第三十二話 あいつは逃げる。だが、最後には戻る。腹立たしいことにな
その頃、駒形座では稽古が止まっていた。
菊乃の出番が空いている。
小鈴が代役をしようとしたが、慎吾が「違う」と言った。
銀次が冗談で菊乃の真似をしたら、慎吾に台本で頭を叩かれた。
小春が心配そうに「菊乃さんの台詞、なくすの?」と訊くと、慎吾は少し黙ってから「なくさない」と答えた。
なくさない。
ただ、それ以上が書けなかった。
机の上には、黒川のことを調べた紙が散らばっている。
黒川家。
砂糖問屋。
金融。
神田の仁村。
浅草一帯の借地権。
駒形座の隣地。
水無瀬家の借財。
線はかなり見えてきた。
見えているのに、肝心の女がいない。
慎吾は赤鉛筆を机に置いた。
銀次が言う。
「兄さん、やっぱり迎えに」
「行かない」
「まだ何も」
「言うことは分かる」
「じゃあ、先に答えないでくださいよ」
「時間の節約だ」
小鈴が静かに言った。
「菊乃さん、引き止めてほしかったんじゃないですか」
慎吾は小鈴を見た。
小鈴は怯まなかった。
「あたしなら、そうです」
「お前ならな」
「菊乃さんだって女です」
「知ってる」
「知ってる顔じゃないです」
「どういう顔だ」
「紙のことばかり見て、人の顔を見ない顔」
銀次が小さく「おお」と言った。
慎吾は銀次を見る。
「感心するな。お前まで刺されたいのか」
「黙ります」
慎吾は台本を閉じた。
「行って何を言う。戻れ、と? 浅草にいろ、と? 駒形座のために、黒川と水無瀬家と家名を全部敵に回せと?」
小鈴は黙った。
慎吾の声は低かった。
「それを言う資格が、俺のどこにある」
誰も答えなかった。
答えがないと分かっていたから、慎吾は余計に腹が立った。
おえんが、いつの間にか楽屋口にいた。
「資格なんて、言い訳に使うには上等すぎるね」
慎吾は顔をしかめた。
「また来たのか」
「飯を持ってきたんだよ。ついでに馬鹿も見に来た」
「見物料を取るぞ」
「取れる顔してないよ」
おえんは握り飯の包みを置いた。
「菊乃さん、戻ってくるかね」
小春が真っ先に顔を上げた。
「戻ってくるよね?」
慎吾は答えなかった。
おえんは慎吾を見た。
「あんたは、どう思ってる」
「戻る」
その答えは、思ったより早かった。
銀次も小鈴も、小春も松之助も、慎吾を見た。
慎吾は面倒そうに言った。
「あいつは逃げる。だが、最後には戻る。腹立たしいことにな」
「なら、迎えに行けばいいじゃないか」
おえんが言う。
慎吾は握り飯を見た。
「俺が行くと、逃げ道が増える」
「違うね」
「何が」
「あんたが怖いだけだ」
慎吾は黙った。
おえんはそれ以上言わなかった。
それがいっそ、効いた。
夕方、駒形座に黒川の使いが来た。
封書だった。
松之助が受け取り、顔色を変えた。
「葉室」
「何だ」
「明後日までに、隣地の使用について話をしたいとさ。黒川家の代理人からだ」
慎吾は封書を開いた。
読んでいるうちに、目が少し冷えていく。
「なるほど」
「どういうことだ」
「隣の空き地を押さえた。裏口と搬入口が塞がる。消防の名目で劇場使用に難癖をつけられる」
松之助が絶句した。
「そんなこと」
「できる。やり方が汚いだけだ」
銀次が言った。
「じゃあ、舞台が」
「すぐには潰れない」
慎吾は紙を畳んだ。
「だが、次の公演を止めにくる」
小春が小さく言った。
「菊乃さん、知ってるのかな」
慎吾は答えなかった。




