第4章 ― 最初の死者
廊下の向こうで、何か重いものが床を擦っていた。
Aは椅子から立ち上がろうとした。だが、身体がすぐには動かなかった。骨の中に濡れた綿でも詰め込まれたように、手足が重い。仮面の内側は熱く、頬にじっとりと汗が貼りついている。喉は乾いていた。首元の痕が、脈に合わせて浅く疼く。
音は、遠ざかっていった。
布が絨毯を擦るような音。
押し殺された足音。
それを覆うような、かすかな車輪の軋み。
やがて、何も聞こえなくなった。
部屋には、古い洋館の沈黙だけが戻ってきた。天蓋。鏡のない化粧台。洗面台の白い空白。筆記具のない机。窓硝子を覆う布。すべてが前と同じ場所にある。
だからこそ、さきほどの音が現実だったのか、夢の続きだったのか、Aには判断できなかった。
彼は息を整えた。
夢の中では、柱時計は七時四十七分を指していた。赤い唇の女がいた。黒い獣の仮面をつけた男が立っていた。小さな銀の鍵と白いリボンを握らされた。
忘れなさい。
けれど、捨てないで。
矛盾した言葉だけが、頭の奥に残っている。
Aは顔を上げた。
部屋の柱時計は、やはり七時四十七分で止まっていた。振り子は動かない。時間を測るためのものではなく、時刻を飾るためのものになっている。
眠ったはずなのに、疲労は抜けていなかった。
むしろ、眠る前より悪い。目の奥が重い。舌の奥に薬のような苦みがある。シーツからは、乾いた布の匂いに混じって、かすかに薬草のような香りがした。
眠ったのか。
眠らされたのか。
Gの声が蘇る。
――今夜だ。俺の部屋に来い。帽子を見るな。いや、見るんだ。
胸の奥が冷えた。
Aは昨夜、Gに会えなかった。
Jに止められた。サロンへ連れていかれた。紅茶を出された。領主Xの話を聞かされた。マダム・ヴィーの話を聞かされた。Gの部屋へ戻っても、扉は閉まっていた。二号は「G様は、お休みでございます」と言った。
そして、夜のうちに何か重いものが運ばれていた。
行くべきだった。
もう一度、Gの部屋へ向かうべきだった。
後悔は、遅れてくる痛みに似ていた。鋭くはない。だが、逃げ場のない場所に深く沈む。
Aは立ち上がった。
少しよろめいたが、倒れはしなかった。上着は昨夜のまま椅子の背に掛けてある。ネクタイは少し緩んでいた。彼はそれを整えようとして、途中でやめた。整えられた客人の姿でいることが、急に耐えがたかった。
それでも、廊下へ出るなら乱れを見せるべきではない。
彼はタイを結び直した。高い襟が首元の痕を隠す。仮面は外せない。白い仮面は、相変わらず彼の目元に密着している。
扉へ近づいた。
廊下の気配を探る。
何も聞こえない。
二号を呼ばなかった。
Aは静かに扉を開けた。
廊下は薄明るかった。朝なのだろう。窓の厚い硝子の向こうに霧が白く張りつき、外の光だけが布越しに滲んでいる。燭台の火は落とされ、代わりに壁際のランプが淡く灯っていた。
夜の赤さは薄れている。
だが、赤い絨毯は同じだった。
Aは廊下へ出た。
昨夜より空気が冷たい。食堂やサロンに満ちていた香水やワインの匂いは薄くなり、代わりに湿った布と洗剤のような香りが漂っている。
赤い絨毯の上に、わずかな跡があった。
引きずったような、浅い乱れ。
毛足の向きがそこだけ違う。すでに誰かが整えたあとらしく、ぱっと見ただけではわからない。だが、Aは昨夜から廊下の細部を覚えようとしていた。左の壁際、二つ目の燭台の下。そこには昨夜、こんな跡はなかった。
床はところどころ湿っている。
清掃されたばかりのようだった。
Aはしゃがみかけ、やめた。廊下で不自然な姿勢を取るのは危険だ。彼は歩きながら、目だけで覚える。
