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第3章 ― Jの紅茶

 Gの背中は、赤い廊下の奥へ吸い込まれていった。


 三号に腕を取られ、四号に肩を支えられ、酔っている男のように足をもつれさせている。だが、Aにはそれがただの酔いには見えなかった。


 Gの頭には包帯が巻かれている。食堂の燭光を離れた白い包帯は、廊下の暗がりで妙に浮いていた。くたびれたスーツの背中。中折れ帽を握る指。酒と煙草の匂いが、まだAの肩のあたりに残っている。


 ――今夜だ。俺の部屋に来い。帽子を見るな。いや、見るんだ。


 囁きは短かった。だが、その言葉だけが、食卓のすべてよりも重かった。


 Gは自分を知っている。

 自分の名前を知っている。

 ここへ来た理由も、おそらく知っている。


 その男が今、何かを言う前に連れていかれている。


 Aは追おうとした。


 けれど、二号が前に出た。


「A様。お部屋へ」


 声は丁寧だった。

 前までの「お客様」ではない。たった今、マダム・ヴィーに与えられた一文字の名前が、もう彼女の口に馴染んでいる。


 A様。


 その響きが、首元の痕を内側から押すように感じた。


「Gさんと話があります」


「G様は、お疲れでございます」


「本人から、今夜来いと言われました」


 二号の目が、黒いフェイスマスクの中でかすかに揺れた。


 聞こえていたのか。

 それとも、予想していたのか。


「A様。お部屋へ」


 同じ言葉。


 丁寧な言葉ほど、逃げ道を塞ぐ。


 Aは一度、Gの消えた廊下の角を見た。三号と四号は彼をまっすぐ部屋へ運んでいるように見える。だが、廊下の奥で一瞬、影が曲がった。


 Gの部屋へ向かうには、あちらで合っているのか。


 Aにはまだ屋敷の構造がわからない。けれど、Gを支えている二人の召使いは、食堂から自室へ戻る客を案内する動きとは少し違って見えた。歩調が速い。支えるというより、運んでいる。Gの足は絨毯を踏んでいるが、その重心は二人の腕にほとんど預けられていた。


 Gが振り返った。


 一瞬だけ。


 酔った男の目ではなかった。


 正気だった。


 Aは胸の奥で息を詰めた。


「……わかりました」


 二号へ向き直る。


「部屋へ戻ります」


 二号は深く頭を下げた。


「ご案内いたします」


 従っているふりをする。


 そう決めてからのAは、足音さえ意識した。赤い絨毯は音を吸う。だからこそ、衣擦れや呼吸の乱れが目立つ。仮面の内側で息が浅くなるのを、彼は意識して抑えた。


 二号は半歩前を歩く。決して遠く離れない。角を曲がるときには、必ず先に視線を送る。廊下には、時折、黒いフェイスマスクの召使いたちが無言で行き来していた。皿を運ぶ者。銀盆を持つ者。白い布を抱える者。誰もAを見ない。見ないようにしている。


 だが、見られている。


 この屋敷では、視線さえ礼儀に隠れる。


 Aは自室へ戻る道を覚えようとした。


 赤い絨毯。左手に布で覆われた大きな肖像画。右手に細い廊下。二つ目の燭台の蝋が片方だけ短い。壁の下部に、車輪が擦ったような細い傷。さらに奥に、古い花瓶。そこで廊下は左右へ分かれる。


