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第2章 ― 仮面の食卓

 車輪の音は、結局、姿を見せなかった。


 廊下の奥から近づいてきたそれは、曲がり角の向こうで一度止まり、しばらく床の上に沈黙を置いたあと、別の通路へ逸れていった。音だけが残った。銀色の何かが磨かれた床を撫でていく、ゆっくりとした規則的な音。


 きい。

 ころ。

 きい。

 ころ。


 遠ざかってもなお、その響きは耳の奥に残った。


 二号はしばらく頭を下げたままだった。彼女の背筋は美しく伸びている。だが、それは誇りの姿勢ではない。恐怖を、礼儀作法に変換した形だった。


 彼はその横顔――正確には、黒いフェイスマスクの縁と、わずかに覗く目元だけを見ていた。


「今のは」


 問うと、二号はゆっくり顔を上げた。


「お館様でございます」


「この館の女主人」


「はい」


「会わなくていいんですか」


「お食事のお席で、お目通りが叶います」


 目通り。


 その言葉の古めかしさが、廊下の空気に妙に合っていた。現代の建物なら滑稽に響くはずの言葉が、この屋敷ではごく自然に聞こえる。いや、自然に聞こえるよう、屋敷全体が作られているのだ。


 二号は何事もなかったように歩き出した。


 彼も続いた。


 赤い絨毯は深く、足音を吸い込んだ。燭台の灯りは、壁の布で覆われた肖像画を薄く照らしている。絵の中の顔は見えない。見えないのに、そこに誰かがいる気配だけが並んでいる。


 廊下の先に、黒い影が立っていた。


 最初は置物かと思った。だが、近づくにつれて、それが人間だとわかる。


 黒い使用人服。

 白いエプロン。

 黒いフェイスマスク。


 二号と同じ姿をした女が、扉の片側に立っていた。その向かいにも、もう一人。さらに少し奥にも、同じ顔のない召使いがいる。


 三人とも、目と口元だけが覗いている。


 けれど、顔立ちはわからない。年齢も、表情も、ほとんど判別できない。体格も服装も揃えられているせいで、個人差は意図的に削られていた。


 彼は足を止めそうになった。


 一人ではなかった。


 二号という名前が異常なのではない。

 番号で呼ばれることそのものが、この屋敷の制度なのだ。


 二号が静かに言った。


「三号。四号。五号」


 それは紹介ではなく、確認に近かった。


 三号と呼ばれた召使いが頭を下げる。四号も、五号も同じ角度で頭を下げた。動作の速度まで揃っている。まるで、同じ糸で引かれた人形のようだった。


 彼は胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。


「全員、番号なんですね」


「はい」


「名前は」


 二号は答えなかった。

 答えないことが答えだった。


 扉の向こうから、かすかな音が聞こえた。


 食器が触れ合う音。

 低い笑い声。

 椅子が床を擦る音。

 そして、誰かの爪が皿の縁を叩く、かつ、かつ、という乾いた音。


 二号が扉の前で立ち止まる。


「お食事のお席でございます」


 彼は閉じられた扉を見た。


 重い両開きの扉だった。深い木目に、葡萄と薔薇の彫刻が施されている。取っ手は古い真鍮で、何人もの手に触れられて鈍く光っていた。


「僕は、まだ名前をもらっていないんですよね」


 二号はわずかに沈黙した。


「お館様がお決めになります」


「僕ではなく」


「はい」


 自分の仮の名すら、自分で決めることは許されない。


 彼はその事実を、扉の前で飲み込んだ。喉に異物が引っかかったようだった。けれど、顔には出さない。仮面がある。仮面は奪われたものだが、同時に、今だけは彼の表情を隠してくれる。


 従っているふりをする。


 前の部屋で決めた言葉を、彼は胸の内側で繰り返した。


 二号が取っ手に手をかけた。白い手袋が真鍮に触れる。三号と四号が左右から扉を押す。


 扉が開いた。


 最初に感じたのは、明るさではなかった。


 赤さだった。


 食堂全体が、深い赤の内側に沈んでいた。窓は重いカーテンで覆われ、外の霧は完全に遮断されている。燭台の炎は暖色に揺れ、ワインの赤、絨毯の赤、壁布の赤、肉料理に添えられたソースの赤が、互いに溶け合っていた。


