第十八話 一般論で人の縁談相手を調べる男、います?
浅草へ戻った翌日、駒形座の楽屋に花が届いた。
花束というには少し大きく、祝い花というには少し慎ましい。
百合と薔薇と、それから名前の分からない洋花が混ざっている。
包み紙は上等で、結ばれたリボンには、菊乃がふだん使う扇よりよほど金がかかっていそうだった。
銀次が最初に見つけた。
「菊乃さん、花ですよ。花」
「見れば分かります」
菊乃は、鏡の前で髪を整えながら言った。
だが声は、少しだけ高くなった。
小鈴が花束に添えられたカードを拾う。
「黒川栄之丞様より、だそうです」
その名を聞いて、松之助が帳面から顔を上げた。
「黒川?」
「ご存じですの?」
菊乃が聞くと、松之助は少し首をひねった。
「名前だけはな。最近、興行場や土地の話に顔を出してる成金筋だ。親父の代から、金貸しだの砂糖問屋だの、いろいろやってる」
銀次が感心したように花を見る。
「へえ。金持ちの花って、花まで偉そうですね」
慎吾が机から言った。
「花は悪くない。包み方が偉そうなんだ」
菊乃はわざと慎吾の方を見なかった。
この花は、昨夜の舞台を見た者からのものらしい。
白湯沢から戻ってまだ一日も経っていないというのに、花はもう楽屋にある。
金のある男は、好意を急がせるのも得意なのだろう。
菊乃は花束を手に取った。
重い。
重さのある好意は、少し扱いに困る。
軽ければ笑える。
重すぎると売れるかもしれないと思ってしまう。
そこがまた困る。
「葉室さん」
菊乃は振り返った。
慎吾は赤鉛筆を削っている。
顔を上げない。
「何だ」
「わたくしにも、花を贈ってくださる方がいるようですわ」
「花屋も不景気なんだな」
銀次が吹き出した。
菊乃は扇を開いた。
「そういうところですわ」
「どこだ」
「女性が花を贈られた時、まず花屋の経営状態を心配する男が、どこにおりますの」
「ここにいる」
「自慢になりません」
「お前が欲しかった返事を先に言え。時間の節約になる」
菊乃は顎を上げた。
「少しくらい、嫉妬なさってもよろしいのではなくて?」
言った瞬間、楽屋が静かになった。
小鈴が口元を押さえた。
銀次が目を丸くし、小春は意味が分からず二人を見比べている。
松之助は帳面の影に顔を隠したが、耳だけはしっかりこちらを向いていた。
慎吾はようやく顔を上げた。
「嫉妬?」
「ええ」
「誰が」
「あなたが」
「何に」
「わたくしに花を贈る殿方に」
「水無瀬」
「何ですの」
「朝からそんな難しい芝居をするな。客はいないぞ」
銀次が耐えきれずに笑った。
「兄さん、今のはひどい」
「ひどいのはこいつの作戦だ。紙芝居でももう少し伏線を張る」
菊乃は顔が熱くなるのを感じた。
作戦。
言われてみれば、その通りだった。
黒川栄之丞なる男の花束は、都合がよかった。
慎吾の反応を見るには、十分な道具に見えた。
ただ、慎吾は道具の値札まで見る男である。
「作戦などではありませんわ」
「そうか。じゃあ事故だ。お前は恋愛沙汰まで転倒で処理するのか」
「恋愛沙汰ではありません!」
「なら、何を嫉妬しろと言った」
「それは……」
菊乃は詰まった。
詰まった時点で、負けに近い。
小鈴が小さく言った。
「菊乃さん、もう少し段階踏んだ方が」
「小鈴さん」
「すみません」
慎吾は花束を一瞥した。
「黒川栄之丞、ね」
その言い方に、菊乃は少し引っかかった。
「ご存じですの?」
「知らん」
「知らない方の名前を、なぜそんな顔でおっしゃるの」
「知らない名が上等な花を持ってくる時は、だいたい碌な用事じゃない」
「あなた、人の好意をすべて罠だと思っておりますの?」
「罠じゃない好意は、もっと安い花を選ぶ」
菊乃は花束を見る。
確かに高い。
少なくとも、駒形座の楽屋には不釣り合いだった。
