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第十四話 怖いから出るのと、行き先を選んで出るのは違います。前者は転落です。後者は、まあ……移動ですわ

 夕暮れの湯治場には、浅草と違う寂しさがあった。


 浅草の夜は、人の声で寂しさを埋めてしまう。

 白湯沢の夕方は、山の影がそのまま廊下へ入ってくる。

湯の音、虫の声、遠くで下駄が板を打つ音。

 それらが一つずつ、人の心を静かにしていく。


 菊乃は縁側に出た。

 庭の池には、空の残りが薄く映っていた。


 梅乃が庭の石畳に水を撒いている。

 手つきは慣れているが、その顔はどこか遠い。


「梅乃さん」


 菊乃が声をかけると、梅乃は驚いて振り向いた。


「お客様、何か」


「いいえ。少し、外の空気を吸いに来ただけです」


「田舎の空気でしょう」


「浅草の空気より、礼儀正しいですわ」


 梅乃は少し笑った。


「浅草は、そんなに違いますか」


「違います。まず、人が多い。次に、皆よく喋る。最後に、知らないうちに財布が軽くなります」


「怖いところですね」


「ええ。ついでに、腹の立つ男もおります」


 梅乃はくすりと笑った。


「葉室さんですか」


「名前を覚えなくて結構です。つけあがります」


「でも、あの方、怖いことを言うけれど、嘘は言わないんですね」


 菊乃は梅乃を見た。


「それが一番腹立たしいところですわ」


 梅乃は水桶を置いた。


「父は、東京なんて行ってどうする、と言います。女一人で、宿もなく、芸も中途半端で。ここにいれば飯は食える。家もある。お前にはそれで十分だと」


「間違ってはいませんわね」


「分かっています」


 梅乃は庭の方を見た。


「でも、分かっているから、余計に苦しいんです」


 菊乃は何も言わなかった。


 水無瀬家を出た夜を思い出した。


 出た、と言えば格好はつく。

 実際には、置き場がなくなっただけだった。親戚の家に長くいれば顔色を見なければならず、縁談は家の都合で持ち込まれ、家名は立派な紐のように首へかかった。


 浅草へ来た時、菊乃は自分で選んだと思いたかった。


 けれど、本当にそうだったか。


 逃げただけではないのか。


 梅乃が言った。


「菊乃さんは、家を出る時、怖くありませんでしたか」


 菊乃は扇を持っていなかった。

 だから指先を隠せなかった。


「怖くないわけがありません」


 声が、思ったより静かに出た。


「けれど、怖いからといって、その場所にいれば幸せとは限りませんわ」


 梅乃はじっと聞いている。


「ただし」


 菊乃は少しだけ胸を張った。


「怖いから出るのと、行き先を選んで出るのは違います。前者は転落です。後者は、まあ……移動ですわ」


「移動」


「高貴な移動です」


 梅乃が笑った。


 その笑いを聞いて、菊乃は少し安心した。


「わたくしは、まだ時々、自分がどちらだったのか分かりません」


 言ってから、菊乃は自分で驚いた。


 こんなことを、この宿の娘に言うつもりはなかった。

 だが、湯治場の夕暮れは、どうも人の口を少し柔らかくするらしい。


「でも、浅草には葉室さんがいるんですね」


 梅乃が言った。


 菊乃は目を瞬かせた。


「なぜ、そこで葉室さんが出てきますの」


「だって、さっきから葉室さんの話ばかり」


「しておりません」


「してました」


「しておりません」


「少し」


「その少し、という言葉は便利ですわね」


 梅乃は微笑んだ。


「菊乃さんは、葉室さんがお好きなんですか」


 菊乃は立ち上がりかけた。


「何をおっしゃいますの!」


 声が大きくなりすぎて、庭の鳥が一羽飛んだ。


 梅乃は目を丸くしたあと、くすくす笑った。


「すみません」


「謝るくらいなら最初からおっしゃらないで」


「でも、違うならそんなに怒らないと思って」


 菊乃は言葉を失った。


 違う。

 違うはずだ。

