第十七話 娘を見張るより、帳面を見ろ。宿は感傷じゃ回らない
昼過ぎ、白湯沢を出る時、梅乃は駅まで見送りに来た。父も一緒だった。父は慎吾に深く頭を下げようとして、慎吾に手で止められた。
「やめろ。腰を折るほどのことはしてない」
「しかし」
「娘を見張るより、帳面を見ろ。宿は感傷じゃ回らない」
父は苦笑した。
「本当に口の悪い方だ」
「見る目は悪くないだろ」
父は少し考え、頷いた。
「そこだけは」
梅乃は菊乃の前に立った。
「菊乃さん。私、すぐ東京へは行きません」
「それがよろしいかと」
「でも、諦めるわけでもありません」
「ええ」
「次に来る一座にも、手伝わせてもらいます。お金も貯めます。父とも、ちゃんと話します」
菊乃は扇を開いた。
「よろしい。高貴な移動は、準備が大切ですわ」
梅乃は笑った。
「はい」
それから、小さな紙包みを差し出した。
「これ、皆さんで。温泉饅頭です」
銀次が真っ先に反応した。
「梅乃さん、あなたは最高の裏方です」
慎吾が言う。
「食い物で評価を売るな」
「兄さんも食べるでしょう」
「毒見してからな」
「温泉饅頭に毒を疑うんですか」
「甘いものほど危ない」
菊乃は紙包みを受け取り、梅乃に言った。
「次に浅草へいらしたら、駒形座へお寄りなさい」
「はい」
「ただし、木戸銭はいただきます」
梅乃が吹き出した。
「はい」
「わたくしの舞台は安くありませんの」
慎吾が横から言った。
「昨日は半分空いてたぞ」
「葉室さん」
「事実だ」
「あなたも、たまには夢を見たらいかがですの」
「見てる」
菊乃は意外で、慎吾を見た。
「何の夢ですの」
「帰りの汽車で、お前が黙っている夢だ」
「最低ですわ」
「叶わない夢ほど美しい」
梅乃がまた笑った。
汽車が来た。
湯治場の小さな駅に、黒い煙が流れる。山の影が線路に落ち、白い湯気の匂いが遠ざかっていく。
菊乃は客車に乗り込む前に、もう一度振り返った。
梅乃は父の隣で手を振っていた。
父は不器用に、しかし確かに笑っていた。
すべてが解決したわけではない。
梅乃はまだ宿にいる。東京へ行ける保証もない。父がまた反対することもあるだろう。舞台を手伝って、やはり自分には向かないと思うかもしれない。
けれど、何かが少しだけ動いた。
劇的ではない。
新聞の見出しにもならない。
それでも、人が自分の足元を見直すには、そのくらいの動きで十分なこともある。
汽車の中で、銀次はすぐ饅頭を開けた。小鈴は呆れ、小春は一つを大事そうに両手で持った。松之助は巡業の収支を数えて、喜ぶべきか悩んでいる。
菊乃は窓際に座った。
慎吾は向かいで台本を開いている。
相変わらず、赤鉛筆を持って。
「葉室さん」
「何だ」
「白湯沢、悪くありませんでしたわね」
「利益は薄い」
「すぐ金の話をなさる」
「お前の専門だろ」
「わたくしは、もう少し高貴に金の話をします」
「質屋で値切る高貴か」
「忘れなさい」
「嫌なことほど覚える」
「性格が悪いですわね」
「知ってる」
汽車が動き出した。
窓の外で、梅乃の姿が少しずつ小さくなる。
その小ささは、寂しさではなく、距離だった。距離があるから、人は行くことも、戻ることもできる。
菊乃は手を振った。
梅乃も振り返した。
やがて駅が見えなくなる。
慎吾が台本に何かを書いた。
「また、わたくしの台詞ですの?」
「違う」
「嘘ですわ」
「見なくていい」
「見せなさい」
菊乃が身を乗り出すと、慎吾は紙を伏せた。
「お前はすぐ調子に乗る」
「乗るための調子ですもの」
「落ちるぞ」
「落ちた先に人がいれば、まだ底ではございません」
「自分の台詞を引用するな。安くなる」
「では、あなたが高く書き直せばよろしいでしょう」
慎吾は、少しだけ笑った。
「面倒な女だ」
「高貴な面倒です」
「温泉に浸けても治らなかったな」
「あなたの口の悪さもですわ」
「俺は湯治に期待してない」
「では、何に期待していらっしゃるの?」
慎吾は窓の外を見た。
山が後ろへ流れていく。
浅草へ戻る汽車の音が、二人の間に規則正しく入った。
「期待はしない」
慎吾は言った。
「ただ、書き直しはする」
菊乃はその横顔を見た。
彼はいつもそうだ。
期待しないと言いながら、台詞を書き直す。人を信じないと言いながら、逃げ道を残す。褒めないくせに、客が見つけられる場所へ相手を押し出す。
「葉室さん」
「何だ」
「あなたは本当に、面倒な方ですわね」
「褒めるな」
「苦情です」
「なら受け取らない」
「受け取らせます」
慎吾は目を細めた。
「お前も相当面倒だ」
「わたくしは高貴ですので」
「便利な言葉だな」
「ええ。家から持ってきた荷物の中で、一番長持ちしております」
慎吾は少し黙った。
それから、台本へ目を落とした。
「なら大事にしろ」
菊乃は意外で、返事が遅れた。
「……今のは、わたくしを励ましておりますの?」
「違う。荷物の管理の話だ」
「下手ですわね」
「何が」
「優しさの扱いです」
「そんなものは持ってない」
「では、どこかで拾ったのですわ」
「落とし主に返す」
「わたくしが預かります」
「盗むな」
「高貴な保管です」
慎吾は呆れた顔をした。
菊乃は少し笑った。
汽車は浅草へ近づいていく。
旅は終わる。だが、旅先で見たものは、荷物の隙間に入り込む。
梅乃の笑い、父の沈黙、湯気の匂い、夜の廊下で交わした言葉。
どれも大したものではない。
けれど、帰った後でふと取り出すと、思ったより重いことがある。
菊乃は膝の上の包みを押さえた。
行きより、荷物は少し軽い。
饅頭の分だけ増えたはずなのに、なぜか軽かった。
向かいで慎吾が赤鉛筆を走らせる。
菊乃は今度は覗かなかった。
どうせ、また腹の立つ台詞に決まっている。
そしてたぶん、その腹立たしさの中に、少しだけ自分の逃げ道が書かれている。
だから今は、見ないでおいてやることにした。
高貴な慈悲である。
お読みくださりありがとうございます。
続きが気になる、面白かったと思っていただけましたら、下の評価・ブックマーク・リアンクションで応援いただけますと励みになります。