「わたくしに花を贈るのが、それほど不自然ですか」
「花は自然だ。お前に贈る理由が不自然だ」
「葉室さん」
「褒められたいなら、花に聞け」
「あなたに聞いたわたくしが愚かでした」
「今朝二つ目の正解だな」
銀次がまた笑いかけたので、菊乃は扇を構えた。
銀次は肩をすくめ、舞台袖へ逃げた。
花は楽屋の隅に置かれた。
だが置かれた後も、そこだけ別の空気を持っていた。
上等な花は、貧しい部屋ではよく目立つ。
目立つものは、人の心に余計な線を引く。
その日の昼過ぎ、黒川栄之丞が駒形座に現れた。
浅草の通りに立つには、少しきれいすぎる男だった。
仕立てのよい洋服を着て、靴は光り、髪は油で整えられている。
顔立ちは悪くない。
むしろ、人から好感を持たれるように磨かれている。
だが、その磨き方に、どこか店先の硝子のような冷たさがあった。
松之助は慌てて迎えた。
「これはこれは、黒川様。こんな小屋まで」
「いえ。先日の新聞を拝見しましてね。興味を持ちました」
黒川の声は、柔らかかった。
柔らかい声を出せる男は、たいてい自分が柔らかいと思われる利点を知っている。
菊乃は扇を開き、軽く会釈した。
「水無瀬菊乃でございます。お花、ありがとうございました」
「お気に召しましたか」
「ええ。楽屋が急に華やぎましたわ」
「あなたの舞台には、あの程度では足りないかもしれませんが」
銀次が小声で、小鈴に言った。
「出た。金持ちの台詞」
小鈴が肘で小突く。
黒川は聞こえていたかもしれない。
しかし、表情は変えなかった。
「新聞で拝見した時は、少し話を作っているのかと思いました。ですが、実際に見ると、なるほど」
黒川は楽屋を眺める。
畳。鏡。衣裳。花束。銀次の雑な荷物。小春の稽古用の扇。慎吾の赤鉛筆。
一つずつ見て、最後に菊乃へ戻った。
「浅草という場所は、不思議ですね。いろいろなものが、値札もつけずに並んでいる」
慎吾が机から顔を上げた。
「値札をつける趣味があるのか」
松之助の肩が跳ねた。
「葉室」
黒川は慎吾を見た。
「あなたが、葉室慎吾さんですね。記事にありました。台本を書かれているとか」
「汚してるだけだ」
「ご謙遜を」
「謙遜に見えるなら、目の調子が悪い」
黒川は笑った。
笑いはしたが、目は慎吾から離れない。
「手厳しい方だ」
「よく言われる」
「帝大を出て、浅草の台本とは、変わった道ですね」
空気が少しだけ薄くなった。
菊乃は扇を閉じた。
慎吾の赤鉛筆が止まる。
「変わった道ほど、退屈な奴が道案内に出てくる」
「私のことで?」
「自覚が早いな。助かる」
黒川の笑みが深くなった。
「いや、面白い。駒形座には、ずいぶん人材が揃っている」
「見世物小屋じゃない」
小鈴が低く言った。
黒川はそちらを見た。
「失礼。そういう意味ではありません」
言い方は丁寧だった。
だが、丁寧な言葉で見下されると、かえって返しづらい。
小鈴は口をつぐんだ。
菊乃は胸の中で、少し冷たいものが動くのを感じた。
黒川は悪人の顔をしていない。
人を叩くのではなく、柔らかく撫でるようにして値踏みする。
その方が、時にはずっと嫌なものだった。
「小春ちゃんでしたね」
黒川が言った。
小春が驚いて顔を上げる。
「昨日の舞台も見ましたよ。愛らしいですね」
「ありがとうございます」
小春は素直に頭を下げた。
黒川は微笑む。
「子どもの芸は、やはり新鮮です。きちんと仕込めば、もっとよくなるでしょう。環境を整えれば、使い道も広がる」
菊乃の扇が、ぴたりと止まった。
使い道。
黒川は悪気なく言ったのかもしれない。
悪気がないなら、なお悪かった。
「黒川様」
菊乃は一歩前に出た。
「小春は品物ではありませんわ」
黒川はわずかに目を見開いた。
「もちろんです。そういう意味では」
「では、そう聞こえぬようにおっしゃることです」
