えたまま、深く頭を下げる。


 古い香水の匂いが、朝の霧に混じった。


 マダム・ヴィーが現れた。


 黒いベール。深紅のルージュ。重いドレス。銀の車輪。膝の上に置かれた細い杖。彼女はテラスの縁で車椅子を止めた。Gの死体へは近づかない。


 そして、死体を見なかった。


 Aを見た。


 その視線が、何よりも恐ろしかった。


「まあ。かわいそうに」


 言葉だけは、哀悼の形をしていた。


 しかし、彼女の赤い唇は、Gに向いていない。視線はAの白い仮面に向けられている。死者ではなく、生きて動揺する者を観察している。


 Aの中に、怒りがゆっくり広がった。


「警察を呼んでください」


 マダム・ヴィーは微笑んだ。


「その必要はございませんわ」


「人が死んでいるんですよ」


「ええ」


 彼女は穏やかに頷いた。


「事故ですもの」


 事故。


 その言葉が、白いハンカチのようにGの上へかけられた。


 Aは一瞬、返す言葉を失った。


 まだ何も調べていない。誰が、いつ、どこから落ちたのかもわかっていない。昨夜の部屋は内側から鍵がかかっているように見えた。靴底は濡れている。帽子はない。時計は七時四十七分で止まっている。


 それなのに、マダム・ヴィーはもう名前を決めた。


 事故。


 その言葉を聞いた瞬間、召使いたちが動き始めた。三号が布を取りに走る。四号が水桶を運ばせる。巨漢の男が無言で近づく。二号はGの顔へハンカチを戻そうとしている。


 Aは理解した。


 ここでは、死でさえ女主人の言葉に従って並べ替えられる。


「昨夜、Gさんの部屋は鍵がかかっていました」


 Aは言った。


 声が震えないように気をつけた。


「眠っていらしたのでしょう」


「テラスへ出たなら、どうやって?」


「酔った方のなさることは、時に理屈に合いませんわ」


「Gさんは、ただ酔っていたわけではありません」


「あなたは、ずいぶんあの方をお気にかけていらっしゃるのね」


「あの方?」


 Aの声が低くなる。


「Gさんです」


 マダム・ヴィーは微笑んだ。


「そうでしたわね。お気の毒な方」


 Gを名前で呼ばない。


 食堂でもそうだった。あの方。お気の毒な方。Gという文字すら、彼女の口には乗らない。


 彼女にとってGは客人ではない。夢に加えられる存在ではない。処理されるべき異物。そう扱われている。


 Aは靴底の水のことを言おうとした。黒い繊維。帽子の不在。腕時計。ハンカチの香り。すべてを言おうとした。


 だが、言わなかった。


 今ここで言えば、その証拠もすぐに片づけられる。


 マダム・ヴィーの前で、手札を見せてはいけない。


 Aは喉の奥に怒りを押し込んだ。


「……わかりました」


 頭を下げた。


 屈辱だった。


 仮面の内側で息が熱くなる。首元の痕が疼く。だが、下げた頭の奥で、Aは繰り返した。


 今は逆らうな。

 覚えろ。

 全部覚えろ。


 マダム・ヴィーは満足そうに微笑んだ。


「賢い方」


 その言葉は、褒め言葉ではなかった。


 従順であることを確認する言葉。怒りを飲み込んだことを、見抜いたうえで楽しむ言葉。


 Aは顔を上げた。


 そのとき、庭の入口から杖の音がした。


 こつ。

 こつ。


 Jが遅れて現れた。


 彼は霧の中から、散歩でもするようにゆっくり歩いてきた。杖の先が濡れた石畳を叩き、やがて砂利の手前で止まる。白手袋。黒に近い仮面。整ったスーツ。すべてが朝の庭には不釣り合いなほど整っていた。