 食欲を誘う赤ではない。


 舞台の幕の裏側。

 閉じた傷口。

 誰かの唇に塗られた、深いルージュ。


 長い食卓があった。


 白いクロス。銀食器。背の高い燭台。磨かれたグラス。皿は整然と並び、ナプキンはひとつひとつ違う角度で折られている。美しい。あまりにも美しく、食事をする場所というより、何かを配置するための祭壇に見えた。


 上座は空席だった。


 そこだけ椅子の背が高い。肘掛けには細かな彫刻があり、椅子そのものが玉座めいている。誰も座っていないのに、その空席が食堂全体を支配していた。


 その右手側――上座に最も近い席が空いている。


 二号は迷いなく、彼をそこへ案内した。


 彼は違和感を覚えた。


 新参者のはずだった。まだ名前すらない客のはずだった。なのに、用意された席は女主人の隣だ。歓迎というには近すぎる。敬意というには、どこか所有に似ている。


 席は、人間の扱いを言葉より先に教える。


 そう思った。


 向かい側には、一人の男が座っていた。


 黒に近い濃紺のハーフマスク。整えられた黒髪。細身の身体に、よく仕立てられたスーツ。白い手袋をはめた手が、ワイングラスの脚を優雅につまんでいる。椅子の横には、銀の飾りがついた杖が立てかけられていた。


 男は、すでに彼を見ていた。


 笑っている。


 だが、瞳は笑っていなかった。


「ようこそ、まだ名前のないお客様」


 声は柔らかかった。芝居がかった甘さがあり、聞き手との距離を一歩で詰めてくるような親しさがあった。


 彼は椅子の背に手をかけたまま、相手を見た。


「あなたは」


「ボクはJ」


 男は軽くグラスを掲げた。


「ここでは、それで十分らしい」


「本名は――」


 言いかけた瞬間、Jは唇の前に白い手袋の指を立てた。


「本名は毒だよ。この館では、特にね」


 軽い口調だった。


 だが、その言葉だけは妙に冷たかった。


「あなたは、僕がまだ名前を与えられていないことを知っているんですね」


「食卓で空いている席を見れば、だいたいのことはわかるものさ」


 Jの視線が、彼の席へ落ちた。


 その瞬間、Jの笑みがほんのわずかに変わった。深くなったのではない。むしろ、薄くなった。彼は何かを知っている。だが、それを今は言わない。


 彼はそれを覚えておくことにした。


「座らないのかい。女主人を待たせる前に、席に慣れておいたほうがいい」


「この席は、僕の席なんですか」


「今夜はね」


「今夜は?」


 Jはグラスの中の赤を揺らした。


「この館で“ずっと”なんて言葉を信じるのは、初心者か、死人だけだ」


 彼が返事を探すより早く、出口に近い席から乾いた音がした。


 かつ。


 皿を爪で叩く音。


 彼はそちらを見た。


 赤黒いドレスの女が座っていた。


 髪は長く、黒とも暗い赤褐色ともつかない色で、片側だけ乱れて肩に落ちている。顔の上半分は、ひび割れた赤黒いハーフマスクで覆われていた。仮面の縁には、自分で引っかいたような傷がある。剥げた赤いネイル。噛み跡のある唇。細い指が、皿の縁をまた叩いた。


