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第九話 仕事ならなおさらだ。包丁を持ってる奴が、肉と指を見分けられないのはまずい

 その時、表の方で下駄の音がした。


 小鈴が背筋を伸ばす。

 銀次は乱れた髪を撫でつけた。

 菊乃は扇を帯に差し、いかにも偶然そこに立っていたような顔を作った。


 入ってきた男は、浅草の匂いを外から眺めに来たような身なりをしていた。

 背広はきちんとしていて、靴も磨かれている。帽子を取る仕草には、少し芝居があった。

 年は慎吾と同じくらいか、わずかに上。

 目元は涼しいが、涼しさを自分で承知している目だった。


 松之助が頭を下げる。


「これはこれは。こんな小屋まで、わざわざ」


「いえ、こちらこそ。帝都日日の相良です」


 男は名刺を出した。


 相良圭一郎。


 その名を聞いた瞬間、慎吾の赤鉛筆が止まった。


 ほんの一瞬である。

 だが、菊乃には見えた。


 相良も慎吾に気づいたらしい。

 彼は少し目を細め、それから笑った。


「葉室か」


 慎吾は顔を上げた。


「まだ生きてたのか」


「新聞屋に向かって、第一声がそれか」


「死んだ方が世のためになる新聞屋もいる。お前がどっちかは、これから決めてやる」


 松之助の顔が引きつった。


「葉室、お前、知り合いか」


「不運にも」


 相良は笑った。


「帝大の頃の知り合いですよ。もっとも、葉室は知り合いという言葉も嫌がるでしょうが」


「嫌がっているのに使うあたり、新聞屋に向いてるな」


 菊乃は慎吾を見た。


 帝国大学。

 その名は、菊乃にとって珍しいものではなかった。

 水無瀬家の客間にも、学習院から帝大へ進み、官へ入ることを当然の道のように語る男たちはいた。

 父の知人にも、遠い親戚にも、縁談の席で名前だけ聞かされた男にも、その肩書は幾度となくついて回った。


 だから菊乃が驚いたのは、帝大という名そのものではない。


 その名が、葉室慎吾のほつれた袖と、浅草の安い机と、その手に持った赤鉛筆に結びついたことだった。


 帝大というのは、本来なら浅草の小屋から人を遠ざける名であろう。

 役所の廊下、新聞社の階段、官僚の名刺。

 そういう場所へ向かうための切符のようなものだった。


 それなのに、慎吾はここにいる。


 しかも、その肩書を少しも誇っていなかった。

 むしろ、古傷を乱暴に名指しされたような顔をしていた。


 相良は、机の上の台本を見た。


「君がまだ文章を書いているとは思わなかった」


「俺も、お前がまだ文章で飯を食えているとは思わなかった。世間は懐が深い」


「相変わらずだな。帝国大学を出た葉室慎吾が、浅草の小屋で喜劇の台本とは」


「帝大を出た相良圭一郎が、人の落ち目を記事にするのと、釣り合いは取れてる」


 相良の笑みが、薄くなった。


 その場の空気が、紙一枚分だけ硬くなる。


 菊乃は扇へ指をかけた。

 慎吾は相手の身なりや肩書で言葉を変える男ではない。

 相良が旧友であろうが、新聞屋であろうが、帝大の名を持ち出そうが、彼の口の悪さは一切遠慮しない。


 ただ、その悪さの奥に、何かが刺さっている。


 相良はすぐに新聞屋の顔へ戻った。


「今日は、駒形座の皆さんを取材させていただきます。浅草の小劇場で、なかなか面白い話があると聞きましてね」


 松之助が揉み手に近い仕草をした。


「いやあ、面白いかどうかは分かりませんがね。うちは地道にやっておりますんで」


「昨日は、子役の子を巡って一騒動あったとか」


 おたみの顔が曇った。

 小春は舞台の端で稽古をしていたが、その声が少し小さくなった。


 慎吾が相良を見た。


「耳が早いな。鼻も利く。下水の方に」


「俺は新聞屋だ。匂いのあるところへ行くのが仕事でね」


「腐臭と飯の匂いを間違えるなよ」


「そこは読者が決める」


「新聞屋は読者のせいにする時が一番下品だな」


 相良は手帳を開いた。