 二号は左へ進んだ。


 Aはそこで足を止めた。


「どうなさいました」


 二号が振り返る。


 Aは仮面に手をやった。目元ではなく、こめかみの辺りを押さえる。


「少し、眩暈が」


 二号が一歩戻る。


「お支えいたします」


「大丈夫です。少しだけ」


 Aは壁に手をついた。


 その瞬間、廊下の奥で銀盆が落ちる音がした。


 高い音ではなかった。布か絨毯に吸われて鈍くなった、しかし確かに何かが倒れた音。二号の視線が一瞬そちらへ向く。


 その一瞬で、Aは右の細い廊下へ身を滑らせた。


 大胆な脱走ではない。

 ただ、一歩ずれただけだ。


 だが、その一歩は、屋敷の中で初めて自分の意思で選んだ方向だった。


 細い廊下は暗かった。燭台の数が少なく、赤い絨毯も少し古い。壁には客室の扉が並んでいる。部屋番号ではなく、小さな真鍮の札にアルファベットが刻まれていた。


 S。

 その扉の前には、爪で引っかいたような跡がある。


 M。

 扉は閉じられ、下から灯りは漏れていない。なぜか、蒼い布が取っ手に結ばれていた。


 Aは足を止めそうになったが、今は違う。


 Gを探す。


 廊下を進む。仮面の内側で息が熱くなった。首元の痕が微かに疼く。背後から二号が追ってくる気配はまだない。だが、時間はない。


 角を曲がった先に、その扉はあった。


 G。


 真鍮の札は少し傾いていた。他の客室の札より古く、磨き方も雑に見える。扉の下から灯りは漏れていない。


 Aは扉の前に立った。


 手を上げる。


 一度、叩いた。


 返事はない。


 もう一度。


 沈黙。


 ただ、内側から微かな物音がしたような気がした。布が擦れる音か、家具が軋む音か。それとも、自分が期待したせいで聞こえた幻か。


「Gさん」


 声を抑えた。


「僕です。さっきの話を――」


 返事はない。


 Aはドアノブに手をかけた。


 金属は冷たかった。食堂の銀食器とは違う、古い鍵の匂いが指に移る。ゆっくり回す。


 動かない。


 鍵がかかっている。


 彼は鍵穴へ目を近づけた。仮面が邪魔だった。目元の硬い縁が扉に当たり、顔を十分に寄せられない。角度を変えて覗くと、鍵穴の向こうに細い金属の影が見えた。


 内側から鍵が挿さっているように見える。


 部屋は内側から閉められている。

 そう見える。


 だが、本当に?


 Gは眠っているのか。

 それとも、誰かに中へ入れられたのか。

 あるいは、内側から閉まっているように見せかけられているのか。


 Aはもう一度扉を叩いた。


「Gさん。聞こえていますか」


 沈黙。


 その沈黙が、妙に厚かった。


 廊下の奥から、別の音がした。


 こつ。


 Aは振り返った。


 こつ。

 こつ。


 杖の音。


 赤い絨毯の上なのに、その音だけははっきり響いた。近づくたび、床ではなく耳の内側を叩くように聞こえる。


 闇の奥から、Jが現れた。


 黒に近い濃紺の仮面。整えられたスーツ。白手袋。細い杖。食堂にいたときと同じように優雅で、同じように不自然だった。


 彼は驚いたふうもなく、Aを見た。


「夜這いにしては、相手が悪いね」


 Aは眉をひそめた。仮面の下で表情がどう見えたかはわからない。


「Gさんと話がしたいだけです」


「この館で“話がしたいだけ”という人間は、たいてい朝までに黙ることになる」


「冗談のつもりですか」


「半分はね」


 JはGの扉へ近づいた。


 白手袋の指が、扉の木目に触れる。ほんの一瞬。まるで体温を確かめるように触れ、すぐに離した。その仕草が、汚れ物に触れたあと手を引くようにも見えた。


「中にいるんですか」


 Aが問う。


「さあ」


「あなたは何を知っているんですか。Gさんは、僕の名前を知っている。ここへ来た理由も知っているはずです。食堂で何度も話を遮られた。あれは偶然ですか。二号も、召使いたちも、マダム・ヴィーも、あなたも」


