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第二十六話 憎んだままでも、悔しいままでも、今日の台本はよいものでした。それだけで、十分ではありませんの

 慎吾は楽屋へ入った。


 菊乃は廊下に残ろうとした。

 だが、燕枝の声がした。


「華族様も来な」


 菊乃は小さく溜息をつき、中へ入った。


 燕枝は布団に戻されていた。

 舞台の時の光は薄れている。だが、顔は穏やかだった。


「慎坊」


「呼ぶな」


「今日の台本、悪くなかった」


「知ってる」


「嘘つけ。お前は自分の台本を一番信用してねえ」


 慎吾は黙る。


 燕枝はゆっくり息をした。


「お前の若い頃は、つまらなくなかったよ」


 慎吾の目が動いた。


「俺がつまらなくしただけだ」


「今さら綺麗に言うな」


「綺麗じゃねえ。汚ねえから、死ぬ前に言ってる」


 燕枝は菊乃の方を見た。


「こいつを頼む」


 菊乃は目を丸くした。


「なぜ、わたくしが」


「面倒だからだよ」


「面倒を見る前提で話さないでくださる?」


 慎吾が低く言う。


「爺、余計なことを言うな」


「最後くらい余計なことを言わせろ」


「お前はずっと余計だった」


「だから最後も揃えねえとな」


 燕枝は笑った。

 その笑いは、もう舞台のものではなかった。


「慎坊。人に書いてやるばかりじゃなく、たまには自分の台詞も書け」


「気色悪い遺言をするな」


「遺言じゃねえ。苦情だ」


 菊乃は、思わず慎吾を見た。


 苦情。

 慎吾がいつも好意から逃げる時に使う言葉だった。


 燕枝は目を閉じかけ、また開いた。


「華族様」


「水無瀬菊乃です」


「いい名だ。舞台で呼ばれると残る」


「……ありがとうございます」


「そいつに逃げられそうになったら、袖を掴め。口は悪いが、袖は古い。すぐ捕まる」


 慎吾が顔をしかめた。


「おい」


「見りゃ分かる」


「死にかけのくせに目だけ元気だな」


「芸人だからな」


 燕枝は満足そうに目を閉じた。


「少し寝る。拍手が残ってるうちに」


 それ以上、誰も何も言わなかった。


 その夜遅く、燕枝は静かに眠った。

 死んだわけではない。

 だが、誰も長くはないことを知っていた。

 おえんが残り、松之助も残った。

 慎吾は一度だけ燕枝を見て、外へ出た。


 菊乃も後を追った。


 駒形座の裏口には、いつもの湿った木の匂いがした。

 夜風が少し冷たい。


 慎吾は壁にもたれた。


「何だ。説教か」


「いいえ」


「じゃあ苦情か」


「少し」


「少しか」


「ええ」


 菊乃は隣に立った。


「あなたは今日、とてもよいことをなさいました」


「帰る」


「まだ本題ではありません」


「それが本題だろ」


「違います。今のは前置きです」


「最悪だな」


 菊乃は慎吾を見上げた。


「でも、あなたはきっと、明日にはそれを悪口で汚すのでしょう。自分がしたことまで貶める。燕枝師匠を許したわけではないと言い、ただ台本の出来を守っただけだと言い、客入りのためだったと言い張る」


「その通りだ」


「そこが、あなたの質の悪い見栄です」


 慎吾は顔を背けた。


「水無瀬」


「何ですの」


「今日はやけに刺すな」


「あなたに教わりました」


「教育の失敗だ」


「いいえ。成果ですわ」


 菊乃は少しだけ笑った。


「あなたは、許さなくてよいと思います」


 慎吾は黙った。


「憎んだままでも、悔しいままでも、今日の台本はよいものでした。それだけで、十分ではありませんの」


 慎吾はしばらく何も言わなかった。


 やがて、低く言った。


「十分なものなんて、俺にはほとんどない」


「では、今日のところは少しで」


「お前の真似か」


「ええ。あなたの少しは、案外高値ですもの」


 慎吾は息を吐いた。


「調子に乗るな」


「乗ります。今夜は乗る日です」


「昨日も似たようなことを言ってたな」


「わたくし、日々成長しておりますので」


「悪化だ」


「成長です」


 遠くで、太鼓の音がした。

 浅草は夜が深くても、どこかで必ず音がしている。人が笑い、人が泣き、人が怒り、人が眠り損ねる。

 そのすべてを、町は翌朝にはだいたい忘れてしまう。


 けれど、今日の拍手は少し残るだろうか。


 慎吾がぽつりと言った。


「お前の前座、悪くなかった」


 菊乃は目を丸くした。


「今、褒めました?」


「取り消す」


「いけません。もう受け取りました」


「返せ」


「領収書を切りましたので」


「またか」


「高貴な保管です」


 慎吾は口元を歪めた。


 菊乃も笑った。


 楽屋の隅に置かれていた野菊の匂いが、夜風に少しだけ混じった。

 黒川の花のように華やかではない。

 けれど、今夜の駒形座には、その小さな匂いの方が似合っていた。


 慎吾は懐から折れた赤鉛筆を出した。


 しばらく見て、それを菊乃へ差し出す。


「捨てろ」


「なぜ、わたくしが」


「お前は余計なものを拾うのが得意だろ」


「失礼ですわね」


 菊乃はそれを受け取った。


 折れた赤鉛筆。

 役には立たない。

 だが、捨てるには少しだけ重い。


「預かっておきます」


「捨てろと言った」


「高貴な保管です」


「盗人の言い訳だ」


「華族の言い訳です」


「どっちにしても悪質だな」


 菊乃は赤鉛筆を袂にしまった。


 慎吾はそれを見て、何も言わなかった。


 浅草の灯が、夜の底でまだ燃えている。

 古い芸人の拍手も、若い日の怒りも、言えなかった謝罪も、すべてその灯の中で少しずつ形を変えていく。


 葉室慎吾は、その灯の下で、また台詞を書くのだろう。


 褒められないまま。

 許さないまま。

 それでも、誰かがつまらないまま終わらないように。


 菊乃はそう思った。


 そして、それを口に出さないでおいた。

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