「まずは座長さんから。駒形座は、今どのくらいお客が入っているんです?」


 松之助が咳払いをした。


「まあ、その、ありがたいことに、日に日に増えておりまして」


 慎吾が言った。


「昨日は三割」


 松之助が固まる。


「葉室」


「入りの話だろ。嘘をつくなら、せめて帳面を閉じてからにしろ」


 相良の鉛筆が走った。


 菊乃は慎吾を睨む。

 慎吾は知らん顔で紙をめくった。


 相良は次に銀次を見た。


「君は若手の芸人さんかな」


「へい。花村銀次と申しまして、近い将来、浅草一の――」


「台詞を三日に一度忘れる」


 慎吾が言う。


「兄さん!」


「近い将来を語る前に、昨日の台詞を覚えろ」


 相良の口元がわずかに動く。


「では、こちらのお嬢さんは」


 小鈴が少し胸を張る。


「橘小鈴です。一応、別の大きな劇場からも声はかかっていて」


「かかってない。あれは客引きに褒められただけだ」


「葉室さん!」


「大きな劇場の名刺を持った客引きに騙されかけた、まで正確に言え」


 小鈴は顔を赤くした。


「もう、黙っててください」


「さっきから全員が俺にそれを望んでる」


「叶えてくださいよ」


「嫌だ」


 相良は慎吾を見た。

 その目には、懐かしさよりも、別の興味があった。


「君は昔から、人の飾りを剥がすのが好きだったな」


「飾りならいい。腐った包帯は剥がした方がましだ」


「そうして自分の傷も見えるようになったか」


 慎吾の目が冷えた。


 菊乃はその変化に気づいた。

 彼の皮肉が短くなる時は、本当に機嫌が悪い時だ。


「相良」


 慎吾は言った。


「取材しに来たなら、手帳を使え。昔話をしに来たなら、帰れ。俺はどっちも嫌いだが、前者の方がまだ銭の匂いがする」


 相良は帽子を膝に置き直した。


「では、水無瀬さんに伺いましょう」


 菊乃は扇を開いた。

 ようやく出番が来たと思った。


 相良は穏やかに微笑む。


「華族家のご令嬢が、浅草の舞台に立っていらっしゃる。これは読者が興味を持ちそうです」


「わたくしは、水無瀬家の名に恥じぬよう、芸の道に――」


「昨日は、客席に昔のお知り合いがいらしたとか」


 菊乃の声が止まった。


 相良の鉛筆は、まだ紙に触れていない。

 待っている。言葉が出るのを待っている。あるいは、傷が開くのを待っている。


 菊乃は慎吾の方を見ないようにした。


「ええ。古い知人が」


「その方は、あなたの舞台をどうご覧になったのでしょう」


「存じませんわ」


「笑われた、という話も」


「舞台とは、笑っていただく場所ですもの」


「しかし、華族家の名を背負って」


「相良」


 慎吾が口を挟んだ。


 声は低かった。


「質問の形をした見出しを投げるな」


 相良は涼しい顔で返す。


「見出しになる素材をお持ちなのは、そちらでしょう」


「素材と餌は違う」


「読者は餌を好む」


「お前が餌を撒きたいだけだろ」


「俺は新聞屋だ」


「知ってる。だから文句を言ってる」


 相良は鉛筆を止めた。


 松之助が慌てて間に入る。


「まあまあ、葉室。相良さんもお仕事で」


「仕事ならなおさらだ。包丁を持ってる奴が、肉と指を見分けられないのはまずい」


 菊乃は扇の陰で、そっと息を吐いた。


 庇われている。

 だが、慎吾の言葉は決して自分を褒めない。相手の目が悪い、相手の仕事が下品だ、相手の見出しが雑だと切るだけだ。


 だから余計に、逃げ場がなくなる。


 相良は少し身体を引いた。


「では、葉室。君ならどう書く」


「書かない」


「逃げるのか」


「書く価値のないものは書かない。逃げる以前の問題だ」


「駒形座には書く価値がないと?」


「お前が用意してきた筋ならな」


 相良の目が細くなる。


「俺がどんな筋を用意したと?」


 慎吾は机の紙を一枚めくった。


「没落令嬢、浅草に堕つ。子役の涙、安小屋の裏側。帝都の華やぎの陰で、夢を食う貧しき芸人たち。そんなところだろ」


 相良は黙った。


