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序章 ― 赤い夢

 最初に聞こえたのは、音だった。


 音楽、と呼ぶには濡れすぎていた。

 弦の擦れる音が、泣き声のように闇を裂く。管楽器は深い水底で息を吐くもののように、湿った音を鳴らしている。どこか遠くで、乾いた小さな音が規則正しく刻まれていた。


 かた、かた、かた。


 それは拍子木ではなかった。

 歯車でも、時計でもない。

 けれど、何かを送り出す音だった。薄い膜の上に焼きついた誰かの過去を、一枚ずつ闇へ投げ込んでいくような音。


 かた、かた、かた。


 映写機だ、と彼は思った。

 なぜそう思ったのかは、わからなかった。


 目の前に赤い光があった。


 深紅の硝子越しに世界を見ているようだった。広間の天井は高く、シャンデリアは炎の果実を吊るしたように揺れている。壁に沿って黒い影が並び、その影たちは、音楽に合わせてゆっくり踊っていた。


 男たちは影絵の紳士だった。

 女たちは影絵の淑女だった。


 誰も顔を持っていなかった。


 白い手袋だけが、ときおり赤い光を受けて浮かび上がる。細い腰に添えられた手。差し出される手。くるりと回るとき、指先だけが別の生き物のようにしなった。音楽は優雅なはずだった。舞踏会というものは、きっとこういうものなのだと、どこか幼い部分が理解しようとしていた。


 けれど、弦は泣いていた。

 管は喘いでいた。

 映写機は、闇の奥で何かを刻み続けていた。


 広間の端に柱時計があった。


 黒檀の胴。金色の振り子。丸い文字盤。

 長針と短針は、七時四十七分を指して止まっている。


 それを見たとき、彼は息苦しくなった。

 理由はなかった。

 ただ、その時刻だけが、赤い夢の中で妙にはっきりしていた。


 踊っていた影の紳士たちが、少しずつ形を変え始めた。


 最初は帽子の縁が伸びたのだと思った。次に、肩が盛り上がった。背中が不自然に裂け、黒い角のようなものが影から生えた。白い手袋をした指先が長くなり、爪が光を弾いた。口のあるはずのない顔に、裂け目だけが生まれた。


 紳士たちは魔獣になっていく。


 けれど、その魔獣たちは獣ではなかった。


 角も、爪も、裂けた口も、どこか硬質だった。皮膚ではなく、磨かれた黒い革か、古い漆のように見えた。顔の輪郭には、人がかぶる仮面のような左右対称の冷たさがあった。なかでも一つ、ひときわ背の高い影は、額から垂れる奇妙な飾りを持っていた。獣の顔でありながら、貴族の仮面にも見える。笑っているのか、怒っているのかわからない、空洞の顔。


 その影が、ゆっくり振り返った。


 彼は後ずさろうとした。

 だが、身体が動かなかった。


 足元を見ると、そこには小さな靴があった。自分の足ではない。幼い足だった。指は小さく、手も小さかった。その手の中に、白いリボンで結ばれた小さな鍵が握られている。


 銀色の鍵。

 白いリボン。

 掌に食い込むほど強く握りしめている。


 これは誰の手だ。


 そう思った瞬間、舞踏会が崩れた。


 淑女たちの影がくるくる回り、糸の切れた操り人形のように傾いた。腕が舞う。脚が滑る。首のない胴が、回転木馬の飾りのように赤い光の中を流れていく。直接的な血はなかった。叫び声もなかった。


 代わりに、床には白い手袋が落ちていた。


 片方だけの靴。

 切れたリボン。

 割れた仮面。

 欠けた人形の手。

 唇だけが赤く残った顔。


 それらが、円舞曲に合わせて静かに回っている。


 恐ろしいはずだった。


 いや、恐ろしかった。喉が詰まり、胸の内側が冷たく縮んでいく。逃げなければならない。見てはいけない。そう思うのに、彼は目を逸らせなかった。


 美しい、と。


 ほんの一瞬、思ってしまった。


 その瞬間、自分の中にある何かが、ひどく汚れた音を立てた気がした。


 魔獣たちは踊り続ける。

 白い脚の影だけが、相手を失ってもステップを踏む。

 誰もいない空間に差し出された手袋が、見えない誰かを招く。


 赤い光の奥に、女がいた。


 炎に包まれていた。


 彼女は舞踏会の中心ではなく、もっと奥――重いカーテンの向こう、半ば崩れた扉の前に立っていた。炎は彼女の肩を舐め、髪を赤く透かし、顔の上半分を煙と光の中へ隠している。


