第二十一話 死にかけの芸人が欲しがる最後の拍手ほど、扱いに困るものはない
黒川の花は、三日で萎れた。
はじめは白すぎた百合も、縁から薄く茶色くなり、薔薇は首を少し傾けた。
楽屋の隅に置かれているだけで、誰も水を替えようとはしない。
小春が一度、かわいそうだと言って花瓶を持ち上げたが、慎吾に「花にも見栄を張らせてやれ」と言われ、意味が分からない顔をしたまま戻した。
菊乃も、その花を見るたびに少し気が重くなった。
花は枯れる。
だが、手紙は枯れない。
水無瀬宗親からの封書は、菊乃の荷物の底に入れてある。
入れてあるだけで、なくなったわけではない。
黒川栄之丞との面会、浅草の舞台についての話、軽率な振る舞いを慎めという文言。
紙は薄いくせに、人の胸の上に置かれると妙に重くなる。
その朝、菊乃は楽屋の鏡の前で髪を結い直していた。
銀次が昨日の客の真似をし、小鈴がその真似をさらに真似て笑っている。
小春は台本を声に出して読んでいたが、時々、枯れた花の方を見ている。
慎吾は机に向かい、赤鉛筆を握ったまま動かない。
珍しいことだった。
書いているふりすらしていない。
「葉室さん」
菊乃は鏡越しに声をかけた。
「何だ」
「紙に恨みでもおありですの」
「今さらだろ」
「今日は、紙の方も困っておりますわ。あなたに睨まれて」
「紙に同情するな。あいつはつけあがる」
「紙がつけあがるという感覚、よく分かりませんわね」
「証文と新聞を見れば分かる」
慎吾の声は、いつもより少し硬かった。
菊乃は櫛を置いた。
この男の不機嫌には種類がある。
誰かの愚かさに苛立っている時、台本がうまくいかない時、菊乃が予想外のことを言った時。
それぞれ微妙に違う。
今日の不機嫌は、どれとも違った。
そこへ、おえんが楽屋へ顔を出した。
「松之助さん、いるかい」
松之助は帳面を抱えて奥から出てきた。
「おえんさん、朝からどうした」
「燕枝師匠が倒れた」
空気が、ふっと薄くなった。
銀次が笑うのをやめる。
小鈴の手が止まる。
松之助は一瞬、言葉を失った。
菊乃はその名に覚えがあった。
藤川燕枝。
昔、浅草でよく名の出た芸人だと聞いたことがある。
寄席にも芝居にも出て、客を笑わせ、泣かせ、最後には酒で身を崩した男。
今では、たまに古い客が「あの人は昔はよかった」と言う程度になっている。
過去形で語られる人間は、だいたい扱いが難しい。
松之助が低く言った。
「どこで」
「裏六区の木賃宿だよ。昨夜から高熱で、今朝になって人を呼んだ。医者は来たが、あれは長くないって顔をしてた」
銀次が小さく言う。
「燕枝師匠って、あの」
おえんは頷いた。
「そうだよ。口は悪い、酒癖も悪い、借りた金は返さない。けど、昔は本当に客を持ってた」
慎吾は何も言わなかった。
ただ、赤鉛筆を置いた。
その音が、妙にはっきり聞こえた。
おえんは慎吾を見た。
「葉室さん。あんたにも来てほしいってさ」
「行かない」
即答だった。
速すぎて、誰もすぐには受け取れなかった。
おえんは眉を寄せる。
「まだ何も言ってないよ」
「言うことは分かる。行かない」
松之助が慎吾を見る。
「葉室」
「何だ」
「師匠だろう」
「違う」
その一言には、切り落とすような響きがあった。
菊乃は慎吾を見た。
彼の顔には怒りらしい怒りはない。
むしろ、何もなかった。
その何もなさが、かえって硬かった。
おえんが静かに言った。
「最後に、台本を書いてほしいそうだ」
慎吾は鼻で笑った。
「死にかけの芸人が欲しがる最後の拍手ほど、扱いに困るものはない」
「慎吾」
松之助が低く呼んだ。
慎吾は机の上の紙を揃えた。
「あいつは自分で笑いを取って、自分で落とせばいい。昔はそうしてたんだろ」
「今は無理だよ」
「だから俺に書けと?」
慎吾の声は低くなった。
「都合がいいな。客を持ってた頃は人の名前を消して、客がいなくなったら書いた奴を呼ぶ。浅草の人情は便利だ」
楽屋が静まり返った。
菊乃は、ようやく少しだけ分かった。
燕枝という名は、ただの古い芸人ではない。
慎吾の中の、まだ剥がれていない瘡蓋なのだ。
銀次が遠慮がちに言った。
「兄さん、名前を消したって」
「お前には関係ない」
短い。
本当に機嫌が悪い時の慎吾だった。
おえんは溜息をついた。
「関係ないって顔じゃないよ」
「顔まで読むな。商売替えしろ」
「あんたが読まれやすい顔をするからだ」
「冗談は店で出せ」
「店じゃあんたの掛けは受けないよ」
慎吾は立ち上がった。
「俺は書かない。行かない。以上だ」
そのまま楽屋を出ていった。
誰も、すぐには追わなかった。
足音が廊下の向こうへ消えてから、小春が小さく訊いた。
「葉室さん、怒ってたの?」
小鈴が答えに詰まる。
菊乃は鏡の前に残った自分の顔を見た。
怒っていた。
たぶん。
だが、怒りだけなら慎吾はもっと喋る。
今日の彼は、言葉を減らしていた。
減らさなければ、何かがこぼれるからだろう。
おえんが菊乃を見た。
「菊乃さん」
「何でしょう」
「あんた、行ってやりな」
「わたくしが?」
「葉室さんは、あんたに言われた方が腹を立てる」
「それは説得になるのですか」
「なるよ。あの男は腹が立つと動く」
菊乃は扇を開こうとして、やめた。
「わたくし、厄介な役回りばかりですわね」
おえんは笑った。
「似合ってるよ」
「褒めておりますの?」
「少しね」




