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第1章 ― 番号の召使い

 今度は、夢を見なかった。


 眠りの底から浮かび上がるより先に、身体の不快感が彼を現実へ引き戻した。


 首元が熱い。

 喉の脇、鎖骨の近く、耳の後ろ。そこに小さな火種が埋め込まれているようだった。熱は鋭くはない。だが、じくじくと皮膚の下に居座り、自分の身体が自分の知らないうちに誰かの手で調べられたのだと告げている。


 仮面の内側は、じっとりと湿っていた。


 まぶたの周りにこもった熱。頬骨に沿って押しつけられる硬い縁。息をするたび、仮面の内側にわずかな湿気が戻ってくる。顔の一部が、自分のものではなくなっていた。


 舌には、まだ苦みが残っている。


 薬のような。

 あるいは、甘すぎるものを無理に飲み込まされたあとのような。


 彼は目を開けた。


 天蓋の刺繍が見えた。

 象牙色に沈んだ天井。重いカーテン。窓の外の白い霧。前に目覚めたときと同じ部屋だった。


 違うのは、二号の立っている位置だった。


 彼女はもう部屋の隅にはいなかった。ベッド脇から少し離れた場所に、姿勢よく立っている。近すぎず、遠すぎない。手を伸ばせば届く距離ではないが、彼が起き上がればすぐに介助できる距離。


 待っていたようにも見えた。

 監視していたようにも見えた。


 黒いフェイスマスクは、相変わらず彼女の顔を消している。目と口元だけが覗いていた。白いエプロンは乱れていない。白い手袋も新しいものに替えられているように見えた。


 ベッドサイドの小卓には、水差し、透明なグラス、湯気の立たない褐色の薬湯、畳まれた布、替えの寝間着が用意されていた。


 彼はそれを見て、胸の奥が冷えた。


 倒れた人間のために急いで整えた、というより、最初からそうなることを知っていたような支度だった。


「……僕は」


 声を出すと、喉がひきつれた。


 二号がわずかに頭を下げる。


「お目覚めでございますか」


「倒れたんですか」


「はい」


「そのあと、何がありました」


 二号はすぐには答えなかった。彼女の沈黙には、いつもわずかな手順があった。質問を聞き、答えてよい範囲を選び、許された言葉だけを取り出す。そんな動きが、声になる前に目元へ現れる。


「一時的な混乱でございます。お目覚め直後のお客様には、まれに見られることです」


「お客様には?」


 彼はその言い方を聞き逃さなかった。


「僕以外にも、同じように倒れた人がいるんですか」


「……体調の回復には個人差がございます」


「答えになっていません」


「申し訳ございません」


 また謝罪だった。


 謝罪は、扉と同じだ。開いているようで、向こうへ行けない。


 彼はゆっくり身体を起こした。寝間着の襟元が首の痕に擦れ、鈍い痛みが走る。顔をしかめたつもりだったが、仮面のせいでその表情が外から見えたかどうかはわからない。


 二号が水差しに手を伸ばした。


「お水を」


「自分で飲めます」


 彼はグラスを受け取った。


 白い手袋越しに差し出されたグラスは、ひどく清潔だった。水は透明で、硝子の底まで何も隠していないように見える。けれど、この部屋にあるものはすべて、見えている形のままではない気がした。


 彼は少しだけ水を含んだ。


 仮面が邪魔だった。


 口元は覆われていないはずなのに、目元から頬へかけて固定された硬いもののせいで、唇を動かすだけでも意識が仮面に引っ張られる。水を飲むという、何でもない動作が、誰かに許可された小さな行為のように感じられた。


 喉を通る水は冷たかった。

 だが、薬の苦みは消えなかった。


 彼はグラスを置き、部屋を見回した。


 前に見たときより、少し冷静に見えた。


 豪奢な寝室。

 天蓋付きのベッド。

 猫脚の化粧台。

 衣装箪笥。

 書き物机。

 呼び鈴の紐。

 洗面所へ続く小さな扉。

 廊下へ出る扉。


 高級ホテルの一室と言われれば、そう見えなくもない。だが、生活の匂いがなかった。誰かが長く過ごした部屋ではない。整えられ、清掃され、消毒され、次の誰かを迎えるために待機している部屋。


