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第二十八話 便利な言葉だな、部外者。見られたくない時に出す暖簾みたいだ

 駒形座の表へ出ると、昼の浅草はいつも通り騒がしかった。


 水無瀬宗親は、その騒がしさを少しも身体に入れなかった。

 通りの客引きも、活動写真館の看板も、焼き団子の匂いも、彼の周囲では薄い紙の向こう側のものに見えた。


 菊乃は、叔父の半歩後ろを歩いた。


 昔からそうだった。

 水無瀬家では、宗親の前に出て歩くことはなかった。

 幼い頃は、それが作法だと思っていた。

 今は、それが首にかかった紐の長さだったのだと分かる。


 宗親は駒形座の隣の小さな茶店へ入った。


 奥の席に座る。

 菊乃は向かいに座った。

 茶が運ばれるまで、二人とも話さなかった。


 やがて宗親が口を開いた。


「新聞を読んだ」


「はい」


「水無瀬の名が出ていた」


「……はい」


「浅草の小屋で、華族家の娘が笑われる記事だ」


 菊乃は膝の上で扇を握った。


「笑われたのではありません。笑わせたのです」


「同じことだ」


「違います」


 思ったより強く言ってしまった。


 宗親の目が細くなる。


 菊乃はすぐに背筋を伸ばした。

 怯んだと思われたくなかった。

 だが、怯んでいないふりをしていることまで見透かされていそうだった。


「違う、か」


 宗親は静かに言った。


「では、その違いで水無瀬家の借財が消えるのか」


 菊乃は言葉を失った。


 借財。

 水無瀬家では、あまり口に出されない言葉だった。

 口に出さないことで、そこにあることを隠している。

 けれど、隠された借金は、消えるわけではない。

 襖の奥で湿気るだけだ。


「黒川家の栄之丞殿が、お前に関心を持っている」


 宗親は続けた。


「黒川家は近年、実業で力を持っている。金もある。水無瀬家と縁を結びたいという話は、以前からあった」


「わたくしは聞いておりません」


「聞かせる段階ではなかった」


「では、花を贈らせる段階ではあったのですか」


 宗親の眉が少し動いた。


「栄之丞殿の厚意だ」


「厚意」


 菊乃は反芻した。


 言葉が喉にひっかかる。

 黒川の花。宗親の手紙。水無瀬家の借財。駒形座の隣の空き地。

 どれも別々のようで、同じ紐に通されている気がした。


「叔父様」


「何だ」


「黒川家は、駒形座にも関心を持っているのではありませんか」


 宗親はすぐには答えなかった。


 それが答えに近かった。


「浅草の小屋など、我々には関係ない」


「我々には、ですか」


「菊乃」


 声が少し低くなった。


「お前は水無瀬の娘だ。浅草で笑われるために育てられたのではない」


 その言葉は、予想していた。

 予想していたのに、胸に刺さった。


 駒形座で倉橋に言われた時より、深かった。

 倉橋は昔を見て笑っただけだった。

 宗親は、菊乃の今を否定している。


「では、何のために育てられたのでしょう」


 菊乃は聞いた。


 宗親は冷静だった。


「水無瀬の名を損なわぬためだ」


「名のために、わたくしがあるのですか」


「華族家に生まれるとは、そういうことだ」


「家名があれば、わたくしは不要ですか」


「詭弁を弄するな」


 宗親の声が鋭くなった。


「お前が賢しく言葉を飾るようになったのは、あの台本書きの影響か」


 菊乃は黙った。


 慎吾の名を出されると、なぜか反論が遅れる。

 それがまた腹立たしい。


「帝大を出ながら浅草に流れた男。そういう男は、自分が落ちたことを世の中のせいにする。お前は、ああいう者に近づきすぎている」


「葉室さんは、そのような方では」


 言いかけて、菊乃は止まった。


 では、どのような方なのか。


 口が悪い。

 意地が悪い。

 優しさを苦情と呼ぶ。

 人を崖の前に立たせるくせに、底の深さだけは測っている。


 そんな説明を宗親にしても、伝わるわけがない。


 宗親は菊乃の沈黙を、別の意味に取ったようだった。


「反論できぬだろう」


「違います」


「何が違う」


「反論できないのではありません。叔父様に通じる言葉を探しているのです」


 宗親の目が冷えた。


 菊乃は自分でも驚いた。

 こんなことを叔父に言う日が来るとは思わなかった。


 しかし口に出した瞬間、胸の奥が少し軽くなった。


「浅草で、言葉ばかり覚えたようだな」


「ええ」


 菊乃は静かに返した。


「舞台では、黙っていると誰も見てくれませんもの」


「見られる必要はない」


「わたくしにはあります」


「菊乃」


「あります」


 二度目は、少し強かった。


 宗親は茶碗を置いた。


「黒川栄之丞殿との面会は三日後だ。お前は同席する。浅草の舞台は、しばらく控えろ」


「お断りいたします」


 言ってしまった。


 宗親はしばらく菊乃を見ていた。


「今、何と言った」


「お断りいたします」


 声は震えていた。

 だが、言い直さなかった。


 宗親は怒鳴らなかった。

 その代わり、ひどく静かな声で言った。


「水無瀬家を潰す気か」


 菊乃は息を止めた。


「お前一人の意地で、家の名がさらに笑われても構わぬのか。黒川家との縁は、家を立て直す機会だ。お前が浅草でどんな芝居を覚えたか知らぬが、家の現実は舞台の台詞では動かぬ」