湿り。
引きずった跡。
甘い香り。
昨夜、何かが運ばれた。
Gの部屋へ向かった。
途中、召使いには会わなかった。廊下は不気味なほど静かだった。屋敷が、朝という時間だけ別の顔をしているように見える。夜は舞台。朝は片づけの時間。そんな言葉が浮かんだ。
Gの札がついた扉の前に着く。
真鍮の札は、昨夜と同じように少し傾いていた。
Aは扉を叩いた。
「Gさん」
返事はない。
もう一度叩く。
「僕です。起きていますか」
沈黙。
Aはドアノブに手をかけた。
昨夜は開かなかった。内側から鍵が挿さっているように見えた。そう見えた。Jも「内側から閉まっているように見える」と言った。
今度は、ノブが回った。
扉が開いた。
Aは一瞬、動けなかった。
昨夜閉まっていた扉が、朝には開く。
その事実だけで、部屋の中を見る前から何かが決定的に変わってしまった気がした。
彼は扉を押した。
Gの部屋は、自分の部屋より狭かった。
ベッド。小さな机。椅子。衣装掛け。窓際に低いテーブル。酒瓶とグラス。替えの包帯。水差し。床にはくたびれた旅行鞄が置かれている。
Gはいなかった。
ベッドは乱れていた。
だが、眠った人間が自然に乱した形ではない。枕にはへこみがある。掛け布は一度乱れ、それから急いで整え直されたように端だけが不自然に揃っていた。シーツには皺が残り、しかし体温はない。
机の上には酒瓶があった。
グラスには底に少しだけ琥珀色の液体が残っている。
水差しの水は半分ほど減っている。
包帯の替えは開封されていない。
Aは部屋を見回した。
中折れ帽がない。
それだけで、Gがここで眠っていないことよりも強い違和感があった。
Gは帽子を手放さなかった。食堂でも持っていた。酔ったふりをしていても、帽子だけは手にしていた。昨夜の囁きも、帽子についてだった。
帽子を見るな。
いや、見るんだ。
その帽子が、ない。
Aは机の下を覗いた。椅子の影。ベッドの下。衣装掛け。旅行鞄の横。ない。
窓へ近づく。
外は白い霧に覆われている。窓は閉じられていた。内側から鍵がかかっている。窓枠に汚れはない。ここから出入りしたようには見えない。
Aは机の上のグラスに顔を近づけた。
酒の匂いに混じって、昨夜Gの部屋の前で嗅いだ、甘く鈍い香りがかすかに残っている。
そのとき、外から小さな悲鳴が聞こえた。
女の声だった。召使いのものかもしれない。
すぐに足音が続いた。
ばらばらではない。訓練された足音が、しかし一瞬だけ乱れていた。誰かが低く「お館様を」と言った。すぐに別の声がそれを制する。静かに。だが鋭く。
Aは窓へ駆け寄った。
窓硝子の向こう、霧に沈んだ庭の一部が見える。テラスの下。白い砂利。赤い花壇。そこに人影が集まっていた。
黒いフェイスマスクの召使いたち。三号。四号。もう一人、大柄な男の影。二号もいた。手に白い布を持っている。
Aは直感した。
Gだ。
彼は部屋を飛び出した。
廊下を走る。赤い絨毯が足音を吸う。だが、息だけは乱れた。仮面の内側が熱い。首元の痕が痛む。曲がり角を抜けようとしたところで、誰かとすれ違った。
Jだった。
すでに身支度を整えている。黒に近い濃紺の仮面。白手袋。細い杖。髪も乱れていない。まるで、朝の騒ぎが始まる前から起きていたように。
Aが問いかけるより先に、Jは言った。
「朝の庭は、たいてい何かを隠すには明るすぎる」
Aは足を止めなかった。
「知っていたんですか」
「何を?」
「とぼけないでください」
「今は走ったほうがいい。怒るのはあとでもできる」
Jの声は軽かった。
だが、ほんの一瞬、笑みが薄かった。
