第七話 先輩のおうちにお呼ばれ、頑張りましょうっ! 前編
それは、昨日の午後のこと。
わたしが仕事している、総務課のサーバールームに顔を出した先輩。
机の上に置いたのは、次回から新しい項目が追加される人事考課の帳票ね。
「チェックは終わっているから、おまえも目を通しておけよ」
「はあい」
言うことだけ言うと、さっさと出ていこうとしているじゃない。
人が来ない密室で結婚相手と二人きりなのよ、どれだけ朴念仁なのかしら。
昼間の仕事場で禁断の熱い密会、とまでは言わないけれど。
せめて、おしゃべりぐらいしていったらどうなの?
一人でがっかりしているわたしが、口をとがらせていると。
「そうだっ!」
ドアノブに手を掛けた先輩が、いきなり大声をあげるんだもの。
「急にどうしたの、びっくりするじゃない」
「悪かった、肝心なことを言い忘れるところだったから」
それだけ大声を出すほどの肝心なことって、何なんですか?
「明日は仕事を早く上がれそうなんだ、暇だったら家を見に来るか?」
「家って、先輩のおうちですか?」
「ああ、同居を始める前に一度ぐらいは見ておいた方がいいんじゃないかと」
結婚をしてからは、先輩のおうちで暮らすんですものね。
「そうね、必要なものがあれば事前に買っておかなきゃならないし」
先輩には、女性に必要なものなんて分からないでしょうからね。
「だから聞いているんだろ、どうする?」
「もちろん行きますよ、でもさっきの言い方には多少の問題があるわね」
「問題って、どこに?」
「同居する前にではなくて結婚する前にでしょ、正確に言うなら」
「正確を期するからこそ同居と言ったんだ、あくまでも偽装結婚なんだから」
もうっ、朴念仁っ!
「行っあげてもいいけれど、襲わないでね」
「おあいにくさま、家に連れてきた同僚を襲う趣味はこれっぽっちもないよ」
「だから、同僚じゃなくてもうすぐ妻にする人でしょ」
「ちょっと誘われただけで、男の自宅にほいほいとやってくる将来の妻ねえ」
「そんなことを言うなら、行ってあげないわよ」
強気に言ってはみたものの、行きたくてたまらないっ!
「どこで待ち合わせをする、俺の家の近くだと分かりやすいところは」
「待ち合わせだったら、会社の裏口でするに決まっているでしょ」
「裏口って、退社する全社員が通るんだそ」
だからでしょ。
「忘れたんですか、状況証拠を作るって言ったでしょ」
「裏口はパスだ、せめて地下鉄のホームにしないか?」
さすがに初めての状況証拠作りだものね、それくらいで許してあげますか。
「いいでしょ、地下鉄のホームで妥協してあげます」
「じゃあ、ホームの真ん中あたりで」
ふん、ホームの両端にある階段の近くだと人目につき過ぎるからね。
誘われてすぐに返事をしたのは、軽い女だと思われたかしら。
それでも、先輩のおうちに行きさえすればあんなことやこんなことが……。
そんなわけで、今日は仕事を終えてから先輩のおうちに行くんです。
表向きの目的は、現状を確認して買い足すものがあればリストアップ。
でも、わたしの真の目的は別にあるの。
会社では見ることのない素顔の先輩と過ごして、きっちりと査定をするの。
恋愛経験もなく結婚をするわたしにとっては、大事なことでしょ。
それと、会社のみんなを利用して風説の流布もできれば文句なしね。
待ち合わせをしている、地下鉄のホームを見回していると。
定時を過ぎたばかりでも、帰宅するうちの社員の姿がちらほらと。
大半は、ホームの両端にある階段の付近にいるけれど。
わたしたちが待ち合わせしている真ん中にも、それなりにいるわ。
階段を下りて、こっちに向かってくる先輩を見つけると。
「こっちです、先輩っ!」
「大声をあげるなよ、手まで振ったら周囲の注目の的だろ」
あのですね、注目されるためにこうしているんですよ。
今の大声でわたしたちに気づいたうちの社員は、少なくとも二人か。
先輩とわたしという、意外な組み合わせに驚いているわね。
「せっかくだから、腕ぐらい組んじゃいましょうか?」
まだこっちを見ているから、ラブラブなところを見せる絶好のチャンスよ。
「だめだっ!」
しょうがないわね、徐々に慣らしていくしかないか。
