第二十二話 お前は時々、ひどく下手な詩人になる
慎吾は劇場の裏手にいた。
古い木箱に腰を掛け、煙草も吸わず、ただ手元の赤鉛筆を見ている。
浅草の昼は早くも騒がしい。
遠くで活動写真館の楽隊が調子を合わせ、物売りが声を張る。
だが裏手には、表の明るさからこぼれ落ちたような影があった。
菊乃は少し離れて立った。
「葉室さん」
「お前まで来るな」
「まだ何も申し上げておりません」
「言うことは分かる」
「でしたら、お聞きになる手間が省けますわね」
「省けた手間を増やすな」
菊乃は隣には座らなかった。
正面に立つと、慎吾が嫌がる。
だから少し斜めに立った。
「燕枝師匠とは、どういうご関係でしたの」
「ない」
「今の『ない』は、ずいぶん重い『ない』でしたわ」
「言葉の重さを量るな。質屋か」
「質屋なら、あなたの意地は高く買いませんわね。扱いにくいだけですもの」
慎吾は笑わなかった。
菊乃は少しだけ声を落とした。
「昔、あなたの台本を使われたのですか」
慎吾の指が止まった。
それだけで十分だった。
「おえんさんが言ったわけではありません。先ほどのあなたの言葉で分かりました」
「分かるな」
「無理ですわ。あなたは、人の嘘には厳しいのに、ご自分の傷はずいぶん雑に隠しますもの」
「傷じゃない。古い汚れだ」
「では、なおさら洗えばよろしいのに」
「落ちない汚れを洗うと、生地が破れる」
菊乃は黙った。
慎吾は赤鉛筆を回した。
「俺が最初に浅草で書いた台本を、あの爺が使った」
言葉は、急に出た。
慎吾自身も、出すつもりではなかったのかもしれない。
「客は笑った。やたら笑った。俺は若かったから、笑いの半分くらいは自分のものだと思った」
「実際、そうだったのでしょう」
「馬鹿を言うな。舞台で笑われたものは、舞台に立った奴のものだ」
慎吾は横を見た。
菊乃ではなく、遠いどこかを見ているようだった。
「だが、次も書けと言われた。次も受けた。その次も。いつの間にか、燕枝の新作になっていた。葉室慎吾の名は、どこにもなかった」
菊乃は唇を結んだ。
「抗議なさらなかったの?」
「した」
「それで?」
「笑われた。『客はお前の名を見に来たんじゃねえ』とな」
それは、慎吾が菊乃に言った言葉に似ていた。
――客は家系図を見に来たんじゃない。
菊乃は一瞬、胸の奥がひやりとした。
彼は、自分が昔投げつけられた言葉を、形を変えて人に投げていたのかもしれない。
優しさのように。
刃のように。
「それでも、あなたは台本を書き続けたのですね」
「飯が食えたからな」
「それだけ?」
「それだけで十分だ」
菊乃は首を横に振った。
「嘘ですわ」
慎吾の目が鋭くなる。
「お前、調子に乗るなよ」
「乗ります。今日は乗ります」
「水無瀬」
「あなたは、客が笑うところを見たかったのでしょう。自分の名がなくても。腹が立っても。悔しくても」
慎吾は何も言わない。
菊乃は続けた。
「だから今でも、こんな小屋で赤鉛筆を握っていらっしゃる」
浅草の裏手に、少しだけ風が通った。
濡れた木の匂いと、埃の匂いがした。
慎吾は赤鉛筆を握り潰すように持った。
「綺麗にまとめるな」
「まとめておりません」
「まとめてる。お前は時々、ひどく下手な詩人になる」
「あなたの影響ですわ」
「俺は詩人じゃない」
「ええ。もっと性質が悪いです」
慎吾はようやく菊乃を見た。
その目の奥に、疲れた色があった。
いつもの皮肉や苛立ちの下に隠れている、古い色だった。
「行きたければ、お前が行け」
「燕枝師匠が呼んでいるのは、わたくしではありません」
「俺は行かない」
「では、行かない理由をもう少しましにしてくださいな」
「ましな理由?」
「ええ。『憎んでいるから行かない』ならまだ分かります。『許せないから行かない』でもよろしい。でも、あなたは違う」
「何が違う」
「行ったら、書いてしまうから行かないのでしょう」
慎吾は黙った。
菊乃は勝ったとは思わなかった。
これは勝ち負けではない。
人の傷に触れるのは、勝負よりずっと面倒で、後味が悪い。
だが、言わなければならない時がある。
「あなたは、本当に嫌な方ですわ」
「それは何度も聞いた」
「嫌な方なのに、最後に人をつまらないまま終わらせることができない」
慎吾は立ち上がった。
「黙れ」
声は低かった。
菊乃は黙らなかった。
「葉室さん。わたくしは、燕枝師匠がどれほどひどい方だったのか存じません。あなたが許す必要もないと思います」
「なら」
「でも、あなたの若い頃まで、つまらなかったことにしないでください」
慎吾の顔が変わった。
その一瞬、菊乃は踏み込みすぎたと思った。
慎吾は何か言いかけた。
だが、言葉は出なかった。
しばらくして、彼は舌打ちした。
「お前は本当に、余計なところだけ覚える」
「覚えは悪くありませんので。台詞以外は」
「自分で言うな」
「あなたが何度もおっしゃるからです」
慎吾は劇場の壁に背を預けた。
深く息を吐く。
「……行くだけだ」
「はい」
「書くとは言ってない」
「はい」
「お前も来るな」
「行きます」
「来るなと言った」
「水無瀬家の娘は、聞き分けが悪いのです」
「家のせいにするな」
「では、浅草のせいにします」
「もっと悪い」
慎吾は赤鉛筆を懐にしまった。
「本当に面倒な女だ」
菊乃は扇を開いた。
「高貴な面倒ですわ」