「ずいぶん一度に聞くね」


「答えてください」


 Jは肩をすくめた。


「廊下は耳が多い。話すなら、紅茶でも飲みながらにしよう」


「僕はGさんと話す」


「今はやめておいたほうがいい」


 Jの声は軽かった。だが、その奥に冷たいものが混じった。


「彼は酔っている。あるいは、酔っていることにされている」


 Aは息を止めた。


「どういう意味ですか」


「言葉の通りだよ。酒で足を取られているのか、酒のせいにされているのか。この館では、結果が同じなら原因の名前はあとから選べる」


「それなら、なおさら会う必要があります」


「無理にここで騒げば、君はGと話すどころか、自分の部屋からも出られなくなる」


 Jは一歩近づいた。


 距離が近い。


 Aは反射的に半歩引いた。Jはそれを見て、楽しそうに目を細める。


「賢いね、A。君は怖がっているだけじゃない。考えている」


「あなたは、僕を助けているんですか。それとも邪魔しているんですか」


「その二つは、いつも別物とは限らない」


「はぐらかさないでください」


「はぐらかしているうちは、まだ親切なほうだよ」


 廊下の奥から、足音が聞こえた。


 複数。

 手袋をした召使いたちの、柔らかく、揃った足音。


 Jがわずかに目を動かす。


「見つかりたくないなら、今は来た道を戻るより、こちらへ」


 AはGの扉を見た。


 閉じている。

 内側から鍵が挿さっているように見える。

 返事はない。


 Gはそこにいるのか。

 いないのか。


 Aは唇を噛みそうになり、やめた。仮面で表情は隠れても、口元は見える。焦りを見せてはいけない。


「……少しだけです」


「もちろん」


 Jはにこりと笑った。


「少しだけ、と言って始まった話ほど、長くなるものだけどね」


 Jに案内されたサロンは、食堂よりも暗かった。


 赤ではない。琥珀色だった。


 暖炉の炎が低く燃え、革張りの椅子の背を橙に照らしている。重いカーテンは窓を覆い、外の霧を完全に遮断していた。本棚には古い背表紙が並んでいるが、よく見ると本ではなく箱のようなものも混じっている。壁にはいくつか肖像画があった。だが、そのうち二枚は布で覆われ、ひとつは額縁だけが残っていた。


 ここにも不在が飾られている。


 Jは杖を椅子に立てかけ、慣れた動きで茶器の置かれた小卓へ向かった。


「紅茶でいいかな」


「飲むとは言っていません」


「出すとは言ったけれど、飲めとは言っていない」


 Jは白手袋を外さないまま、茶器を扱った。


 その指先は美しかった。磁器の蓋を取る。茶葉をすくう。ポットへ湯を注ぐ。薄い湯気が立ち上がる。どの動作も芝居じみているのに、無駄がなかった。


 白手袋のまま紅茶を淹れるという不自然さが、彼にはよく似合っていた。


 Aは椅子に腰を下ろさなかった。暖炉の近くに立ったまま、Jの手元を見ていた。炎が白い仮面の縁に揺れる。夢の中の炎を思い出しそうになり、彼は視線を外した。


 Jは二つのカップを用意した。


 Aのカップには何も入れない。砂糖も、ミルクも。


 自分のカップにも何も入れず、そのまま口をつける。


 そしてAの前へ、もう一つのカップを置いた。


「どうぞ」


 Aはカップを見つめた。


 琥珀色の液体。

 薄い湯気。

 ベルガモットの香り。

 煙。古い紙。かすかに湿った石の匂い。


 食堂でGは酒を飲んでいた。マダム・ヴィーはワインを飲んでいた。召使いたちは飲み物を運ぶ。二号は薬湯を用意していた。そして今、Jは紅茶を差し出している。


 この屋敷で、差し出されたものを口にしていいのか。


 Aはカップに触れなかった。


 Jは笑った。


「賢明だ。ここで出されたものをすぐ口にするのは、あまり上品な自殺とは言えない」


「では、なぜ出したんですか」


「会話には小道具がいる」


 Jは自分のカップを持ち上げた。


「紅茶、酒、煙草、死体。何でもいい。人は何かを挟まないと、本当のことを言えない」


「死体まで小道具ですか」


「この館では、時々ね」


 Aはカップを見たまま、眉間の奥に重さを感じた。


 飲まない紅茶が、そこにある。


 飲まないという選択をしたはずなのに、香りだけが先に体内へ入ってくる。触れていない。口にしていない。それでも、香りは拒めない。接触しないのに侵入してくる。


「ここは何なんですか」


 Aはようやく椅子へ腰を下ろした。カップからは距離を置く。


 Jはすぐには答えなかった。


 紅茶の水面を揺らし、暖炉の炎を見つめる。


「夢の館は、ただの屋敷じゃない。表向きは、身分や肩書きを忘れるための匿名サロンだ」


「匿名サロン」


「仮面をつけ、本名を捨て、社会で背負っているものを一晩だけ忘れる。政治家、芸術家、資産家、旧家の人間。色々来ていたよ。顔を隠し、名前を捨てるからこそ、ここで見たことは外へ持ち出されない。そういう約束で成り立つ夢だ」


