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第十二話 安心しろ。お前はもう浅草でも十分落ちてる

 浅草を離れる朝、菊乃は荷物を三つに分けた。


 一つは衣装。

 一つは化粧道具。

 もう一つは、水無瀬家の娘として最低限持っていなければならない品格である。


 もっとも最後の荷物は、風呂敷にも包めず、重さばかりあるので始末が悪かった。


「菊乃さん、その大きい包み、何が入ってるんですか」


 銀次が駅の待合で訊いた。

 片手には団子、もう片方には自分の荷物。軽薄な男というものは、旅先でも荷の持ち方まで軽薄になる。


 菊乃は顎を上げた。


「気品ですわ」


「気品って、そんなにかさばるんですね」


「あなたの芸より中身があります」


「朝から厳しいなあ」


 銀次が笑うと、小鈴が横から言った。


「銀次さんの荷物、ほとんど食べ物じゃないですか」


「旅は腹が減るんだよ」


「舞台でも腹が減ってるでしょう」


「それは芸への飢えだ」


 慎吾が、少し離れた柱にもたれて言った。


「飢えてるわりには、芸が痩せないな」


「兄さん、見送りの言葉がそれですか」


「見送ってない。同行する不幸を噛みしめてる」


 駒形座の一行は、湯河原とも熱海ともつかない、山と海の間にある小さな湯治場へ巡業に出ることになっていた。

 名は白湯沢という。

 温泉があり、古い宿があり、夏でもないのに風がどこか湿っている土地だと松之助は言った。


 新聞の記事は、思ったより悪くなかった。


 相良の書いた見出しは、慎吾の案をそのままでは使わなかったが、それでも駒形座をただの貧しい小屋として笑いものにする筋ではなかった。

 「笑われる女、笑わせる女」

 そんな見出しがつき、菊乃の名も、小春の名も、慎吾の名も、小さくではあるが活字になった。


 客は少し増えた。

 増えたぶんだけ、松之助は欲を出した。


「今なら地方も呼んでくれる。浅草の小屋が記事になったってんで、向こうも面白がってる」


 そう言って、急に巡業が決まった。


 菊乃は最初、不満を述べた。

 旅支度には費用がかかる。

 汽車賃もかかる。

 宿代もかかる。

 しかも地方巡業と聞くと、何やら落ち延びるような感じがする。


 だが、慎吾に言われた。


「安心しろ。お前はもう浅草でも十分落ちてる」


 そのため、菊乃は行くことにした。

 理由は抗議である。抗議のために旅へ出る女というものは、なかなか高貴ではないかと彼女は思った。


 汽車は、思ったより揺れた。


 窓の外に、町が流れ、畑が流れ、遠くの丘が遅れてついてきた。

 浅草の灯と看板が消えると、急に世界は広くなったように見えた。

 広くなった世界は、しかし菊乃に優しくはない。

 膝の上の荷物は重く、隣の銀次は団子の包みをこぼし、小鈴は眠って菊乃の肩へ寄りかかった。


「重いですわ」


 菊乃は小さく言った。


 向かいの席で、慎吾が台本を読んでいる。


「気品か」


「小鈴さんです」


「似たようなものだ。持ち運びに向いてない」


「あなた、女の寝顔にまで悪口を言うのですか」


「寝顔だから聞こえない。親切だろ」


「最低限の人倫を親切と呼ばないでくださる?」


 慎吾は頁をめくった。


 その横顔を、菊乃は少しだけ見た。


 汽車の窓から入る光で、慎吾の頬の線がいつもより細く見える。

 浅草の薄暗い楽屋にいる時より、彼は少し遠い人間に見えた。

 帝大という名を持っていたことを知ってから、菊乃の目は時々、余計なところを見てしまう。


 この男は、どこへ行くはずだったのか。


 どこへ行き損ねて、今、こちらの向かいで赤鉛筆を持っているのか。


「何だ」


 慎吾が頁から目を離さずに言った。


「何でもありません」


「人の顔を見て、何でもないと言う奴は、だいたい何かある」


「では、何かあります」


「面倒だから聞かない」


「聞きなさいよ」


「断る。お前の問いは、答えるとこちらの責任になる」


 菊乃は扇を開こうとして、汽車の中だと思い出し、やめた。


「あなたは、本当に会話の扉を閉めるのがお上手ですわね」


「お前は閉じた扉を蹴るのが趣味だろ」


「高貴な訪問です」


「不法侵入だ」


 小鈴が肩にもたれたまま、寝言のように笑った。

 銀次は団子を食べながら、二人を眺めている。


「何ですの」


「いや、何でも」


「その顔は何でもない顔ではありませんわ」


「菊乃さんと兄さん、汽車に乗ってもいつも通りだなって」


 慎吾が言った。


「お前は汽車に乗ると芸が上がるのか」


「下がるかもしれません」


「じゃあ黙って景色でも見てろ。これ以上下がると、地中へ行く」


「兄さん、俺への評価、温泉より深いですね」


「湧いてこない分、温泉より悪い」


 銀次は団子を喉につまらせかけた。


 白湯沢の駅は、小さかった。


 駅前には土産物屋が二軒、馬車が一台、あとは山の匂いがあった。

 浅草の匂いとは違う。

 人の汗や煙草や油ではなく、濡れた石と杉の葉と、遠くの湯気の匂いだった。


 菊乃は少しだけ足を止めた。


 知らない土地に立つと、自分がいかに何者でもないか分かる。

 水無瀬家の名も、浅草の小屋で笑われたことも、この山の風には関係がない。


 それが心細くもあり、少しだけ楽でもあった。


 宿の者が迎えに来ていた。


「駒形座の皆さんですね。ようこそ、白湯館へ」


 若い娘だった。

 年は菊乃より少し下だろうか。紺の着物に白い前掛けをして、髪をきちんとまとめている。宿の娘らしく、動きに無駄がない。だが目だけが、どこか町の方を見ているようだった。


「梅乃です。こちらへどうぞ」


 梅乃は荷物を持とうとした。

 菊乃は慌てて自分の包みを引いた。


「これは結構ですわ」


「重くありませんか」


「気品ですので」


 梅乃は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


「気品は、お客様にお持ちいただいた方がよさそうですね」


 菊乃は少し気に入った。


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