Aは返事をせず、庭へ向かった。
屋敷の裏手へ出る扉は開いていた。
朝の空気が冷たい。
霧はまだ濃く、庭全体を白く包んでいる。石畳は朝露に濡れ、赤い花壇の花びらには水滴が溜まっていた。テラスは二階部分から庭へ張り出している。石の欄干。古い鉄柵。そこから下へ、白い砂利が敷かれた場所がある。
そこに、Gが倒れていた。
白い砂利の上。
赤い花壇のすぐ横。
片腕が不自然な角度に曲がり、片方の靴が脱げかけている。スーツの背中は砂利と湿りで汚れていた。後頭部のあたりに暗い血があり、砂利の白さを鈍く染めている。
顔には、白いハンカチがかけられていた。
Aは近づいた。
二号が前に出る。
「お近づきにならないでください」
「どいてください」
「A様」
「その人は、僕を知っていた」
二号の目が揺れた。
Aはその隙に、Gのそばへ膝をついた。
死体、という言葉が頭の中で遅れて響く。
これはGだ。
昨夜、食堂で酒を飲み、軽口を叩き、自分を「先生」と呼び、帽子を見るなと言った男だ。
それが今、白い砂利の上に倒れている。
顔に白いハンカチをかけられて。
Aは手を伸ばした。
二号が止めようとした。
「いけません」
だが、間に合わなかった。
Aはハンカチをめくった。
Gの顔が現れた。
Aは息を呑んだ。
顔は、落下の苦痛だけで歪んでいるのではなかった。目は見開かれ、口はわずかに開いている。何かを言いかけて、そのまま止まった形だった。額には汗が乾いた跡があり、唇の端には酒ではない苦いものを噛んだような歪みがある。
恐怖。
そう見えた。
落ちている最中に、人はこんな顔になるのか。
それとも、落ちる前からこの顔だったのか。
Aの喉が詰まった。
「Gさん」
返事があるはずはなかった。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
白いハンカチを握る手が震える。二号がそっと手を伸ばし、ハンカチを戻そうとしたが、Aはそれを押し返さなかった。むしろ、視線をGの身体へ移した。
怒るより先に、見る。
覚える。
Gの靴底が濡れている。
脱げかけた靴の底に、泥と水がついていた。庭の朝露に濡れたというより、もっと深い湿りだ。白い砂利の上に落ちた靴跡にも、黒っぽい水分が混じっている。
昨夜、雨は降っていない。
庭の芝も、朝露以上には濡れていない。
テラスから落ちただけなら、なぜ靴底がこんなに濡れている。
次に、手。
Gの片手は砂利を掴むように曲がっていた。爪の間に、黒い繊維が挟まっている。最初、Aは二号たちの黒いマスクの布かと思った。だが近くで見ると違う。もっと古い。埃っぽい。布というより、劇場の暗幕の端を引きちぎったような質感。
黒い繊維。
覚える。
帽子がない。
Gの中折れ帽は、死体のそばにも、花壇の中にも、砂利の上にも見えない。昨夜まで彼が手放さなかった帽子が、現場にない。
帽子を見るな。
いや、見るんだ。
Aの胸が詰まる。
腕時計。
Gの左手首に古い腕時計があった。硝子は割れている。落下の衝撃で割れたのだろうか。だが、針は動いていない。
Aは見た。
七時四十七分。
息が止まった。
夢の柱時計。
寝室の柱時計。
Gの腕時計。
すべてが同じ時刻を指している。
偶然ではない。
偶然ではないはずだ。
白いハンカチから、甘い香りがした。
Aはそれを戻す手元で気づいた。昨夜、Gの部屋の前に残っていた香り。サロンの外で聞いた物音のあと、廊下に漂っていた甘く鈍い香り。花のようで、薬のようで、嗅いでいると舌の奥が重くなる。
Gの顔にかけられていた布から、その匂いがする。
