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第二十五話 いいえ。わたくしの見栄は安物ですもの。金箔を貼って、声を張れば済みます

 翌日の駒形座は、いつもと違う静けさを持っていた。


 客は多くなかった。

 だが、顔ぶれが濃かった。

 古い芸人、昔の常連、浅草の片隅で今も燻っている者たち。

 相良も後ろの方にいた。

 手帳は持っているが、今日はすぐには開かない。


 黒川からの花は来なかった。

 その代わり、楽屋の隅には、おえんが持ってきた小さな野菊が置かれていた。

 高くはない。

 けれど、この小屋にはよく似合った。


 燕枝は、舞台袖で座っていた。


 羽織は古いが、きちんとしている。

 顔色は悪い。だが目は笑っていた。


「華族様」


 菊乃に向かって言う。


「わたくしには水無瀬菊乃という名がございます」


「覚えてるよ。忘れた方が面白いから忘れたふりをしてる」


「たいへん厄介な芸でございますわね」


「慎坊ほどじゃねえ」


 慎吾が横から言った。


「喋るな。出る前に死ぬぞ」


「舞台で死ねたら上等だ」


「客が困る。後始末も面倒だ」


「お前は最後まで後始末の心配か」


「後始末をしない奴ほど、綺麗に死にたがる」


 燕枝は笑った。

 少し咳き込む。おえんが水を渡した。


 菊乃の出番が先だった。


 彼女は舞台に出た。

 客席の古い目がこちらを見る。華族の娘を見に来た目ではない。

 今夜は、燕枝の最後を見に来た目だった。

 その前に立つのは少し重い。


 だが、重いからこそ胸を張る。


「皆さま、今宵はようこそお越しくださいました」


 菊乃は扇を開いた。


「本来なら、わたくしのような高貴な者が前座を務めるなど、帝都の秩序が少々乱れるところでございます」


 客席に軽い笑いが起きる。


「ですが、浅草という場所は、秩序の方がよく道に迷います。ですので今宵は、わたくしが少々、道案内を務めますわ」


 慎吾の書いた台詞だった。

 意地が悪いが、悪くない。


 菊乃は続ける。


「これから出ますのは、古い芸人でございます。古いというのは、扱いが難しい。捨てれば祟り、飾れば埃をかぶり、使えば音を立てます」


 客席の古い芸人たちが笑った。


「けれど、たまに、ひどくよい音がいたします」


 菊乃は一礼した。


「どうぞ、お聞き逃しなさいませんように」


 拍手が起きた。

 大きくはないが、温かい。


 袖へ戻ると、慎吾が言った。


「噛まなかったな」


「褒め方が雑です」


「上出来だ」


 菊乃は目を瞬かせた。


 慎吾はすぐに目を逸らす。


「今のは台詞の話だ」


「何も申し上げておりません」


「顔がうるさい」


 菊乃は少し笑った。


 燕枝が舞台へ出た。


 歩けないので、銀次と松之助が支えた。

 客席は静まり返った。

 座布団の上に座るまで、誰も音を立てなかった。


 燕枝は客を見た。

 長い沈黙だった。


 その沈黙を、客は待った。


「……どうも」


 燕枝が言った。


「死に損ないでございます」


 客席に、最初の笑いが起きた。


 燕枝は少し目を細めた。

 その顔に、昔の光が一瞬戻った。


「本当なら、もう少し景気よく出たかったんですがね。足が先に廃業しまして。口だけ残った。浅草には、こういう迷惑な年寄りが多い」


 笑いが広がる。


 慎吾は袖で台本を持っていた。

 燕枝は時々、台本から外れた。

 外れるたびに、慎吾の眉が動く。

 だが燕枝は戻ってくる。

 慎吾が用意した沈黙の場所で息をし、咳を笑いに変え、忘れた箇所を客の方へ放り投げる。


「昔はね、あたしもよく受けたんです。今じゃ、客より先に膝が笑う。膝に先を越されるとは思わなかった」


 客が笑う。


「若い奴に台本を書かせましてね。昔、ひどいことをした相手です」


 慎吾の手が止まった。


 菊乃は慎吾を見た。

 慎吾は舞台を睨んでいる。


 燕枝は続けた。


「その若い奴が、今は若くもなく、口だけは相変わらず若造より悪い。あいつの台本は嫌いです。人の逃げ道をふさいで、出口だけ一つ残しやがる」


 笑いが起きた。

 だが、笑いの下に、何か別のものもあった。


「けどね、芸人は出口が一つあれば、そこから出るしかないんです」


 燕枝は少し咳をした。

 その咳も、今度は誰も笑わなかった。


「今夜は、その出口を借りに来ました」


 静けさ。


 それから、燕枝は慎吾の書いた最後の噺へ入った。


 落ちぶれた芸人が、最後に自分の影と喧嘩をする話だった。

 影は若い頃の自分で、口が悪く、客を馬鹿にし、しかし笑いを捨てられない。

