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第十九話 では、今後はもう少し質のよい小芝居をいたしますわ

 舞台の板を横切り、客席へ降りた。昼の客席は空っぽだった。

 誰も座っていない座布団は、どこか気が抜けている。

 舞台というものは、客がいないと急に現実へ戻る。


 菊乃は客席の真ん中に立った。


 ここから舞台を見ると、板の傷も、照明の粗も、幕の綻びもよく見える。

 自分がいつも立っている場所は、こんなに小さかったのかと思った。


 水無瀬家の座敷は、もっと静かだった。

 人の足音も、声も、扇の音も、全部が畳に吸われた。

 そこでは女の将来も、家の都合も、低い声で決まっていった。


 浅草は違う。

 何でも大きな声になる。

 笑いも、恥も、怒りも。


 だが、花束のようなものは、どこからでも入ってくる。


「逃げたか」


 後ろから慎吾の声がした。


 菊乃は振り返らなかった。


「舞台の確認ですわ」


「客席でか」


「客の気持ちを知るためです」


「なら寝ろ。客は半分寝てる」


「本当に失礼ですわね」


 慎吾は隣へ来た。

 少し離れて立つ。近すぎず、遠すぎず、腹立たしいほどちょうどよい距離だった。


「黒川を調べる」


 慎吾が言った。


 菊乃はようやく彼を見た。


「調査ですの?」


「そうだ」


「嫉妬ではなく?」


「違う」


「即答ですのね」


「当たり前だ。嫉妬は役に立たない。調査はたまに役に立つ」


 菊乃は扇で口元を隠した。


「では、調査して何が分かりますの」


「黒川家が何を欲しがってるか。駒形座に何を見てるか。水無瀬家の誰と話してるか」


 その最後の言葉に、菊乃の胸が少し縮んだ。


「水無瀬家の誰と?」


「お前のところの親戚だろうな。花だけなら道楽で済む。縁談の噂まで出るなら、誰かが裏で糸を結んでる」


「糸」


「古い家は糸が好きだ。人を縛るには、縄より見栄えがいいからな」


 菊乃は黙った。


 慎吾の横顔は、相変わらず意地悪く、冷たく、眠そうですらある。

 だが、彼はもう動こうとしている。


 それが菊乃には、少し困った。


「わたくしのためですの?」


「違う」


「では?」


「お前が騙されると、騒ぎが増える。俺の仕事が増えるってだけだ」


「わたくしは、あなたのお仕事を増やす価値があるということですわね」


「お前は昔から、迷惑を資産のように数える」


「資産は大事です」


「迷惑は減価償却しろ」


「帝大ではそんなことも習いましたの?」


「習わなくても分かる。お前を見ればな」


 菊乃は少し笑いそうになって、やめた。


 笑うと、許したことになる。

 何を許すのか分からないが、慎吾を簡単に許すのは癪だった。


「葉室さん」


「何だ」


「もし、黒川様が本当に縁談相手だったら?」


「断れ」


「簡単におっしゃいますわね」


「簡単じゃないなら、なおさら早く言え」


「水無瀬家は、わたくし一人のものではありません」


「お前も、水無瀬家のものじゃない」


 菊乃は言葉を失った。


 慎吾は言ってから、わずかに顔をしかめた。

 自分で踏み込みすぎたと思ったのかもしれない。珍しいことだ。


 だから菊乃は、あえて扇を開いた。


「今のは、わたくしを口説いておりますの?」


 慎吾の顔が、心底嫌そうになった。


「違う。所有権の話だ」


「人を物のように」


「お前が家の所有物扱いされそうだから言ってる」


「つまり、心配してくださっているのですね」


「違う。物権の混乱が嫌いなだけだ」


「法律家みたいな言い訳ですわ」


「法科にいた後遺症だ」


「便利な後遺症ですこと」


 慎吾は舌打ちした。


「調子に乗るな。花を持って楽屋で高笑いしてた女が」


「あれは作戦です」


「失敗作だ」


「まだ結果は出ておりません」


「出てる。俺が不愉快になった」


 菊乃はぴたりと止まった。


「不愉快に?」


 慎吾は一瞬黙った。


 しまった、というほど顔には出ない。

 けれど、赤鉛筆を持っていれば折っていたかもしれない。


「黒川が不愉快だった」


「わたくしが花を喜んだからではなく?」


「お前が花で小芝居を始めたからだ」


「小芝居」


「質が悪い。舞台に上げる価値もない」


 菊乃は慎吾を見た。


 この男は、決して負けを認めない。

 好意も、嫉妬も、心配も、全部別の言葉に置き換える。調査、苦情、所有権、仕事、不愉快。

 どれもこれも、遠回りの上に棘がある。


 けれど、今の「不愉快」は少し使える。


 菊乃はゆっくり扇を閉じた。


「では、今後はもう少し質のよい小芝居をいたしますわ」


「やめろ」


「黒川様に、また花をいただいたら」


「捨てろ」


「まあ」


「枯れる。虫がつく。邪魔だ」


「嫉妬ではなく?」


「衛生管理だ」


「そういうことにしておいて差し上げます」


「差し上げるな」


 菊乃は客席から舞台を見上げた。


 昨日までより、少しだけ舞台が遠く見えた。

 花一つで、家の影がここまで入り込む。

 黒川栄之丞という男が何を考えているのか、まだ分からない。

 水無瀬家の誰が、どこで糸を結んでいるのかも。


 だが、慎吾が調べると言った。


 それは安心と呼ぶには腹立たしい。

 しかし、腹立たしい安心というものも、この世にはある。

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