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第二十話 明日は、もっと高く笑って差し上げますわ

 夕方の舞台は、少し騒がしかった。


 黒川が来たという話はすぐに一座に広がり、銀次はいつもより浮つき、小鈴は警戒し、小春は花のリボンをこっそり髪に当てて菊乃に叱られた。


 慎吾は本番前、銀次の台詞を二行削った。


「えっ、何でです」


「うるさいからだ」


「理由が雑!」


「正確だ」


 小鈴には、間を詰めるよう指示した。


「今日の客は黒川みたいな連中じゃない。気取るな。いつもの三割増しで怒れ」


「三割増しって、女優に言うことですか」


「五割だと声が割れる」


「細かい」


 小春には、小道具の位置を直させた。


「走る時、右の箱に足をぶつける。昨日は偶然避けた。偶然を芸に入れるな」


「はい」


 そして菊乃には、何も言わなかった。


 菊乃はそれが不満だった。


「葉室さん」


「何だ」


「わたくしには?」


「噛むな」


「もっとございますでしょう」


「花に浮かれるな」


「浮かれておりません」


「じゃあ、黒川に怒った勢いで台詞を早めるな」


 菊乃は口を閉じた。


 慎吾は台本から目を離さずに続ける。


「お前は腹を立てると、言葉が軽くなる。高貴なわりに安っぽいんだよ」


「一言余計ですわ」


「一言で済ませてる。感謝しろ」


 菊乃は腹立たしくも、深く息を吸った。


 舞台に出ると、客席はそこそこ埋まっていた。

 新聞の効果がまだ残っている。

 中には、菊乃を見ようとして来たらしい客もいる。

 彼らは、華族家の娘がどれほど落ちたか、あるいはどれほど笑わせるかを見に来ている。


 どちらでもいい。


 見に来たのなら、見せてやる。


 菊乃は舞台の中央へ出た。


 その日の芝居は、長屋に転がり込んだ高慢な令嬢が、縁談話を持ち出されて騒ぐ筋だった。

 慎吾の悪意が、今日の現実をもう取り込んでいる。仕事が早すぎるのも腹立たしい。


 銀次が言う。


「お嬢様、金持ちの旦那が花を持って迎えに来たら、どうします」


 客が笑う。

 楽屋の者たちも舞台袖で笑いをこらえている気配がする。


 菊乃は扇を開いた。


「花だけでは足りませんわ」


 銀次が目を丸くする。


「じゃあ、何なら足ります」


 菊乃は間を取った。


 腹を立てると、言葉が軽くなる。

 慎吾の声が、どこかで聞こえた気がした。


 だから、少し抑えた。


「まず、見る目です。花は枯れますが、見る目の悪い殿方は、枯れる前から邪魔ですもの」


 客が笑った。

 銀次が慌てて返す。


「見る目のいい男なら?」


「わたくしの値段をつけない方ですわね」


 袖で、慎吾が動いた気配がした。


 菊乃は見なかった。


 客席から笑いが返ってくる。

 その中に、誰かが小さく「いいぞ」と言った。


 菊乃は少しだけ胸を張った。


 黒川はいない。

 だが、黒川が見ていないところで、言ってやった気がした。


 終演後、楽屋はいつもより少し明るかった。


 客入りも悪くない。銀次は自分の返しがよかったと主張し、小鈴は菊乃の台詞を真似て笑った。小春はリボンをまだ諦めていない。


 慎吾は机で台本に赤を入れていた。


 菊乃は近づく。


「葉室さん」


「何だ」


「今夜のわたくしは?」


「花瓶よりはましだった」


「比較対象がおかしいですわ」


「黒川の花を踏み台にしたのはよかった」


「褒めておりますの?」


「再利用の話だ」


「あなた、わたくしを褒めると死ぬ呪いでも?」


「死ぬ時くらい黙ると言っただろ」


「便利に使い回さないでくださる」


 慎吾は赤鉛筆を置いた。


「水無瀬」


「何ですの」


「黒川は、お前だけを見に来たわけじゃない」


 菊乃の胸が少し締まった。


「駒形座ですの?」


「たぶんな」


「なぜ」


「松之助の帳面を見てた。客入りじゃない。小屋の造りと、裏口と、隣の空き地だ。興行を見る男の目じゃない。土地を見る男の目だ」


 菊乃は楽屋の壁を見た。

 色褪せた壁。安い鏡。古い畳。隣の空き地。裏口。


 この小屋まで、値踏みされていたのか。


「黒川家は興行場に手を出していると、座長がおっしゃっていましたわね」


「そうだ。花は入口だろうな。水無瀬家も、駒形座も、どっちも名と場所がある。金のある奴にとっては、両方買い物だ」