「夢という言葉を、皆さんよく使いますね」


「便利だからね。監禁も夢、失踪も夢、死も夢。名前をつけ替えれば、たいていのことは少しだけ綺麗に見える」


「あなたも、その客人の一人ですか」


 Jは笑った。


「昔はね」


「今は?」


「置物に近い」


「置物?」


「壊れたけど、捨てるには惜しいもの。そういう扱いさ」


 Jの声は軽い。だが、暖炉の火が彼の足元を照らしたとき、Aは椅子の横に置かれた杖を見た。銀の飾りがついた美しい杖。その先端だけが、使い込まれてわずかに傷んでいる。


 壊れたけど、捨てるには惜しいもの。


 自嘲に聞こえた。

 同時に、屋敷に染みた言葉にも聞こえた。


「同情ならやめておいて」


 Jが言った。


 Aは顔を上げた。


「何も言っていません」


「仮面越しでもわかるよ。君は意外と顔に出る」


「顔は隠されています」


「だから、よく見えるものもある」


 Jはカップを置いた。


「人は表情を隠されると、指先や喉や沈黙で喋るようになる」


 Aは自分の手を膝の上で握った。


 見透かされている。


 顔を奪われているのに、むしろ裸にされているような感覚だった。


「マダム・ヴィーは、この屋敷の主なんですか」


 食堂での違和感を、Aはぶつけた。


 Jは答えた。


「今はね」


「今は?」


「この館には、本来の主がいた。領主X」


 初めて聞く名だった。


 だが、夢の中の魔獣の仮面が脳裏をよぎった。額から垂れる奇妙な飾り。獣の顔でありながら、人間の仮面にも見えた黒い輪郭。


「Xというのは、本名ではありませんね」


「この館では、本名は毒だと言ったろう」


「その人は、どこにいるんですか」


 Jは紅茶を飲んだ。


 少し間を置いた。


 その間に、暖炉の薪が小さく爆ぜた。


「地下に置かれている」


 置かれている。


 Aはその言い方に引っかかった。


「いる、ではなく?」


 Jは笑った。


 けれど、その笑いは一瞬だけ遅れた。


「この館に長くいるとね、人間と物の区別が少し曖昧になる」


「あなた自身も、そうなっているんですか」


「鋭いね」


「褒められている気がしません」


「褒めてはいない。気に入っただけだ」


 Aは背筋に冷たいものを感じた。


 Jは情報を与えている。だが、その言葉の端々に、屋敷の倫理が染みている。人間を置物と言う。地下に置かれていると言う。壊れたものを惜しむ、と言う。


 この男は屋敷の敵なのか。

 それとも、屋敷に壊されながら、屋敷の言葉を覚えてしまった人間なのか。


「マダム・ヴィーは、何者なんですか」


 Aはさらに尋ねた。


 Jの表情が変わった。


 初めて、軽薄な笑みが薄れた。


「この館の女主人。夢の演出家。怪物。被害者。加害者。どれでも正しいし、どれも足りない」


「はぐらかさないでください」


「はぐらかしているんじゃない。あの人について、ひとつの答えを出した人間から順番に壊されるんだ」


「あなたは壊されたんですか」


 Jは答えなかった。


 代わりに、白手袋の指でカップの縁をなぞった。


「彼女は人を殺すより、人が自分を失っていく過程を見るのが好きだ。名前、顔、記憶。順番に外していく。まるでドレスの留め具を外すみたいにね」


 Aは不快になった。


 比喩が美しいことが、いっそう不快だった。

 この男はマダム・ヴィーを憎んでいるのかもしれない。だが、彼女の美学を理解しすぎている。理解したうえで、その語彙を使っている。


「いい顔だ」


 Jが言った。


「仮面越しでもわかる」


「僕の反応を楽しんでいるんですか」


「もちろん」


 Jは微笑んだ。


「楽しまないと、こんな館にはいられない」


「あなたは僕の名前を知っていますか」


 Aは唐突に聞いた。


 Jは少し黙った。


「知っている、と言ったら?」


 Aは身を乗り出した。


 それだけで、Jの唇に笑みが戻った。


「でも、ここで言えば、君はそれを信じるのかい?」


