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第二十九話 浅草の耳はよく聞こえる

 浅草の通りは、先ほどと同じように騒がしい。

 だがその音が、急に遠かった。

 人の声も、車の鈴も、焼き団子の匂いも、自分から一枚隔てられている。


 宗親の人力車が待っていた。


 菊乃は乗らなかった。


「歩きます」


「何を言う」


「歩きます。水無瀬家まで、道は分かりますもの」


「その格好でか」


「浅草の舞台に立つ格好で、家へ戻ります」


 宗親は何か言いかけ、やめた。


 菊乃は歩き出した。


 背中に、慎吾の視線があるような気がした。

 振り返らなかった。


 駒形座に戻った慎吾は、楽屋でしばらく何も言わなかった。


 銀次が一度、声をかけかけて、小鈴に止められた。

 松之助は事情を察したのか、帳面を閉じたまま煙草に火をつけた。

 小春は、菊乃のいない楽屋を不安そうに見回している。


 慎吾は机に座った。


 台本を開く。

 赤鉛筆を持つ。

 何も書かない。


 しばらくして、銀次が恐る恐る言った。


「兄さん」


「何だ」


「菊乃さん、戻ってきますよね」


「知らん」


「知らんって」


「俺は予言者じゃない」


「でも、兄さんなら分かるでしょう」


 慎吾は銀次を見た。


「分かることと、言えることは違う」


 銀次は黙った。


 小鈴が静かに言った。


「追わないんですか」


「何を」


「菊乃さんを」


「家に帰っただけだ」


「そういう言い方」


「じゃあ、何と言えばいい」


 小鈴は答えられなかった。


 慎吾は台本へ目を落とした。


 そこには、明日の菊乃の台詞がある。

 高慢で、臆病で、よく噛んで、時々客をつかむ女の台詞。


 慎吾はその頁を見たまま、赤鉛筆を動かさなかった。


 松之助が煙を吐いた。


「葉室」


「何だ」


「お前、相変わらず言い方が悪いな」


「今さらか」


「今さらだ」


「なら言うな」


「言わねえと気が済まねえ」


 松之助は苦い顔で笑った。


「お前は、菊乃さんに自分で選ばせたかったんだろ」


「違う」


「違わねえよ」


「違う」


「じゃあ、何だ」


 慎吾は赤鉛筆を机に置いた。


「引き止める理由がない」


 誰もすぐには言葉を返せなかった。


 慎吾は続けた。


「ここにいれば、借金取りも、黒川も、水無瀬家も、小屋の面倒も全部来る。向こうへ戻れば、少なくとも飯は出る。布団もある。家名も残る。鳥籠でも、外よりは風が少ない」


 小鈴が言った。


「でも、菊乃さんは」


「俺が決めることじゃない」


「兄さん」


 銀次が思わず言った。


「それ、賢いふりして逃げてるだけじゃないですか」


 慎吾の目が銀次へ向いた。


 空気が凍った。


 銀次は一瞬怯んだが、言ってしまったものを戻せなかった。


「すみません。でも、そう見えます」


 慎吾はしばらく黙っていた。


 やがて低く言った。


「見えるなら、お前の目も少しは働くようになったな」


 それだけだった。


 銀次は何も言えなかった。


 その日の舞台は、菊乃抜きで行われた。


 小鈴が代役を務めた。

 銀次は普段より真面目に台詞を言い、小春は不安を隠すように大きな声を出した。

 客はそれなりに笑った。

 小屋は動いた。

 菊乃がいなくても、舞台は止まらない。


 止まらないことが、慎吾には腹立たしかった。


 台本は書きやすくなった。

 菊乃の変な間も、勝手な応用も、余計な高笑いもない。

 筋は通る。役者は動く。客も笑う。


 なのに、どこか白い。


 紙の上のものが、紙のまま舞台へ上がっているようだった。


 終演後、慎吾は菊乃の台詞が書かれた頁を抜き取った。


 捨てようとして、やめる。


 新しい紙に、別の台詞を書こうとした。

 手が止まる。


 おえんが楽屋口に立っていた。


「葉室さん」


「何だ」


「菊乃さん、行ったんだって」


「耳が早いな」


「浅草の耳はよく聞こえるんだよ」


「じゃあ、余計なことも聞こえただろ」


「聞こえたね。あんたが馬鹿を言ったって」


 慎吾は何も言わなかった。


 おえんは楽屋へ入り、机の前に立った。


「あんた、いつまで賢いふりをしてるんだい」


「ふりじゃない。周囲よりは賢い」


「そういうところが馬鹿だって言ってんだよ」


 慎吾は台本を閉じた。


「説教なら間に合ってる」


「足りてないから言ってる」


「おえん」


「何だい」


「俺が行ったところで、何を言う」


「知らないよ。自分で考えな」


「考えた結果がこれだ」


「なら考え直しな」


 おえんはそれだけ言って、出ていった。


 慎吾は机に残された紙を見た。


 菊乃の台詞。

 いない女のための台詞。


 紙は、ただそこにある。

 人を縛ることも、外へ出すこともできるくせに、今は何もしてくれない。


 慎吾は赤鉛筆を取った。


 そして、菊乃の出番を消さなかった。

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