 それは正しかった。


 正しさは時々、刃物より始末が悪い。

 嘘なら憤れる。悪意なら笑える。

 だが、正しい言葉は、反論する側を一段低く見せる。


 菊乃は、扇を握った手に力を入れた。


「わたくしが黒川家へ嫁げば、水無瀬家は助かるのですか」


「助かる道が開ける」


「駒形座は?」


「関係ない」


「黒川家がこの辺りの土地を見ているのに?」


「お前には関係ない」


「ございます」


「ない」


 宗親は即座に切った。


「浅草の小屋は、お前の家ではない」


 菊乃は黙った。


 その時、茶店の入口で小さな鈴が鳴った。


 菊乃が振り向くと、慎吾が立っていた。


 いつからいたのか分からない。

 いつものように、少し面倒そうな顔をしている。だが目だけは、茶店の中のものを一つずつ正確に見ていた。


「葉室さん」


 菊乃は立ち上がりかけた。


 慎吾は手で制した。


「続けろ。ちょうどつまらなくなってきたところだ」


 宗親が眉をひそめる。


「なぜここにいる」


「茶を飲みに来た」


「嘘を言うな」


「じゃあ本当を言う。お前が泣きそうな顔で戻ってくると、芝居の邪魔になるんだ」


 菊乃は息を呑んだ。


「泣きそうな顔など」


「してる」


 慎吾は容赦なく言った。


 宗親は不快そうに慎吾を見た。


「これは水無瀬家の話だ。部外者が口を出すな」


「便利な言葉だな、部外者。見られたくない時に出す暖簾みたいだ」


「無礼な男だ」


「それはもう聞いた。浅草ではこれでも評判なんだ」


 宗親の声が冷たくなる。


「菊乃。この男と関わることを、私は認めない」


 菊乃は反射的に慎吾を見た。


 慎吾は笑った。

 意地の悪い笑いだった。


「よかったな、水無瀬。認められないらしいぞ。水無瀬家のお墨付きがないと、俺も少し品が上がる」


「葉室さん」


「何だ」


「今、それを言う場面ですの?」


「むしろ今しかない」


 宗親は立ち上がった。


「菊乃、帰るぞ」


 帰る。


 その言葉が、子どもの頃と同じ響きで落ちてきた。

 帰る場所があることは、時々救いである。時々、牢である。


 菊乃は動かなかった。


 宗親は慎吾を見た。


「お前のような男が、菊乃に何を吹き込んだ」


「俺は何も吹き込まない。こいつが勝手にうるさくなったんだ」


「ふざけるな」


「ふざけてない。水無瀬菊乃は、ふざけるには手間のかかる女だ」


 慎吾は菊乃を見る。


 その目は、いつものように読みにくかった。


「帰ればいい」


 菊乃は動きを止めた。


 慎吾は続けた。


「家名つきの鳥籠だ。餌くらいは出る」


 茶店の中の音が消えた。


 菊乃は、慎吾の顔を見た。


 冗談ではない。

 冗談の形をしているが、違う。


 たぶん彼は、菊乃に自分で選ばせようとしている。

 引き止める資格がないと思っている。

 水無瀬家と駒形座と黒川家の間で、菊乃がどこに立つかを、他人が決めてはいけないと思っている。


 そこまでは分かる。


 分かるのに、痛かった。


「……そうですか」


 声が平らになった。


 慎吾の眉が、ほんの少し動く。


 菊乃は扇を閉じた。


「葉室さんにとって、わたくしが帰ることは、その程度のことですのね」


「水無瀬」


「よく分かりました」


 菊乃は宗親へ向き直った。


「叔父様。一度、家へ戻ります」


 宗親は少し安堵したように見えた。


「それでよい」


「ただし、黒川様との面会を受けるとは申しておりません」


「菊乃」


「話を聞きに戻るだけです」


 宗親は不満そうだったが、ここで争うのは避けたようだった。


「よかろう」


 菊乃は慎吾を見なかった。


 見れば、何か言ってしまう。

 何か余計なことを。あるいは、余計でないことを。


 どちらにせよ、今は言いたくなかった。


 菊乃は茶店を出た。


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