 JはGの死体を見た。


 ほんの一瞬、笑みが消えた。


 それは短すぎて、見間違いかと思うほどだった。だが、Aは見た。Jの白手袋の指が、わずかに拳を作る。すぐに開かれる。


 次の瞬間、彼はいつもの軽薄な笑みに戻っていた。


「怖い怖い。朝の散歩には刺激が強すぎるね」


 Aの怒りが、今度はJへ向いた。


「あなたは知っていたんですか」


「何を?」


「Gさんが危ないと」


「この館で危なくない人間なんていないよ」


「あなたが僕をサロンに引き止めた」


 Jは首を傾げた。


「引き止められる程度には、君もここに残る理由が欲しかったんだろう」


 Aは一歩踏み出した。


 二号がわずかに動いた。止めようとしたのかもしれない。だが、Aは手を出さなかった。


「あなたがいなければ、僕はGさんと話せたかもしれない」


「かもしれないね」


「あなたはそれを邪魔した」


「かもしれない」


 Jは否定しなかった。


 そのことが、いっそう腹立たしかった。


「謝らないんですね」


「謝ってGが起きるなら、いくらでも頭を下げるよ」


 Jの声は軽い。だが、目だけがGの足元を見ていた。


 濡れた靴底。


 Aはそれに気づいた。Jも、気づいている。


 Jの視線は一瞬だけ鋭くなり、それから何もなかったようにAへ戻った。


「A。怒るのは悪くない。ただし、この館で怒りだけを見せると、Sの隣に席を用意される」


「どういう意味ですか」


「美しく怒る者は飾られる。静かに覚える者だけが、たまに扉の先へ行ける」


 Aは何も言わなかった。


 Jは何かを知っている。

 靴底の水にも気づいた。

 だが、言わない。


 それもまた、助けなのか、妨害なのか、わからない。


 二号がGの顔へ白いハンカチを戻した。


 彼女の手は、いつもよりわずかに乱れていた。布の角が一度ずれ、口元だけが少し見えてしまう。Gの開いた唇。何かを言いかけて止まったままの形。


 二号は慌てて布を直した。


 Aはその手元を見た。


 完璧な召使いの動きではない。


 Gは二号を「お嬢さん」と呼んだ。食堂で、廊下で、軽口の中で。番号ではなく、人間として扱った。Aはその光景を多く見たわけではない。だが、Gならそう呼ぶだろうと思えた。


「二号」


 二号が顔を上げた。


 Aは小声で聞いた。


「あなたは、本当に事故だと思いますか」


 二号の唇が、黒いマスクの下でわずかに動いた。


 答えはすぐには出なかった。


「わたくしには……判断する権限がございません」


 判断する権限。


 Aはその言葉に胸を突かれた。


 答える権限ではない。

 判断する権限。


 彼女は、何が起きたかを考える自由さえ奪われている。


 マダム・ヴィーが杖の先で、軽く石畳を叩いた。


「お客様方を、いつまでもお庭に立たせておくものではありませんわ。四号、布を。五号、水を。あの方を安置室へ」


 安置室。


 どこにあるのか、Aは知らない。


 巨漢の男が近づいた。彼は召使いと同じ黒い服を着ているが、フェイスマスクは簡素で、体格が明らかに違う。無言でGの遺体のそばに膝をつき、まるで重い家具を扱うように身体の位置を確かめる。