 Aは言葉に詰まった。


「信じるかどうかは、聞いてから決めます」


「それが危ないんだ。名前は、本人が思い出すから意味がある。他人に与えられた名前は、仮面と変わらない」


 A。


 食堂で与えられた一文字が、胸の中で冷たく響いた。


「Gなら、君の名前を知っているかもしれない」


 Jが言った。


 Aは立ち上がりかけた。


「なら、やっぱりGさんに――」


「今行っても、もう会えないよ」


 Aは凍った。


「どういう意味ですか」


 Jは曖昧に笑った。


「この館では、会いたい人間ほど、扉の向こうにいる」


「今、Gさんに何が起きているんですか」


「さあ」


「知らないんですか」


「知っていることと、言えることは別だよ。これは二号だけの問題じゃない」


 Aは拳を握った。


 そのとき、サロンの外で音がした。


 重いものを引きずるような音だった。


 車輪ではない。

 布が床を擦る音。何かが絨毯の上を引かれている。低い呻き声のようなものが混じった気がした。


 すぐに、複数の足音がそれを覆い隠す。


 Aは扉を見た。


「今のは?」


 Jは紅茶を飲んだ。


「古い館はよく鳴る」


「人の声に聞こえました」


「人の声に聞こえる音は、この館では珍しくない」


 Aは扉へ向かった。


 ドアノブに手をかける。金属は温かかった。暖炉の熱が伝わっているのか、それとも誰かが少し前に触れたのか。


 Jは止めなかった。


 ただ、背後から言った。


「開けてもいい。でも、その場合、君は“まだ知らない客人”ではいられなくなる」


 Aの指が止まる。


 扉は開けられる。

 たぶん鍵はかかっていない。


 開ければ、何かを見るかもしれない。Gか。別の誰かか。地下へ運ばれる何かか。見れば、屋敷側に「見た」と知られる。まだ情報が足りないまま、危険の中心へ引きずり込まれる。


 臆病だからではない。


 まだ、動くべきではない。


 Aはゆっくり手を離した。


「賢い」


「褒めないでください」


「じゃあ、観察力があると言おう」


 Jは椅子から立ち上がった。杖を手に取る。


「覚えておくといい。この館で一番危険なのは、鍵のかかった扉じゃない。開いている扉だ」


 Aは彼を見た。


 前に自分が考えたことと同じだった。開いているのに通れない扉。閉じられていないのに、踏み越えれば戻れなくなる境界。


「あなたは、僕に何をさせたいんですか」


 Jは首を傾げた。


「さあ。君がどちら側へ転ぶのか、見てみたいのかもしれない」


「どちら側?」


「壊される側か。壊す側か」


「僕は、どちらにもなりたくありません」


「それを選べると思っているところが、まだ外の人間だね」


 Jは近づいてきた。


 近すぎる。


 Aの仮面を、まるで一枚の絵でも鑑賞するように見つめる。目元は隠れているはずなのに、仮面の奥の動揺まで読まれている気がした。


「マダム・ヴィーは君を気に入っている」


「それは、名誉なことですか」


「いいや」


 Jは笑った。


「気に入られた人間は、簡単には死なない。けれど、簡単には帰れない」


 Aは何も言わなかった。


 暖炉の炎が、白い仮面に揺れた。


「Gさんの部屋へ戻ります」


 Aは言った。


 Jは止めなかった。


「なら、案内しよう」


「ついてくるんですか」


「もちろん。君一人だと、すぐに迷子になる」


「監視ですか」


「親切だよ。少なくとも、嘘をつくときは上手につく」


 Aはその言葉に返事をしなかった。


 二人はサロンを出た。


 廊下はさきほどより静かだった。だが、静けさの質が違う。何かが通ったあと、音だけが拭き取られたような沈黙だった。


 Gの部屋の前へ戻る。


 扉は変わらず閉まっている。


 だが、廊下には微かな香りが残っていた。


 食堂の香水とも、サロンの紅茶とも違う。甘く鈍い。花の香りに似ているが、花そのものではない。赤い花を潰して、薬と混ぜたような匂い。嗅いでいると、舌の奥に眠気が滲む。


