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第十六話 礼を言うには早い。舞台裏は客席より埃っぽい。夢を見るには向かない

 その夜の舞台は、浅草の時より静かに始まった。


 白湯館の大広間に座布団を並べ、湯治客や宿の者が集まった。酒の匂い、湯上がりの肌の匂い、畳の匂いが混じる。客は手を叩くにも少し遠慮がちで、最初の笑いはなかなか起きなかった。


 慎吾の言った通りだった。


 客が笑うまでが遅い。


 銀次は一度、焦って台詞を早めた。

 小鈴がうまく拾った。

 小春は湯治客の老人に手を振られ、少し照れてから台詞を言った。


 菊乃の出番が来る。


 彼女は間を少し長く取った。

 浅草なら待ちすぎかもしれない。

 けれど、この客にはそれでよかった。

 湯上がりの老人が、ふっと笑う。

 商家の女房が袖で口元を隠す。

 梅乃は部屋の後ろで盆を抱えたまま、舞台を見ている。


 菊乃は台詞を言った。


「家を出るなど簡単ですわ。問題は、出た先で米を買えるかです」


 客が笑った。

 梅乃は笑わなかった。

 ただ、じっと聞いていた。


 菊乃は少しだけ視線を落とし、また上げた。


「けれど、米だけで人は生きられません。ときには、腹の足しにもならぬものを見に、遠くへ行きたくなるものです」


 これは台本になかった。


 袖の方で、慎吾が動いた気配がした。


 菊乃は知らないふりをした。


「もっとも、遠くへ行った先で腹が減ったら、すぐ戻るのが賢明ですわ。高貴な者ほど、空腹には勝てませんもの」


 そこで笑いが起きた。


 梅乃も、今度は笑った。


 舞台が終わると、客は大きくはないが、長く拍手をした。

 浅草の拍手とは違う。派手さはないが、湯の底から温まってくるような拍手だった。


 菊乃は頭を下げながら、少し不思議な気持ちになった。


 ここでは、自分の恥も少し違う音を立てる。

 浅草のように明るく跳ねない。湯気に包まれて、少し遅れて返ってくる。


 終演後、廊下で慎吾に捕まった。


「水無瀬」


「何ですの」


「また勝手に足したな」


「応用ですわ」


「昨日の応用より余計だ」


「受けました」


「少しな」


「それで十分です」


 慎吾は台本で肩を軽く叩いた。


「腹の足しにもならぬものを見に、遠くへ行きたくなる、か」


「何か問題が?」


「お前にしては、詩人気取りが少なかった」


「褒めておりますの?」


「警告だ。調子に乗ると次は臭くなる」


「あなた、本当に褒め方を質屋に預けたままですのね」


「値がつかないと言っただろ」


 廊下の先で、梅乃が父と話していた。


 父は困ったような顔をしている。

 梅乃は何かを一生懸命話している。舞台のこと、裏方のこと、浅草のこと、たぶん東京のことも。父はすぐには頷かない。だが、背を向けてもいない。


 菊乃はそれを見て、少しだけ息をついた。


「これでよかったのでしょうか」


 慎吾が隣で言った。


「さあな」


「そこは少し安心させるところでは?」


「安心したいなら湯に入れ」


「あなたに訊いたわたくしが間違いでしたわ」


「正解だ」


 しばらく二人で廊下に立っていた。


 庭の方から、夜の湯気が流れてくる。山の闇は深く、浅草の夜とはまるで違う。灯が少ない分だけ、月が明るかった。


 菊乃はぽつりと言った。


「逃げるのは、案外疲れますわね」


 慎吾は少し遅れて答えた。


「戻る方がもっと疲れる。お前を見ていれば分かる」


 菊乃は慎吾を見た。


「失礼ですわ」


「事実だ」


「わたくしが戻ってくるとでも?」


「戻ってきたろ」


 どこへ、とは言わなかった。

 浅草へか。

 舞台へか。

 逃げた後の自分自身へか。


 菊乃にも分からなかった。


「あなたは戻らないのですか」


 つい訊いてしまった。


 慎吾は月を見た。

 いや、見ていなかったかもしれない。ただ顔を上げただけだった。


「俺は戻る場所を売り払った」


「質屋に?」


「もっと悪い。自分の口でな」


 菊乃はそれ以上、聞けなかった。


 慎吾の言葉が冗談なのか、本当なのか分からない時がある。

 だが、どちらでも傷があることだけは分かる。


「葉室さん」


「何だ」


「あなた、浅草へ戻りたいですか」


「今いるのが面倒だと思ったら、戻りたいんだろうな」


「素直ではありませんわね」


「素直な男が好きなら、銀次にしろ」


「なぜそこで銀次さんが出ますの」


「比較対象としては安い」


「銀次さんに失礼です」


「事実だ」


「それに」


 菊乃は言いかけて、止めた。


 それに、何だというのか。


 銀次は関係ない。

 素直な男も関係ない。

 葉室慎吾が素直でないことが、なぜか自分にとって問題なのだ。


 菊乃は扇を開いた。


「いえ、何でもありません」


「何でもない顔じゃない」


「あなたの真似ですわ」


「似てない」


「では精進いたします」


「やめろ。不愉快な弟子を取った覚えはない」


 廊下の向こうで、梅乃がこちらへ走ってきた。


「菊乃さん、葉室さん」


 息を弾ませている。


「父が、明日の朝の仕事が終わったら、舞台裏を手伝っていいって。あと、次に一座が来る時も、話を聞いていいって」


 菊乃は笑った。


「よろしゅうございましたね」


「はい」


 梅乃は慎吾に向かって頭を下げた。


「ありがとうございます」


 慎吾は眉を寄せた。


「礼を言うには早い。舞台裏は客席より埃っぽい。夢を見るには向かない」


「見ます」


 梅乃は言った。


「夢じゃなくて、ちゃんと見ます」


 慎吾は一瞬だけ黙った。


「ならいい」


 梅乃は嬉しそうに笑い、また廊下を戻っていった。


 菊乃は慎吾を見た。


「今のは、少し褒めたのではありません?」


「違う。業務連絡だ」


「便利な言葉ですこと」


「お前の高貴よりは使える」


「葉室さん」


「何だ」


「わたくし、少し分かりました」


「また熱が出るぞ」


「あなたは、人を突き放すふりをして、逃げ道を一本だけ残すのですわね」


 慎吾は顔をしかめた。


「気色の悪い解釈をするな」


「違いまして?」


「俺は道の邪魔な石をどけただけだ。歩くか転ぶかは本人の問題だ」


「それを世間では親切と申します」


「世間は語彙が貧しい」


 菊乃は笑った。


「では、浅草の語彙では何と言うのです?」


 慎吾は少し考えた。


「余計な手間」


「あなたらしいですわ」


「褒めるな。気味が悪い」


「苦情です」


「なら受け取らない」


「受け取らせますわ」


 慎吾はため息をついた。


 そのため息が、湯気に溶けて少し白く見えた。


 翌朝、梅乃は本当に舞台裏へ来た。


 朝の宿の仕事を済ませた後で、髪を少し乱しながら、それでも目だけは真っ直ぐだった。

 衣装を運び、小道具を並べ、小春の帯を直し、銀次の忘れ物を探した。

 舞台裏というものが思ったより泥臭く、埃っぽく、走り回る場所だと知るたびに、梅乃の顔は少しずつ変わっていった。


 夢が壊れたのではない。


 形が見えてきたのだ。

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