 Aは思わず言った。


「待ってください。動かしたら、現場が――」


「現場?」


 マダム・ヴィーが微笑んだ。


 赤い唇だけが、霧の中で鮮やかだった。


「ここは庭ですわ。死体置き場ではありません」


 Aは言葉を失った。


 現場を、現場と認めない。

 死体を、死体として留めない。

 事件を、事件にしない。


 庭は庭。

 死は事故。

 片づけは片づけ。


 召使いたちは白い布を広げた。Gの身体が包まれていく。顔も、手も、濡れた靴底も、黒い繊維が挟まった爪も、白い布の下へ消えていく。


 Aは焦った。


 証拠が消える。


 四号が水桶を持ってきた。白い砂利に水がかけられる。血の赤が薄くなり、砂利の隙間へ流れていく。赤は消えるのではない。薄められ、広げられ、見えにくくされる。


 それは、マダム・ヴィーの言葉と同じだった。


 殺人かもしれないものを事故と呼ぶ。

 恐怖を不注意と呼ぶ。

 証拠隠滅を片づけと呼ぶ。


 Aは一歩下がるふりをした。


 そのとき、Gの手元から何かが落ちた。


 黒い糸のようなもの。


 爪に挟まっていた繊維の一部だろう。白い砂利の上で、細く黒く濡れている。


 誰も気づいていない。


 いや。


 Jは見ていた。


 彼の目が、ほんの一瞬Aへ向く。


 何も言わない。


 Aはしゃがんだ。靴紐を直すふりをする。手を伸ばす。黒い繊維が指先に触れた。


 湿っている。

 ざらついている。

 古い埃の匂いがする。


 Aはそれを素手で拾い、袖口の内側へ押し込んだ。


 自分の身体を証拠の隠し場所にする。


 その不安が、妙に生々しかった。


 二号は気づかなかった。あるいは、気づいても見逃したのかもしれない。彼女はGの顔にかけたハンカチを押さえたまま、白い布の端を整えていた。


 Gの遺体が運ばれていく。


 巨漢の男と二人の召使いが、白い布に包まれた身体を持ち上げる。軽々とはいかない。死んだ人間の重さが、布越しに伝わってくる。Gの片方の靴が途中で少しずれた。三号がすぐに直す。


 帽子は、やはりない。


 白い布の塊が屋敷の中へ消えていく。


 残されたのは、水で洗われた砂利と、赤い花壇と、霧だけだった。


 マダム・ヴィーがAへ向き直る。


「お心を痛めていらっしゃるのね」


 Aは袖口の内側の黒い繊維を意識しながら、彼女を見た。


「彼は、僕を知っていました」


「では、知らないままでよかったのかもしれませんわ」


 Aは絶句した。


 マダム・ヴィーは続ける。


「人は、自分を知りすぎると苦しくなります。忘れることは、ときに救いですのよ」


 忘れること。


 救い。


 Aの夢の中の赤い唇が、また重なる。


 忘れなさい。

 けれど、捨てないで。


 あの言葉は、マダム・ヴィーのものだったのか。

 それとも、別の女のものだったのか。


 Aは問うた。


「あなたは、僕に何を忘れさせたんですか」


 マダム・ヴィーは答えなかった。


 ただ、Aの白い仮面を見つめた。


 その視線は、顔ではなく、顔を隠すものへ注がれている。まるで、そこに彼女の作品があるかのように。


「まずは、お食事を」


 彼女は柔らかく言った。


「人は悲しみの中でも、きちんと食べなければなりません」


 Aは、その言葉に寒気を覚えた。


 死体が運ばれたばかりだ。

 血が洗われたばかりだ。

 Gの口は、まだ何かを言いかけたままだった。


 それでも、この屋敷では朝食の時間が来る。


 生活は続く。

 儀式は続く。

 死者は片づけられ、食卓は整えられる。


 二号がAのそばへ来た。


「A様。朝食のお支度が整っております」


「食べられません」


 思ったより強い声が出た。


 二号の指が震えた。


「お館様のご指示でございます」


「人が死んだ直後に?」


 二号は答えない。


「君は、本気で僕に食べろと言うんですか」


 二号の目が揺れた。


 Aはそこで気づいた。


 自分が拒めば、二号が困る。

 お館様の指示を果たせなかった召使いとして、彼女が罰を受けるかもしれない。


 屋敷では、反抗は本人だけのものではない。誰かの反抗が、別の誰かの罰になる。だから召使いたちは命令を守らせる。自分を守るためにも、相手を守るためにも。


 Aは息を吐いた。


「……わかりました。行きます」


 二号は小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 礼を言われることではない。

 けれど、二号の声には、わずかな安堵が混じっていた。


 朝食の食堂は、昨夜より明るかった。


 しかし、明るいぶんだけ異様だった。


 長い食卓は整えられている。銀食器は磨かれ、白い皿が並び、温かいパンと卵料理が置かれていた。蒼いナプキンの空席も、昨夜と同じように用意されている。Gの席だけがなかった。