 Aは眉をひそめた。


「この匂いは」


 Jは答えなかった。


 Aは扉を叩いた。


「Gさん」


 返事はない。


 もう一度。


「Gさん、聞こえていますか」


 沈黙。


 Jが白手袋の指で扉の縁に触れ、耳を当てた。


 その姿は優雅だった。

 同時に、ひどく芝居がかっていた。


 しばらくして、Jは顔を離した。


「眠っているね」


「本当に?」


「そういうことにしておこう」


 Aはドアノブを回した。


 やはり開かない。


 Jは鍵穴を覗き込んだ。白手袋の指が、鍵穴の縁をなぞる。黒い扉に白い指だけが浮かぶ。


「内側から閉まっているように見える」


「ように?」


「鍵というのは、見た目ほど正直じゃない」


「開けられるんですか」


「ボクが?」


「あなたは、知っているように見える」


「知っていることと、できることも別だ」


 Aは扉を見た。


 この向こうにGがいるのか。

 眠っているのか。

 それとも、もういないのか。


 確かめられないことが、何より恐ろしい。


「A様」


 背後から声がした。


 Aは振り返った。


 二号が立っていた。


 いつからそこにいたのかわからない。赤い廊下の影の中に、最初から置かれていたように立っている。黒いフェイスマスク。白いエプロン。白い手袋。


 彼女の呼吸だけが、わずかに硬かった。


「お部屋へお戻りください」


「Gさんは中にいるんですか」


「G様は、お休みでございます」


「本当に見たんですか」


 二号は答えなかった。


「あなたは、Gさんがこの部屋にいるのを見たんですか」


 二号の手袋の指が、かすかに震えた。


 それをAは見た。Jも見た。


「二号を責めるのは趣味が悪い」


 Jが横から言った。


「彼女は言えることしか言えない」


 二号の指が、さらに小さく震えた。


 庇っているのか。

 追い詰めているのか。

 Aにはわからない。


「G様は、お休みでございます」


 二号はもう一度言った。


 その敬語が、不自然だった。


 お休み。


 眠っているのか。

 閉じ込められているのか。

 死んでいるのか。

 この屋敷では、言葉が真実を隠す布になる。


「A様。お部屋へ」


 AはGの扉を見た。


 今ここで騒げば、扉を開けられるかもしれない。

 だが、その先で何が起きるかはわからない。


 自分はまだ、何も持っていない。

 名前も、記憶も、味方も、鍵も。


 従っているふりをする。


「……わかりました」


 二号は頭を下げた。


 Jは何も言わず、Aの後ろを歩き出した。


 自室へ向かう廊下で、三人の足音は奇妙にずれていた。二号の足音はほとんどない。Aの足音は赤い絨毯に沈む。Jの杖だけが、こつ、こつ、と一定の間隔で響く。


 車輪音は支配の音だった。

 杖音は、誘惑と不信の音だった。


 部屋の前で、Jは立ち止まった。


「今夜は眠らないほうがいい」


 Aは振り返る。


「なぜ」


 Jは答えなかった。


 代わりに、少しだけ顔を近づけた。


「夢は、ここでは誰かの所有物だから」


 それだけ言って、Jは踵を返した。


 こつ。

 こつ。

 こつ。


 杖の音が遠ざかっていく。


 二号が扉を開けた。


「A様」


「はい」


「お休みなさいませ」


 Aは部屋に入った。


 扉が閉まる。


 鍵の音はしなかった。

 だが、廊下の向こうに二号が立っている気配があった。


 Aはベッドに座った。


 部屋は前と同じだった。天蓋。鏡のない化粧台。筆記具のない机。洗面台の空白。窓硝子を覆う布。机の裏に刻まれた「Aではない」という文字。


 整理する。


 Gは自分を知っている。

 Gの部屋は、内側から閉まっているように見えた。

 だが、中にいるかはわからない。

 Jは領主Xの存在を知っている。

 領主Xは地下に「置かれている」。

 マダム・ヴィーは、この屋敷の本来の主ではない。

 Jは情報をくれる。だが、Gと会わせなかった。

 二号はGについて何かを隠している。あるいは、隠さされている。

 そして、この屋敷では、言葉の意味があとから塗り替えられる。


 Aは眠るべきではないと思った。


 今夜、何かが起きている。

 いや、もう起きたのかもしれない。


 彼は椅子に座った。ベッドに横になれば、そのまま眠りに落ちる気がした。肘掛けに手を置き、窓の布が揺れないかを見つめる。外は霧で白い。柱時計は、相変わらず七時四十七分を指して止まっている。