 病室に似ていた。


 美しい病室。

 あるいは、病室のふりをした標本箱。


 鏡は、やはりなかった。


 化粧台には、鏡を支えていた金具だけが残っている。壁紙の日焼けの差が、そこに楕円形の空白を描いていた。化粧台の天板には、埃の薄い跡がある。何かが長く置かれていた場所だけが、色を違えている。


 洗面所にも、鏡はない。

 窓硝子には内側から布が掛けられ、反射を殺している。


 最初からそう作られた部屋ではない。


 あったものを、外している。


「鏡を外したのは、僕がここに来てからですか」


 二号の手が止まった。


 ほんの一瞬だった。だが彼には、それが答えのように見えた。


「このお部屋には、以前より鏡はございません」


「以前より、というのは?」


「以前より、でございます」


「誰が使っていた部屋なんですか」


「お客様のお部屋でございます」


「今は、そうでしょう。僕の前は?」


 二号は視線を落とした。


「わたくしには、お答えする権限がございません」


 彼は息を吐いた。


 権限。


 この女は、知らないのではない。知っていても話せない。あるいは、何を知っているかを自分で決められない。


「……この屋敷には、そういう言い方が多いんですね」


 二号は答えなかった。


 彼はベッドから降りた。前よりは足に力が入る。だが、身体の芯が重い。長く眠っていたあとの重さというより、何かを抜かれたあとの空洞に似ていた。


 洗面台へ近づく。


 水面に顔が映りそうだった。白い洗面器の底に、水の薄い膜が張っている。そこへ仮面の輪郭がぼやけて浮かぼうとした瞬間、二号が静かに一歩近づいた。


 彼女は布を手に取り、洗面台の水を拭った。


 自然な動作だった。

 あまりにも慣れていた。


 彼はその手元を見た。


「反射するものを隠すのも、君の役目ですか」


 二号は布を畳んだ。


「お客様がご不快になられませんように」


「僕が?」


「はい」


「それは、僕のためですか。それとも、この屋敷のためですか」


 二号の口元がわずかに動いた。

 だが、言葉にはならなかった。


 彼は笑わなかった。

 笑えば、自分のほうが壊れる気がした。


「ルールを教えてください」


 二号が顔を上げる。


「この屋敷の。僕が何をしてよくて、何をしてはいけないのか」


「お聞きになりますか」


「知らないまま罰を受ける趣味はありません」


 二号はゆっくり頭を下げた。


 そして、暗記した文章を読み上げるように話し始めた。


「夢の館にご滞在中、お客様は本名をお名乗りになってはなりません」


 本名。


 その言葉に、彼の胸がかすかに痛んだ。


 ないものを禁じられるのは奇妙だった。

 けれど、思い出してはいけないと言われたようでもあった。


「お客様のお名前は、お館様よりお与えになります。ご滞在中は、そのお名前をお使いくださいませ」


「お館様?」


「この館の女主人でございます」


 赤い唇が、脳裏をかすめた。


 炎の中の女。

 顔に触れた冷たい指。

 甘い声。


 彼はこめかみに痛みを覚えたが、顔には出さないようにした。仮面が表情を隠してくれる。それが救いなのか屈辱なのか、まだ判断できなかった。


 二号は続ける。


「仮のお名前は、主にアルファベット一文字でございます」


「アルファベット」


「はい。お客様同士も、その名でお呼び合いくださいませ。召使いは番号で管理されております。わたくしは二号でございます」


 まるで食器の番号を告げるような声だった。


「仮面は、人前で外してはなりません。鏡、刃物、通信機器、筆記具のご使用およびお持ち出しには、お館様の許可が必要でございます。地下区画への立ち入りは禁止されております」


「地下があるんですか」


 二号は続けた。


「お食事、ご入浴、診察、ご就寝のお時間は定められております。お客様は、お館様からのご招待を拒むことはできません」


「拒めない招待は、招待とは言いません」


「夢の館で見聞きなさったことは、夢の外へお持ち出しになってはなりません」


 彼は二号を見た。


「夢の外、というのは、屋敷の外のことですか」


 二号は少しだけ間を置いた。


「夢からお帰りになれば、お分かりになります」


「帰れるんですか」


「夢からお帰りになれば、お分かりになります」


「同じ言葉を繰り返しているだけです」


「申し訳ございません」


 彼は、怒鳴りたい衝動を飲み込んだ。


 怒鳴ったところで、この女から答えが出るとは思えなかった。彼女は嘘をついているのではない。嘘をつく自由すら与えられていないのだ。言葉の形をした鍵束を持たされ、その中から決められた鍵だけを差し出すよう躾けられている。


