第十五話 芸人になりたいんじゃない。今のところは、ここに置かれたまま何者でもなくなるのが怖いだけだ
梅乃の父は、帳場の奥にいた。
白髪の混じった男で、背は高くない。
だが背中には、長く宿を支えてきた人間の固さがあった。
帳面を閉じる時の手つきが、どこか松之助に似ている。
梅乃が部屋へ入ると、父は厳しい顔をした。
「また、その話か」
梅乃は怯んだ。
菊乃は、その怯み方を見て胸が少し痛んだ。
自分も、親戚の前では、似たような顔をしていたかもしれない。
普段は高笑いでごまかせるものも、家の者の前では急に声が小さくなる。
慎吾は遠慮なく畳に座った。
「まず、勘違いを直す」
父が眉を寄せる。
「何です、あなたは」
「口の悪い台本屋だ」
「娘のことに口を出される筋合いは」
「ある。明日の舞台の裏方が一人足りない。梅乃を借りる」
父は呆れたように言った。
「何を勝手な」
「勝手ついでに言う。娘を東京へ出すな。今出すと潰れる」
梅乃の顔が傷ついたように揺れた。
父は少しだけ表情を変えた。
「なら、私と同じ意見ではないですか」
「違う。あんたは閉じ込めたい。俺は遅らせたい」
父は黙った。
「梅乃は芸人になりたいんじゃない。今のところは、ここに置かれたまま何者でもなくなるのが怖いだけだ」
「葉室さん」
菊乃が思わず声を出した。
慎吾は構わず続けた。
「その怖さを、東京行きという雑な包みに詰めてる。包みを開けたら、中身はもっと細かい。芸を見たい、舞台を知りたい、自分で選んだ時間が欲しい。そういうものだ」
梅乃は俯いたままだった。
だが、手は震えていない。
父は低く言った。
「この宿は、私一人では回らない」
「だろうな」
「妻が死んでから、梅乃がどれだけ」
「知ってる。だから娘に宿を背負わせて、自分の寂しさまで一緒に載せるな」
父の顔が赤くなった。
「無礼な」
「よく言われる」
菊乃はすっと前に出た。
「失礼ながら」
慎吾が小さく眉を上げた。
お前が失礼と言うのか、という顔だった。
菊乃は無視した。
「お父上のお気持ちは、分からなくもありません。家を守る者にとって、外へ出たいという言葉は、時に裏切りのように聞こえるものです」
父は菊乃を見る。
「あなたは」
「水無瀬菊乃と申します」
「華族のお嬢さんが、なぜ浅草の舞台に」
「それを今お尋ねになるのは、少々意地が悪うございますわ」
父は言葉に詰まった。
菊乃は続けた。
「わたくしは家を出ました。出たと言えば聞こえはよろしいですが、半分は逃げたのです。ですから、逃げたい者を無責任に励ますことはいたしません」
梅乃が顔を上げた。
「ですが、逃げたいという気持ちを、なかったことにもできません。なかったことにされた気持ちは、あとで別の形で家を壊します」
帳場の部屋に、しばらく音がなかった。
菊乃は扇を開かなかった。
ここで扇を開くと、自分の言葉まで芝居になってしまう気がした。
「梅乃さんを明日一日、わたくしたちの舞台裏へ貸してくださいませ。東京へ行くかどうかではなく、まず舞台というものを知るために」
父は慎吾を見た。
「それで娘が余計に行きたがったら」
慎吾は言った。
「その時は、あんたがまた怒ればいい。だが、知らないものを禁止すると、娘はそれを夢だと思い込む。見せろ。見せた上で、それでも行きたいか聞け」
父は目を伏せた。
梅乃が、震える声で言った。
「父さん。宿を捨てたいわけじゃないの」
父の肩がわずかに動いた。
「でも、ここにいるだけだと、自分が宿の道具みたいに思える時があるの。母さんがいなくなってから、私、ずっと」
「梅乃」
「一日だけでいい。舞台を手伝いたい。見たいの。ちゃんと見てから、考えたい」
父は長い間、黙っていた。
外で湯の流れる音がした。
その音だけが、部屋の時間を動かしていた。
やがて父は、深く息を吐いた。
「明日だけだ」
梅乃の顔が明るくなる。
「父さん」
「ただし、宿の朝の仕事は済ませてからだ」
「はい」
「それから、夜には帳場に戻る」
「はい」
「東京へ行く話は、その後でまた聞く」
梅乃は何度も頷いた。
菊乃は少しだけ笑った。
慎吾は立ち上がる。
「決まりだな。水無瀬、行くぞ」
「あなた、人を呼び出しておいて礼もなく去るのですか」
「礼を言うと、今の話が美談になる。気色悪い」
「なら、せめてお辞儀くらい」
「首がもったいない」
「本当に失礼ですわね」
父がぽつりと言った。
「変な方々だ」
菊乃は胸を張った。
「浅草ですので」
慎吾が横から言った。
「一緒にするな」
「あなたが一番浅草ですわ」
「悪口として受け取る」
「褒めております」
「嘘だな」
「少し」
帳場を出ると、梅乃が後ろから追ってきた。
「あの、ありがとうございました」
菊乃は扇を開きかけたが、やめた。
「礼には及びません。まだ何も始まっておりませんもの」
慎吾は言った。
「明日の朝、遅れるな。裏方は舞台に出ない分、遅刻すると目立つ」
「はい」
「あと、東京へ行く夢を人前で語るなら、まず荷物の重さを量れ」
「はい」
「返事だけいい奴は信用しない」
「はい」
「もう少し考えて返事しろ」
梅乃は困って、菊乃を見た。
菊乃は小さく笑った。
「気になさらないで。葉室さんは、人を励ます時にも傷をつけないと気が済まないのです」
「励ましてない」
「励ましております」
「違う」
梅乃は二人を見比べて、また笑った。
「お二人は、仲がいいんですね」
菊乃は即座に言った。
「違います」
慎吾も同時に言った。
「悪い」
二つの声が重なった。
梅乃は目を丸くして、それから肩を震わせた。
「すみません」
「なぜ笑うんですの」
「だって、息がぴったりで」
菊乃は顔が熱くなるのを感じた。
「誤解ですわ」
「誤解だな」
慎吾は平然としていたが、少しだけ目を逸らした。
菊乃はそれを見逃さなかった。
見逃さなかったことに、自分で腹が立った。