 見えるのは、唇だけだった。


 深い赤の唇。


 熟れた薔薇のような、古いワインのような、舞台の緞帳の裏側に溜まった闇のような赤。


 その唇が、何かを言おうとしている。


 女は片手で首元を押さえていた。喉を、あるいは鎖骨のあたりを、必死に押さえている。声を出そうとしているのに、音が出ない。名前を呼ぼうとしている。誰かの名前。きっと、彼の名前。


 けれど、音楽がうるさかった。


 弦が軋む。

 管が濡れた息を吐く。

 映写機が、かた、かた、かた、と過去を送る。


 女の唇だけが動いた。


 ――いきなさい。


 そう聞こえた気がした。


 いや、聞こえなかった。

 音はなかった。

 ただ、そう言われたのだと、幼い身体のほうが知っていた。


 小さな手の中で、銀の鍵が痛いほど食い込む。白いリボンが炎の光を吸って、淡く赤く染まる。彼は女へ手を伸ばそうとした。


 届かない。


 魔獣の仮面が、横から女を覆い隠す。


 赤い唇だけが、最後まで残った。


 彼は叫んだ。


「母さん!」


 自分の声で目が覚めた。


 喉が裂けたように痛かった。肺の中に冷たい空気が一気に流れ込み、胸が激しく上下する。全身に汗をかいていた。寝具は湿り、額からこめかみにかけて冷たいものが伝っている。


 吐き気があった。


 何か甘い薬を飲まされたあとのような、重く濁った苦みが舌の奥に残っている。喉は乾いているのに、胃は水を拒んでいた。指先が震えている。握りしめた掌には、鍵などなかった。ただ爪の跡だけが薄く残っている。


 ここはどこだ。


 最初に見えたのは、高い天井だった。白く塗られているはずなのに、年月を吸って象牙色に沈んでいる。天蓋の内側には、古い花模様の刺繍があった。重いカーテンが窓を覆い、外の光をほとんど通さない。朝なのか、夕方なのか、それすらわからなかった。


 窓の向こうは白い。

 霧か、雨か。

 世界全体が曇った硝子の向こうに沈んでいる。


 彼は上体を起こそうとした。


 その瞬間、顔に違和感が走った。


 目隠しではない。視界はある。

 だが、目元から頬の上部にかけて、何か硬いものが密着していた。皮膚の上に置かれているのではない。まるで、ずっと前からそこに生えていたもののように、ぴたりと貼りついている。


 手を上げる。


 指先が、滑らかな縁に触れた。


 冷たい。

 硬い。

 陶器のようで、骨のようでもある。


 白い仮面だった。


「……何だ、これ」


 声がかすれた。自分の声なのに、聞き慣れない。低すぎるのか、高すぎるのかもわからない。彼は仮面の端に指をかけた。外そうとした瞬間、頬の奥、こめかみのあたりに細い痛みが走る。


 それでも力を入れようとした。


 そのとき、部屋の隅から声がした。


「その仮面は、決して人前で外してはなりません」


 彼は息を呑んだ。


 部屋の隅に、人が立っていた。


 最初からそこにいたのだ。

 彼が目覚める前から。

 彼が「母さん」と叫んだときも、汗に濡れて震えていたときも、白い仮面に触れたときも、その人物は静かに立って見ていた。


 黒いフェイスマスクをつけた女だった。


 首から下は、クラシカルな使用人服。黒い長袖のドレスに、白いエプロン。襟も袖口も清潔に整えられ、皺ひとつない。その清潔さが、かえって拘束衣めいて見えた。


 顔はほとんど見えない。


 黒い布のようなマスクが頭部を覆い、覗いているのは目と口元だけだった。口元は小さく、若い。声も若かった。だが、感情は平らに押しつぶされている。目だけが、ほんのわずかに揺れていた。


「……君は」


 彼は喉を押さえた。


「ここは、どこですか。僕は……誰なんですか」


 自分で言って、胸の奥が冷えた。


 僕は誰だ。


 その問いが、まるで最初からそこに空いていた穴のように、頭の内側で響いた。


 名前がない。


 自分の名前が、ない。


 記憶を探ろうとすると、霧の中へ手を突っ込むようだった。何かがある。あるはずなのに、指が触れた瞬間、形を失って崩れていく。母さん、と叫んだ感覚だけが残っている。だが、母の顔は思い出せない。夢の中の赤い唇だけが、瞼の裏に焼きついていた。