 この屋敷では、乱暴な命令は必要ない。


 丁寧語が鎖になる。

 礼儀が錠前になる。

 お願いが命令になる。


「僕は、どれくらい眠っていたんですか」


 二号は答えた。


「三日でございます」


 彼は一瞬、聞き間違えたのかと思った。


「三日?」


「はい」


「三日間、ずっと?」


「はい」


 彼は自分の手を見た。


 指先。爪。手首。

 爪は短く整えられていた。欠けたところも、伸びすぎたところもない。指の間に汚れはない。手首には薄い赤みがあったが、手入れされている。


 彼は顎に触れた。


 髭がない。

 剃られている。


 髪も、指を入れると清潔だった。寝汗で乱れてはいるが、三日眠り続けた人間の不潔さはない。寝間着も替えられている。首元の布は新しい。身体にはこわばりがあるのに、表面だけが丁寧に整えられている。


 誰かが、彼を洗った。

 誰かが、髭を剃った。

 爪を切った。

 服を替えた。

 仮面を調整した。

 眠っている間に。


 胃の奥が、冷たく縮んだ。


「誰が」


 声が低くなった。


「誰が、僕の世話をしたんですか」


 二号は視線を落とした。


「お客様のお世話は、わたくしの役目でございます」


 彼は何も言えなかった。


 不快感が、皮膚の下から込み上げる。怒りに似ていた。屈辱にも似ていた。自分の身体が、自分の許可なく誰かの手で管理されていた。眠っていたから仕方がない、という問題ではない。ここでは、眠っていることさえ誰かの都合に組み込まれている。


 だが、二号を責める言葉は出てこなかった。


 彼女は役目と言った。

 自分の意思ではなく、役目。


 その言葉の内側にも、檻の音がした。


「三日眠っていたにしては、身体の状態が合わない」


 二号は動かなかった。


「爪が整っている。髭も剃られている。寝間着も替わっている。まるで、僕が起きる時間に合わせて整え直されたみたいだ」


「お客様にご不便のありませんように」


「僕は途中で起きましたか」


 二号の口元がかすかに強張った。


「三日でございます」


「質問を変えます。僕は三日間、一度も目を覚まさなかったんですか」


「……お客様は、三日間お休みでございました」


 同じではない。


 彼はその違いを胸に留めた。


 この女は「一度も目を覚まさなかった」とは言わなかった。


「着替えを」


 二号が衣装箪笥のほうへ向かった。


 扉を開くと、そこには衣服が一揃いかけられていた。


 白いシャツ。

 黒いベスト。

 クラシカルな上着。

 細いタイ。

 手袋。

 磨かれた靴。


 どれも新しく、仕立てがよい。屋敷の古めかしい空気に合うよう選ばれているが、完全な時代衣装ではない。現代の服の輪郭を残しながら、古い肖像画の中へ押し込まれたような衣服だった。