「A様」
二号の声が震えていた。
「お離れください」
Aはゆっくり立ち上がった。
頭の中で繰り返す。
靴底。水。
黒い繊維。
帽子がない。
時計。七時四十七分。
ハンカチの甘い香り。
恐怖の顔。
忘れるな。
そのとき、銀の車輪の音が近づいてきた。
砂利の上ではなく、テラスの石畳の上を滑る音。きい、と小さく軋み、ころ、と静かに進む。
召使いたちが一斉に頭を下げた。
二号も、白いハンカチを胸元に抱えたまま、深く頭を下げる。
古い香水の匂いが、朝の霧に混じった。
マダム・ヴィーが現れた。
黒いベール。深紅のルージュ。重いドレス。銀の車輪。膝の上に置かれた細い杖。彼女はテラスの縁で車椅子を止めた。Gの死体へは近づかない。
そして、死体を見なかった。
Aを見た。
その視線が、何よりも恐ろしかった。
「まあ。かわいそうに」
言葉だけは、哀悼の形をしていた。
しかし、彼女の赤い唇は、Gに向いていない。視線はAの白い仮面に向けられている。死者ではなく、生きて動揺する者を観察している。
Aの中に、怒りがゆっくり広がった。
「警察を呼んでください」
マダム・ヴィーは微笑んだ。
「その必要はございませんわ」
「人が死んでいるんですよ」
「ええ」
彼女は穏やかに頷いた。
「事故ですもの」
事故。
その言葉が、白いハンカチのようにGの上へかけられた。
Aは一瞬、返す言葉を失った。
まだ何も調べていない。誰が、いつ、どこから落ちたのかもわかっていない。昨夜の部屋は内側から鍵がかかっているように見えた。靴底は濡れている。帽子はない。時計は七時四十七分で止まっている。
それなのに、マダム・ヴィーはもう名前を決めた。
事故。
その言葉を聞いた瞬間、召使いたちが動き始めた。三号が布を取りに走る。四号が水桶を運ばせる。巨漢の男が無言で近づく。二号はGの顔へハンカチを戻そうとしている。
Aは理解した。
ここでは、死でさえ女主人の言葉に従って並べ替えられる。
「昨夜、Gさんの部屋は鍵がかかっていました」
Aは言った。
声が震えないように気をつけた。
「眠っていらしたのでしょう」
「テラスへ出たなら、どうやって?」
「酔った方のなさることは、時に理屈に合いませんわ」
「Gさんは、ただ酔っていたわけではありません」
「あなたは、ずいぶんあの方をお気にかけていらっしゃるのね」
「あの方?」
Aの声が低くなる。
「Gさんです」
マダム・ヴィーは微笑んだ。
「そうでしたわね。お気の毒な方」
Gを名前で呼ばない。
食堂でもそうだった。あの方。お気の毒な方。Gという文字すら、彼女の口には乗らない。
彼女にとってGは客人ではない。夢に加えられる存在ではない。処理されるべき異物。そう扱われている。
Aは靴底の水のことを言おうとした。黒い繊維。帽子の不在。腕時計。ハンカチの香り。すべてを言おうとした。
だが、言わなかった。
今ここで言えば、その証拠もすぐに片づけられる。
マダム・ヴィーの前で、手札を見せてはいけない。
Aは喉の奥に怒りを押し込んだ。
「……わかりました」
頭を下げた。
屈辱だった。
仮面の内側で息が熱くなる。首元の痕が疼く。だが、下げた頭の奥で、Aは繰り返した。
今は逆らうな。
覚えろ。
全部覚えろ。
マダム・ヴィーは満足そうに微笑んだ。
「賢い方」
その言葉は、褒め言葉ではなかった。
従順であることを確認する言葉。怒りを飲み込んだことを、見抜いたうえで楽しむ言葉。
Aは顔を上げた。
そのとき、庭の入口から杖の音がした。
こつ。
こつ。
Jが遅れて現れた。
