第三十一話 人は一度死ななければ、生まれ変われませんものね
水無瀬家の朝は、音が少なかった。
女中の足音も、茶碗の触れる音も、庭に水を撒く音も、みな小さく躾けられている。
浅草では朝から誰かが喧嘩をし、誰かが笑い、誰かが飯の匂いを大げさに立てていた。
ここでは、味噌汁の湯気さえ行儀よく上へ立つ。
菊乃は、久しぶりに自分の家の朝食を前にしていた。
器は上等だった。
焼き魚はきれいに盛られ、漬物は小皿に少しだけ置かれている。
飯も味噌汁も温かい。
駒形座の楽屋で、銀次が買ってきた安い握り飯を、文句を言いながら食べるのとはまるで違う。
餌くらいは出る。
慎吾の言葉が、箸先に絡んだ。
菊乃は魚の身をほぐした。
ほぐしただけで、食べなかった。
「お嬢様」
年嵩の女中が、静かに声をかけた。
「お加減が?」
「何でもありませんわ」
何でもない。
昨夜から、何度もそう言っている気がする。
何でもないと言う時ほど、だいたい何かある。
慎吾ならそう言うだろう。
菊乃は無理に一口食べた。
味は悪くない。むしろ、きちんとしている。
だが、口の中で少し遠かった。
奥の座敷へ呼ばれたのは、昼前だった。
宗親はすでに座っていた。
その隣に、黒川栄之丞がいた。
浅草で見た時と同じように、身なりは整っている。
だが水無瀬家の座敷に座ると、その整い方がいっそう自然に見えた。
金で磨かれた男は、古い畳の上でも光る。
いや、古い家の方が、彼の光を利用したがっているのかもしれない。時代というものに流された、かつての栄光を卑しくも求めている。
「水無瀬さん」
黒川は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「またお会いできて光栄です」
菊乃も礼をした。
「先日は、お花をありがとうございました」
「お気に召したなら幸いです」
「大変、白うございましたわ」
黒川は一瞬だけ間を置き、笑った。
「白い花がお嫌いですか」
「いいえ。枯れ始めがよく分かって、勉強になりました」
宗親の眉が動いた。
「菊乃」
「失礼いたしました」
菊乃は畳へ視線を落とした。
黒川は不快そうにはしなかった。
むしろ、面白がっているように見えた。
「率直な方だ」
「浅草で悪い影響を受けましたの」
「葉室慎吾さんですか」
その名が出た瞬間、菊乃は顔を上げた。
黒川は穏やかに続ける。
「口の鋭い方ですね。大学を出ていながら、ああいう場所で筆を取っている。少し調べましたが、なかなか興味深い」
「人を調べるのがお好きですのね」
「商いには必要です」
「人も商いの内ですか」
「残念ながら、多くの場合は」
宗親が低く咳をした。
「栄之丞殿は、正直にお話しくださっている」
「ええ。正直というのは、時々、たいへん便利な無礼ですわね」
宗親の目が冷えた。
だが黒川は笑った。
「あなたは、あの小屋にいる時の方が言葉がよく動く」
「ここでは、動かしてよい言葉が少のうございますので」
「では、増やしましょう」
黒川は、懐から一枚の紙を出した。
きちんと折られた紙だった。
紙を見ると、菊乃は慎吾を思い出す。
彼は紙を嫌っているくせに、紙で人が動くことをよく知っている。
「これは?」
菊乃が聞くと、黒川は宗親へ目をやった。
宗親が答えた。
「水無瀬家の借財整理に関する案だ」
菊乃は紙を見た。
文字が並んでいる。
金額。期日。保証。譲渡。縁組。
すべての字が、こちらを見ずに話を進めているようだった。
「わたくしにも読ませていただけますの」
「もちろんです」
黒川が紙を差し出す。
菊乃は受け取った。
全ては分からない。
だが、分かる箇所だけで十分だった。
黒川家は水無瀬家の借財を一部肩代わりする。
その代わり、黒川栄之丞と水無瀬菊乃の縁談を進める。
さらに、水無瀬家が所有する古い権利や人脈を介して、浅草一帯の興行権整理に協力する。
駒形座の名はなかった。
なかったからこそ、菊乃は分かった。
「駒形座は、ここに書かれておりませんのね」
黒川は微笑んだ。
「まだ書く段階ではありません」
「書くおつもりはあるのですね」
「浅草には、整理されるべき場所が多い。古い小屋、半端な権利、危うい興行。これからの時代には、もう少し明るく、大きく、きれいな場所が必要です」
その言葉は、よく磨かれていた。
明るく。
大きく。
きれいに。
駒形座の楽屋を思い出した。
