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第十三話 家を捨てるなど簡単ですわ。問題は、捨てたあとに米を買えるかです

 白湯館は、古い宿だった。


 廊下はよく磨かれているが、柱の傷は消えない。庭には小さな池があり、湯気が低く流れている。

 客は湯治の老人や、近くの商家の者、静かに休みに来た夫婦などだった。

 浅草の客のように、笑おうと身構えてはいない。

 むしろ、笑うことに少し疲れた顔が多い。


 松之助は宿の主人に挨拶へ行き、銀次はさっそく湯の場所を聞き、小鈴は部屋に着くなり畳へ倒れた。

 小春は縁側から庭を覗いている。


 慎吾は座卓に台本を置いた。


「葉室さん」


 菊乃は部屋の隅で荷を解きながら言った。


「何だ」


「温泉地ですわ」


「見れば分かる」


「もう少し感動なさったらどうですの」


「湯が地面から出るだけだろ」


「人の情緒を殺すのがお仕事ですの?」


「情緒で飯は食えない。湯治場なら湯で飯を炊けるかもしれないがな」


「つまらないことを理屈めかしておっしゃるの、本当にお上手ね」


 慎吾は窓の外を見た。

 山の緑が、彼の目に映っても、少しも柔らかくならない。


「ここは客が浅草より遅い」


「遅い?」


「笑うまでが遅い。疑ってるんじゃない。疲れてる。笑っていいか、身体に聞いてから笑う」


「まあ」


「だから間を変えろ。浅草と同じ調子で押すと、客が湯冷めする」


「わたくし、湯冷めの責任まで負うのですか」


「お前の芸は時々寒いからな」


「葉室さん」


「事実確認だ」


 菊乃は言い返そうとしたが、廊下から梅乃の声がした。


「失礼します。お茶をお持ちしました」


 梅乃が盆を手に入ってきた。

 立ち居振る舞いは慣れている。だが視線は、部屋の中の台本や衣裳に吸い寄せられていた。


「皆さん、毎日お芝居をなさるんですか」


 小春が嬉しそうに答えた。


「はい。私も出ます」


「まあ、小さいのに偉いですね」


「小春は投資物件ですわ」


 菊乃が言うと、小春が頬を膨らませた。


「菊乃さん、それやめてください」


「事実です。将来返済していただきます」


 梅乃が笑った。


「面白い方ですね」


 菊乃は胸を張った。


「よく言われます」


 慎吾が横から言う。


「面倒ともよく言われる」


「葉室さん」


「補足だ」


 梅乃の目が慎吾の台本に留まった。


「それ、台本ですか」


「そうだ」


「書いていらっしゃるんですか」


「汚してる」


「舞台の言葉って、どうやって考えるんでしょう」


 慎吾は梅乃を見た。


 その目が、少し細くなる。


「舞台に興味があるのか」


 梅乃は慌てて首を振った。


「いえ、そんな。ただ、少し」


「少し、と言う時は、だいたい多い」


 梅乃は盆を握った。

 指先が少し白い。


 菊乃はその指を見た。

 昨日までの小春の手を思い出したわけではない。

 ただ、旅館の娘の手も、子役の手も、逃げたい時には似た形になるのだと思った。


 梅乃は小さく言った。


「東京へ出てみたいんです」


 部屋の空気が少し変わった。


 銀次が目を輝かせる。


「お、浅草へ来ますか。いいですよ、浅草は」


 慎吾がすかさず言う。


「お前が薦めると、場所の格が下がるな」


「兄さん、今のは浅草全体への悪口です」


「浅草はそのくらいで傷つかない」


 梅乃は笑ったが、すぐ真面目な顔に戻った。


「父は反対しています。宿を手伝えと。母が亡くなってから、人手も足りませんし」


 菊乃は湯呑みを置いた。


「家を捨てるなど簡単ですわ」


 梅乃が彼女を見る。


 菊乃は少し顎を上げた。


「問題は、捨てたあとに米を買えるかです」


 梅乃の顔がわずかに強ばった。


「菊乃さんは、東京の方でしょう」


「ええ」


「浅草で舞台に立って、新聞にも載って」


「新聞に載れば米が湧くわけではありませんわ」


「でも、好きなことをしているんでしょう」


 その言葉は、若い娘らしく真っ直ぐだった。

 真っ直ぐすぎて、菊乃の胸に少し刺さった。


 好きなこと。


 自分は好きで浅草に来たのか。

 家にいられなくなっただけではないのか。

 笑われる前に、笑わせる側へ回っただけではないのか。


 菊乃は扇を膝に置いた。


「好きなことだけをしている人間など、そう多くはありませんわ」


 慎吾がぼそりと言った。


「好きなことをしている奴は、だいたい嫌いなことで勘定を払ってる」


 梅乃は慎吾を見た。


「それでも、東京へ行けば、何か変わるかもしれません」


「変わる」


 慎吾はあっさり言った。


 梅乃の顔が明るくなる。


 慎吾は続けた。


「まず財布が軽くなる。次に寝床が狭くなる。そのあと、夢を語る暇が減る。最後に、夢を食ってる奴の多さに気づく」


 梅乃の表情が曇った。


 菊乃は慎吾を睨んだ。


「あなた、もう少し言い方というものが」


「ある。だが、これで十分だ」


「十分にひどいですわ」


 梅乃は盆を持ち直した。


「……失礼しました。お夕食の支度ができましたら、お呼びします」


 彼女は頭を下げ、部屋を出ていった。


 銀次が小声で言った。


「兄さん、ちょっときついんじゃ」


「お前が甘い」


「夢見るくらいいいじゃないですか」


「夢を見るのは勝手だ。夢に値札がついてるのを教えない方が残酷だろ」


 菊乃は立ち上がった。


「それを知ったうえで行きたい人もおりますわ」


「なら行けばいい」


「あなたは、いつもそうです。崖の高さだけ教えて、飛ぶかどうかは眺めている」


 慎吾は台本を閉じた。


「飛んだあとに、地面があると知らなかったと言われるよりはましだ」


 菊乃は言い返せなかった。


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