第三十話 家名つきの鳥籠
その夜、水無瀬家の門は、菊乃を静かに迎えた。
門番は驚いた顔をしたが、すぐに頭を下げた。
玄関の灯は浅草よりずっと控えめで、廊下の板は冷たい。
庭は整いすぎていて、草一本、勝手に伸びていないように見えた。
懐かしいはずだった。
だが、菊乃には、どこかよその家のように思えた。
女中が出てきて、菊乃の舞台衣裳を見て一瞬だけ目を伏せた。
その目の伏せ方に、菊乃は昔の自分を思い出した。
見てはいけないものを見る時、人はああいう顔をする。
宗親は奥の座敷で待っていた。
「戻ったか」
「はい」
「その格好は改めなさい」
「のちほど」
「今だ」
菊乃は宗親を見た。
浅草なら、ここで何か言えたかもしれない。
水無瀬家の座敷では、言葉が畳に沈んでしまう。
それでも、菊乃は言った。
「この格好で戻ると決めましたので」
宗親の目が冷える。
「浅草の癖が抜けんな」
「まだ、抜く気はございません」
「強情になった」
「もとからですわ」
宗親は少し疲れたように息を吐いた。
「明日、黒川栄之丞殿が来る。お前は同席する」
「話を聞くために戻っただけです」
「聞けば分かる」
「何がでしょう」
「水無瀬家にとって、何が必要かだ」
菊乃は視線を落とした。
座敷の畳は、美しかった。
駒形座の畳とは違う、擦り切れていない畳だった。
白粉の粉も落ちていない。
小春が走った跡も、銀次が足袋を投げた跡もない。
きれいすぎる畳だ。
「わたくしにとって必要なものは、誰が決めるのですか」
菊乃が言うと、宗親は少しだけ眉を上げた。
「菊乃。水無瀬家の娘としての分を忘れるな」
「忘れたことはありません」
「ならばよい」
「忘れたことがないから、苦しいのです」
宗親は黙った。
菊乃は続けようとした。
しかし言葉が出なかった。
浅草ではあれほど喋れるのに、この座敷では、声が細くなる。宗親にだけではない。襖、掛軸、家紋、手入れされた庭。そういうものが、菊乃の舌を静かに押さえ込む。
宗親は立ち上がった。
「休め。明日、失礼のないように」
それだけ言って、部屋を出た。
菊乃は一人、座敷に残った。
夜の水無瀬家は静かだった。
静かすぎて、自分の呼吸が聞こえる。
浅草では、どこかで必ず誰かが笑っていた。
ここでは、誰も笑わない。
菊乃は袂に手を入れた。
折れた赤鉛筆が、指に触れた。
捨てろと言われたもの。
預かっているもの。
それを取り出し、畳の上に置いた。
赤い小さな線が、座敷の端正さを少しだけ乱した。
菊乃は、なぜかほっとした。
「……家名つきの鳥籠」
小さくつぶやく。
慎吾の言葉が、まだ痛い。
あの男は、たぶん自分を追い出したわけではない。
たぶん。
だが、たぶんで慰められるほど、菊乃は素直ではなかった。
「餌くらいは出る、ですって」
腹が立った。
腹が立つのに、涙が出そうになった。
それがもっと腹立たしかった。
菊乃は扇を開いた。
けれどここでは、その音がやけに大きく響いた。
浅草では、扇の音など誰も気にしなかった。
この家では、布の擦れる音まで行儀を求められる。
菊乃は扇を閉じた。
そして、赤鉛筆を握った。
水無瀬家の夜は長い。
浅草のように、勝手に灯が増えてはくれない。
それでも菊乃は、その夜、折れた赤鉛筆を枕元に置いて眠った。
捨てなかった理由は分からない。
ただ、鳥籠の中にも、一本くらい不作法なものがあってよいと思った。