曇った鏡、擦り切れた畳、古い衣装、折れた赤鉛筆。小春の笑い声。銀次の失敗。小鈴の怒った顔。松之助の帳面。おえんの味噌汁の匂い。
あれは、きれいではなかった。
だが、なくなってよいものとは思えなかった。
「その整理の中に、駒形座も入りますの」
「可能性としては」
「潰す、ということですね」
「言葉が強い」
「では、何とおっしゃいますの」
「生まれ変わらせる」
菊乃は笑った。
自分でも、冷たい笑いだと思った。
「人は一度死ななければ、生まれ変われませんものね」
黒川の笑みが少し薄くなった。
宗親が言った。
「菊乃。栄之丞殿は、時代を見ておられる」
「時代は、駒形座の畳までは見てくださいませんわ」
「だからこそ、見る者が必要なのだ」
「値踏みする者ではなく?」
宗親は黙った。
黒川は紙を畳む。
「水無瀬さん。あなたは、浅草に愛着をお持ちのようだ」
「まだ分かりません」
「分からない?」
「ええ。好きだと言うには腹が立ちますし、嫌いだと言うには、少々戻りたくなります」
黒川は、今度は本当に興味を持ったように菊乃を見た。
「葉室さんの影響ですか」
「わたくしの言葉です」
「それは失礼」
「そうですわ。そこは、たいへん失礼です」
宗親が強く言った。
「菊乃」
菊乃は宗親を見た。
「お前は、今どこにいるつもりだ」
その問いは、座敷の真ん中へ落ちた。
水無瀬家。
浅草。
駒形座。
黒川の紙。
慎吾の台本。
どこにいるのか。
菊乃は答えられなかった。
答えられないことを、宗親は分かっていたのだろう。
彼は静かに続けた。
「水無瀬家へ戻れ。舞台は、遊びとしては面白かったのかもしれぬ。だが、お前は水無瀬家の娘だ。家を救える立場にいる」
「わたくしが、家を救うための品物だと?」
「言い方を慎め」
「慎むと、意味が変わりますの?」
宗親の頬がわずかに動いた。
黒川は二人を見ていた。
止めない。
止める必要がないのだ。
宗親の言葉も、菊乃の反発も、彼にとっては計算に入っているのかもしれない。
菊乃は紙を返した。
「今日は、お話を伺いました」
「それで?」
「考えます」
宗親の目が鋭くなる。
「考える時間は多くない」
「存じております」
「浅草へは戻るな」
菊乃は膝の上の手を握った。
「それも、考えます」
「菊乃」
「考えます」
今度は、声が震えなかった。
黒川は立ち上がった。
「今日はここまでにしましょう。水無瀬さんにも、急な話だったでしょうから」
「ご配慮、痛み入りますわ」
菊乃は礼をした。
黒川は微笑む。
「あなたには、あの小屋より広い場所が似合うと思います」
「広ければよいとは限りません」
「狭いところがお好きですか」
「狭くても、人の声が届く場所なら」
黒川は少し黙った。
それから、柔らかく言った。
「ますます惜しい」
菊乃は返事をしなかった。
黒川が去ったあと、宗親はしばらく座敷に残った。
「お前は、あの台本書きに毒されている」
「そうかもしれません」
「認めるのか」
「毒も、時には薬になりますわ」
「詭弁だ」
「叔父様は、わたくしの言葉をすべて詭弁になさいますのね」
宗親は疲れた顔をした。
「菊乃。私はお前を憎んでいるわけではない」
「存じております」
「家を守らねばならぬ」
「それも、存じております」
「ならば」
「だから苦しいのです」
宗親は黙った。
菊乃は座敷の襖を見た。
この家には、何度も守られてきた。
同時に、何度も閉じ込められてきた。
その二つは、時々同じ形をしている。
「少し、部屋へ戻ります」
宗親は止めなかった。
菊乃は自分に与えられた部屋へ戻った。
畳の上に、昨夜置いた折れた赤鉛筆がまだあった。
女中は触らなかったらしい。
菊乃はそれを拾った。
短く、折れて、芯は斜めに欠けている。
けれど赤い。
赤鉛筆を見ていると、ふと慎吾の声が聞こえるようだった。
帰ればいい。
家名つきの鳥籠だ。餌くらいは出る。
腹が立つ。
腹が立つから、忘れられない。
菊乃は机に向かい、紙を一枚引き寄せた。
筆を持つ。
慎吾へ手紙を書こうとした。
――葉室さん。
そこまで書いて、止まった。
何を書くのか。
助けてください?
迎えに来てください?
黒川が駒形座を狙っています?
叔父様がわたくしを戻そうとしています?
あなたはなぜ、あんな言い方をしたのですか?
どれも書けなかった。
どれも、負ける気がした。
菊乃は紙を丸めた。
丸めて、また広げた。
慎吾なら「紙にも迷惑だ」と言うだろう。
結局、何も書かなかった。