 年老いた芸人は影を追い払おうとするが、最後には一緒に舞台へ出るしかなくなる。


 筋は単純だった。

 だが、燕枝が言うと、古びた畳の上に長い年月が滲んだ。


 笑いが起きる。

 少し遅れて、別の客が笑う。

 そして時々、誰も笑わない沈黙がある。


 その沈黙もまた、舞台の一部になっていた。


 燕枝の声は終盤、かなり細くなった。

 それでも最後の台詞だけは、はっきり言った。


「影ってのは、邪魔なようでね。消えると、自分がどっち向いて立ってたのか分からなくなる。だからまあ、置いていきますよ。あたしの影くらい、浅草のどこかに」


 客席は静かだった。


 燕枝は少し間を置いた。


「拾った奴は、迷惑でしょうがね」


 そこで笑いが起きた。

 笑いながら、何人かが目を拭いていた。


 菊乃は袖で立ったまま、息をするのを忘れていた。


 慎吾は動かない。


 拍手が起きる。


 大きい拍手ではなかった。

 しかし長かった。

 古い客が、若い芸人が、おえんが、小春が、銀次が、小鈴が、松之助が、それぞれの手で拍手した。


 燕枝は頭を下げた。


 そのまま、しばらく上げなかった。


 舞台袖へ戻る時、燕枝は慎吾の前で止まった。


 顔色はひどく悪い。

 だが、目は満足していた。


「慎坊」


「呼ぶな」


「受けたな」


「少しな」


「お前の少しは、昔から高値だ」


「勝手に値をつけるな」


 燕枝は笑った。


「悪かったな」


 慎吾は黙った。


 燕枝は続けた。


「これは謝罪じゃねえ。返済だ。足りねえけどな」


「足りるわけないだろ」


「そう言うと思った」


「思うなら言うな」


「言わねえと、死ぬ時に口が余る」


 慎吾は目を伏せた。


「余らせて死ね」


 燕枝はまた笑った。


「お前らしい」


 その夜、燕枝は駒形座の楽屋でしばらく休んだ。


 客は帰り、舞台の灯も落ちた。

 おえんが薬湯を飲ませ、松之助が古い客への挨拶を済ませ、銀次と小鈴は小道具を片づけた。

 小春は燕枝のそばで、眠りかけている。


 慎吾は楽屋の外にいた。


 菊乃は、彼が持っていた台本を見た。

 紙の端が何度も折られている。

 書き直しの跡が黒く重なり、ところどころ赤鉛筆で逃げ道が作られている。


 慎吾の袖口は、やはりほつれていた。


 菊乃は針を手に取った。

 今度は、少し迷ってから立ち上がる。


「葉室さん」


 外の廊下にいた慎吾は振り返った。


「何だ」


「袖がほつれております」


「知ってる」


「直します」


「要らん」


「命令です」


「誰の」


「水無瀬家の」


「制度の悪用が増えたな」


「あなたが放っておくからです」


 慎吾はしばらく黙っていた。

 やがて、諦めたように袖を差し出した。


「切るなよ」


「子どもではありません」


「信用できない」


「では、自分でなさいます?」


「もっと信用できない」


 菊乃は少し笑い、廊下の灯の下で袖口を縫った。


 布は思ったより古かった。

 けれど、手入れすればまだ使える。

 慎吾はこういうものを捨てないのだろう。

 捨てないくせに、大事にしているとは言わない。

 人にも、台本にも、自分にも、たぶん同じようにする。


「今日は」


 菊乃は針を動かしながら言った。


「よい舞台でした」


「燕枝に言え」


「あなたにも言っております」


「やめろ」


「なぜ」


「褒められると、台本が腐る」


「またそれですの」


「事実だ」


 菊乃は糸を引いた。


「あなた、やっぱり見栄っ張りですわ」


 慎吾の目がこちらを向く。


「お前ほどじゃない」


「いいえ。わたくしの見栄は安物ですもの。金箔を貼って、声を張れば済みます」


 菊乃は結び目を作った。


「あなたのは、質が悪い。優しさを認めるくらいなら、自分の若い頃まで腐らせようとなさる」


 慎吾は何も言わなかった。


 廊下の奥で、小春の寝息が小さく聞こえた。

 楽屋では、燕枝が低く咳をしている。

 浅草の夜は、今日も遠くで騒がしい。


 菊乃は袖を放した。


「できました」


 慎吾は直された袖口を見た。


「下手だな」


「お礼の代わりがそれですの?」


「ほどけたら苦情を言う」


「その時は領収書を切りますわ」


「善行にもか」


「もちろん」


 慎吾は少しだけ笑った。


「面倒な女だ」


「高貴な面倒です」


 菊乃は針をしまった。


 その時、楽屋の中からおえんが顔を出した。


「葉室さん。師匠が呼んでる」


 慎吾の顔が少し固くなった。


「まだ喋るのか」


「芸人だからね」

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