 彼はそれを見て、胸の奥がざわついた。


「これは、僕の服ですか」


「お客様のために整えられたものでございます」


「僕のサイズを、誰が知っていたんですか」


 二号は沈黙した。


 沈黙は、また答えだった。


 偶然ではない。


 この屋敷は、彼を拾って介抱しただけではない。あらかじめ、迎える準備をしていた。少なくとも、そう思わせるだけの整い方をしている。


「自分で着替えます」


「お手伝いいたします」


「不要です」


 二号は一歩下がった。

 だが、退室はしなかった。


「では、こちらでお待ちいたします」


 彼は振り返った。


「見るつもりですか」


 二号の目が、ほんのわずかに戸惑った。


「わたくしは、見るものではございません」


 ぞっとした。


 それは、謙遜ではなかった。

 自分を人間の視線として数えていない言い方だった。


 見るものではない。

 聞くものではない。

 考えるものではない。

 ただ、そこにあり、役目を果たすもの。


 彼は、何かを言いかけてやめた。


「衝立の向こうで着替えます。背を向けていてください」


「承知いたしました」


 二号は背を向けた。


 細い背中だった。黒い使用人服の上からでも、肩の緊張がわかる。まっすぐに立っている。まっすぐに立つよう躾けられた背中だった。


 彼は衝立の向こうへ入った。


 寝間着を脱ぐと、空気が首元の痕に触れた。シャツへ袖を通す。布は滑らかで、肌触りがよい。だが、首元の傷に襟が擦れるたび、身体が小さくこわばった。


 襟が高い。


 痕を隠すための高さだった。

 そして、仮面の縁とぶつからないよう計算されている。


 この服は、彼の身体に合わせて作られているのではない。

 彼の仮面に合わせて作られている。


 彼はボタンを留めながら、自分の指先を見た。


 自分の名前を知らない指。

 それなのに、どこかで何度も何かを書いてきたはずの指。


 ベストを取ろうとして、衣装箪笥の内側に視線が止まった。


 木の内側、ちょうど扉を閉めれば見えなくなる位置に、細い傷があった。最初は木目かと思った。だが違う。爪で引っかいた跡だ。何度も、何度も、同じ場所を引っかいたような浅い線。


 彼は息を殺した。


 さらに下を見ると、引き出しの奥に白い布の切れ端が引っかかっていた。リボンか、包帯か。引っ張ると、短く切れた布に赤茶けた染みがついている。


 机の下にも何かがあった。


 彼は衝立から出ないように身をかがめ、机の裏側を覗き込んだ。そこに、掻き傷のような文字が刻まれている。


 浅く、乱れている。

 けれど、読めた。


 ――Aではない。


 彼は動けなくなった。


 自分のことかと思った。


 自分はAではない。

 いや、まだAと呼ばれてすらいない。なのに、その文字は彼より先にここへ来ていた。誰かがこの部屋で、何かを否定した。与えられた文字を拒んだ。あるいは、自分が何者かを忘れまいとして、机の裏に爪を立てた。