「それに、その荷物は何だ?」
「行けるときに、少しずつでも運んでおこうと」
「少しずつって量じゃないだろ、いったい何を持ってきたんだ」
そんなに慌てなくても、どうせすぐに知ることになりますよ。
先輩のおうちは、地下鉄で三つ先の駅から徒歩でたった三分のマンション。
ここからだったら、いざというときには歩いて会社に行けるわね。
「おじゃましま~す」
「自分の家になるんだから、そのあいさつは変だろ」
そうか、結婚してここに帰ってくるときにはただいまって言うんだものね。
まずはリビングに通されて、ソファーに腰を下ろしたわたしに。
「どうした、具合でも悪いのか?」
「そう見えますか?」
「見えるから聞いているんだろ、何だか顔が赤いぞ」
鋭いわね、さっきからドキドキが……。
「男の人のおうちに入るのなんて初めてだもの、やっぱり緊張しちゃうわね」
「襲われに来たのに?」
「もうっ!」
今のやりとりで多少はリラックスできたみたい、ドキドキも収まったし。
改めて見渡してみると、独り暮らしのくせにこんなに広いリビングなんて。
「大きいテレビね、オーディオも完備か」
「テレビは親からの引っ越し祝いだよ、オーディオは趣味だから」
「音楽鑑賞が趣味なの?」
「聞くより、自分で弾く方だがな」
「弾くって?」
「高校のときにはバンドを組んでいて、ベースを弾いていたんだ」
バンドなんて、会社での先輩のイメージとはまったく違うわね。
とりあえず、一ポイントをプラス。
「じゃあ、さっそく家の中を見てまわろうか」
「はあい」
「自分の家になるんだから、そのつもりでチェックしろよ」
「頑張るわ」
「必要なものがあれば一緒に買いに行くから、リストアップしておくんだぞ」
バッグからメモ帳を取り出して、早くもやる気満々になっているわたし。
「で、どこから見たい?」
「まずは水回りを見たいな、キッチンとかお風呂場からね」
「そこが洗面所で、奥が風呂になっているよ」
最初に案内されたのは、リビングを出たところにある洗面所。
脱衣所を兼ねていて、洗濯機と乾燥機も置いてあるわ。
「大きい洗面台ね、洗顔やお化粧だけじゃなくてシャンプーもできそう」
「そりゃ、シャンプードレッサーだから」
「わたしの化粧品は、これの引き出しに入れてもいいかしら?」
「ほとんど使っていないから、好きにしていいよ」
深く考えずに返事をしちゃって、本当にいいんですか?
結婚後ではなく、今日や明日に使うために持ってきた化粧品のことなのに。
「洗濯機と乾燥機は別なのね、どうして一体型にしなかったの?」
これだけ広ければ、スペースを気にする必要もないんでしょうけれど。
「乾燥機が必需品だってことに、後から気づいたんだ」
「必需品?」
「外干しをしても、家に帰ってこられないときもあるから」
たとえ帰って来られても、例のバーに寄ってタクシーで帰宅するのが一時。
それから取り込むのもね。
「先輩って、とことん独り暮らしに向いていないのね」
「そうらしいな、これからはおまえに期待をしているよ」
「任せてちょうだい」
奥に続く浴室のドアを開けると、奇麗なお風呂場が。
「広いお風呂場ね、浴槽も大きいし」
「それが、このマンションの売りらしいからな」
「温泉にある家族風呂みたいね、これなら二人で入れちゃうわ」
「言っておくけれど、一緒になんか入らないぞ」
「何よ、先輩のけち」
「けちで結構だ」
いいもん、一緒にお風呂は後々のお楽しみに取っておくから。
とにかく、洗面所とお風呂を合わせて一ポイントをプラスね。
次はキッチンへ。
「うわあ、対面型のキッチンだ」
「風呂以上に、テンションが高くなっているな」
「だって、シンクは広いし食洗機だってあるじゃない」
「それにしたって、そこまで興奮することはないだろ」
「女の子の憧れですもの、こんなキッチンでお料理をするのは」
「それなら、むだな憧れだったな」
「むだって、どうしてよ」
「どんなキッチンでも、料理ができないおまえには無用の長物だろ」
痛いところを衝いてくるわね、
それ以上言うなら、ポイントをマイナスしちゃうわよ。
「お料理なら少しずつ勉強するわ、愛しい旦那様のためにね」