 かつ。


 その音は、食堂の赤い空気に小さな亀裂を入れた。


 彼女は彼を見ていた。


 いや、睨んでいた。


「見るな」


 低い声だった。


「すみません」


「謝るな」


 女の声が鋭くなる。


「謝れば許されると思ってる顔をするな」


 顔。


 その言葉に、彼の喉が詰まった。


 顔は仮面で隠れている。彼女に自分の表情など見えるはずがない。だが、彼女は「顔をするな」と言った。見えないものを、見えているように罵った。


 Jが小さく笑う。


「彼女はS。口は悪いが、この館で一番正直かもしれない」


 Sと呼ばれた女は、テーブルのナイフを掴んだ。


 銀の刃が燭光を受ける。


「黙れ。次に喋ったら、その舌を飾ってやる」


 食堂の空気が凍った。


 だが、誰も本気で止めなかった。


 二号は彼の背後で静かに立っている。三号は皿を運ぶ手を止めない。Jは笑っている。Sはナイフを握っている。危険なはずなのに、食卓は崩れない。


 彼は理解した。


 この屋敷では、Sの怒りさえ配置の一部なのだ。暴言も、ナイフも、割れた仮面も、ある程度まで許されている。止められないのではない。見世物として、置かれている。


 Sは彼を見る。


 彼が何か言おうとした瞬間、Sの瞳が一瞬だけ止まった。


 ほんの一瞬。


 声を聞いたからか。

 仮面の下の輪郭を見たからか。

 彼にはわからなかった。


 だが、その一瞬をJだけは見ていた。


 Jは笑みを深めた。


「さて。こちらの怒れる淑女とは別に、もう一人、今夜はいない淑女がいる」


 彼は食卓の中ほどに視線を移した。


 そこには空席があった。


 椅子は引かれていない。きちんと食卓に収められている。皿も、グラスも、銀食器も用意されていた。だが、そこに座る者はいない。


 ナプキンだけが、薄い蒼色だった。


 他の席は白か赤の布なのに、その席だけ、霧の中の水のような蒼。使われないグラスには、燭台の光が触れず、わずかに冷たく見えた。


「あそこはMの席」


 Jが言った。


「もっとも、今夜も来ないだろうけど」


「M」


 彼はその空席を見つめた。


「どんな人なんですか」


「部屋にこもるのが好きな淑女だよ。窓の外ばかり見ている。君が窓の下を歩けば、見られるかもしれない」


「Mの話をするな」


 Sの声が飛んだ。


 今度は、ただの苛立ちではなかった。明らかに反応が違う。皿を叩いていた指が止まり、ナイフを握る手に力が入っている。


 Jは肩をすくめた。


「怒られた。だからここまでにしておこう」


 SとM。


 彼は二つの文字を胸の内側に置いた。


 一人は怒りとして食卓にいる。

 一人は沈黙として食卓にいない。


 空席は、ただの不在ではなかった。そこにいないこと自体が、食卓の役割として固定されている。誰も座らない席に、毎回食器が用意される。来ないとわかっていても、欠席者として飾られる。


 食卓に並んでいるのは、料理ではない。


 役割だ。


 そのとき、食堂の扉が乱暴に開いた。


「いやあ、悪い悪い。遅れたか」


 入ってきた男は、屋敷の空気から明らかに浮いていた。


 小太りの体。くたびれたスーツ。頭には包帯。片手に中折れ帽を持ち、もう片方の手で扉の縁を掴んでいる。顎には剃り残しがあり、髪は少し乱れていた。酒の匂い、煙草の匂い、安い整髪料の匂いが、食堂の古い香水とワインの赤を乱した。


 彼だけが、外の世界の埃を持ち込んでいた。


 男は彼を見た。


 そして、心底ほっとしたような顔をした。


「おお、先生。やっと起きたか」


 先生。


 彼は固まった。


 この男は、自分を知っている。


 Gは――まだ名乗っていないのに、なぜか彼の中でその文字が浮かんだ。いや、誰かが呼んだのかもしれない。末席に置かれた小さな札に、Gと書かれていたのかもしれない。彼はそこまで確認できなかった。ただ、その男が自分にとって、ほかの客人とは違うのだと直感した。


 Gは帽子を軽く振った。


「いやあ、二人とも助かったってわけだ。運がいいのか悪いのか――」


 その瞬間、食卓のあちこちで小さな反応が起きた。


 Sが爪を止めた。

 Jの笑みが深くなった。

 二号がグラスを取り落としかけ、寸前で持ち直した。

 Mの空席の蒼いナプキンが、誰も触れていないのに、燭火の揺れでわずかに震えた。


 上座はまだ空いている。


 彼は椅子から離れ、Gのほうへ一歩踏み出した。


「あなたは、僕を知っているんですか」


「知ってるも何も、お前――」


 三号が料理皿を持って、二人の間に入った。


 銀の蓋つき皿。

 湯気。

 赤いソースの匂い。


 Gの言葉が切られる。


 二号が彼の椅子を引いた。


「お客様、お席へ」


「待ってください。今、この人が」


「お食事が始まります」


 Jが明るく言った。


「食事の前に込み入った話は胃に悪いよ。彼は見ての通り、怪我人だしね」


「怪我人は俺だけじゃねえだろ」


 Gは椅子にどさりと座った。末席だった。上座から最も遠い。扉に近いが、出口とは微妙に距離がある。食卓の端。置かれてはいるが、中心から外された席。


 彼はGに近づこうとした。


 そのとき、音がした。


 きい。


 廊下から。


 食堂の会話が止まった。


 召使いたちが一斉に姿勢を正す。二号が頭を下げる。三号も四号も五号も、同じ角度で首を垂れた。Jは笑みを消さないまま、グラスを静かに置いた。Sは忌々しそうに顔を背ける。Gは小さく舌打ちした。