 図星だったのだろう。

 小屋の中の空気が、また少し変わった。


 銀次が小さく舌打ちした。小鈴は唇を噛む。松之助の肩が落ちる。小春は、舞台の端で立ったまま動かなかった。


 菊乃は、扇を閉じた。


「……それは、随分と暗い記事ですのね」


 相良は軽く肩をすくめる。


「暗い話は売れます。浅草の明るさの裏にある影、というのは定番でして」


「定番というのは、便利ですわね。人の事情を型に押し込めれば、考えずに済みますもの」


 相良が初めて菊乃をまっすぐ見た。


 慎吾も一瞬、こちらを見た気がした。

 菊乃は気づかないふりをした。


「水無瀬さんは、浅草をどう思っていらっしゃるのです」


 相良の声は柔らかい。

 柔らかいが、柔らかい刃物もある。


 菊乃は少し考えた。


「不作法な場所ですわ」


 銀次が吹き出しそうになる。


「すぐ人を笑います。人の恥を隠してくれません。貧乏も、失敗も、噛んだ台詞も、だいたい表へ引きずり出されます」


 相良の鉛筆が動く。


「ですが」


 菊乃は続けた。


「笑いにしてくれることもあります。そこだけは、水無瀬の客間より親切です」


 慎吾は何も言わなかった。


 相良の鉛筆が、今度は少し遅くなった。


 松之助がぼそりと言う。


「菊乃さん、いいこと言うねえ」


「当然ですわ。わたくしは時々、いいことも申します」


「時々なのは認めるんですね」


 銀次が言い、小鈴に肘で突かれた。


 相良は慎吾へ向き直った。


「君の案を聞こう」


「誰が案を出すと言った」


「君はもう出したくて仕方ない顔をしている」


「お前の目も安くなったな」


「俺は新聞屋だ。人の嫌な顔を読むのは商売道具でね」


「なら手入れしろ。錆びてる」


 慎吾は鼻で笑い、紙に赤鉛筆でいくつか字を書いた。

 それから、相良の方へ放る。


 紙は机の上を滑って止まった。


 相良が拾う。


 菊乃は覗き込みたくなったが、慎吾の目がそれを止めた。


「何ですの」


「見出しだ」


 相良は紙を読んだ。


「……『没落ではなく、登壇――浅草で笑われることを選んだ女』」


 楽屋が静かになる。


 菊乃は目を瞬かせた。


 慎吾はつまらなそうに言った。


「お前の暗い記事よりは売れる。貧乏な役者の涙だけなら、どこの小屋にもある。華族家の娘が笑われるだけなら、見世物としても安い。だが、笑われる側が笑いを取りに行くなら、少しは読める」


 相良は紙を見つめている。


「君は、彼女を買っているのか」


「値段をつけるな。水無瀬が調子に乗る」


 菊乃は扇を握った。


「葉室さん」


「何だ」


「今のは褒めておりますの?」


「違う。商品価値の話だ」


「わたくしを商品にしないでくださる?」


「新聞屋の前で言うと、説得力がない」


 相良が笑った。

 今度の笑いは、さきほどより少しだけ自然だった。


「なるほど。君は相変わらず、文章の筋を読むのが早い」


「お前は相変わらず、筋が古い」


「痛いな」


「痛いならまだ生きてる。よかったな」


 相良は紙を丁寧に畳み、自分の手帳に挟んだ。


「少し、考えを改めよう」


「大袈裟だな。見出しを変えるだけだろ」


「新聞屋には大事だ」


「新聞屋だけにな」


 相良は立ち上がった。


「舞台も見せてもらえるかな」


 松之助が慌てて頷く。


「もちろんです。ちょうど稽古を」


「稽古じゃない。本番を見ろ」


 慎吾が言った。


「稽古は嘘をつく。本番はもっと下手に嘘をつく。そっちの方が記事になる」


 銀次が顔をしかめる。


「兄さん、俺たちを売る気ですか、潰す気ですか」


「売るにはまず、値段をつけられる場所へ並べろ」


「言い方」


「気に入らないなら、舞台で値を上げろ」


 銀次は黙った。

 小鈴も唇を結び、鏡へ向かった。小春は小さく頷いて、稽古の位置へ戻った。

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