 女は一歩近づいた。


 動きは丁寧だった。靴音すら控えめで、床に触れる直前で音を消しているように見える。白い手袋をした手には、水差しとグラスが載った盆があった。


「ここは、夢の館でございます」


「夢の……館」


「はい。お客様は、こちらで静養なさっています」


「静養?」


 彼は乾いた笑いを漏らしそうになった。

 だが、笑えなかった。


「僕は、自分の名前もわからない。顔にはこんなものがついている。鏡も……」


 言いかけて、彼はまだ鏡を見ていないことに気づいた。


 女は淡々と盆を置いた。


「お水を」


「質問に答えてください。僕は誰ですか。なぜ、こんな仮面をつけているんですか。君は誰なんですか」


 女は少しだけ沈黙した。


 ほんの一呼吸。

 だがその沈黙には、答えていい言葉と、答えてはならない言葉を選別している気配があった。


「わたくしは、二号でございます」


「二号?」


「はい」


「名前ではなく?」


 女の目が、かすかに揺れた。


 黒いフェイスマスクから覗く唇が、次の言葉の前に一度だけ閉じられる。まるで、自分の舌で自分の言葉を確かめたようだった。


「わたくしたちに、名前は必要ございません」


 部屋の空気が、わずかに温度を失った。


 彼はその言葉を理解できなかった。

 理解したくなかった。


 名前は必要ない。

 そんなことが、人間に対して言われていいはずがない。


「……君は、それを本気で言っているんですか」


 二号は答えなかった。代わりに、グラスを手に取った。白い手袋越しに差し出される水は、澄んでいた。澄みすぎていて、かえって何かが溶けているように見えた。


 彼はグラスを受け取らなかった。


「鏡はありますか」


 二号の手が止まった。


「自分の顔を見たいんです」


「このお部屋には、必要ございませんので」


「必要かどうかは僕が決めます」


 声が少し強くなった。

 だが、二号は怯えも怒りもしなかった。ただ、規則を読み上げるように同じ姿勢で立っている。


 彼はベッドから降りた。


 足に力が入らなかった。床に触れた瞬間、膝がわずかに崩れる。二号が支えようと一歩寄ったが、彼は手で制した。


「大丈夫です」


 大丈夫ではなかった。


 頭の奥が重く、視界の端が暗い。だが、立っていなければならない気がした。ここで寝具に戻れば、自分はそのまま、この部屋の一部にされてしまう。天蓋、カーテン、白い仮面、黒いマスクの召使い。その並びの中に、静かに置かれてしまう。


 彼は部屋を見回した。


 豪奢な寝室だった。古い洋館の部屋。彫刻の施されたベッド。猫脚の化粧台。衣装箪笥。壁には花柄の布が張られ、床には深い色の絨毯が敷かれている。だが、生活の匂いがない。


 そして、鏡がなかった。


 化粧台はある。

 そこに鏡だけがない。


 本来なら楕円形の大きな鏡が据えられていたのだろう。木枠の金具だけが残り、壁紙にはうっすらと日焼けの差がある。鏡の形をした空白。埃の色が、そこだけ違っていた。


 洗面所へ向かった。


 洗面台にも、鏡がなかった。

 あるはずの場所には、白い壁だけが広がっている。金具を外した小さな穴が二つ、目のように残っていた。水差しの中を覗き込んでも、角度のせいか、顔は映らない。窓硝子に近づくと、重い布が内側から垂らされていて、反射を殺していた。


 彼は布を少しめくった。


 曇った硝子に、白いものがぼんやり映った。


 自分の顔、ではなかった。

 白い仮面だけが、霧の中に浮いていた。


 彼は息を止めた。


「なぜ鏡がない」


 二号は寝室の入口で立っていた。


「このお部屋には、必要ございませんので」


「さっきも聞きました。その答えでは足りない」


「申し訳ございません」


「謝罪ではなく、理由を」


「わたくしには、お答えする権限がございません」


 丁寧な言葉だった。

 それなのに、扉を閉められたように感じた。


 彼は洗面台に手をついた。冷たい陶器の感触が掌に伝わる。その冷たさで少しだけ意識がはっきりした。水を出し、口をすすぐ。舌の奥に残る苦みは消えない。


 首元に違和感があった。


 寝間着の襟がやけに高い。喉に触れる布が、妙に気になった。彼は襟元に指をかけ、少し開いた。


 喉の脇に、小さな痕があった。


 一つではない。


 鎖骨の近くに、点のような赤い痕。耳の後ろにも、指でなぞらなければ見逃しそうな小さな傷。注射痕にも見える。何かで固定された跡にも見える。あるいは、噛み痕のようにも。