 葉室慎吾は、口が悪く、意地が悪く、心根まで紙やすりで出来ているような男である。

 好きになる理由など、どこにもない。

 どこにもないはずなのに、彼の悪口なら幾らでも思いつき、その悪口を言う時だけ妙に舌が回る。


「梅乃さん」


「はい」


「恋愛とは、もっと上品で、静かで、花の香りがするものですわ」


「そうなんですか」


「たぶん」


「たぶん?」


「……少なくとも、赤鉛筆の匂いはしないはずです」


 梅乃はついに声を出して笑った。


 その笑い声が廊下まで届いたのだろう。

 曲がり角から慎吾が現れた。


「何を騒いでる」


 菊乃は振り返った。


「あなたの悪口ですわ」


「なら笑うな。真面目にやれ」


「悪口に真面目も不真面目もございますの?」


「ある。お前の悪口は時々、照れ隠しで質が落ちる」


 梅乃が菊乃を見た。

 菊乃は思い切り睨み返した。


「葉室さんは、なぜこちらへ?」


「宿の主人に呼ばれた。余興の段取りだ。ついでに、ここの娘が家出の相談をしてると聞いた」


 梅乃の顔が強ばった。


「父が」


「だろうな。父親というものは、娘の秘密を守るには向かない。特に心配してる時はな」


 梅乃は俯いた。


「父は、また反対しているんですね」


「反対してる。だが、お前を鎖で柱に結ぶほど悪人ではない」


「でも、許してはくれません」


「許しをもらわないと出られないなら、行くな」


 菊乃が眉をひそめた。


「またそういう言い方を」


 慎吾は梅乃だけを見ていた。


「許されたいのか、出たいのか、どっちだ」


 梅乃は答えられなかった。


 庭の湯気が、少し濃くなった。

 遠くで宿の客が笑う。温泉に入った後の、力の抜けた笑い声だった。


「東京へ行けば、誰かが見つけてくれると思ってるなら、やめろ」


 慎吾は言った。


「浅草は人を見つける場所じゃない。見つけられたい奴が多すぎて、みんな互いに踏んで歩いてる」


 梅乃の目が少し潤んだ。


「じゃあ、私はずっとここにいればいいんですか」


「それも違う」


 慎吾は面倒そうに頭を掻いた。


「一度に全部捨てるな。捨てるものを選べ」


「選ぶ?」


「宿を捨てたいのか、父親の心配を捨てたいのか、この町で終わると思い込んでる自分を捨てたいのか。全部一緒に包むな。荷物が重くなる」


 菊乃は黙った。


 慎吾の言い方は相変わらず優しくない。

 けれど、逃げ道を塞いではいなかった。

 むしろ、逃げ道を細かく分けている。

 どれを選べば崖から落ちずに済むか、嫌な顔をしながら測っている。


 梅乃は少しだけ顔を上げた。


「じゃあ、どうすれば」


「まず、明日の舞台を手伝え」


「え?」


「客の前に出る必要はない。裏で衣装を運ぶ。台詞を聞く。間を覚える。笑いがどこで起きるか見ろ」


「それで、東京へ行けるんですか」


「すぐには行けない」


「そんな」


「すぐ行くなと言ってる。巡業の一座が来るたびに手伝え。芸人に話を聞け。金を貯めろ。父親に、宿を捨てるんじゃなく、芸を習う時間を買うんだと言え」


 梅乃は慎吾を見つめた。


「それで足りるでしょうか」


「足りない」


 慎吾は即答した。


「だが、いきなり東京へ出て食い潰されるよりはましだ」


 菊乃は小さく息を吐いた。


「本当に、夢のない助言ですこと」


「夢を見るなら、寝床を確保してからにしろ」


「でも」


 梅乃はまだ迷っていた。


「父が許さなければ」


「そこは、お前が言え」


 慎吾は菊乃を見た。


「水無瀬。お前も来い」


「なぜ、わたくしが」


「家を出た女の説教には、少しだけ重さがある」


「説教などいたしませんわ」


「じゃあ高貴な苦情とでも言え」


「便利に使わないでくださる?」


「お前は不便だから、たまに使うと目立つ」


「褒めておりますの?」


「違う」


「でしょうね」

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