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第二十四話 あの爺がつまらないまま終わると、俺の若い頃まで、つまらなかったことになる

 階段を下りると、慎吾は宿の前にいた。

 通りに背を向け、空を見ている。

 空には雲が薄く伸びていた。

 浅草の空は看板と電線で狭い。

 だが、その狭さが慎吾には似合っているように思えた。


「葉室さん」


「何だ」


「書くのでしょう」


「書かない」


「では、なぜまだ帰らないのです」


 慎吾は答えなかった。


 菊乃は隣に立った。


「燕枝師匠、ひどい方ですわね」


「今さらか」


「ええ。今知りました」


「なら近づくな」


「でも、芸人ですわね」


 慎吾が菊乃を見た。


 彼女は言葉を選んだ。


「布団の中でも、間がありました。人を怒らせる間も、笑わせる間も。腹は立ちますけれど」


「お前まで褒めるな」


「褒めていません。苦情です」


「便利に使うな」


「あなたの真似です」


 慎吾は黙った。


 菊乃は続けた。


「あなたが書かなければ、あの方はきっと自分で何か喋ります。古いまま、ずれたまま、客に痛々しい顔をされて終わるかもしれません」


「それが相応だろ」


「かもしれません」


 菊乃は頷いた。


「でも、それを見るのは、たぶんあなたです」


 慎吾は口元を歪めた。


「嫌な女だな」


「よく言われます」


「誰に」


「あなたに」


「なら正しい」


 しばらく二人とも黙っていた。


 やがて慎吾は懐から赤鉛筆を出した。


 折れていた。

 さっき握り潰したのだろう。芯が斜めに割れている。


「……あの爺がつまらないまま終わると」


 慎吾は低く言った。


「俺の若い頃まで、つまらなかったことになる」


 菊乃は何も言わなかった。


 言えば、たぶん壊れる。

 今の慎吾は、自分で言った言葉の重さに耐えている。


 少しして、菊乃は静かに言った。


「では、書きましょう」


「お前が言うな」


「命令ではありません。高貴な提案です」


「提案はだいたい迷惑だ」


「受け取らせますわ」


 慎吾は折れた赤鉛筆を見た。


「新しい鉛筆が要る」


「買いましょう」


「紙も」


「買いましょう」


「酒は要らない」


「誰も訊いておりません」


「燕枝には要る」


「では、それはおえんさんに任せましょう」


 慎吾は少しだけ笑った。


「仕切るな」


「華族ですので」


「制度の悪用だ」


 その日の夜、駒形座の楽屋は遅くまで明かりが消えなかった。


 松之助は燕枝の最後の高座を駒形座でやると決めた。

 客は多くなくていい。古い常連に声をかけ、相良にも知らせる。

 おえんは燕枝の世話と酒の管理を引き受けた。

 銀次は手伝うと言ったが、慎吾に「邪魔をするな」と言われ、結果として小道具を運ぶ役になった。


 慎吾は机に向かっていた。


 ほとんど喋らない。

 赤鉛筆ではなく、墨で書いている。

 何度も止まり、紙を破り、また書く。

 書きながら、時々苦い顔をする。

 まるで自分の過去から、使えそうな台詞だけを引き剥がしているようだった。


 菊乃は少し離れたところに座り、衣裳のほつれを直していた。


 慎吾の袖口も、やはりほつれている。

 何日も寝ていないわけではないが、今夜の彼はすでに疲れていた。

 紙に向かう背中が、いつもより少し薄い。


 直してやろうかと思った。


 針と糸はある。

 今なら、そっと言えば直せる。


 けれど、言えなかった。


 慎吾のほつれは、ただの布ではないように見えた。

 そこへ手を伸ばすには、自分はまだ軽すぎる。

 菊乃は針を止め、結局、自分の衣裳だけを縫った。


 夜半近く、慎吾が筆を置いた。


 松之助が恐る恐る訊く。


「できたか」


「半分死んだ」


「台本が?」


「俺が」


「そりゃ悪かった」


「謝るな。余計に腹が立つ」


 銀次が覗こうとした。


「兄さん、どんな話なんです」


「見るな」


「ちょっとだけ」


「お前はちょっとで済んだことがない」


 小鈴が言った。


「燕枝師匠、できそうなんですか」


「立てない。座ってやる。声は枯れてる。長い台詞は無理だ」


「じゃあ」


「だから短くした。間で逃げる」


 菊乃は言った。


「逃げる、ですの?」


 慎吾は紙を揃えながら答えた。


「芸の逃げ道だ。息が切れたら客を見ろ。咳が出たら笑いにしろ。忘れたら黙れ。黙る場所を台本に入れてある」


「そんなことまで書くのですか」


「書かないと、あの爺は見栄で喋り続ける」


「あなたと似ておりますわね」


 慎吾が睨んだ。


「どこが」


「見栄で喋るところが」


「お前ほどじゃない」


「わたくしの見栄は華やかです。あなた方のは湿気ております」


 銀次が笑い、小鈴も笑った。

 慎吾は不愉快そうに紙を伏せる。


「水無瀬」


「何ですの」


「明日はお前も出る」


「わたくしが?」


「前座だ。客を温めろ。燕枝が出る前に、場を柔らかくする」


「わたくしを湯たんぽのように使わないでくださる?」


「お前は熱だけはある」


「褒めておりますの?」


「体温の話だ」


「下手ですわね」


「知ってる」

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