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第十一話 本当だから腹が立つんだ

 客席には相良が座っていた。

 手帳はまだ開いていない。腕を組んで、舞台を見ている。


 菊乃は、昨日の倉橋の目を思い出した。

 今日の相良の目は、それとは違う。だが、やはり値踏みの目だった。新聞屋の目である。人を材料として見る目。


 ならば材料になってやろう。


 ただし、こちらで焼き加減を決める。


 舞台が始まった。


 銀次は最初の台詞を忘れかけたが、今度は自分で拾った。小鈴は少し硬かったが、相良の目に負けないように声を張った。小春は昨日よりよく動いた。客席はまだまばらだったが、笑いは確かに起きた。


 菊乃の出番が来る。


 彼女は舞台の中央へ出た。

 照明は安く、熱い。足元の板は、昨日より少し自分を知っているように思えた。


 三場目。

 慎吾に言われた箇所へ来る。


 銀次が言う。


「お嬢様、そんなに偉いなら、何でこんな長屋に来たんです」


 菊乃は台詞を返すはずだった。


 すぐには返さない。


 半呼吸、長く置く。


 客席が少し待つ。

 相良の手が、手帳へ伸びるのが見えた。


 菊乃は顎を上げた。


「偉い者ほど、落ちる時は遠くへ落ちますの」


 小鈴が目を丸くした。

 台本とは少し違った。


 菊乃は続けた。


「けれど、落ちた先に人がいるなら、まだ底ではございませんわ」


 一瞬、静まった。


 それから、客席の奥で誰かが笑った。

 笑いというより、息を吐く音に近い。そこから少しずつ広がり、銀次が慌てて次の台詞を入れた。


「じゃあ、お嬢様、ここで暮らしますか」


 菊乃は扇を開いた。


「掃除が済んだら考えて差し上げます」


 今度ははっきり笑いが起きた。


 菊乃は袖の方を見ない。

 慎吾が見ていると分かっていたから、見なかった。


 終演後、相良はしばらく客席に座っていた。


 手帳には何行も字が書かれている。

 その字がどういう形で活字になるのか、誰にも分からない。


 やがて相良は立ち上がり、楽屋へ来た。


「面白かった」


 その一言に、銀次が破顔した。小鈴も少し頬を緩める。松之助はほっとしたように頭を下げた。


 慎吾だけが言った。


「語彙が貧しいな」


「君に褒め言葉を言うと、だいたい腐るからな」


「学習したか。遅いが、しないよりはましだ」


 相良は菊乃を見た。


「水無瀬さん。さきほどの台詞、よかったです」


 菊乃は少しだけ胸を張った。


「当然ですわ」


「台本ですか」


 菊乃は慎吾を見た。

 慎吾は机に向かっている。


「半分は」


 菊乃は答えた。


「残り半分は、わたくしの高貴なる応用です」


 慎吾が低く言った。


「余計なことを足しただけだ」


「受けましたわ」


「少しな」


「あなたの少しは、今日は褒め言葉として受け取ります」


「勝手にするな」


 相良は帽子を手に取った。


「記事は、明後日の朝刊に載せる予定です。見出しは……少し考えます」


「考えすぎるな。お前は考えるほど退屈になる」


「忠告として受け取っておこう」


「苦情だ」


「君も変わらないな」


 相良は慎吾を見た。


「葉室。君がなぜここにいるのか、少し分かった気がする」


 慎吾は赤鉛筆を置かなかった。


「分かるな。記事にするぞ」


「しないよ」


「信用できないな」


「仕方ない。俺は新聞屋だからな」


「自覚があるだけ、まだ悪質だ」


 相良は小さく笑った。


「昔の君なら、こんな小屋のために見出しを考えたりはしなかった」


「昔の俺を知ったような口を利くな」


「知っているさ。帝大の廊下で、教授の答案に赤を入れた男だ」


 銀次が目を輝かせた。


「兄さん、そんなことしたんですか」


「してない」


 相良が言う。


「したよ。たしか法科の講義だったな。『この結論は役所には便利だが、人間には不便』と書いていた」


 慎吾は相良を睨んだ。


「余計なことを覚えてるな」


「新聞屋だからね」


「だから嫌いなんだ」


 相良はそれ以上言わず、帽子をかぶった。


「では、また」


「二度と来るな」


「記事が出たら持ってくるよ」


「郵送にしろ」


「君が嫌がるなら、直接来る」


「最低だな」


「新聞屋だ」


「知ってる。二度も言うな」


 相良は笑って出ていった。


 外の通りの音が、しばらく楽屋へ流れ込んだ。

 人力車の鈴、団子屋の声、子どもの笑い。新聞屋はその中へ紛れていく。明後日には、その男の書いたものが紙になり、駒形座の名をどこかへ運ぶ。


 それが救いになるのか、厄介になるのかは分からない。


 銀次が真っ先に口を開いた。


「兄さん、帝大って本当だったんですね」