 彼の胃が冷たく沈んだ。


 自分の知らない身体だった。


 自分の皮膚に、自分の知らない痕がある。眠っている間に誰かが触れた。処置した。測った。整えた。顔に仮面をつけ、喉の近くに痕を残し、鏡を取り上げた。


 怒りより先に、屈辱がきた。


「これは何だ」


 二号は答えなかった。


 彼は振り返る。二号の目が、一瞬だけ彼の首元へ向き、すぐに逸らされた。その反応を、彼は見逃さなかった。


「知っているんですね」


「お客様、襟元が乱れております」


 二号が近づいた。白い手袋の指が、彼の襟に触れようとする。


 反射的に、その手を払った。


 乾いた音がした。


 二号の肩が、びくりと震えた。


 それは、使用人が失礼を咎められて怯えた反応ではなかった。もっと古い反応だった。叩かれることを知っている人間の、身体の奥から出る反応。


 彼は息を呑んだ。


「……すみません」


 なぜ自分が謝ったのか、わからなかった。


 二号は払われた手を胸元に戻し、深く頭を下げた。


「失礼いたしました」


「違う。僕は……」


 言葉が続かなかった。


 この女は、敵なのか。

 監視役なのか。

 それとも、彼と同じように何かを奪われた者なのか。


 首元の痕に、彼は指を触れた。


 その瞬間、赤が閃いた。


 赤い唇。


 白い手袋。


 近づく香水。


 古い薔薇と薬品を混ぜたような、甘く苦い匂い。


 冷たい指が、彼の顔に触れる。まぶたの上をなぞり、頬骨の位置を確かめ、仮面を合わせるように押さえる。逃げようとしても、身体が動かない。手首が何かに固定されている。視界の上半分に黒い布が揺れ、赤い唇だけが近づいてくる。


 声がした。


「顔など、あなたを縛るだけでしょう?」


 甘い声だった。

 優しい声だった。

 だからこそ、吐き気がした。


 赤い唇が笑う。


 その唇が、炎の中の女の唇と重なった。


 助けようとした唇。

 奪おうとした唇。

 母と呼んだ女。

 仮面をつけた女。


 同じなのか。違うのか。

 どちらが夢で、どちらが記憶なのか。


 頭痛が、こめかみの奥で弾けた。


「っ……!」


 彼は洗面台に手をついた。視界が歪む。白い壁が赤く滲む。映写機の音が耳の奥で鳴り出した。


 かた、かた、かた。


 違う。ここは寝室だ。

 あの舞踏会ではない。

 炎はない。魔獣もいない。赤い唇も、ここには――


「お客様?」


 二号の声が遠い。


 お客様。


 その呼び名が、喉に引っかかった。


 自分は客なのか。

 患者なのか。

 囚人なのか。

 標本なのか。


 彼は答えようとした。

 だが、舌が動かなかった。


 膝から力が抜ける。


 二号が支えようとした。彼は拒もうとしたが、身体が言うことを聞かなかった。肩に手袋越しの感触が触れる。冷たいのか、温かいのかわからない。


 倒れる直前、視界の隅に柱時計が見えた。


 寝室の壁際に、黒檀の柱時計が立っている。


 振り子は動いていなかった。

 針も、止まっている。


 七時四十七分。


 悪夢の中と同じ時刻だった。


 彼はその意味を考えようとした。

 けれど思考は、赤い光の中へ落ちていった。


 意識が途切れたあと、部屋にはしばらく静寂が残った。


 二号は倒れた男を支えきれず、絨毯の上へそっと横たえた。白い仮面はずれていない。頬に密着したまま、ひどく新しく、ひどく清潔に見えた。


 彼女は手を伸ばした。


 仮面の縁に触れようとして、途中で止める。


 触れてはならない。


 そう命じられていた。


 二号は唇を閉じ、手を引いた。黒いフェイスマスクの下で、呼吸だけが浅く揺れる。彼女は壁際へ行き、呼び鈴の紐を引いた。


 鈴の音は、思いのほか澄んでいた。


 やがて、廊下の奥から音がした。


 きい、と小さく軋む音。

 それから、床を撫でるような、ゆっくりとした車輪の音。


 銀の車輪が、夢の外側から近づいてきた。

しっくりくるジャンルがありませんでしたので、ホラーということにしましたが、これは怪奇ミステリ小説だと自分では思っています。

ミステリーは推理小説の意味ではなくて、怪奇、謎、神秘の意味でのミステリーです。(なのでミステリと伸ばしませんでした)

怪奇のほうの意味は、ホラーの意味です。

しかしホラーと明記すると、多くの方は恐怖小説のほうを思い浮かべたり、もしくはスプラッターでグロなどを想像するかもしれません。

ここでの怪奇はたしかに翻訳的にはホラーですが、古典的な雰囲気を醸し出せればいいと思います。

あとこの作品の書き方は、現代の小説ばかり読んでいる方には読みづらいかもしれません。

しかもケータイからではおそらく最悪だと思います。

作風重視にしたので、読みづらい点は申し訳なく思います。

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