彼は霧の中から、散歩でもするようにゆっくり歩いてきた。杖の先が濡れた石畳を叩き、やがて砂利の手前で止まる。白手袋。黒に近い仮面。整ったスーツ。すべてが朝の庭には不釣り合いなほど整っていた。
JはGの死体を見た。
ほんの一瞬、笑みが消えた。
それは短すぎて、見間違いかと思うほどだった。だが、Aは見た。Jの白手袋の指が、わずかに拳を作る。すぐに開かれる。
次の瞬間、彼はいつもの軽薄な笑みに戻っていた。
「怖い怖い。朝の散歩には刺激が強すぎるね」
Aの怒りが、今度はJへ向いた。
「あなたは知っていたんですか」
「何を?」
「Gさんが危ないと」
「この館で危なくない人間なんていないよ」
「あなたが僕をサロンに引き止めた」
Jは首を傾げた。
「引き止められる程度には、君もここに残る理由が欲しかったんだろう」
Aは一歩踏み出した。
二号がわずかに動いた。止めようとしたのかもしれない。だが、Aは手を出さなかった。
「あなたがいなければ、僕はGさんと話せたかもしれない」
「かもしれないね」
「あなたはそれを邪魔した」
「かもしれない」
Jは否定しなかった。
そのことが、いっそう腹立たしかった。
「謝らないんですね」
「謝ってGが起きるなら、いくらでも頭を下げるよ」
Jの声は軽い。だが、目だけがGの足元を見ていた。
濡れた靴底。
Aはそれに気づいた。Jも、気づいている。
Jの視線は一瞬だけ鋭くなり、それから何もなかったようにAへ戻った。
「A。怒るのは悪くない。ただし、この館で怒りだけを見せると、Sの隣に席を用意される」
「どういう意味ですか」
「美しく怒る者は飾られる。静かに覚える者だけが、たまに扉の先へ行ける」
Aは何も言わなかった。
Jは何かを知っている。
靴底の水にも気づいた。
だが、言わない。
それもまた、助けなのか、妨害なのか、わからない。
二号がGの顔へ白いハンカチを戻した。
彼女の手は、いつもよりわずかに乱れていた。布の角が一度ずれ、口元だけが少し見えてしまう。Gの開いた唇。何かを言いかけて止まったままの形。
二号は慌てて布を直した。
Aはその手元を見た。
完璧な召使いの動きではない。
Gは二号を「お嬢さん」と呼んだ。食堂で、廊下で、軽口の中で。番号ではなく、人間として扱った。Aはその光景を多く見たわけではない。だが、Gならそう呼ぶだろうと思えた。
「二号」
二号が顔を上げた。
Aは小声で聞いた。
「あなたは、本当に事故だと思いますか」
二号の唇が、黒いマスクの下でわずかに動いた。
答えはすぐには出なかった。
「わたくしには……判断する権限がございません」
判断する権限。
Aはその言葉に胸を突かれた。
答える権限ではない。
判断する権限。
彼女は、何が起きたかを考える自由さえ奪われている。
マダム・ヴィーが杖の先で、軽く石畳を叩いた。
「お客様方を、いつまでもお庭に立たせておくものではありませんわ。四号、布を。五号、水を。あの方を安置室へ」
安置室。
どこにあるのか、Aは知らない。
巨漢の男が近づいた。彼は召使いと同じ黒い服を着ているが、フェイスマスクは簡素で、体格が明らかに違う。無言でGの遺体のそばに膝をつき、まるで重い家具を扱うように身体の位置を確かめる。
Aは思わず言った。
「待ってください。動かしたら、現場が――」
「現場?」
マダム・ヴィーが微笑んだ。
赤い唇だけが、霧の中で鮮やかだった。
「ここは庭ですわ。死体置き場ではありません」
Aは言葉を失った。
現場を、現場と認めない。
死体を、死体として留めない。
事件を、事件にしない。
庭は庭。
死は事故。
片づけは片づけ。