「嘘だ」


「いや、相良さんが」


「あいつは新聞屋だぞ」


「じゃあ嘘なんですか」


「……本当だから腹が立つんだ」


 小鈴が吹き出した。


 菊乃は慎吾の机の前に立った。


「葉室さん」


「今度は何だ」


「あなた、教授の答案に赤を入れたのですか」


「昔の話だ」


「昔から赤鉛筆がお好きでしたのね」


「嫌なところを直すのに便利だからな」


「では、ご自分の嫌なところにも赤を入れればよろしいのに」


「紙が足りない」


「珍しく正直ですこと」


 慎吾は菊乃を見た。


「お前は今日、台本を変えたな」


「応用ですわ」


「余計な応用だ」


「受けました」


「少しな」


「それで十分です」


 菊乃は扇を開いた。

 今度は手が震えていない。


「わたくし、今日少しだけ分かりました」


「分からなくていい」


「新聞も、証文も、台本も、人を閉じ込めることがあります。でも、うまく使えば、少しだけ外へ出られることもあるのでしょう」


 慎吾は黙った。


 菊乃は続けた。


「あなたは、それを知っているから、紙に怒るのですわね」


 慎吾は赤鉛筆を指で回した。


「水無瀬」


「何ですの」


「賢そうなことを言うな。明日熱が出る」


「失礼ですわね」


「お前には高笑いの方が似合う」


「それも失礼です」


「褒めてる」


「嘘ですわ」


「少しな」


 菊乃は笑った。


 慎吾も、ほんの少しだけ口元を歪めた。

 褒めることも、礼を言うことも、この男には難しい。だが、紙の上では時々、人が立つ場所を作る。


 菊乃は自分の扇を見た。

 慎吾は台本を見ている。


 そのどちらも、今は浅草の小屋にあった。


 松之助が舞台の方から叫んだ。


「おい、みんな。明後日の朝刊、何部買えばいいと思う」


 銀次がすぐに言う。


「十部!」


 小鈴が笑う。


「そんなに買ってどうするの」


「親戚に送ります」


「銀次さん、親戚いたの?」


「これから作る」


 菊乃は胸を張った。


「水無瀬家にも一部送るべきですわね」


 慎吾が言う。


「やめろ。返品される」


「失礼ですわ」


「それより、記事が出る前に明日の台詞を覚えろ」


「覚えております」


「嘘だな」


「なぜ分かりますの」


「お前は覚えている時ほど、先に言わない」


 菊乃は黙った。


 慎吾は台本を差し出す。


「三場目、直した。お前が勝手に足した分も入れておく」


「まあ。わたくしの応用を認めましたのね」


「違う。放っておくと、明日もっと悪化する」


「あなたは本当に、褒めるくらいなら死ぬ男ですのね」


「死ぬ時くらい黙ると言っただろ」


「覚えておりますわ」


「嫌なことを覚えるな」


 菊乃は台本を受け取った。


 赤鉛筆の字があった。


 ――落ちた先に人がいるなら、まだ底ではない。


 自分の言葉だった。

 けれど慎吾の字で書かれると、少し別のものに見えた。


「葉室さん」


「何だ」


「この台詞、少しよろしいですわね」


「自画自賛か。水無瀬家もいよいよ末期だな」


「あなたが書き留めたのでしょう」


「証拠保全だ」


「では、領収書の次は証拠ですの」


「お前の余計な台詞には、毎回何かしら紙が要る」


「不便ですわね」


「だから言っただろ」


 慎吾は新しい紙を机に置いた。


「お前がいると、台本が不便になる」


 菊乃は台本を抱えた。


「不便なものほど、客は覚えるのでしょう」


「覚えたな」


「ええ」


 菊乃は少し笑った。


「わたくし、覚えは悪くありませんの」


「台詞以外はな」


「葉室さん!」


 楽屋に笑いが起きた。


 浅草の夕方は、いつの間にか夜へ傾いていた。外の灯がひとつずつ濃くなり、看板の文字がぼんやり浮かぶ。新聞の活字になる前の、まだ柔らかい一日が終わろうとしている。


 慎吾は赤鉛筆を削った。

 菊乃は台本を開いた。

 銀次は今度こそ台詞を覚えると言い、小鈴は信じない顔をした。小春は舞台の端で、昨日より少し大きな声を出している。


 誰も、慎吾を褒めなかった。


 褒めると怒るからである。

 それに、褒められなくても、慎吾はもう次の一行を書いていた。


 葉室慎吾は褒められない。

 褒められないまま、誰かが少しだけ舞台に立ちやすくなるような、腹の立つ台詞を書き足していく。


 菊乃はそれを横目で見た。


 そして、本人には聞こえないほど小さく言った。


「本当に、損な方ですこと」


 慎吾は顔を上げなかった。


 けれど赤鉛筆が、ほんの一瞬だけ止まった。

お読みくださりありがとうございます。

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