「わたくしも、駒形座も、同じ棚に並べられていると?」


「腹は立つが、向こうの目ではな」


 菊乃は扇を握った。


 腹は立つ。

 けれど、腹が立つだけでは何も守れない。


 慎吾は紙を一枚出した。


「黒川栄之丞。父親は黒川栄造。砂糖問屋から金融に回って、今は興行場の土地に手を出してる。神田の仁村とも線がある」


「仁村?」


 小春の件の男だ。


 菊乃の顔色が変わった。


「では、小春のことも」


「直接かはまだ分からん。だが同じ匂いがする」


「匂い」


「金で人の居場所を動かす匂いだ」


 菊乃は黙った。


 黒川の花束が、急に重く見えた。

 あれは花ではない。

 たぶん、名刺より少し柔らかい何かだった。


 その時、楽屋口から松之助が入ってきた。


「葉室。ちょっといいか」


「よくない」


「よくなくても来い」


 松之助の顔は硬かった。


 慎吾は立ち上がる。


「何だ」


「水無瀬さんのところから、手紙が来てる」


 菊乃の手から、扇が滑りかけた。


 松之助は一通の封書を差し出した。

 差出人の名を見て、菊乃は喉の奥が冷たくなるのを感じた。


 水無瀬宗親。


 叔父の名だった。


 封書は上等だった。

 黒川の花と、同じように。


 慎吾が横から覗き込む。


「読むか」


「わたくし宛です」


「なら読め」


「今?」


「今読まない手紙は、だいたい悪くなる」


 菊乃は封を切った。


 文面は短かった。


 近く黒川栄之丞殿と会う機会を設ける。

 水無瀬家のため、軽率な振る舞いは慎むこと。

 浅草の舞台についても、改めて話す必要がある。


 菊乃は、最後まで読んだ。


 そして、少し笑った。


「なるほど。わたくし、本当に花瓶と同じ棚に並べられたようですわ」


 慎吾が言った。


「花瓶は黙ってる。お前はうるさい。そこは勝ってる」


「慰めですの?」


「分類だ」


「相変わらず、お下手ですこと」


 菊乃は手紙を畳んだ。


「葉室さん」


「何だ」


「調査、続けなさい」


 慎吾は眉を上げた。


「命令か」


「ええ」


「依頼なら料金を取る」


「領収書は?」


「お前は本当に面倒だな」


「善行にも調査にも領収書が要りますわ」


 慎吾は少しだけ笑った。


「いいだろう。高くつくぞ」


「水無瀬家の娘を調べるのです。安く済むと思わないで」


「水無瀬家は金がないだろ」


「だからこそ、態度だけは高く保つのです」


「最悪の財務状況だな」


「あなたにだけは言われたくありません」


 菊乃は手紙を懐にしまった。


 黒川栄之丞。

 水無瀬宗親。

 仁村。

 駒形座。


 線が少しずつ結ばれていく。

 その線は、きっと菊乃の首にも、小屋の柱にもかかっている。


 だが、今夜はまだ切れない。

 切るには、まず見なければならない。


 慎吾が赤鉛筆を取った。


「水無瀬」


「何ですの」


「明日の台詞を変える」


「またですの?」


「黒川がまた来るかもしれん」


「なら、華やかな台詞にしてくださいませ」


「いや」


 慎吾は紙に何かを書きつけた。


「花を枯らす台詞にする」


 菊乃は少しだけ笑った。


「よろしいですわ」


 楽屋の隅で、黒川の花が静かに香っている。

 白すぎる百合の花弁が、少しだけ縁から傷みはじめていた。


 菊乃はそれを見て、扇を開いた。


 花は枯れる。

 名も、金も、縁談も、人の思惑も、いつかは形を変える。


 だが、枯れる前にこちらが踏みつけて笑いに変えてやることも、たぶんできる。


 浅草とは、そういう不作法な場所だった。


 そしてその不作法な場所に、葉室慎吾というもっと不作法な男がいる。


 菊乃は花へ向かって、ふん、と鼻を鳴らした。


「明日は、もっと高く笑って差し上げますわ」


 慎吾が言った。


「まず台詞を覚えろ」


「葉室さん」


「それから笑え」


 菊乃は言い返そうとして、やめた。


 たしかに、明日の戦には台詞が要る。

 扇も、花も、家名も、それだけでは足りない。


 菊乃は台本を受け取った。


 赤鉛筆の字は、いつも通り意地が悪かった。

 けれど、その意地の悪さが、今夜は少しだけ頼もしかった。

お読みくださりありがとうございます。

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