 彼は布の切れ端を握った。


 この部屋で目覚めたのは、自分が初めてではない。


 美しく整えられた部屋。

 外された鏡。

 用意された水差し。

 薬湯。

 替えの寝間着。

 そして、見えないところに残された爪痕。


 夢の館は、同じ儀式を何度も繰り返している。


「お客様」


 二号の声がした。


 彼は布を手の中に隠し、衝立の陰から出た。シャツとベストだけは身につけている。上着とタイはまだだった。


 二号の目が、ほんの少しだけ机の下へ向いた。


 気づいている。


 彼は言った。


「これは、以前の客人のものですか」


 二号の唇が動いた。


「それは、以前のお客様の……」


 言いかけて、止まった。


「以前のお客様?」


 二号は目を伏せた。


「わたくしには、お答えする権限がございません」


「便利な言葉ですね」


「申し訳ございません」


 彼は布の切れ端をもう一度見た。二号はそれを奪おうとはしなかった。ただ、見ている。隠すべきか、見逃すべきか、判断を命じられていないものを見る目だった。


 彼は布を机の上へ置いた。


 いま持ち歩くのは危険だ。

 そう判断した自分に、少し驚いた。


 怯えているだけでは、ない。


 彼は考え始めている。


「紙はありますね」


 書き物机の上には便箋と封筒が置かれていた。象牙色の上質な紙。封蝋まで用意されている。けれど、ペンがなかった。


「ペンを貸してください」


「筆記具は、お館様の許可が必要でございます」


「なぜです」


 二号は答えた。


「名前を書いてしまうお客様がいらっしゃいますので」


 その言葉は、静かに落ちた。


 彼は自分の手を見た。


 口にするだけではない。

 書くことも禁じられている。


 名前は、声だけのものではない。指先にも宿る。紙に残り、証拠になり、記憶になる。だから、この屋敷ではペンさえ許可制なのだ。


 彼は便箋に指を置いた。


 何かを書きたい衝動があった。


 自分の状態。

 七時四十七分。

 鏡がない。

 首元の痕。

 二号。

 Aではない。


 だが、文字にできない。


 自分の名前を知らないからではない。

 この部屋には、そのための道具がない。


「もし僕が、無意識に自分の名前を書いたら?」


 二号は答えなかった。


「何が起きるんですか」


「お客様」


 初めて、二号の声にわずかな緊張が混じった。


「そのようなことは、お考えになりませんよう」


「考えることも禁じられているんですか」


「……お身体に障ります」


「名前を考えることが?」


 二号はそれ以上言わなかった。


 彼は便箋から指を離した。


 喉の奥が乾いていた。怒りはある。恐怖もある。だが、それをそのまま外へ出してはいけない気がした。


 この屋敷では、何を知らないかより、何に気づいたかを悟られるほうが危険だ。


 彼は上着を羽織った。


 二号が一歩近づく。


「タイを」


「自分でできます」


 彼はタイを結ぼうとした。だが手元がおぼつかない。頭痛の余韻が残っている。仮面の圧迫感のせいで視線がわずかに歪む。何度か結び損ねた。


 二号は何も言わず待っていた。


 彼は諦めて、短く息を吐く。


「……お願いします」


 二号が近づいた。


 白い手袋の指が、細いタイを取る。直接肌には触れない。だが、その距離は近かった。黒いフェイスマスクの口元が、彼の胸元のすぐ先にある。彼女の呼吸は静かだった。感情を殺した呼吸。