「俺は実験台かよ」
「こんなに大きな冷蔵庫なんて、いったい何人で暮らすつもりで買ったの?」
「大きくて正解だっただろ、これからは二人で暮らすんだから」
「レンジはまるで新品じゃない、これじゃあの賞品はいらないって言うわね」
食器棚をのぞいて見ると。
「独り暮らしなのに、食器は五つずつのセットなんだ」
「それだけあれば、買いそろえなくて済むだろ」
「夫婦になるのよ、夫婦茶碗と夫婦箸ぐらいはそろえたいな」
すてきなキッチンだったから、一ポイントをプラス。
キッチンに続いて、玄関の脇のお部屋に通されると。
壁際には本棚があって、難しそうな本がいっぱい並んでいる。
机の上にはパソコンとプリンターがあって、これはいかにも先輩らしいわ。
「どうして、パソコンが二台もあるの?」
「仕事用と個人用だよ」
「何が違うの?」
「仕事用は、セキュリティがより強固なんだ」
ふうん。
バンドの話は本当みたいで、立て掛けてある楽器がベースっていうのね。
「ここは書斎、とはいってもほとんど仕事場として使っているが」
「会社であれだけお仕事をしているのに、おうちでもするの?」
「他チームのトラブルで呼び出され、月に何回か夜中に会社に行っていたが」
へえ、そんなにしょっちゅう呼び出されているんだ。
「わざわざ会社まで行くのが、面倒になって」
そりゃ、そうでしょ。
「何年か前に、リモートでつないでここで仕事をすることに」
「わたしたちの知らないところでは、そんなことがあったのね」
忙しい人だってことは知っているけれど、それほどとは。
しかも、そんなことがあった次の日でも何でもないって顔をしていたのね。
尊敬しちゃう、ここは二ポイントをプラスね。
書斎を出ると、向かいのお部屋に。
「ここは、いずれ子供部屋にしようと思っていた部屋なんだ」
「結婚もしていないのに、子供部屋?」
「いろいろあるんだよ」
「何よその、いろいろって」
「いつか話すよ」
「気になるなあ」
「とにかく、ここをおまえの部屋として使っていいから」
「わたしの部屋、ですか」
「言っただろ、おまえが寝る部屋が必要だって」
「こんなお部屋なんていらないわよ、わたしは先輩と一緒に寝るんですから」
「何だって!」
「だって、夫婦じゃない」
「偽装結婚なんだぞ、絶対にだめだっ!」
「そこまでむきにならなくても、冗談よ」
「まったく笑えないぞ」
ふんだ、そこまで本気で怒らなくてもいいでしょ。
「で、最後は寝室」
さっきの子供部屋でのやりとりは、ここに来るまでに予想をしていたもの。
あくまで、ただの前振りよ。
これからする寝室での攻防が、本日のメインイベントなんだから。
「大きいベッドね、まるでホテルみたい」
「セミダブルを二つくっ付けてあるからな」
「独身なのに、セミダブルを二つも?」
「おふくろに対するカムフラージュなんだ、このマンションも」
「何よ、それ」
「おふくろが結婚しろとうるさくて、断る口実に結婚準備のふりをしたから」
「それで、何から何まで新婚さん用にそろえてあるのね」
「ああ、さっきの部屋を子供部屋って言っていたのもそれでだよ」
思いの外、すぐにやってきたわね。
いつか話すよと言っていた、いつかが。
「やっぱり、ここで寝たいな」
「何を言っているんだ、これは夫婦生活とかは一切なしの偽装結婚なのに」
「夫婦生活さえなければ、一緒に寝てもいいんでしょ?」
「そんなわけはないだろ、男と女なんだから」
「先輩が、我慢できなくなっちゃうからでしょ」
「何を言っているんだ」
「大人の男女なんだから、我慢なんかしなくてもいいのに」
「だめなものは、だめだ」
「けち」
「誰がけちだ、とにかくリビングに戻るぞ」
ふんだ、子供部屋と寝室でのポイントはなしよ。
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「千里の道も歩いてみれば」は、全二十四話。
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投稿済の「くまさんの春から」「難ガール」と同様に、お楽しみいただければ幸いです。