 いや、椅子はある。


 だが、皿がない。

 グラスがない。

 ナプキンもない。


 まるで、最初からそこに客人などいなかったようだった。


 Aは喉の奥が冷たくなるのを感じた。


 Gは死んだだけではない。


 食卓からも片づけられている。


 二号が椅子を引いた。


 Aは座った。フォークを持つ。料理を口へ運ぶふりだけをする。パンを小さくちぎり、皿の端へ置く。食べられない。


 銀食器は冷たかった。


 死の直後に整えられた食卓。


 これが、この館の朝なのだ。


 食堂を出たあと、廊下でJが近づいてきた。


 朝食の席にはいなかったはずなのに、当然のようにそこにいる。杖の音が、こつ、と短く響いた。


「だから言っただろう。今行っても、もう会えないって」


 Aは立ち止まった。


「あなたは、知っていた」


 Jは否定しなかった。


「知っていた、とは少し違う。予想していた」


「なぜ止めなかったんですか」


「ボクに止められるなら、とっくにこの館は空っぽだ」


 その言葉は、初めて少しだけ疲れて聞こえた。


 だが、Aには言い訳にしか聞こえなかった。


「Gさんは、落ちたんですか」


 Jは廊下の窓へ目を向けた。外は霧で白い。


「落ちたんじゃない」


 彼は言った。


「歩かされたんだ」


 Aは息を呑んだ。


「どこから」


 Jは答えなかった。


「それを知りたいなら、帽子を探すことだ」


「帽子」


「彼は古典的な男だったからね。大事なものを靴底に隠すほど器用じゃない。帽子の裏、鞄の底、酒瓶のラベル。そういう、古臭いところを信じる男だった」


「あなたは帽子がどこにあるか知っているんですか」


 Jは微笑んだ。


「知っていたら、もう少し格好よく登場している」


「信用できません」


「正しい判断だ」


 Jは白手袋の指を唇の前に立てた。


「でも、探したほうがいい。マダム・ヴィーが探す前にね」


 それだけ言って、Jは歩き出した。


 こつ。

 こつ。

 こつ。


 杖の音が遠ざかる。


 Aは自室へ戻った。


 二号は扉の外に立っている気配を残したままだった。鍵はかかっていない。だが、いつでも開けられる自由はない。


 部屋の中は静かだった。


 Aは袖口の内側へ指を入れた。


 黒い繊維を取り出す。


 小さな黒い糸。


 それだけが、現場から持ち出せた唯一のものだった。黒い。湿っている。指先に乗せると、ただの糸に見える。けれど、そこにはGが最後に掴んだ何かがある。


 机へ向かう。


 便箋はある。

 封筒もある。

 だが、筆記具はない。


 書けない。


 名前だけではない。

 証拠も、記録も、自分の考えも、紙に残せない。


 Aは目を閉じた。


 なら、記憶するしかない。


 声に出さず、頭の中で繰り返す。


 靴底。水。

 黒い繊維。

 ハンカチの甘い香り。

 時計。七時四十七分。

 帽子の不在。

 Gの口。何かを言いかけて止まっていた。

 マダム・ヴィーの言葉。事故。

 Jの言葉。落ちたんじゃない。歩かされた。

 帽子を探すこと。


 Aは黒い繊維を、シャツの袖口の裏へもう一度隠した。


 この館では、死者の言葉さえ片づけられる。


 ならば、片づけられる前に拾うしかない。


 事故、とマダム・ヴィーは呼んだ。

 だからAは、その言葉を信じないことにした。

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