 手袋越しにタイが整えられる。

 結び目が作られる。

 襟元が痕を隠す位置へ正される。


 それは介助だった。

 同時に、仕上げでもあった。


 白い仮面。高い襟。黒いベスト。整えられたタイ。

 彼は、屋敷の客人として完成させられていく。


 美しく整えられるほど、自分が遠ざかる。


「これでよろしゅうございます」


 二号が一歩下がった。


「僕はまだ、よろしいかどうかを決めていません」


 二号は答えなかった。


 彼は扉へ向かった。


 ドアノブに手をかける。

 鍵はかかっていない。


 開いた。


 廊下が見えた。


 赤い絨毯。暗い壁。遠くに並ぶ燭台の光。誰もいないように見える。だが一歩踏み出そうとした瞬間、二号が彼の横を静かに通り、廊下側へ立った。


 まるで最初からそこが彼女の位置だったように。


 鍵はない。

 だが、人が鍵になっている。


「出てもいいんですか」


「お食事の時間になりましたら、ご案内いたします」


「今は?」


「お部屋でお待ちください」


「命令ですか」


 二号は沈黙した。


 それから、丁寧に言った。


「お願いでございます」


 お願い。


 彼はその言葉を内心で繰り返した。


 お願いなら断れるはずだ。

 だが、二号の姿勢は断られることを想定していない。廊下の赤い絨毯も、燭台も、重い空気も、すべてが彼に「戻れ」と言っている。


 開いているのに、通れない扉。


 この屋敷で危険なのは、鍵のかかった扉ではないのかもしれない。開いているのに、誰も通れない扉のほうだ。


 彼は一歩引いた。


「君は、いつから二号なんですか」


 二号は答えなかった。


「一号は?」


 白い手袋の指が、ほんのわずかに動いた。


 動揺。

 あるいは、反射。


「三号や四号もいるんですか」


「おります」


「全員、名前はない?」


「名前は、必要ございません」


「思い出したいと思わないんですか」


 その瞬間、二号の目が揺れた。


 はっきりと。


 黒いマスクに隠されていてもわかった。彼女はその言葉に反応した。名前。思い出す。たったそれだけの言葉が、どこか深い場所に触れた。


 だが、揺れはすぐに消えた。


「名前は、必要ございません」


 同じ言葉。


 先ほどより、わずかに硬かった。


「それは、君の言葉ですか」


 二号は答えない。


「それとも、お館様の言葉ですか」


「お客様」


「はい」


「お食事のお時間まで、お部屋でお待ちください」


 戻された。


 問いも、会話も、彼自身も。

 すべて規則の内側へ戻される。


 彼はそこで、初めて明確に決めた。


 逆らってはいけない。


 今は。


 怒っていることを見せてはいけない。疑っていることも、気づいていることも、自分が記憶を失っていることも、必要以上に見せてはいけない。


 この屋敷では、知らないふりが武器になる。


 従っているふりをする。


「わかりました」


 二号の目が、わずかに彼を見た。


 彼は穏やかな声を作った。


「食事の時間まで、待ちます」


「ありがとうございます」


 礼を言われるようなことではなかった。


 だが二号は深く頭を下げ、扉を閉めた。鍵の音はしない。それでも、彼は閉じ込められたと感じた。


 待つ時間は長かった。


 彼は部屋の中をもう一度調べた。鏡の跡。机の裏の文字。衣装箪笥の爪痕。呼び鈴の紐。鍵のない扉。筆記具のない机。便箋。封筒。水差し。薬湯。


 薬湯には手をつけなかった。


 窓の布を少しだけめくると、外はやはり霧だった。庭らしき影が見える。黒い木々。濡れた石畳。遠くに鉄柵のようなもの。その向こうは白く塗りつぶされている。


 逃げ道は見えない。


 だが、世界がないわけではない。


 霧の向こうに、外がある。

 彼はそれだけを覚えておくことにした。


 やがて、扉が控えめに叩かれた。


「お客様。お食事のお時間でございます」


 二号の声だった。


 彼は扉を開けた。


 二号は廊下に立っていた。黒いフェイスマスク。白いエプロン。白い手袋。さきほどと同じ姿だが、どこか儀式の案内人のように見えた。


「ご案内いたします」


「まだ、僕に名前はないんですよね」


 二号は一瞬だけ沈黙した。


「お館様がお決めになります」


「僕ではなく?」


「はい」


 彼は小さく頷いた。


 自分の仮の名すら、自分では決められない。


 廊下へ出る。


 赤い絨毯が長く続いていた。足音は深く沈み、ほとんど響かない。壁には肖像画が並んでいる。だが、そのいくつかは布で覆われていた。白い布、灰色の布、古びた赤い布。顔を隠された絵たちが、廊下の両側から彼を見ているようだった。


 燭台の炎が、彼の白い仮面に反射する。

 けれど、彼自身の顔はどこにも映らない。


 歩きながら、彼は廊下を観察した。


 壁紙の継ぎ目。

 床の軋み。

 閉ざされた扉の数。

 二号の歩幅。

 彼女が曲がり角ごとに一瞬だけ周囲を見る癖。


 彼女は案内している。

 同時に、監視している。


 しばらく進むと、廊下の一角で彼は足を止めた。


 そこだけ、壁の色が違っていた。


 大きな肖像画が長年掛かっていた跡だ。周囲の壁紙は日に焼け、埃を吸っているのに、その場所だけ四角く明るい。金具はまだ残っている。下の床には、新しい額縁を運び入れたような浅い傷があった。


 外されたばかりではない。

 だが、忘れられるほど古くもない。


「ここには、何が掛かっていたんですか」


 二号が立ち止まった。


「新しい絵を飾る準備でございます」


「誰の絵ですか」


「お館様の肖像でございます」


 彼は壁の空白を見つめた。


「以前の絵は?」


 二号は答えない。


「二号」


 初めて、彼は彼女を番号で呼んだ。


 二号の肩が、ごくわずかに強張った。


 彼自身も、その響きに違和感を覚えた。人間を番号で呼ぶことが、こんなにも簡単にできてしまう。その事実が不快だった。


「以前の絵は、誰の肖像だったんですか」


 二号は静かに目を伏せた。


「わたくしには、お答えする権限がございません」


 そのときだった。


 廊下の奥から、微かな音がした。


 きい、と小さく軋む音。

 それから、床を撫でるような、ゆっくりとした車輪の音。


 彼は反射的に廊下の奥を見た。


 まだ誰も見えない。曲がり角の向こうで、音だけが近づいてくる。銀色の何かが床を滑るような、静かで、規則的で、逃げ場のない音。


 二号が頭を下げた。


 深く。

 美しいほど正確に。

 背筋はまっすぐ伸びているのに、その姿勢全体が服従を形にしていた。


 彼は、まだその音の主を知らない。


 だが、二号の反応で理解した。


 この屋敷には、質問してはいけないものがある。

 顔を見てはいけないものがある。

 名前を呼ぶ前から、人を支配する音がある。


 車輪の音が近づくたび、二号の背筋は美しいほど硬くなった。


 彼はそのとき初めて、この館では恐怖さえ礼儀作法として躾けられているのだと知った。

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