 きい。

 ころ。


 銀の車輪が床を撫でる音。


 ゆっくり。

 規則正しく。

 逃げ場を与えない速度で近づいてくる。


 古い香水の匂いが、先に食堂へ入ってきた。


 薔薇。粉。薬品。古い布。甘いのに、喉の奥に苦みを残す匂い。


 次に、黒いベールが見えた。


 そして、赤い唇。


 車椅子に座った女が、食堂へ入ってきた。


 彼は息を止めた。


 顔の上半分は、黒いベールと帽子の影で隠されている。だが、唇だけははっきり見えた。深い赤のルージュ。夢の中で燃えていた女の唇と、記憶の中で仮面を押さえた女の唇が、同時に蘇る。


 違う。

 いや、同じだ。

 わからない。


 胸がざわついた。


 女は車椅子に座っていた。ドレスは黒を基調に、深紅と象牙色のレースが重なっている。片脚の不在を隠すように、布は重く流れていた。手袋をはめた指は細く、長い。膝の上には黒い日傘のような細い杖が置かれている。銀の車輪が、燭台の火を拾って光った。


 彼女は何も命じなかった。


 怒鳴りもしない。

 合図もしない。


 ただ、微笑んだ。


 それだけで、食堂全体が彼女のものになった。


「新しいお客様ですのね」


 声は柔らかかった。


 甘い。

 だが、その甘さは薬のシロップに似ていた。飲み込んだあとで、舌の奥に苦みが残る。


 彼は立ち上がろうとした。何をすればいいかわからない。握手か、会釈か、名乗りか。だが本名は禁じられている。名前はまだ与えられていない。


 Jが横から低く囁いた。


「手を取って、甲に口づけを。ここでは、それが挨拶だ」


 彼はJを見た。


「本気ですか」


「この館で冗談に聞こえることほど、たいてい本気だよ」


 拒否したかった。


 だが、食卓のすべての視線が彼に向いていた。二号は目を伏せている。Sは睨んでいる。Gは何か言いたげにしているが、口を閉じている。Jは楽しそうに観察している。


 女主人――マダム・ヴィーは、ゆっくり手袋を外した。


 その動作が、異様に静かだった。


 薄い革が指から抜ける音。

 指輪が燭光を拾う。

 深紅の爪。

 白い手。


 手袋を外しただけなのに、場の温度が変わった。


 彼はその手を取った。


 手は冷たかった。

 しかし、死んだものの冷たさではない。陶器のように管理された冷たさだった。


 彼は身をかがめる。


 白い仮面が、女の白い手に近づく。視界の端で赤い唇が微笑む。彼の口元が手の甲へ触れた。


 一瞬。


 それだけだった。


 だが、その一瞬に、記憶が閃いた。


 赤い唇。

 誰かの手。

 幼い自分。

 白いリボン。

 銀の鍵。

 そして、甘い声。


 ――名前を置いていきなさい。


 頭痛が走った。


 彼は息を止め、こらえた。ここで倒れてはいけない。ここで怯えていることを見せてはいけない。


 マダム・ヴィーは微笑んだ。


「よろしい」


 褒められたのではなかった。


 確認されたのだ。


 手順を受け入れたこと。

 この食卓の儀式に、彼が一度従ったこと。

 彼の唇が、女主人の手に触れたこと。


 マダム・ヴィーは手袋を戻さず、しばらく素手のまま彼を見ていた。


「お名前を失くされたのでしたら、今夜からはAとお呼びしましょう」


 その場の空気が、静かに決まった。


 彼は反射的に言った。