召使いたちは白い布を広げた。Gの身体が包まれていく。顔も、手も、濡れた靴底も、黒い繊維が挟まった爪も、白い布の下へ消えていく。
Aは焦った。
証拠が消える。
四号が水桶を持ってきた。白い砂利に水がかけられる。血の赤が薄くなり、砂利の隙間へ流れていく。赤は消えるのではない。薄められ、広げられ、見えにくくされる。
それは、マダム・ヴィーの言葉と同じだった。
殺人かもしれないものを事故と呼ぶ。
恐怖を不注意と呼ぶ。
証拠隠滅を片づけと呼ぶ。
Aは一歩下がるふりをした。
そのとき、Gの手元から何かが落ちた。
黒い糸のようなもの。
爪に挟まっていた繊維の一部だろう。白い砂利の上で、細く黒く濡れている。
誰も気づいていない。
いや。
Jは見ていた。
彼の目が、ほんの一瞬Aへ向く。
何も言わない。
Aはしゃがんだ。靴紐を直すふりをする。手を伸ばす。黒い繊維が指先に触れた。
湿っている。
ざらついている。
古い埃の匂いがする。
Aはそれを素手で拾い、袖口の内側へ押し込んだ。
自分の身体を証拠の隠し場所にする。
その不安が、妙に生々しかった。
二号は気づかなかった。あるいは、気づいても見逃したのかもしれない。彼女はGの顔にかけたハンカチを押さえたまま、白い布の端を整えていた。
Gの遺体が運ばれていく。
巨漢の男と二人の召使いが、白い布に包まれた身体を持ち上げる。軽々とはいかない。死んだ人間の重さが、布越しに伝わってくる。Gの片方の靴が途中で少しずれた。三号がすぐに直す。
帽子は、やはりない。
白い布の塊が屋敷の中へ消えていく。
残されたのは、水で洗われた砂利と、赤い花壇と、霧だけだった。
マダム・ヴィーがAへ向き直る。
「お心を痛めていらっしゃるのね」
Aは袖口の内側の黒い繊維を意識しながら、彼女を見た。
「彼は、僕を知っていました」
「では、知らないままでよかったのかもしれませんわ」
Aは絶句した。
マダム・ヴィーは続ける。
「人は、自分を知りすぎると苦しくなります。忘れることは、ときに救いですのよ」
忘れること。
救い。
Aの夢の中の赤い唇が、また重なる。
忘れなさい。
けれど、捨てないで。
あの言葉は、マダム・ヴィーのものだったのか。
それとも、別の女のものだったのか。
Aは問うた。
「あなたは、僕に何を忘れさせたんですか」
マダム・ヴィーは答えなかった。
ただ、Aの白い仮面を見つめた。
その視線は、顔ではなく、顔を隠すものへ注がれている。まるで、そこに彼女の作品があるかのように。
「まずは、お食事を」
彼女は柔らかく言った。
「人は悲しみの中でも、きちんと食べなければなりません」
Aは、その言葉に寒気を覚えた。
死体が運ばれたばかりだ。
血が洗われたばかりだ。
Gの口は、まだ何かを言いかけたままだった。
それでも、この屋敷では朝食の時間が来る。
生活は続く。
儀式は続く。
死者は片づけられ、食卓は整えられる。
二号がAのそばへ来た。
「A様。朝食のお支度が整っております」
「食べられません」
思ったより強い声が出た。
二号の指が震えた。
「お館様のご指示でございます」
「人が死んだ直後に?」
二号は答えない。
「君は、本気で僕に食べろと言うんですか」
二号の目が揺れた。
Aはそこで気づいた。
自分が拒めば、二号が困る。
お館様の指示を果たせなかった召使いとして、彼女が罰を受けるかもしれない。
屋敷では、反抗は本人だけのものではない。誰かの反抗が、別の誰かの罰になる。だから召使いたちは命令を守らせる。自分を守るためにも、相手を守るためにも。
Aは息を吐いた。
「……わかりました。行きます」