 仮面の内側が熱い。


 最初は、暖炉の余熱かと思った。けれど、この部屋には暖炉はない。頬の内側から、じわじわと熱が上がってくる。首元の痕が疼き始めた。


 鎖骨の近く。

 喉の脇。

 耳の後ろ。


 小さな痕が、呼吸に合わせて脈打つようだった。


 眠ってはいけない。


 Aは爪を掌に立てた。


 痛みで意識を保とうとする。だが、爪は綺麗に整えられていて、思ったほど痛くない。誰かが切った爪。誰かが整えた指。自分を起こすための痛みすら、管理されているように感じた。


 眠ってはいけない。


 扉の向こうに、かすかな気配がある。


 二号か。

 別の召使いか。

 それとも、誰もいないのにそう感じるだけか。


 まぶたが重い。


 食事か。

 飲まなかった紅茶の香りか。

 仮面か。

 首元の痕か。

 疲労か。


 わからない。


 わからないまま、意識がゆっくり傾いた。


 眠ってはいけない。


 そう思った最後の瞬間、映写機の音が聞こえた。


 かた。

 かた。

 かた。


 幼い手を、誰かが引いていた。


 廊下を走っている。


 赤い絨毯。高い天井。壁に並ぶ肖像画。だが、今の屋敷よりずっと明るい。いや、明るいのではない。燃えている。遠くで炎が揺れ、天井近くに黒い煙が溜まっている。


 幼いAは、息を切らして走っている。


 手を引く女の顔は見えない。


 見えるのは、赤い唇だけ。


 深い赤。

 夢の中の唇。

 マダム・ヴィーの唇。

 母と呼んだ女の唇。


 どれなのかわからない。


 柱時計があった。


 針は七時四十七分を指している。


 廊下の奥に、黒い獣の仮面をつけた男が立っていた。


 最初は魔獣に見えた。角。長い輪郭。裂けた口。だが、近づくにつれて、それが人間の身体をしていることがわかる。背の高い男。きちんとした服。仮面だけが獣だった。


 女が幼いAを抱き寄せる。


 掌に何かを握らせた。


 小さな銀の鍵。

 白いリボン。


 女の指は震えていた。だが、唇は微笑もうとしていた。


「忘れなさい」


 声がした。


 今度は、前よりもはっきり聞こえた。


「けれど、捨てないで」


 幼いAには、意味がわからなかった。


 忘れろと言う。

 捨てるなと言う。


 矛盾している。

 でも、その矛盾だけが愛の形をしていた。


 女は首元を押さえた。声が出なくなっていく。唇だけが動く。


 いきなさい。


 黒い獣の仮面が近づく。


 炎が赤くなる。


 映写機の音が大きくなる。


 かた、かた、かた。

 かた、かた、かた。


 違う。


 これは映写機の音ではない。


 Aは目を開けた。


 部屋は暗かった。


 仮面の内側に汗が滲んでいる。喉が乾いている。首元の痕が熱い。柱時計は、夢と同じく七時四十七分を指したまま止まっている。


 だが、音は続いていた。


 かた、かた、ではない。


 もっと低い。


 重いものが床を擦る音。


 廊下の向こうで、何かが運ばれている。


 布が絨毯を引きずるような音。押し殺された足音。誰かの息遣い。それを覆い隠すように、遠くで小さく車輪が軋んだ。


 Aは椅子から立ち上がろうとした。


 身体が重い。


 扉の向こうで、音はゆっくり遠ざかっていく。


 映写機の音だと思っていたものが、目覚めてもまだ続いていた。廊下の向こうで、何か重いものが床を擦っていた。

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