「なぜ、Aなんですか」


 マダム・ヴィーの赤い唇が、ゆっくり弧を描いた。


「始まりの文字ですもの」


 Jが小さく笑った。

 Sが舌打ちした。

 Gが何かを言いかけて、グラスを掴んだ。

 二号が深く頭を下げた。


 そして、次の瞬間。


「A様、お席へ」


 二号がそう言った。


 彼はぞっとした。


 さきほどまで「お客様」だった。

 今、名前が変わった。


 たった一文字。

 誰かに与えられた仮の名。

 それなのに、二号の呼び方が変わっただけで、自分の輪郭が屋敷の中に固定された気がした。


 名前がないことより、与えられた名前で呼ばれることのほうが危険なのだ。


 A。


 それは彼ではない。

 だが、彼は今から、その名で振り向かなければならない。


 マダム・ヴィーは上座へ進んだ。車椅子が静かに止められ、五号が椅子の位置を整える。誰も言葉を発しない。彼女は当然のように食卓の中心へ収まった。


 食事が始まった。


 銀の蓋が開けられる。


 料理は美しかった。

 肉料理には艶やかな赤いソースが添えられ、白い皿の上で血のように見える。薄く切られた野菜は花びらのように並び、スープは琥珀色に澄んでいた。パンは温かく、バターは小さな薔薇の形に整えられている。


 食欲は湧かなかった。


 Aはナイフとフォークを持ち、食べるふりをした。


 観察する。


 Jは食事を楽しんでいるように見える。白手袋をしたまま器用にグラスを持ち、時折Aへ視線を向ける。杖は椅子の横にあり、金属の飾りが燭光を拾っている。


 Sはほとんど食べない。皿の縁を爪で叩き、時折ナイフの刃を見つめている。彼女の割れた仮面には赤い光が入り込み、ひびが深く見えた。


 Gは酒ばかり飲んでいる。顔は赤い。だが、完全に酔っているわけではない。目だけは時々、鋭くAへ向く。何かを伝えようとしている。


 二号はAの背後に控えていた。必要なときだけ動く。水を注ぎ、皿を下げ、椅子の位置を直す。黒いフェイスマスクの下で、彼女の呼吸だけがかすかに聞こえる。


 マダム・ヴィーは、ほとんど食べなかった。


 ワインにだけ口をつける。


 グラスの縁に、赤いルージュの跡が残った。


 Aの胃がきゅっと縮んだ。


 夢の中の赤い唇。

 炎。

 首元を押さえる女。

 仮面に触れる冷たい指。


 マダム・ヴィーは、Aの表情を見透かしたように微笑んだ。


「お口に合いませんこと?」


「……少し、まだ体調が」


「無理をなさらないで。夢から目覚めたばかりの身体は、とても繊細ですもの」


 夢から。


 Aはその言葉を胸の内側で繰り返した。


「僕は、どうしてここにいるんですか」


 食卓の動きが、わずかに遅れた。


 Gが口を開いた。


「先生、俺たちは――」


「あの夜は、ひどい霧でございました」


 マダム・ヴィーの声が、Gの言葉を静かに覆った。


 怒鳴ったわけではない。声を大きくしたわけでもない。だが、彼女の言葉が始まった瞬間、Gの言葉は食卓から消された。


 AはGを見た。


 Gは唇を歪め、グラスを傾けた。


 マダム・ヴィーは続ける。


「お二人は、館の近くの旧道で事故に遭われたのですわ。あの辺りは、昔は狩猟道として使われておりましたの。霧の夜には、崖の縁がわかりにくい。車が道を外れ、お二人ともお怪我をなさった」