二号は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
礼を言われることではない。
けれど、二号の声には、わずかな安堵が混じっていた。
朝食の食堂は、昨夜より明るかった。
しかし、明るいぶんだけ異様だった。
長い食卓は整えられている。銀食器は磨かれ、白い皿が並び、温かいパンと卵料理が置かれていた。蒼いナプキンの空席も、昨夜と同じように用意されている。Gの席だけがなかった。
いや、椅子はある。
だが、皿がない。
グラスがない。
ナプキンもない。
まるで、最初からそこに客人などいなかったようだった。
Aは喉の奥が冷たくなるのを感じた。
Gは死んだだけではない。
食卓からも片づけられている。
二号が椅子を引いた。
Aは座った。フォークを持つ。料理を口へ運ぶふりだけをする。パンを小さくちぎり、皿の端へ置く。食べられない。
銀食器は冷たかった。
死の直後に整えられた食卓。
これが、この館の朝なのだ。
食堂を出たあと、廊下でJが近づいてきた。
朝食の席にはいなかったはずなのに、当然のようにそこにいる。杖の音が、こつ、と短く響いた。
「だから言っただろう。今行っても、もう会えないって」
Aは立ち止まった。
「あなたは、知っていた」
Jは否定しなかった。
「知っていた、とは少し違う。予想していた」
「なぜ止めなかったんですか」
「ボクに止められるなら、とっくにこの館は空っぽだ」
その言葉は、初めて少しだけ疲れて聞こえた。
だが、Aには言い訳にしか聞こえなかった。
「Gさんは、落ちたんですか」
Jは廊下の窓へ目を向けた。外は霧で白い。
「落ちたんじゃない」
彼は言った。
「歩かされたんだ」
Aは息を呑んだ。
「どこから」
Jは答えなかった。
「それを知りたいなら、帽子を探すことだ」
「帽子」
「彼は古典的な男だったからね。大事なものを靴底に隠すほど器用じゃない。帽子の裏、鞄の底、酒瓶のラベル。そういう、古臭いところを信じる男だった」
「あなたは帽子がどこにあるか知っているんですか」
Jは微笑んだ。
「知っていたら、もう少し格好よく登場している」
「信用できません」
「正しい判断だ」
Jは白手袋の指を唇の前に立てた。
「でも、探したほうがいい。マダム・ヴィーが探す前にね」
それだけ言って、Jは歩き出した。
こつ。
こつ。
こつ。
杖の音が遠ざかる。
Aは自室へ戻った。
二号は扉の外に立っている気配を残したままだった。鍵はかかっていない。だが、いつでも開けられる自由はない。
部屋の中は静かだった。
Aは袖口の内側へ指を入れた。
黒い繊維を取り出す。
小さな黒い糸。
それだけが、現場から持ち出せた唯一のものだった。黒い。湿っている。指先に乗せると、ただの糸に見える。けれど、そこにはGが最後に掴んだ何かがある。
机へ向かう。
便箋はある。
封筒もある。
だが、筆記具はない。
書けない。
名前だけではない。
証拠も、記録も、自分の考えも、紙に残せない。
Aは目を閉じた。
なら、記憶するしかない。
声に出さず、頭の中で繰り返す。
靴底。水。
黒い繊維。
ハンカチの甘い香り。
時計。七時四十七分。
帽子の不在。
Gの口。何かを言いかけて止まっていた。
マダム・ヴィーの言葉。事故。
Jの言葉。落ちたんじゃない。歩かされた。
帽子を探すこと。
Aは黒い繊維を、シャツの袖口の裏へもう一度隠した。
この館では、死者の言葉さえ片づけられる。
ならば、片づけられる前に拾うしかない。
事故、とマダム・ヴィーは呼んだ。
だからAは、その言葉を信じないことにした。




