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第十話 水無瀬家の娘に言われると、古道具屋の説教みたいだな

 菊乃は慎吾の机のそばへ寄った。


「葉室さん」


「何だ。また褒めてほしいのか」


「違いますわ」


「じゃあ礼か」


「それも違います」


「面倒な分類を持ち込むな」


 菊乃は相良の背中を見た。

 彼は松之助の案内で客席の方へ出ていくところだった。


「帝大をお出になっていたのですね」


 慎吾の赤鉛筆が止まった。


「だったら何だ」


「いえ。不思議でしたの」


「帝大出の男が浅草にいるのがか?」


「いいえ。帝大出の男が落ちることくらい、珍しくはございませんわ」


 慎吾が顔を上げた。


 菊乃は扇を開かず、指先で骨だけを撫でた。


「水無瀬家の客間にも、立派な学歴を持ったつまらない方は大勢いらっしゃいましたもの」


「言うな」


「あなたの影響ですわ」


「最悪だな」


「ええ」


 菊乃は少しだけ目を伏せた。


「不思議だったのは、あなたほど紙を嫌っている方が、紙で人を動かす場所にいらしたことです」


 慎吾は黙った。


「証文も、新聞も、台本も。あなたは紙を信用していないくせに、紙で人が動かされることをよく知っている」


「大学で習ったからな」


「何を?」


「偉そうな紙で人間を閉じ込める方法だ」


 その声には、いつもの毒より少しだけ苦いものが混じっていた。


 菊乃は黙った。


 帝大という名は、彼にとって勲章ではないのだろう。

 水無瀬の名が、菊乃にとって時々重すぎる衣装であるように、慎吾にとって帝大は、脱ぎ捨てたはずなのに袖を掴んでくる古い上着なのかもしれなかった。


「あなた、もっとご自分を高く売れたでしょうに」


 菊乃は言った。


 慎吾は少しだけ笑った。


「水無瀬家の娘に言われると、古道具屋の説教みたいだな」


「茶化さないでください。わたくしの見栄は笑うくせに、あなたはご自分の値打ちをわざと泥へ捨てていらっしゃる」


 慎吾の目が、少しだけ細くなった。


「それは褒めてるのか」


「苦情ですわ」


「なら受け取らない」


「わたくしは受け取らせる側です」


「迷惑な女だ」


「高貴な苦情です」


 慎吾は短く息を吐いた。

 笑ったのかもしれない。あるいは、ただ疲れただけかもしれない。


「お前もだいぶ浅草に汚れてきたな」


「おかげさまで」


「俺のせいにするな」


「あなたのせいでないなら、誰のせいですの」


 慎吾は少し考えるふりをした。


「環境だな」


「責任逃れも帝大仕込みですこと」


「そこだけは勉強した」


 舞台から松之助の声がかかった。


「菊乃さん、出番だ!」


 菊乃は扇を帯に差した。


「葉室さん」


「まだあるのか」


「今日のわたくしは、どの程度受ければよろしいの?」


「噛むな」


「それは受ける以前の問題ですわ」


「じゃあ、転ぶな」


「他にありませんの?」


 慎吾は台本を一枚差し出した。


「三場目。ここで間を取れ。昨日より半呼吸長く」


「なぜ?」


「相良がそこを見てる」


「新聞屋を笑わせろと?」


「違う。新聞屋が記事を書きたくなる間を作れ」


 菊乃は台本を受け取った。


「難しい注文ですわね」


「お前は面倒な方が少しはましになる」


「どういう理屈ですの」


「簡単なことをやらせると、余計な虚勢を混ぜる」


「失礼ですわ」


「当たってるだろ」


 菊乃は返事をしなかった。

 返事の代わりに、台本を胸に抱えて舞台へ向かった。

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