「車」


 Aは自分の記憶を探った。


 何もない。


「屋敷の者が見つけ、こちらへお運びしました。あなたは頭を強く打っていらした。記憶の混乱は、そのせいでしょう」


 筋は通っている。


 通りすぎている。


 事故。霧。旧道。崖。怪我。記憶の混乱。屋敷の介抱。すべてが整っている。まるで最初から、そう説明するために磨かれた物語のようだった。


「Gさんも、その事故で?」


 マダム・ヴィーはGを見なかった。


「あの方は、あなたよりは軽傷でしたわ。ただ、少々お酒がお好きなようで」


「おいおい、そりゃあひでえ言い方だな」


 Gは笑った。


 笑ったが、目は笑っていなかった。


「俺は酒で動く男だが、酒だけで転ぶほど安くねえよ」


「まあ」


 マダム・ヴィーはようやくGへ視線を向けた。


「お気を悪くなさらないで。ここでは、皆さまに夢のようなお時間を過ごしていただきたいだけですの」


「夢ねえ」


 Gはグラスを揺らした。


「悪夢も夢のうちってか」


 Sが小さく笑った。

 Jは目を細めた。

 二号は動かない。


 AはGを見た。


 Gは一瞬だけ、目で合図した。


 今は聞くな。


 そう言われた気がした。


 食事は続いた。


 料理が運ばれ、皿が下げられ、ワインが注がれる。そのたびに、召使いたちが滑るように動いた。彼らは言葉を挟まない。だが、その無言の動きが、会話の流れを何度も変えた。


 Aは機会を待った。


 Gがグラスを置いた瞬間、Aは小声で尋ねた。


「僕の名前を知っているんですか」


 Gの目が、はっきりと変わった。


「ああ。お前は――」


 二号が皿を下げるために間へ入った。


 銀食器の音がした。

 名前が、そこで切れた。


 Gは舌打ちする。


 三号がワインを注ぐ。


 Jが笑った。


「やめておきなよ、A。ここで本名を聞くと、料理が冷める」


 A。


 Jがその名を使った。


 さっき与えられたばかりの文字が、もう食卓の会話に馴染み始めている。Aは、胸の奥に嫌な感覚を覚えた。


「名前なんて、聞くから悪い」


 Sが突然ナイフを置いた。


 かん、と音が響く。


「思い出せないなら、そのままにしておけばいいんだよ。思い出したところで、ろくなことにならない」


「あなたは何か知っているんですか」


 Aが問うと、Sは唇を噛んだ。


「知ってる? 知ってるさ。知ってるから、黙ってるんだよ」


「S」


 マダム・ヴィーの声が柔らかく落ちた。


 Sの肩がびくりと動いた。


 Aはその反応を見た。怒りの女が、マダム・ヴィーのたった一声で身体を強張らせる。その事実が、彼女の怒りを別のものに見せた。


 Gが身体を寄せた。


「あとでだ」


 小声だった。


「部屋に来い。帽子の――」


 マダム・ヴィーが、今度はGを見た。


「あの方は、お疲れのようですわ」


 あの方。


 彼女はGをGと呼ばなかった。


 食卓の全員が文字で呼ばれる中で、Gだけが「あの方」とぼかされた。客人として認められていない。名を与える価値もない。そんな扱いに聞こえた。


 Gは口を閉じた。


 だが、Aは聞いた。


 帽子の――。


 中折れ帽。

 Gが手放さず持っている、くたびれた帽子。


 覚えておく。


 そのとき、Sが椅子を鳴らして立ち上がった。


「気持ち悪い食卓だね」


 声は震えていなかった。むしろ、妙に澄んでいた。


「名前を隠して、顔を隠して、死んだふりして、生きてるふりして。あんたら、そんなに自分の皿の上が綺麗に見えるかい」


 食堂が静まり返った。


 マダム・ヴィーは微笑んだ。


「S。お行儀が悪くてよ」


 Sは笑った。


 その笑いは、壊れた硝子を踏む音に似ていた。


「行儀? あんたの館で行儀よくしてるやつほど、先に壊れるんだよ」


「相変わらず詩的だね」


 Jが茶化した。


 Sはナイフを掴み、Jへ向けた。


「黙れ。あんたの舌は、まだ飾られてないだけありがたいと思いな」


「それは怖い」


 Jは笑っている。


 だが、指先はグラスから離れていた。いつでも動けるように。


 Sは次に、Aを見た。


 割れた仮面の奥の目が、まっすぐ彼を射抜く。


「お前も、早く思い出したほうがいい」


「何を」


「思い出せなくなる前に」


 Aは身を乗り出した。


「何を思い出せばいいんですか」


 Sの唇が動いた。


 何かを言おうとした。

 だが、喉が詰まったように、声が出なかった。


 彼女の手が、自分の首元へ向かう。痕があるのか、痛みがあるのか、それともただ言葉を押し戻されたのか。Aにはわからない。


 Sは息を吸った。


 もう一度、言おうとした。


「お前の――」


「お部屋へお戻りなさい」


 マダム・ヴィーの声が、やわらかく、完全に遮った。


 命令ではなく、促しの形だった。


 だが、Sの顔が歪んだ。


「……くそったれ」


 Sは椅子を蹴った。


 椅子が床を擦り、赤い食堂に荒い音を立てる。彼女はナイフを皿へ投げるように置き、出口へ向かった。出口に近い席だったため、誰も止めない。いや、止められない配置になっていたのだ。


