第二十七話 水無瀬家からの招待状
燕枝師匠は、それから三日ほど生きた。
最後の高座のあと、急に悪くなることもなく、かといって持ち直すこともなく、細い火が芯だけで燃えているように眠ったり起きたりした。
おえんが看て、松之助が顔を出し、古い芸人が一人、二人、酒を持たずに訪ねてきた。
慎吾は一度だけ行った。
帰ってきた時、何を話したのか、誰にも言わなかった。
ただ、赤鉛筆を一本買ってきて、いつもの机に置いた。
前に折れた鉛筆のことなど、まるで最初からなかったような顔をしていた。
その前の赤鉛筆は、菊乃の袂の中にまだある。
捨てろと言われた。
だから捨てなかった。
高貴な反抗である。
楽屋では、燕枝の最後の高座の話がまだ尾を引いていた。
銀次は、あの噺の間を真似しては慎吾に怒られ、小鈴は「最後に影を置いていく」という台詞を少し気に入っていた。
小春は燕枝から貰った古い手拭いを大事に畳んでいる。
菊乃は、舞台袖で扇を開いたり閉じたりしていた。
落ち着かない。
その理由は、燕枝のことだけではない。
水無瀬宗親からの手紙が、荷物の底でまだ薄い音を立てているような気がする。
近く黒川栄之丞殿と会う機会を設ける。
水無瀬家のため、軽率な振る舞いは慎むこと。
浅草の舞台についても、改めて話す必要がある。
短い手紙だった。
短いから、余計に逃げ場がない。
長々と説かれれば、こちらも長々と反論できる。
短い命令には、反論の足場が少ない。
水無瀬宗親という男は、それをよく知っていた。
「菊乃さん」
小鈴が鏡の前から声をかけた。
「さっきから扇、うるさいですよ」
「これは音ではありません。気品の羽ばたきですわ」
「気品って、そんなにせわしないんですか」
「あなた、葉室さんに似てきましたわね」
「それは嫌です」
即答されたので、慎吾が机から顔を上げた。
「嫌がるなら、もっと真剣に嫌がれ。軽いだろ」
「真剣に嫌です」
「よし」
「なぜ満足なさるのです」
菊乃が言うと、慎吾は赤鉛筆を削りながら答えた。
「俺は嫌われ方にはうるさいんだ」
「好かれ方にも少しは気を配ったらいかがですの」
「面倒だ」
「それで済ませる人生、そろそろ破綻いたしません?」
「もうしてる。遅い」
銀次が横から口を挟んだ。
「兄さん、今日は妙に正直ですね」
「お前を黙らせるためだ」
「俺、何もしてないのに」
「これからする」
楽屋に少し笑いが起きた。
その笑いが、すぐに消えた。
表から、松之助の声がした。
「菊乃さん。お客だ」
菊乃は扇を止めた。
松之助の声は、いつもより硬かった。黒川が来た時の声とも違う。もっと古く、もっと厄介なものを楽屋へ通そうとしている声だった。
菊乃は立ち上がった。
楽屋口に、男がいた。
背は高くない。
痩せているが、姿勢は良い。
紺の羽織に、手入れの行き届いた袴。顔立ちは静かで、目元だけが冷えている。
年は五十を越えているだろう。
貧しくは見えない。けれど豊かにも見えない。
体面を削って削って、最後の薄皮だけ残したような男だった。
水無瀬宗親。
菊乃の叔父である。
彼が駒形座の楽屋に立つと、そこだけ急に温度が下がったように見えた。
白粉の匂い、古い衣装、畳の擦り切れ、銀次の足袋、小春の手拭い。
そういう浅草の雑多なものが、宗親の目に触れた途端、少しずつ恥じ入るようだった。
菊乃は、自分の背が小さくなった気がした。
「叔父様」
声は、思ったより小さく出た。
慎吾がこちらを見た。
その目に何かが動いたが、何も言わない。
宗親は菊乃を見た。
「久しいな、菊乃」
「ご無沙汰しております」
「手紙は読んだな」
「はい」
「返事がなかった」
「……申し訳ございません」
宗親は楽屋の中を見渡した。
銀次は口を閉じた。
小鈴も黙った。
小春はおえんの手拭いを膝に抱えたまま、菊乃と宗親を交互に見ている。
松之助は、どう挨拶すべきか迷っている顔をしていた。
慎吾だけが、机に座ったままだった。
宗親の視線が慎吾に止まる。
「そちらは」
菊乃が答える前に、慎吾が言った。
「葉室慎吾」
それだけだった。
宗親は眉をわずかに動かした。
「水無瀬家の者に対して、その口の利き方か」
「水無瀬家の者が俺の給金を払ってるわけじゃないからな」
松之助が顔を青くした。
「葉室」
「何だ」
「少しは」
「嫌だ」
宗親は慎吾をじっと見た。
怒鳴らない。
声を荒げない。
ただ、相手を低く見る。
華族家の古い男たちには、そういう目の使い方がある。
菊乃はそれをよく知っていた。
宗親は言った。
「噂には聞いていた。口の悪い台本書きがいると」
「いい噂だな。実に正確だ」
「帝大を出た男が、浅草でこういう仕事をしているとはな」
「水無瀬家の娘が同じ小屋にいるんだ。ここは肩書の墓場には悪くないだろ?」
空気が張った。
菊乃は思わず言った。
「葉室さん」
慎吾は菊乃を見た。
それが、菊乃には少しつらかった。
何をそんな顔をしている、と言われたような気がした。
だが、叔父の前で慎吾を庇うことも、慎吾の無礼をそのままにすることも、どちらもひどく難しい。
菊乃の中で、浅草の自分と水無瀬家の自分が、同じ扇を取り合っている。
宗親は菊乃へ向き直った。
「菊乃。外で話す」
「ここでは」
「ここで話す内容ではない」
その言い方に、楽屋の全員が「ここ」を見た。
古い小屋。
浅草の楽屋。
菊乃が何度も笑われ、何度も立った場所。
宗親にとっては、話すに値しない場所だった。
慎吾の赤鉛筆が、机の上でかたりと鳴った。
菊乃はそれを聞いた。
聞いたが、何も言えなかった。
「……承知いたしました」
菊乃は扇を閉じ、宗親に従って楽屋を出た。