松之助が息を呑む。
銀次が小さく「おお」と言った。
黒川はしばらく菊乃を見ていた。
それから、柔らかく笑った。
「失礼しました。さすが、水無瀬家の方は言葉に敏い」
「家名の問題ではございません」
「では?」
「この小屋の人間を、値踏みなさらないでくださる?」
慎吾がこちらを見た気配がした。
菊乃は見返さなかった。
見返すと負ける気がした。何に負けるのかは分からない。
たぶん、葉室慎吾に見透かされることに。
黒川は少し頭を下げた。
「承知しました。あなたのお怒りも、舞台の一部のようで美しい」
「怒りを飾りにしないでくださいませ」
「ますます失礼した」
黒川は引いた。
だが、その目にひるみはなかった。
むしろ、何かを確認したようだった。
その後、黒川は松之助と小屋の客入りや今後の公演についていくつか話し、菊乃へ改めて礼を言い、帰っていった。
彼の香水の匂いだけが、しばらく楽屋に残った。
浅草には、あまり馴染まない匂いだった。
黒川が去ると、銀次がすぐに口を開いた。
「何か、こう、絹で包んだ金勘定みたいな人でしたね」
小鈴が頷く。
「笑ってるのに、笑われた気がしない人」
松之助は渋い顔をしていた。
「黒川家か……あそこが興行に手を出してくるとなると、面倒だな」
菊乃は慎吾を見た。
慎吾はすでに机へ戻っていた。
だが、台本は読んでいない。指先で赤鉛筆を転がしている。
「葉室さん」
「何だ」
「何か分かりましたの」
「花より匂いがきつい男だ」
「それは感想ですわ」
「感想から始めない奴は、だいたい調査が下手だ」
「調査?」
銀次が食いついた。
「兄さん、調べるんですか。黒川って人を」
「調べるとは言ってない」
「今、調査って」
「言葉の一般論だ」
「一般論で人の縁談相手を調べる男、います?」
楽屋が静かになった。
菊乃は目を細めた。
「縁談相手?」
銀次は「あ」と言った。
小鈴が額を押さえる。
慎吾は銀次を見た。
「お前の舌は、芸よりよく滑るな」
「すみません」
「謝るなら、もう少し早く馬鹿をやめろ」
菊乃は慎吾の机へ近づいた。
「葉室さん」
「何だ」
「黒川様は、わたくしの縁談相手なのですか?」
「俺に聞くな」
「では、なぜ銀次さんがそうおっしゃるの」
銀次は逃げ場を探したが、舞台袖も客席も遠かった。
「いや、その、花とか、黒川家とか、水無瀬家とか、何かそういう噂が」
「噂?」
松之助が重く咳をした。
「菊乃さん。俺も詳しくは知らねえ。ただ、黒川家が華族家との縁を欲しがってるって話は聞いたことがある。金はあるが、名がない。そういう家は、まあ」
そこまで言えば十分だった。
菊乃は花束を見た。
百合が白い。
白すぎて、紙のようだった。
「わたくしは聞いておりません」
声は静かだった。
自分でも驚くほど。
慎吾が言った。
「聞かされる前に花が来たんだろ」
菊乃は慎吾を見る。
「あなたは知っていましたの」
「知らん。だが、上等な花はたいてい前払いだ」
「ひどい言い方ですわ」
「ひどい話には、ひどい言葉が合う」
菊乃は返せなかった。
水無瀬家。
黒川家。
花。
縁談。
それらの言葉が、思いのほか自然につながった。自然につながったことが、菊乃には不快だった。
水無瀬家には金がない。
黒川家には金がある。
水無瀬家には名がある。
黒川家には、それが欲しい。
理屈としては、きれいすぎるほどだった。
理屈がきれいな時ほど、人間の居場所は狭くなる。
「菊乃さん」
小鈴が心配そうに声をかけた。
菊乃は扇を開いた。
「何でもありませんわ」
慎吾が言った。
「何でもない時に開く扇じゃないな」
「黙ってください」
「命令が雑だ」
「では、丁寧に申し上げます。黙ってくださいませ」
「同じだ」
「同じで結構です」
菊乃は背を向けて、楽屋を出だ。