 扉が乱暴に閉まる。


 その音のあと、しばらく誰も喋らなかった。


 やがて、マダム・ヴィーが微笑んだ。


「騒がしい夜ですこと」


 五号が新しい皿を運んできた。


 食卓は、何事もなかったように戻された。


 それが最も恐ろしかった。


 怒りも、真実の断片も、喉を詰まらせた苦しみも、椅子を蹴る音も、すべて一枚の皿で覆い隠される。赤いソース。白い皿。銀のフォーク。


 Aは自分が観察されていることを感じた。


 Jが見ている。

 マダム・ヴィーが見ている。

 Gも見ている。

 二号も、見ていないふりをしながら見ている。


 彼はナイフを置いた。


 食事の終わりに、マダム・ヴィーはワインへもう一度口をつけた。グラスの縁に赤いルージュが重なる。


「A」


 呼ばれた。


 一文字で。

 自分ではない名前で。


 それなのに、彼は反応してしまった。


「今夜はよくお休みなさい。夢は、記憶よりも優しいものですから」


 Aの背筋に寒気が走った。


 夢は記憶より優しい。


 それは、記憶を失うことを慰めている言葉ではない。記憶を消すことを、優しさと呼んでいる言葉だった。


 二号が彼の椅子を引いた。


「A様、お部屋へご案内いたします」


 Aは立ち上がった。


 呼称が変わっている。


 お客様ではない。

 A様。


 名づけられた瞬間から、二号の中で彼の扱いも変わった。いや、二号の意思ではない。屋敷の仕組みが、彼をそう呼ばせている。


 食堂を出ようとしたとき、Gがふらりと立ち上がった。


「おっと、俺もそろそろ失礼するかね。酒がうまいのはいいが、長居すると夢に食われそうだ」


 三号がすぐに寄る。支えるふりをして、Gの腕を取った。


 Gは酔っているように身体を揺らした。


 Aの横を通る瞬間、肩が軽くぶつかった。


 酒と煙草と古い紙の匂いがした。


 Gの口が、Aの耳元でかすかに動く。


「今夜だ。俺の部屋に来い。帽子を見るな。いや、見るんだ」


 Aが振り返る前に、三号がGを支え直した。


「おいおい、そんなに引っ張るなって。俺は自分で歩ける」


 Gは笑いながら廊下の奥へ連れていかれる。笑っている。だが、目だけは笑っていない。Aへ一瞬だけ向けられた視線は、はっきりと警告していた。


 急げ。


 あるいは。


 遅い。


 Aは追おうとした。


 二号が立ちはだかった。


「A様。お部屋へ」


 その声は丁寧だった。

 だからこそ、拒みにくい。


 Aは一度だけ、廊下の奥へ消えるGの背中を見た。中折れ帽が揺れる。包帯の白が、赤い廊下の中で妙に目立った。


「……わかりました」


 Aは言った。


 従うふりをする。


 だが、内心では決めていた。


 今夜、Gに会う。


 Gは自分を知っている。

 自分の名前を知っている。

 ここへ来た理由を知っている。


 彼が話せば、すべてが変わるかもしれない。


 Aが二号に案内されて食堂を出るとき、彼は一度だけ振り返った。


 上座では、マダム・ヴィーがまだ微笑んでいた。黒いベールの下、赤い唇だけが燭台の火を受けている。


 その前に置かれたグラスには、赤い口紅の跡。


 隣に、Gが飲み残したグラスがある。


 召使いが二つのグラスを片づけた。


 マダム・ヴィーのグラスは、銀の盆へ。


 Gのグラスは、別の盆へ。


 扱いが違った。


 なぜ違うのか、Aにはまだわからない。


 ただ、その差だけが、食堂の赤い光の中で奇妙にはっきり見えた。


 赤い口紅のついたグラスだけが、銀の盆に載せられた。Gのグラスは、まるで汚れ物のように、別の手が持ち去った。

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