第二十三話 慎ましい芸人なんざ、死んだ方がましだ
藤川燕枝が寝ていた木賃宿は、浅草の明るい場所から少し外れたところにあった。
階段は狭く、壁は湿り、廊下には古い酒と薬の匂いがした。
窓の外では、人の声が聞こえる。
けれどこの建物の中だけ、時間が少し澱んでいるようだった。
案内したのはおえんだった。
彼女は何も言わず、二階の奥の部屋の前で立ち止まった。
「入るよ」
襖を開けると、薄い布団の中に、老人がいた。
痩せた顔。
白くなった髪。
しかし目だけは妙に生きている。
病人というより、舞台袖で出番を待つ老いた芸人のようだった。
藤川燕枝は、慎吾を見るなり笑った。
「来やがったか」
慎吾は部屋へ入らず、襖のところで立った。
「死に損ないの確認に来ただけだ」
「相変わらず口が悪い」
「お前ほどじゃない」
「俺は芸にした。お前は性格にした。そこが違う」
老人の声は掠れていた。
だが、間は生きていた。
菊乃はその間に少し驚いた。
声が弱っていても、相手を待たせる場所を知っている。これが昔、客を笑わせた人なのだと思った。
燕枝は菊乃に目をやった。
「誰だい、その綺麗な火鉢みたいな娘は」
菊乃は眉を上げた。
「水無瀬菊乃でございます。火鉢ではありません」
「噂の華族の娘か」
「ええ」
「浅草も変わったな。昔は華族様が笑いに来る場所だった。今は笑われに来るのか」
慎吾が言った。
「爺。口を閉じろ。病人らしくしろ」
「病人らしくしたら死ぬだけだ」
「それでいいだろ」
「よくねえ。最後に一度だけ、客を笑わせる」
慎吾の顔が動かなかった。
「無理だ」
「お前が書け」
「嫌だ」
「なら、俺が喋る。適当に」
「それが一番迷惑だ」
燕枝は笑った。
笑って、少し咳き込んだ。
おえんが水を渡す。
燕枝は一口飲み、目を細めた。
「慎坊」
その呼び方に、慎吾の肩がほんの少し強ばった。
「その呼び方をするな」
「昔から嫌がったな」
「昔から嫌だったからだ」
「お前の台本、よく受けた」
部屋の空気が硬くなる。
菊乃は、息を殺した。
燕枝は天井を見た。
「悪いことをした」
その言葉は、思ったより簡単に出た。
簡単すぎて、かえって慎吾の顔が険しくなった。
「軽いな」
「重く言ったら許すのか」
「許さない」
「なら軽くていい」
慎吾は笑わなかった。
「都合がいい爺だ」
「芸人は都合で生きる。客の笑いも、腹の虫も、座の入りも、全部都合だ」
「人の名を消すのもか」
燕枝は黙った。
部屋の外で、誰かが階段を上る音がした。
すぐに遠ざかる。
「消したな」
燕枝は言った。
「お前の名を出せば、俺が食えなくなると思った。若い書き手の名がついた台本を、客は俺の芸として見てくれなくなる。怖かったんだろうな」
「怖かった?」
「そうだ。俺はお前より先に、客に飽きられるのが怖かった」
慎吾は何も言わない。
燕枝は苦く笑った。
「格好悪いだろ」
「知ってる」
「そう言うと思った」
菊乃は慎吾の横顔を見た。
彼は怒っている。
しかし、怒りの奥に別のものがある。
失望か、哀れみか、それとも若い頃の自分への苛立ちか。
菊乃には分からない。
燕枝は布団の上で少し身じろぎした。
「一度だけでいい。最後の高座をやる。駒形座でも、どこの小屋でもいい。客は少なくていい。笑わなくてもいい。いや、笑わねえのは困るな」
「馬鹿か」
「芸人だ」
「同じだ」
「だからお前に頼む」
慎吾は冷たい声で言った。
「自分で書け」
「手が震える。頭も散る。口だけはまだ動くが、昔のままだと古い。今の客には届かねえ」
「知るか」
「知ってるだろ」
燕枝は慎吾を見た。
「お前は客がどこで飽きるか分かる。どこで笑うふりをして、どこで本当に笑うか分かる。俺より分かる」
慎吾は答えなかった。
「だから腹が立った」
燕枝は言った。
慎吾の目が少し動く。
「お前の台本が、俺の芸より客を見ていた。若いくせに。帝大崩れのくせに。浅草に拾われたばかりのくせに」
「やめろ」
「やめねえ。最後だからな。老人の特権だ」
「死を盾にするな。下品だ」
「下品な老人なんて珍しくもねえ」
菊乃は、少しだけ笑いそうになった。
笑う場面ではないのに、間がそうさせる。
燕枝はそれを見逃さなかった。
「ほら、華族様が笑いそうだ。まだ俺も捨てたもんじゃねえ」
「今のは偶然ですわ」
菊乃はすぐに言った。
「偶然で笑われるのも芸だよ」
慎吾が低く言った。
「水無瀬を巻き込むな」
「お前、惚れてるのか」
部屋が止まった。
菊乃は一瞬で顔が熱くなった。
「な、何を」
慎吾が即座に言う。
「熱で目が腐ったか」
燕枝はにやりと笑った。
「その返しは遅い」
「黙れ」
「図星の時の声だ」
「爺」
「怒るな。寿命が縮む」
「縮めてやる」
燕枝は咳き込みながら笑った。
おえんが背をさする。
菊乃は扇を開いたが、風を送るのか顔を隠すのか、自分でも分からなかった。
慎吾は踵を返した。
「帰る」
「慎坊」
「その名で呼ぶな」
「書け」
「嫌だ」
「お前が書かなきゃ、俺はつまらないまま終わるぞ」
慎吾は止まった。
燕枝は布団の中で、目だけを光らせている。
「それでいいのか」
慎吾は振り返らなかった。
「知るか」
そう言って、部屋を出た。
菊乃は少し迷った。
追うべきか、残るべきか。
すると燕枝が言った。
「華族様」
「火鉢の次は華族様ですの」
「すまねえな。あいつを連れてきてくれて」
「わたくしは連れてきたわけでは」
「連れてきたんだよ。あいつは、自分の足で来たつもりの時ほど、誰かに押されてる」
菊乃は言葉に詰まった。
燕枝は目を細める。
「あいつ、面倒だろ」
「ええ」
即答してしまった。
燕枝は嬉しそうに笑う。
「なら大事にしてやれ。面倒な奴は、面倒を見てくれる奴がいないと、勝手に腐る」
「なぜ、わたくしが」
「惚れてるからだろ」
「違います!」
「声が大きい」
おえんが笑った。
菊乃は恥ずかしさと腹立たしさで、扇を閉じた。
「病人はもう少し慎ましくなさった方がよろしいですわ」
「慎ましい芸人なんざ、死んだ方がましだ」
「今まさに、その瀬戸際でございましょう」
「言うねえ」
燕枝は満足そうに笑った。
菊乃は部屋を出た。




